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秋の交差点

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/10/18

第一章 書かれなかった旅程


朝の山手線は、人を荷物のように運ぶ金属の箱だった。中西里美なかにし さとみ、28歳。今日もまた、無数の見知らぬ誰かと肌を寄せ合い、息を殺して揺られている。広告代理店の中堅社員としての日々は、予測可能なルーティンで塗り固められていた。洗練されたが個性のないオフィス、流行りのカフェでの一人ランチ、そして夜は時折、気の置けない同僚との飲み会。独身生活は気ままで、それなりに楽しんでいるつもりだった。恋愛は面倒だ。最後に彼氏がいたのはいつだったか、もう思い出せない。一人で気ままに過ごす時間が、何よりも優先したいことであり、楽しいことだと信じていた 。

東京での暮らしは、便利さと引き換えに何かを常に差し出している感覚があった。地方の2倍から3倍はする家賃 、仕事のプレッシャー、そして常に時間に追われる感覚 。給料は悪くないが、この街では決して「高い」とは言えない 。里美は、香川の穏やかな田園風景の中で育った。大学進学を機に上京し、そのまま東京の渦に飲み込まれて10年が経つ。

連休が近づいたある日、同僚が目を輝かせながらヨーロッパ旅行の計画を話しているのを聞いた。羨ましい、というよりは、自分とは違う世界の話のように聞こえた。自分へのご褒美は、いつも都内のデパートで少し高価な洋服を買うか、評判のレストランで食事をするか。その繰り返し。ふと、虚しさが胸をよぎった。

その夜、里美はベッドの上でスマートフォンを漫然と眺めていた。旅行サイトには、きらびやかな海外の風景が並んでいる。しかし、彼女の指が止まったのは、燃えるような紅葉に包まれた武家屋敷の写真だった。「秋田」。行ったことのない土地。東京から新幹線で約3時間 。気づけば、彼女は衝動的に「予約」ボタンを押していた。計画性のない、自分らしくない行動。だが、その無軌道さが、今の息苦しい日常からの小さな逃避のように思えた。


第二章 北国の色彩


秋田新幹線「こまち」の車窓から見える景色は、灰色だった東京のビル群とはまるで違っていた。黄金色に輝く田んぼ、そして次第に深まる山々の紅。里美は、ガイドブックを開き、初日の目的地を確認する。「みちのくの小京都」と呼ばれる角館かくのだて

角館の武家屋敷通りに足を踏み入れた瞬間、里美は息をのんだ。しっとりと黒光りする板塀が続く道 。その黒を背景に、燃えるような赤色のモミジや、黄色い絨毯のように地面を覆うイチョウの葉が、強烈なコントラストを描いていた 。観光客は多いが、東京の雑踏とは違う、どこかゆったりとした空気が流れている。

里美は、典型的な観光客として一日を過ごした。有名な武家屋敷を見学し、写真を撮り、名物の稲庭うどんを食べる。美しい景色を堪能し、満足はしている。しかし、どこかでまだ分厚いガラス越しにこの土地を眺めているような、そんな感覚が拭えなかった。彼女はこの風景の「消費者」であり、まだその一部にはなれていない。


第三章 カウンターの席で


夜になり、里美はガイドブックの隅に載っていた小さな居酒屋の暖簾をくぐった。観光客向けの大きな店ではなく、地元の人が集うような温かみのある場所を探していた。店内は、秋田杉の香りと、囲炉裏で何かが焼ける香ばしい匂いに満ちていた 。カウンター席に腰を下ろすと、人の良さそうな大将が「どこから来たの?」と気さくに話しかけてきた。

地元の日本酒をちびちびと飲みながら、大将と他愛もない話をする。突き出しに出てきた「いぶりがっこ」の燻製の香りとパリパリとした食感が、クリームチーズと驚くほど合う 。厨房の大きな鍋からは、比内地鶏の出汁のいい香りが立ち上っていた。あれが名物の「きりたんぽ鍋」だろうか。新米を杉の串に巻き付けて焼いた「たんぽ」を、鶏やきのこ、セリなどの野菜と一緒に煮込む、秋田の秋の風物詩だ 。

その時、「よぉ、大将」と低い声がして、隣の席に一人の男性が座った。年の頃は30歳くらいだろうか。がっしりとした体つきに、穏やかな目元が印象的だった。大将が「お、健太けんた。今日は早いな」と声をかける。常連客らしい。

大将を介して、自然と会話が始まった。男――高橋健太は、里美が東京から一人で来たと知ると、少し驚いたように目を丸くした。彼の話す言葉には、穏やかで心地よい秋田訛りがあった。

「明日はどちらへ?」 「田沢湖に行こうかと思って。ガイドブックで一番人気だったので」 健太は少し考えてから、悪戯っぽく笑った。「田沢湖もいいですけど、もっといい場所、ありますよ。地図には載ってない、地元の人しか知らない場所が」

その言葉に、里美の心が動いた。


第四章 地元じもとの案内人


健太の提案は、里美の心に小さな波紋を広げた。東京での彼女なら、初対面の男性からの誘いなど、丁重に、しかしきっぱりと断っていただろう。だが、ここは秋田だ。旅の非日常と、彼の誠実そうな人柄が、彼女の警戒心を解いていた。

「どんな場所なんですか?」 「行ってみてのお楽しみ、です。きっと、ガイドブックで見る秋田より、好きになると思いますよ」

彼の言葉には、自分の故郷に対する静かで深い愛情が滲んでいた。それは、ただの観光情報を超えた、もっと個人的な贈り物のように感じられた。

「…じゃあ、お願いしようかな」

衝動的に秋田行きの切符を買ったのと同じ、直感的な衝動が里美を動かした。彼女は、計画された旅程から一歩踏み出すことを選んだ。健太は嬉しそうに頷き、店の電話番号が書かれたコースターに、自分の携帯番号を書き添えてくれた。

その夜、宿に戻った里美は、明日への期待でなかなか寝付けなかった。計画通りの旅もいいが、予期せぬ出会いによって未知の道が開けることこそ、旅の醍醐味なのかもしれない。


第五章 秘密の滝と曲がりくねった道


翌朝、健太は約束の時間通りに宿の前に車で現れた。彼の運転で、車は紅葉に染まる山道を縫うように進んでいく。彼が向かったのは、観光客で賑わう主要道路から外れた脇道だった。

やがて車を停め、少し歩いた先に現れた光景に、里美は言葉を失った。「東北の耶馬溪」とも呼ばれる抱返り渓谷だきがえりけいこくの、さらに奥まった場所だった 。エメラルドグリーンの渓流が岩肌を削り、その両岸を原生林の赤や黄色が埋め尽くしている。観光用の遊歩道からは見えない、まさに秘密の展望台だった。

「すごい…」 「でしょう?子供の頃、よくここで遊んだんです」

健太は、まるで自分の庭を案内するように、木の名前や鳥の鳴き声を教えてくれた。彼はただこの風景の中にいるのではなく、この風景の一部として生きているように見えた。自然の圧倒的な美しさを二人で共有する時間は、彼らの間の距離を急速に縮めていった。


第六章 二つの世界、一つの会話


渓谷を見下ろす小さな茶屋で、二人は休憩を取った。心地よい沈黙の後、里美は堰を切ったように話し始めた。東京での生活のこと。最先端の流行、無数の選択肢、努力すれば報われるキャリア 。そして、少しだけ自分を正当化するように、こう付け加えた。

「旅行で来るのは最高だけど、正直、住むのは不便じゃないですか?車がないとどこにも行けないし、お店も少ないし…」

健太は黙って耳を傾けていた。そして、ゆっくりと口を開いた。 「俺も20代の頃、東京で働いてたんですよ。IT系の会社で。だから、里美さんの言うこと、よく分かります。確かに便利だし、刺激的だ。でも…」

彼は言葉を選びながら続けた。満員電車で削られる体力と精神。巨大な組織の歯車でしかないという無力感。そして、秋田で暮らす両親が年老いていくことへの気掛かり 。

「ある時、ふと思ったんです。俺の人生で、本当に大事なものは何だろうって。高い給料か、肩書きか。それとも、家族や友人と過ごす時間か、季節の移ろいを肌で感じることか。東京の良さを知った上で、俺はこっちを選んだんです」

彼の言葉は、非難めいた響きを一切含んでいなかった。ただ、二つの異なる価値観を提示しているだけだった。しかし、その言葉は里美の胸に重く、そして深く突き刺さった。大学を卒業して以来、彼女は一つの道しか知らなかった。その道が唯一の正解だと、疑ったことすらなかった。


第七章 大都市からの眺め


東京に戻った里美の世界は、色褪せて見えた。あれほど便利だと思っていた交通網は、人を閉じ込める檻のように感じられ、街の喧騒は耐え難い騒音になった 。オフィスでPCに向かいながらも、心は秋田の澄んだ空と、健太の穏やかな笑顔を思い出していた。

このまま、東京で歳を重ねていくのだろうか。キャリアを積み、給料は上がるかもしれない。でも、その先に何がある?

里美は、何年も忘れていた故郷、香川のことを考えた。大学進学で飛び出して以来、帰るのは盆と正月だけ。しかし、調べてみると、香川は日本で一番面積が小さいながらも、大型小売店の数や都市公園の面積は全国有数で、コンパクトで暮らしやすい街だということが分かった 。物価や家賃は東京よりずっと安く、それでいて都市の利便性も失われていない 。瀬戸内の温暖な気候と、新鮮な食材 。それは、東京の対極にある、もう一つの豊かな選択肢だった。

東京に残るか、香川に帰るか。それとも――。

健太の顔が浮かぶ。もう一度、彼と話したい。この旅で芽生えた感情が、一過性のものなのか確かめたい。里美は、震える指でスマートフォンを操作し、健太にメッセージを送った。「先日はありがとうございました。とても楽しかったです」。

数分後、温かい返信が届いた。それが、新たな物語の始まりだった。


第八章 ピクセルと心臓の鼓動


その日から、里美と健太の間に、細く、しかし確かな糸が紡がれ始めた。最初は短いお礼のメッセージだったが、すぐに「おはよう」「おやすみ」の挨拶が日課になった。里美は東京のランチの写真を送り、健太は田んぼにかかる朝霧の写真を送り返してきた。日常の些細な出来事を共有することで、遠く離れた互いの生活が、少しだけ身近に感じられた 。

やがて、メッセージは電話に、そしてビデオ通話へと変わっていった。画面越しに見る健太の顔は、実際に会った時と同じように穏やかだった。文字だけでは伝わらない声のトーンや表情が、二人の心の距離をさらに縮める 。ある週末には、同じ映画を同時に再生して感想を言い合う「オンラインデート」もした。

遠距離恋愛は、信頼を試す。里美は、返信が少し遅いだけで不安になる自分に気づいた。しかし、健太の行動を詮索したり、連絡を強要したりすることは、関係を壊すだけだと分かっていた 。彼には彼の生活があり、それを尊重すること。不安や寂しさを感じた時は、感情的にぶつけるのではなく、「会えなくて寂しいな」と素直に伝えること。そうやって、二人はテクノロジーという不完全なツールを介して、本物の信頼関係を築いていった。


第九章 再び、北国へ


数週間が過ぎた。毎日の連絡が、会いたい気持ちをますます募らせていた。画面越しの会話では、もう足りない。人生を変えるかもしれない決断を、モニターを見つめながら下すことなどできなかった。

「今度の週末、また秋田に行ってもいいかな」

里美のメッセージに、健太はすぐに電話をかけてきた。彼の声は、喜びで弾んでいた。

二度目の秋田は、一度目とは全く違う意味を持っていた。逃避ではなく、始まりを求める旅だった。秋田駅の改札で健太の姿を見つけた時、安堵と緊張で胸がいっぱいになった。数週間ぶりの再会は、画面越しでは決して得られない、確かな温もりがあった。

健太は里美を自分の職場や、行きつけの店に連れて行ってくれた。彼がどんな仕事をし、どんな仲間と時間を過ごしているのか。里美は観光客としてではなく、彼の人生に足を踏み入れることを考える一人の人間として、そのすべてを目に焼き付けた。

もちろん、魅力ばかりではない。どこへ行くにも車が必要なこと、噂話がすぐに広まりそうな小さなコミュニティの息苦しさ 。理想だけでは越えられない現実の壁も、はっきりと見えた。


第十章 星空の下の対話


その夜、健太は里美を田沢湖のほとりへ連れて行った 。東京では決して見ることのできない、降るような星空が広がっていた。湖面を渡る冷たい風が、里美の心を冷静にさせていく。

「怖いんだ」里美は、正直な気持ちを吐露した。「東京で築いてきたキャリアを全部捨てることになる。こっちで、私に何ができるんだろう。友達もいない場所で、うまくやっていけるのかな…」

健太は、安易な慰めの言葉を口にしなかった。 「簡単なことじゃないと思う。里美さんが、たくさんのものを手放さなきゃいけないことも分かってる。だから、無理強いはしたくない。でも、俺は、里美さんと一緒に未来を歩いてみたいと思ってる。もし、里美さんも同じ気持ちで、ここで新しい生活を始める覚悟があるなら、俺は全力で支える」

それは、甘い愛の告白ではなかった。一人の人間として、里美の人生と覚悟を問う、誠実な言葉だった。彼は、彼女に「秋田への移住」を売り込んでいるのではない。対等なパートナーとして、共に未来を築くことを提案しているのだ。その真摯さが、里美の最後の迷いを振り払った。


第十一章 これからの道


秋田を発つ日の朝。駅へ向かう車の中で、里美は自分の答えを告げた。

「私、決めたよ」

彼女は、この数ヶ月の心の旅路を一つ一つ言葉にした。東京から逃げ出すのでも、ただ健太について行きたいのでもない、と。

「東京の暮らしは、流れの速い川みたいだった。ただ流されていれば、どこかにたどり着ける。でも、秋田に来て、健太と話して、自分の足で立つ場所を選びたいって、初めて思ったの。便利さよりも、人との繋がりを。匿名性よりも、確かなコミュニティを。ここでなら、私がなりたい自分になれる気がする。あなたと一緒に、その生活を築いていきたい」

それは、彼への返事であると同時に、彼女自身の新しい人生への宣誓だった。

二人の計画は、まだ漠然としている。まずは里美が東京でリモート可能な仕事を探すことから始めるかもしれない。あるいは、地方でのキャリアチェンジも視野に入れるかもしれない。道は一つではない。だが、向かう先は同じだ。不確かだが、希望に満ちた未来が、静かに幕を開けた。


エピローグ 新しい季節


一年後、初夏の光がまぶしい秋田。里美は、古い民家を改装した健太の家の縁側で、ノートパソコンを開いていた。東京の古巣の会社から業務委託の仕事を受け、在宅で働いている。

都会の喧騒はない。時折聞こえるのは、鳥のさえずりと、遠くの田んぼから聞こえるカエルの合唱だけだ。慣れない田舎暮らしに戸惑うことも、東京の友人が恋しくなる夜もある。けれど、隣にはいつも健太がいた。

夕方、畑仕事から戻ってきた健太が、泥のついた手で採れたてのトマトを差し出す。「今日の出来は最高だぞ」。太陽の匂いがするそれを一口かじると、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。

完璧な人生ではないかもしれない。でも、満たされている。自分で選び取った、確かな手触りのある毎日が、ここにはあった。里美は健太に微笑み返し、澄み渡った初夏の空を見上げた。


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