表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

触れ得ぬもの

作者: 有栖川 幽蘭

窓枠が、一枚の額縁のように眼下の景色を切り取っている。私はこの部屋の椅子に凭れてから、もうどれほどの刻を過ごしただろう。肺の奥で燻る熾火のような熱が、私の思考を緩慢に溶かしていく。ここから見えるのは、海へと向かってなだらかに続く、広大な丘陵ばかりだ。季節は秋に移ろい、草々は一面、金茶色に染まっている。


今日は、風の強い日だった。


風は目に見えない。しかし、その姿は世界というカンヴァスの上に、絶えず描き出されていた。丘の草という草は、まるで巨大な獣の毛皮のように、一斉に波打ち、ざわめき、そのうねりは遥か先の松林まで続いて、そこでは黒々とした枝葉が、ごう、と呻き声を上げていた。空を見れば、ちぎれ雲が恐ろしい速さで西から東へと流されてゆく。世界全体が、見えざるものの手によって掻き回されているかのようだ。


その、絶え間なく揺れ動く景色の中に、ふと、一点の赤が紛れ込んだ。


それは、一人の少女だった。歳は十にも満たないだろうか。赤いワンピースが、風を孕んではち切れんばかりに膨らみ、まるで熟れた果実か、あるいは一輪の罌粟(ケシ)の花のように、色褪せた風景の中で鮮烈に際立っている。少女は、その風のただ中に、たった一人で立っていた。


彼女は、風と戯れていた。両腕を広げ、鳥のように丘を駆け下りては、また息を切らせて駆け上ってくる。風が彼女の黒髪を乱暴に掻き上げ、空へと攫おうとする。そのたびに、少女はきゃ、と甲高い声を上げた。その声は、この分厚い窓硝子を隔てた私の耳には届かない。 私に見えるのは、ただ、口を大きく開けて笑う、映画の登場人物のような彼女の表情だけだ。


私の呼吸は、浅く、不規則だ。少しでも深く息を吸い込もうとすれば、すぐさま乾いた咳が喉を突き破って飛び出してくる。この風は、私にとっては脅威だ。窓の隙間から忍び込む冷気が、私の命を少しずつ削り取っていく。だが、あの少女にとって、風は快い遊び相手にすぎない。彼女は風を全身で受け止め、その力を借りて、より高く、より遠くへ飛ぼうとしている。


同じ一つの風が、ある者にとっては生の躍動となり、ある者にとっては死への誘いとなる。その隔たりは、絶対的で、残酷なほどに明瞭だった。私は、硝子に映る自分の青白い顔から目を逸らし、再び少女へと視線を戻した。


少女は、今度はくるくると、その場で独楽のように回り始めた。赤いスカートの裾が、真円を描く。その回転は、まるで生命そのものが持つ、目眩くような律動のように見えた。私の内にある淀んだ時間の流れが、彼女の動きによって僅かに掻き乱されるような、不思議な感覚に陥る。私は、自分が動くことも忘れ、ただひたすらに、その赤い幻影を凝視していた。


その時だった。少女が被っていた麦わら帽子が、一際強い突風によって、ふわりと宙に舞い上がった。


帽子は、意思を持った生き物のように、空中で翻った。少女は「あっ」という形で口を開けたまま、空の一点を見上げている。帽子は風に弄ばれ、木の葉のように頼りなく揺れながら、丘の上を転がり始めた。


少女は、それを追いかけた。先程までの遊びの動きではない。失われた大切な何かを取り戻そうとする、必死の疾走だった。しかし、その姿さえも、風に煽られた赤い炎が地面を駆けるようで、悲壮な美しさを湛えていた。


帽子は、私のいるこの建物の方向へと、一直線に転がってくる。私の心臓が、とくん、と奇妙な音を立てた。まるで、あの帽子が、あの少女が、私という存在に気づき、この静謐を破りに来るのではないかという、あらぬ期待と恐怖が入り混じった感情。


やがて帽子は、私の部屋の窓の真下にある、名の知れぬ灌木に、まるで吸い寄せられるように引っかかり、その気紛れな旅を終えた。


少女は、息を切らせてそこに辿り着くと、安堵したように胸を撫で下ろした。彼女は背伸びをして、枝に絡まった帽子のリボンに指を伸ばす。その真剣な横顔を、私は息を殺して見つめていた。彼女と私との距離は、今やほんの十数メートル。しかし、その間には、決して越えることのできない一枚の硝子と、そして、生と死という深淵が横たわっていた。


彼女は、私という観察者の存在に、最後まで気づくことはなかった。


無事に帽子を取り戻すと、少女は満足そうにそれを被り直し、一度だけ、丘の上を振り返った。そして、来たときと同じように、風の中を駆けて、丘の向こう側へと姿を消してしまった。


後に残されたのは、先程と何も変わらない、ただ風にざわめく金茶色の丘だけだった。まるで、先程までの出来事すべてが、熱に浮かされた私が見た、束の間の幻だったかのように。


私は、ゆっくりと立ち上がり、窓に近づいた。軋む音を立てて、僅かに窓を開ける。途端に、生の風が部屋の中へと流れ込んできた。草の匂い、土の匂い、そして微かな潮の香り。その生々しい息吹は、私の喉を刺激し、案の定、激しい咳の発作を引き起こした。


ごほっ、ごほっ、と。身を屈め、背を丸めて咳き込む。滲んだ視界の片隅で、窓の外の景色が歪んでいる。あの少女が体現していた輝かしい生の躍動とは、なんと懸け離れた場所に、私はいるのだろう。


やがて咳が収まると、私は荒い息をつきながら、もう一度窓の外を見た。風は、何もかもを運び去った後も、変わらず吹き続けている。私は、その掴むこともできず、拒むこともできない絶対的な力の前に、ただ無力に立ち尽くすばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ