第5話 夜会への同伴業務
「……なぜ、私がこのような格好をしているのでしょうか?」
鏡の中に映る自分に、私は思わず問いかけた。
そこにいるのは、作業着姿の地味な技術者ではない。
深い夜空のようなミッドナイトブルーのドレスを纏い、髪を複雑に結い上げられた、見知らぬ貴婦人の姿だった。
首元には、瞳の色に合わせたアメジストのネックレス。
かつて公爵令嬢だった頃ですら、これほど洗練された装いをしたことはない。
「とてもお似合いですよ、リリアナさん」
背後から、シリルさんが姿を現した。
彼もまた、いつものフロックコートではなく、正装用の燕尾服を着こなしている。
その姿は、どんな高位貴族よりも優雅で、威圧的なまでの美しさを放っていた。
「……あの、会頭。これは一体どういうことですか? 今日の業務は、新型コンロの耐熱試験のはずでは……」
私は困惑して振り返り、おずおずと尋ねた。
シリルさんは眼鏡の位置を中指で直し、涼しい顔で答えた。
「予定変更です。今夜、王都の商業ギルド主催の大夜会があります。貴女には、私のパートナーとして同伴していただきます」
「や、夜会!? 無理です!」
私は反射的に叫び、後ずさった。
夜会。それは私にとって、悪夢の場所だ。
壁の花として嘲笑され、エドワード様に無視され続け、最後には断罪された場所。
平民となった今、あんな煌びやかで残酷な世界に戻るなんて考えられない。
「私はもう貴族ではありません。それに、『悪役令嬢』として追放された身です。そんな私が表舞台に出たら、商会の評判に関わります」
「ご心配なく。貴女は『元公爵令嬢』として出席するのではない」
シリルさんは私に歩み寄り、白い手袋を嵌めた手を差し出した。
「銀鷺商会が誇る『最高技術顧問』として、堂々と胸を張りなさい。……これは業務命令ですよ?」
「ぎょ、業務命令……」
その言葉には、絶対的な強制力がある。
雇用主と使用人。その関係は絶対だ。
私は唇を噛み締め、震える手で彼の手を取った。
「……承知いたしました。旦那様」
「良い返事です」
シリルさんは満足げに微笑み、私の腰に手を回した。
その手つきは驚くほど優しく、まるで壊れ物を扱うかのようだった。
◇
会場となるホテルに到着すると、そこはすでに馬車の列で埋め尽くされていた。
降り立つ人々は皆、富と権力を誇示するような衣装を身に纏っている。
貴族、大商人、外国の外交官。
この国の経済を動かす要人たちだ。
「緊張していますか?」
馬車の中で、シリルさんが静かに尋ねてきた。
私は膝の上で固く手を握りしめ、小さく頷いた。
「……はい。怖いです。また、あのような目で見られるのではないかと」
軽蔑、嘲笑、無視。
あの冷たい視線の記憶が蘇り、胃のあたりが重くなる。
シリルさんは私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「顔を上げなさい、リリアナさん」
命令口調だが、その声色は温かい。
「今の貴女は、彼らが喉から手が出るほど欲しがっている技術の持ち主です。頭を下げる必要などない。……私の隣にいる限り、誰にも貴女を侮辱させません」
その力強い言葉に、私の震えが少しだけ収まった。
この人は、商会の会頭だ。
王家ですら一目置く、この国の裏の支配者。
その彼が「守る」と言ってくれているのだ。
「……はい。信じます」
馬車の扉が開かれた。
シリルさんが先に降り、私に手を差し伸べる。
私は深呼吸をして、その手を取った。
会場に入った瞬間、ざわめきが波のように押し寄せてきた。
シャンデリアの眩い光、香水の匂い、グラスが触れ合う音。
「――おい、あれを見ろ。銀鷺商会のシリル会頭だ」
「なんと美しい……隣にいるのは誰だ?」
「まさか、あの噂の……」
数え切れないほどの視線が私たちに突き刺さる。
私は思わず俯きそうになったが、シリルさんの腕が強く私を引き寄せた。
『前を見ろ』という無言の合図だ。
私は必死に背筋を伸ばし、彼の半歩後ろを歩いた。
「アッシュフォード会頭! お待ちしておりましたぞ!」
恰幅の良い初老の男が、揉み手をしながら近づいてきた。
大手魔石輸入商の会長だ。
以前、公爵家の夜会で見かけた時は、私になど見向きもしなかった人物である。
「やあ、こんばんは。……ご紹介しましょう。弊社の技術顧問、リリアナです」
シリルさんが短く紹介する。
男は目を丸くし、まじまじと私を見た。
「リリアナ……? はて、どこかで……おおっ! もしや、ベルンシュタイン公爵家の!?」
周囲の人々がざわついた。
「追放された悪役令嬢だ」「なぜここに」という囁きが聞こえる。
私は心臓が早鐘を打つのを感じた。
罵倒される。あるいは、追い出される。
身構えたその時だった。
「ほほう! 貴女様があの『新型コンロ』の開発者でしたか!」
男の声は、予想外の歓喜に満ちていた。
「いやはや、素晴らしい! あの熱効率、まさに神業ですな! 我が社でもぜひ取り扱いたいと願っていたところです!」
「……え?」
私は呆気にとられた。
軽蔑の色はない。あるのは、純粋な商機への欲望と、技術者への媚びへつらいだ。
「噂はかねがね! 廃魔石を蘇らせる錬金術師だと!」
「ぜひ我が領地の暖房設備についてもご相談したい!」
「今度、食事でもいかがですかな?」
次々と人々が集まってくる。
かつて私を「地味で暗い」と笑っていた貴族の夫人たちまでもが、「素敵なドレスですこと」と擦り寄ってくる。
彼らにとって、私はもう「没落した令嬢」ではない。
莫大な利益を生み出す「金の卵」なのだ。
私は戸惑いながらも、シリルさんに教わった通りのビジネススマイルで応対した。
「恐縮です。技術的な詳細は、後ほど資料をお送りいたしますわ」
一歩引いた、しかし堂々とした態度。
それがさらに彼らの評価を高めたようだ。
シリルさんはその様子を、満足げに眺めていた。
時折、無遠慮に近づきすぎる男がいれば、冷ややかな視線だけで牽制し、私との間に壁を作る。
完璧なエスコート。
私は守られている。最強の盾に。
ひとしきり挨拶が終わると、シリルさんは私をバルコニーへと連れ出した。
夜風が火照った頬に心地よい。
「お疲れ様でした、リリアナさん。見事な立ち振る舞いでしたよ」
彼は給仕から受け取ったグラスを私に手渡した。
「……ありがとうございます。でも、驚きました。あんなに歓迎されるなんて」
「現金なものですね、人間という生き物は」
シリルさんは夜景を見下ろしながら、自嘲気味に笑った。
「身分や血筋など、所詮は飾りです。彼らが真に崇拝するのは『利益』と『力』。……貴女は今日、その両方を持っていることを証明したのです」
「それは、シリルさんが環境を整えてくださったおかげです。私一人では、門前払いでした」
「環境を与えても、咲かない花はあります。貴女は自らの力で咲いた。……私は、その手伝いをしたに過ぎません」
彼はグラスを揺らし、その瞳を私に向けた。
月明かりに照らされた横顔があまりに綺麗で、私は鼓動が速くなるのを感じた。
「あの、シリルさん」
「何でしょう?」
「私……今、とても幸せです。役に立てていることが、居場所があることが、こんなに嬉しいなんて」
素直な言葉が口をついて出た。
かつての私は、誰かに必要とされることを諦めていた。
でも今は違う。
この人が、私を見つけてくれたから。
シリルさんは少しだけ目を見張り、それからふわりと柔らかく微笑んだ。
いつもの計算高い笑みではない。
もっと無防備で、優しい笑顔。
「……そうですか。それは、何よりの成果です」
彼はそっと手を伸ばし、私の頬にかかった後れ毛を耳にかけた。
指先が触れた場所が熱い。
「貴女には、幸せになる権利がある。……誰よりも」
その声は甘く、まるで愛の言葉のように響いた。
けれど、私はすぐにその考えを打ち消した。
これは主人が優秀な使用人を労っているだけだ。
勘違いしてはいけない。
「さあ、そろそろ戻りましょうか。まだ契約を取りたい案件がいくつかあります」
「はい、旦那様」
シリルさんは瞬時に「会頭」の顔に戻り、私に腕を差し出した。
私もまた、「技術顧問」の顔を作る。
会場に戻る私たちの背中を、月だけが見ていた。
その距離は、以前よりも少しだけ近づいている気がした。
だが、私たちは知らなかった。
この華やかな夜会の裏で、招待されなかった「招かれざる客」たちが、苛立ちを募らせていることを。
王城の冷たい部屋で、エドワード王太子が爪を噛んでいる姿を、私はまだ想像すらしていなかった。




