湯の世界(1)
視界が、水蒸気によって曇る。
社畜である私の疲れを吹き飛ばしてくれる湯舟に身を沈めるこの時間が好きだ。
全身の筋肉が緩み、思考も段々鈍くなっていく。このまま目を閉じるのは、危険だということは、分かっていたが、誘惑には抗えなかった。
ヒノキの良い香りで、目覚める。微睡みの中、視界が開けていく。目の前にあるのは、いつもの自分の家の無機質な風呂場の壁ではなく、巨大な板材の壁だった。
しかし、こんなにも異常な状況でも驚かなかった。それくらい頭が、回っていなかった。
ただそんなことが、どうでもよくなるくらい溜まりに溜まった疲労が、跡形もなく消えていくのが分かる。水が流れる音すらも、安らぎを与えてくれた。
多分ここは夢の中の世界なんだろう。明晰夢ってやつなのかな。夢なら目が覚めるまで、ゆっくりさせてもらおっかな。
私は、再び湯舟に沈めた。目を閉じると、何故か懐かしさがこみ上げてきた。こんな大きな温泉に来たことないはずなのに。
多くの時間が、流れた気がした。こんなにも長く入っていると、夢の中でものぼせるらしい。
湯舟からゆっくり出る。まだ夢から覚めないらしい。
辺りを見回す。視線の端に、温泉の出入り口らしきものを見つける。そこに吸い込まれるように歩いていく。
誰もいない脱衣所の真ん中に、真新しいバスタオルと浴衣が、綺麗に畳まれて置かれていた。
体を丁寧に拭き、浴衣に手をかける。
そこで目が覚めた、頭が、ふわふわしている。のぼせ切った体に残っている力を絞り出して、浴室から脱出する。脳死で体を拭き、髪を乾かした。
その直後、眠気が鯨波の如く襲ってきて、ベットに身を預け、泥のように眠る。
今日もやりたくない仕事をこなし、下げたくもない頭を下げた一日だった。湯舟に浸かりながら、嫌な出来事を振り返る。
もう一度あの夢の世界に行けたらと、儚い願いを想いながら、躊躇することなく目を瞑る。
全身の力が抜けていき、思考も鈍くなっていく。あの時と同じ感覚だった。
気がついたら、あの世界に来ていた。
この世界に来れた嬉しさよりも、温泉によってもたらされる安らぎの方が、勝っていた。
しばらく、温泉に体を預けていた。体の芯まで温められる。
天井を見上げる。それにしても広い。冷静に辺りを観察すると、外に出られそうな扉を見つけた。
好奇心の赴くまま、扉を開ける。外の冷気が、濡れた体に襲い掛かる。
一瞬で冷えた体を、温めるために湯舟へと急ぐ。
湯気が立ち上る露天風呂に足を入れ、一気に肩まで浸かる。
周りには、灯籠が置かれ、煌々と照らしてくれた。そして、露天風呂をぐるりと、竹の柵が囲んでいた。
上を見上げると、満天の夜空が広がっていた。夜空を眺めて感傷に浸っていた私を引き戻したのは、耳に届いた波の音だった。
湯舟から立ち上がり、音がした方向に視線を向ける。目線の先には、竹林が広がっていた。その竹林の先に湖があった。湖面に反射する月の光と星の光の競演に心を奪われていた。
視界の端、湖岸に人影らしきものを見つけた。この世界に、私以外のひと。親近感が、湧いてきた。
月に照らされている影を、しばらく見続けていた。しかし、段々気分が悪くなっていった。唇が震えだし、さっきまで何ともなかったのに悪寒が走った。体が、何かを強烈に拒絶していた。
逃げるように、中に戻り、脱衣所に駆けこんで浴衣を掴んだ。
自分の家の風呂場で、無事に目が覚めた。その日以降、風呂場で寝ようとしなくなった。もう一度あの世界に行ってしまったら、かえってこれないかもしれないと直観的に思ったから。