第1話 雨の日の採用面接
冷たい雨音と、石畳を噛む車輪の重い響きだけが、世界を支配していた。
王都の裏路地。
軒先から垂れるしずくが、泥で汚れたドレスの裾をさらに濡らしていく。
私は震える手で、薄いショールを肩に引き寄せた。
「……寒いです」
白い息と共に漏れたのは、情けない独り言。
数時間前まで、私は公爵令嬢だった。
王太子の婚約者で、次期王妃になるはずの女だった。
けれど今、私はただの「リリアナ」だ。
家名は剥奪され、婚約は破棄され、着の身着のままで放り出された。
罪状は「聖女への嫌がらせ」と「王家への不敬」。
身に覚えのない罪だったけれど、弁明の機会すら与えられなかった。
父である公爵は、私を見下ろして言った。
『出来損ないめ。貴様のような可愛げのない娘は、我が家には不要だ』
出来損ない。
そう、私は刺繍もダンスも人並み以下だ。
王太子殿下が求めるような、華やかで愛らしい女性にはなれなかった。
私が得意なのは、薄暗い図書室で魔導工学の専門書を読み漁り、古びた魔導具の回路をいじることだけ。
そんな「地味で暗い女」に、価値などないのだ。
(これから、どうしましょう)
所持金はゼロ。
身分証もない。
平民となった今、貴族街の敷居を跨ぐことすら許されない。
行くあてもなく立ち尽くしていると、一台の馬車が目の前で停止した。
漆黒の車体に、銀の鷺の紋章。
王族の馬車よりも洗練された、威圧的なまでの高級感。
大陸全土に影響力を持つ物流の覇者、「銀鷺商会」の紋章だ。
御者台から降りてきた男が、無言で扉を開ける。
現れたのは、仕立ての良い黒いフロックコートを纏った長身の青年だった。
「……こんな路地裏で、何をしておられるのですか」
低く、けれどよく通る声。
銀縁の眼鏡の奥で、氷のような青い瞳が私を射抜いていた。
整いすぎて冷たさを感じる美貌。
雨の中でも一糸乱れぬ立ち姿。
私は息を呑み、反射的に背筋を伸ばしてしまった。
「シリル……?」
「おや。今は『シリル会頭』とお呼びいただきたいところですが……まあ、今の貴女なら仕方ありませんか」
彼は優雅な動作で傘を開き、私の上に差し掛けた。
シリル・アッシュフォード。
かつて私の実家、ベルンシュタイン公爵家で筆頭執事を務めていた男。
そして、私の幼少期からの教育係だった人。
三年前、彼は突然公爵家を辞め、姿を消したはずだった。
それがまさか、泣く子も黙る大商会のトップになっているなんて。
「お久しぶりです、お嬢様。……いえ、今はただのリリアナさんでしたね」
「は、はい……ご無沙汰しております、シリル……さん」
私は濡れたドレスの裾を握りしめ、深く頭を下げた。
かつての使用人に対し、最上級の敬意を払う。
今の私は平民で、彼は王族すら頭を下げる大富豪だからだ。
それに何より――私は昔から、この人が怖かった。
私の教育係だった頃の彼は、完璧主義の権化だった。
宿題を忘れたり、姿勢が悪かったりすれば、冷ややかな笑顔で理詰めの説教が飛んできたものだ。
『お嬢様、貴女の脳味噌は飾りですか?』
『今の所作、猿の方がまだマシですね』
その記憶が蘇り、私は無意識に震え上がった。
シリルは眼鏡の位置を人差し指で押し上げると、値踏みするように私を見下ろした。
「ずぶ濡れですね。まるで捨てられた猫だ」
「……お見苦しいところを、申し訳ありません」
「謝罪は結構です。時間の無駄ですから」
彼は懐からハンカチを取り出し、私の頬についた泥を乱暴に拭った。
冷たい指先が肌に触れ、私はびくりと肩を跳ねさせる。
「単刀直入に申し上げます。リリアナさん、貴女には今、三つの選択肢がある」
「三つ、ですか?」
「はい。一つ目は、このまま路地裏で凍死する。二つ目は、スラム街に流れて野垂れ死ぬ。……そして三つ目は」
彼は一度言葉を切り、琥珀色の街灯に照らされた顔で、薄く笑った。
「私の商会で働くことです」
「え……?」
予想外の提案に、私は目を丸くした。
「は、働くといっても、私には何も……」
「何も? 本当にそうですか?」
シリルは呆れたように肩を竦めた。
「貴女が屋敷の工房で、夜な夜な廃材をいじり回していたことを知らないとでも? 貴女が調整した魔導ランプは、なぜか新品よりも明るく、寿命が三倍に延びていた。貴女が触れた暖房器具は、魔石の消費量が半分になっていた」
「そ、それは……たまたま、回路の無駄が気になって……」
「その『たまたま』が金になるのです。我が商会は優秀な魔導技師を求めている。特に、貴女のような変てこな……失礼、特異な才能を持つ人間をね」
彼は私の目の前に、一枚の羊皮紙を突きつけた。
雨に濡れないよう、魔法加工が施された契約書だ。
「住み込み、食事付き。給金は成果報酬。ただし、逃げ出した場合の違約金は金貨一万枚。……どうしますか?」
私は契約書と、シリルの顔を交互に見た。
これは慈悲なのだろうか。
それとも、かつての主人の娘に対する憐れみだろうか。
「……どうして、私なんですか。もっと優秀な技師は、他にいくらでもいるでしょう?」
「貴女だからですよ」
シリルは即答した。
その瞳には、私には読み取れない暗い光が宿っていた。
「私は無駄が嫌いだと言ったはずです。貴女の才能を、あの無能な王家や公爵家が使い潰して捨てた。それが不愉快極まりない。……私が拾って、磨き上げて、適正な価値をつけてやる。それだけの話です」
商売人としての冷徹な言葉。
けれど、今の私にはどんな甘い慰めよりも響いた。
「価値がある」と言われたのは、いつぶりだろうか。
私は震える手で、彼からペンを受け取った。
もう、失うものなんて何もない。
プライドも、名前も、全部雨に流した。
「……よろしく、お願いします。シリルさん」
「賢明な判断です」
私がサインを書き終えると、シリルは満足げに契約書を懐に収めた。
そして、恭しく手を差し出す。
執事だった頃と変わらない、洗練されたエスコートの姿勢。
けれどその目は、かつてのように私を見守るものではなく、獲物を捕らえた狩人のそれだった。
「では、馬車へ。風邪を引かれては、私の損になりますからね」
彼の手を取り、ステップを上がる。
馬車の中は暖かく、高級な革の匂いがした。
対面の席に座ったシリルは、長い脚を組み、眼鏡の奥で目を細めた。
「さて、お嬢様。……いえ、リリアナさん」
彼は愉悦を噛み締めるように、ゆっくりと言い直した。
「契約成立ですね。……今日からは私が主で、貴女が使用人です。たっぷりと働いていただきますよ?」
その獰猛な笑みに、私は背筋が凍る思いがした。
ああ、やっぱりこの人は怖い。
けれど、不思議と悪い気分ではなかった。
少なくとも、冷たい雨の中で一人きりではなくなったのだから。
馬車が動き出す。
窓の外で遠ざかる王城を見つめながら、私は静かに、過去の自分に別れを告げた。




