第10話 春の訪れと新しい指輪
『シリル、これあげる』
幼い頃の記憶だ。
ベルンシュタイン公爵家の庭園の片隅、誰にも顧みられない場所で咲いていた小さな野花を、私はまだ若かった教育係の青年に差し出した。
彼は一瞬驚いた顔をして、それから丁寧に、まるで宝石でも扱うかのように受け取ってくれた。
『……ありがとうございます、お嬢様。押し花にして、大切にしますね』
あの時の彼の穏やかな微笑みが、私の初恋だったのかもしれない。
「……リリアナ。緊張しているのか?」
耳元で囁かれた声に、私は現実に引き戻された。
目の前にあるのは、天井まで届く大きな姿見。
そこに映っているのは、純白のウェディングドレスを纏った私と、黒のタキシードを完璧に着こなしたシリル様の姿だった。
「はい……少しだけ。こんなに素敵なドレスを着るのは初めてですから」
私はヴェールの裾をそっと握りしめた。
銀鷺商会が総力を挙げて仕立てたこのドレスは、最高級のシルクとレース、そして魔導繊維で織り上げられている。
歩くたびに微細な光の粒子が舞い、まるで光そのものを纏っているかのような美しさだった。
「世界で一番美しい花嫁だ。……誰にも見せたくないくらいにね」
シリル様が背後から私を抱き寄せ、首筋に唇を落とす。
鏡の中の彼と目が合い、私の頬が熱くなった。
「シ、シリル様……お化粧が崩れてしまいます」
「構わない。何度でも直させればいい」
彼は悪戯っぽく笑い、私の左手を持ち上げた。
薬指には、あの日贈られたアメジストの魔導指輪が輝いている。
今日はその上から、誓いの指輪が重ねられるのだ。
「そろそろ時間です、旦那様、奥様」
控室の扉がノックされ、使用人が声をかけた。
シリル様は私の手を取り、優しくエスコートの形を取る。
「行こうか、リリィ。君を私の妻として、世界に知らしめるために」
「はい、旦那様」
私たちは腕を組み、長い回廊を歩き出した。
ステンドグラスから差し込む春の光が、私たちの足元を照らしていた。
◇
大聖堂の扉が開かれた瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が私たちを包み込んだ。
参列席を埋め尽くしているのは、この国の経済と政治を動かす有力者たちだ。
四大公爵家の当主たち、隣国の大使、大商会の代表者たち。
かつて私が「悪役令嬢」として断罪された時には、冷ややかな視線を向けていた人々が、今は羨望と祝福の眼差しで私たちを見つめている。
「おめでとう、アッシュフォード会頭! 奥様!」
「素晴らしい結婚式だ!」
フラワーシャワーの花びらが舞う中、私たちは祭壇へと進む。
神父様の前で永遠の愛を誓い、指輪を交換する。
シリル様の手は温かく、力強かった。
誓いのキスの瞬間、大聖堂の鐘が高らかに鳴り響いた。
式が終わり、披露宴会場となる商会直営のホテルへ移動する馬車の中で、私はふと気になっていたことを口にした。
「……あの、シリル様。王家の方々は、やはり……」
今日の招待客リストに、王家の名前はなかった。
本来なら、国内最大商会の会頭の結婚式には、王族が出席するのが慣例のはずだ。
シリル様は私の肩を抱いたまま、窓の外を流れる王都の景色を一瞥し、冷ややかに言った。
「彼らには招待状を送りませんでしたよ。……というより、出席できる状況ではないでしょう」
「状況、ですか?」
「ええ。エドワード殿下は、先日正式に廃嫡されました」
「えっ……!?」
私は驚きに目を見開いた。
王太子が廃嫡されるなんて、よほどのことがなければありえない。
「借金返済のために王家の資産を切り売りしたことが、国民の不信を買いました。それに加え、彼が強引に進めた『聖女』との婚約も、結局は国益を損ねただけだと露呈しましたから」
シリル様は淡々と、まるで明日の天気を語るかのように続けた。
「彼は王位継承権を剥奪され、北の国境にある古びた砦へ守備隊長として送られたそうです。……あそこは年中吹雪が吹き荒れる極寒の地。私の作った暖房器具がなければ、凍えてしまうでしょうね」
「まあ……」
「もちろん、彼には特別価格……通常の十倍の値段で商品を卸して差し上げましたよ。慈悲深い対応でしょう?」
彼の瞳の奥に、暗い愉悦の色がちらりと見えた。
私は苦笑するしかなかった。
この人は、敵に回すと本当に恐ろしい。
「じゃあ、アリス様は……」
「彼女は修道院へ入りました。……もっとも、清貧を重んじる厳しい場所ですから、贅沢好きの彼女には地獄かもしれませんが」
そして、私の実家であるベルンシュタイン公爵家も。
鉱山と領地の大部分を借金のカタに差し押さえられ、今は都落ちして領地の片隅にある小さな屋敷で暮らしているという。
かつての栄華は見る影もなく、日々の生活にも困窮しているそうだ。
「リリィ。同情しますか?」
シリル様が覗き込むように私を見た。
「……いいえ」
私は首を横に振った。
心が痛まないと言えば嘘になる。
けれど、彼らは自らの選択の結果を受け取っただけだ。
私を捨て、技術を軽んじ、誠意を踏みにじった報いを。
「私は今、とても幸せです。……過去を振り返る必要がないくらいに」
私はシリル様の胸に頭を預けた。
この温もりが、私の全てだ。
かつて「出来損ない」と呼ばれた私はもういない。
ここには、愛する人に守られ、自分の才能を活かして生きる「リリアナ・アッシュフォード」がいるだけだ。
「……良い答えだ」
シリル様は満足げに目を細め、私の髪にキスをした。
◇
披露宴は夜遅くまで続き、ようやく私たちが新居――商会ビルの最上階にあるペントハウスに戻った頃には、日付が変わろうとしていた。
「疲れましたか?」
寝室で二人きりになり、シリル様が私のドレスの背中の紐を解きながら尋ねた。
「少しだけ。……でも、夢のような一日でした」
ドレスが滑り落ち、私は肌着一枚になる。
恥ずかしさに身を縮めると、シリル様が優しく抱き上げて、天蓋付きのベッドへと運んでくれた。
「夢ではありませんよ。これがこれからの君の日常だ」
彼は隣に横たわり、私の顔にかかった髪を指先で払った。
眼鏡を外したその瞳は、いつもの理知的な光ではなく、とろけるような甘い情熱を宿していた。
「リリィ。……君を愛している。私の命が尽きるまで、君だけを守り抜くと誓おう」
「私も……私も愛しています、シリル様」
私は彼の首に腕を回し、自分から唇を重ねた。
触れ合う体温。重なる鼓動。
窓の外には、春の訪れを告げる穏やかな月が輝いている。
王都のどこかで誰かが凍えていようとも、この部屋の中だけは、永遠の春のように暖かかった。
「……さて」
長い口づけの後、シリル様は少し息を乱しながら、けれど楽しげに私を見下ろした。
「夜はまだこれからですが……覚悟はできていますか? 奥様」
「……お手柔らかにお願いします、旦那様」
私が頬を赤らめて答えると、彼は幸せそうに笑った。
「善処しますが……約束はできませんね」
カーテンが引かれ、月明かりが遮られる。
私の新しい人生は、この愛しい独占欲の塊のような人と共に、どこまでも続いていくのだ。
◇
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ますと、隣にはすでにシリル様の姿はなかった。
代わりに、サイドテーブルには一輪の野花――私が幼い頃に彼にあげたのと同じ種類の花が、小さな花瓶に生けられていた。
そして、その横には一枚のメモ。
『おはよう、私の愛しいリリィ。
先に起きて仕事を片付けておく。
君は好きなだけ寝ていていい。
目が覚めたら、とびきりの紅茶を淹れよう』
私はそのメモを胸に抱きしめ、ベッドの上で幸せを噛み締めた。
商会の筆頭魔導技師として、そして会頭の妻として。
今日も忙しく、けれど充実した一日が始まるだろう。
私はベッドを抜け出し、鏡の前で身支度を整えた。
左手の薬指には、二つの指輪が重なって煌めいている。
「さて、旦那様。今日のお仕事は?」
誰もいない部屋で、私は誰にともなく問いかけた。
心の中の彼が、即座に答えるのが聞こえるようだった。
『君を愛することだけだよ』
私はふふっと笑い、窓を開け放った。
吹き込んでくる風は、もう冷たくない。
あの日、雨の路地裏で止まっていた私の時間は、今、春の陽光の中で確かに動き続けている。
(完)
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