第2話 執事室の逆転劇
カリカリ、と硬質な音を立てて、ペン先が羊皮紙の上を走った。
「……はい、これで間違いありません」
私は震える指先でペンを置き、深々と頭を下げた。
目の前にあるのは、正式な雇用契約書。
そして、その向こう側には、重厚なマホガニーの執務机に肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せている「主」がいる。
「確認しました。手続きは完了です」
シリル・アッシュフォード会頭は、氷のような青い瞳を細め、書類を指先で弾いた。
「ようこそ、銀鷺商会へ。……元・お嬢様」
「あ、ありがとうございます……シリルさ……い、いえ、会頭」
私は反射的に背筋を伸ばし、喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
ここは王都の一等地にそびえ立つ、銀鷺商会の本店ビル。
その最上階にある会頭執務室は、かつて私が暮らしていた公爵家の父の書斎よりも広く、洗練されていた。
床には足音が吸い込まれるような厚手の絨毯。
壁には見たこともないほど精巧な魔導時計。
窓の外には、雨上がりの王都の夜景が一望できる。
けれど、今の私にとって最も恐ろしいのは、この部屋の豪華さではない。
かつての使用人であり、今は私の雇用主となった彼の存在感だ。
シリルは優雅に立ち上がると、私の目の前まで歩いてきた。
カツ、カツ、と革靴の音が響くたび、私の心臓が早鐘を打つ。
「リリアナさん。契約内容の再確認をしましょうか」
彼は私の顔を覗き込むようにして、少しだけ腰を屈めた。
その距離、わずか数センチ。
整いすぎた顔立ちが視界いっぱいに広がり、私は思わず息を止める。
「貴女の身分は、当商会の住み込み従業員。職種は魔導具開発部の技術顧問兼、会頭付きの雑用係。……ここまではいいですね?」
「は、はい」
「貴女には衣食住の全てを提供します。給金も成果に応じて支払う。その代わり、貴女は私の命令に絶対服従です。……以前のように、『疲れたからやりたくない』などという甘えは通用しませんよ?」
「も、もちろんです! そんなこと言いません!」
私はブンブンと首を横に振った。
公爵令嬢だった頃、勉強嫌いだった私は、教育係の彼によくそう言って逃げ回っていたのだ。
そのたびに彼は、ニコリともせずに課題を倍に増やしたものだった。
シリルは眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
その仕草を見て、私は「ひっ」と小さな声を漏らす。
あれは、彼が説教モードに入るときの合図だ。
「良い返事です。……ですが、まだ理解が足りないようだ」
「え……?」
「いいですか、リリアナさん。以前、私は貴女に仕える執事でした。貴女が上で、私が下。……ですが」
彼は長い指先で、私の顎をくい、と持ち上げた。
抵抗することもできず、私は彼を見上げる。
「今日からは私が『主』で、貴女が『使用人』です。この関係性を、骨の髄まで叩き込んでいただきたい」
冷徹な響きの中に、どこか愉悦の色が混じっている。
かつて見下ろされていた立場からの、完全な逆転。
彼は今、それを楽しんでいるのだ。
「わ、わかっております……旦那様」
私が搾り出すように答えると、シリルは満足げに目を細めた。
顎を解放された私は、よろめくように一歩下がる。
「よろしい。では、早速仕事場へ案内しましょう」
彼は踵を返し、執務室の奥にある扉へと向かった。
私は慌ててその後を追う。
「あの、仕事場というのは……やはり、地下の倉庫か何かでしょうか?」
「なぜそう思うのです?」
「だ、だって、私は平民ですし、魔導いじりは汚れますから……以前の実家でも、屋根裏部屋か地下室でしたし……」
「……ふん」
シリルは鼻を鳴らし、不機嫌そうに肩を竦めた。
「公爵家の『効率の悪さ』には反吐が出る。……ついてきなさい」
彼が重厚な扉を開け放つ。
そこにあった光景に、私は言葉を失った。
「こ、これは……」
そこは、広大な「工房」だった。
執務室の隣に、これほどの空間が隠されていたなんて。
壁一面の棚には、最高品質の魔石が色ごとに分類されて並んでいる。
作業台は傷一つない磨き上げられた石材で、手元を照らすのは最新式の無影魔導ライト。
さらに、工具類はすべてミスリル合金製の特注品だ。
王宮の筆頭魔導師の部屋だって、ここまでの設備はないだろう。
「……夢、でしょうか」
「現実です。ここが貴女の新しい職場であり、牢獄ですよ」
シリルは作業台の縁を指先でなぞりながら言った。
「必要な資材はすべて揃えてあります。金に糸目はつけません。貴女はその貧相な脳味噌をフル回転させて、私の利益になる商品を開発すればいい」
「こ、こんな高価な場所を、私なんかが使っていいんですか……? 汚してしまいますよ?」
「掃除は清掃係にやらせます。貴女は開発だけに集中しなさい。……ああ、それと」
彼は部屋の隅にある小さな扉を指差した。
「あそこが貴女の個室です。工房と直結していますから、寝食を忘れて没頭したい貴女には好都合でしょう?」
私はおずおずと扉を開けてみた。
そこには、清潔なベッドと、肌触りの良さそうなリネン、そして専用のバスルームまで完備されていた。
屋根裏部屋の硬いベッドとは雲泥の差だ。
「……どうして」
私は呆然と呟いた。
使用人としてこき使われると思っていた。
雑巾掛けや皿洗いから始まると思っていたのに。
振り返ると、シリルが腕組みをして私を見下ろしていた。
「どうして、ここまで……」
「勘違いしないでください。これは投資です」
彼は冷たく言い放った。
「良い道具を与えなければ、良い仕事はできない。私は貴女という『素材』の性能を最大限に引き出したいだけです。……それとも、劣悪な環境でないと実力が発揮できないような、三流の職人でしたか?」
「い、いいえ! やります! やらせてください!」
私は慌てて叫んだ。
こんな環境を与えられて、やらなければ魔導技師の名折れだ。
指先がうずうずする。あそこに並んでいる魔石を使って、ずっと試してみたかった回路構成を組めたら、どんなに素晴らしいだろう。
私の目が輝き出したのを見て、シリルは口の端を微かに吊り上げた。
「結構。……では、最初の商品はこれです」
彼がポケットから取り出したのは、薄汚れた灰色の石ころだった。
いや、ただの石ではない。魔力を失ってゴミ同然となった「廃棄魔石」だ。
「商会の倉庫に山ほどある廃棄物です。通常なら金を払って処分するものですが……貴女なら、これを『金』に変えられるのでしょう?」
試すような視線。
これは、採用試験の続きだ。
もし「できない」と言えば、この夢のような環境は即座に取り上げられるだろう。
私はその石を受け取った。
掌の上で転がし、魔力の残滓を感じ取る。
微かだが、まだ芯の部分に熱が残っている。一般的な技師なら見捨てるレベルだが、私には「声」が聞こえるようだった。
『まだ、働けるよ』と。
「……できます」
私は顔を上げ、シリルをしっかりと見据えた。
「三日……いえ、一日ください。この子を、新品以上の出力に蘇らせてみせます」
「ほう」
シリルは眼鏡の奥で目を細めた。
「威勢だけはいいですね。……では、期待して待っていますよ。失敗したら、違約金として一生タダ働きですからね」
「うっ……ぜ、善処します」
「返事は『イエス』か『ハイ』です、リリアナさん」
「は、はいっ!」
私が直立不動で答えると、彼は満足げに踵を返した。
執務室へ戻る去り際、彼は背中越しに言った。
「ああ、言い忘れましたが。……そのドレス、処分しておきましたから」
「え?」
「クローゼットに新しい服が入っています。サイズは全て把握していますので、ご心配なく」
バタン、と扉が閉まる。
部屋に一人残された私は、急いで個室のクローゼットを開けた。
そこに入っていたのは、使用人の制服ではない。
動きやすそうで、かつ可愛らしいデザインの、上質なワンピースや作業着がずらりと並んでいた。
しかも、色は私の瞳と同じ淡い菫色で統一されている。
「……サイズ把握してるって、いつの間に?」
少しだけ背筋が寒くなったけれど、私はそれを深く考えないことにした。
今は何よりも、目の前の作業台と魔石が私を呼んでいるのだから。
私は新しい作業着に袖を通し、髪を一つに結び直した。
鏡に映る自分を見る。
そこには、公爵令嬢として縮こまっていた「出来損ない」の姿はなかった。
「よし」
私は自分の頬をパンと叩き、作業台に向かった。
怖い「主」に怒られないよう、そして何より、この最高の居場所を守るために。
窓の外では、夜明けの光が王都を照らし始めていた。
私の、新しい人生の始まりだった。




