【ギリシャ物語】花の名を。
うららかな春の日差しが降り注ぐ、アポロン神殿の庭。
月桂樹の木の下で、転寝をする美しい青年の姿を見つけて、ヘルメスは唇をほころばせた。
楽しい夢でも見ているのだろうか、金の巻き毛が降りかかった頬には、仄かな微笑が刻まれている。
起こすのも偲びなかったが、自分が伝令の途中であることと、もうすぐ日が暮れて暖かな陽だまりが消えてしまうことを考えて、そっと肩に手を伸ばす。
「アポロン…」
軽く揺さぶって声を掛けると、やがてぼんやりしたサファイアの眼差しが自分に像を結ぶ。
「昼寝の邪魔をして悪いんだけどね。流石に日が暮れるとここは冷えるよ?」
「…あ、ああ…。ヘルメスか…」
微妙に残念がっている声音で、アポロンは溜め息を零す。よほどいい夢を見ていたみたいだね、と気を悪くした様子も見せず、ヘルメスが顔を覗き込んだ。
「いい夢…でもなかったな。目を覚ますのが辛くなる…」
アポロンは髪をかき上げて、月桂樹の傍に咲く花を見やる。
「ヒュアキントスがいた」
ぽつり、と呟く。彼の名を付けた花を見つめながら。
「ダフネも、キュッペリソスも。私が愛した者たちが皆、幸せそうに微笑んでいた…」
可笑しいな、私はダフネの笑顔なんて知らない筈なのに、とアポロンは苦笑する。
「私はあまりに幸せで、胸が痛いぐらいだった。今でもずっと目が覚めずに居られたら良かったなどと、思ってしまう。…滑稽だろう?」
最後の言葉は、ロマンティストだと自分を評する友人への自嘲を兼ねていたが、予想に反して彼のエメラルド色の瞳は、にこりともしなかった。
「いや…判るよ。…僕にも忘れられない花があるからね」
自分の隣に腰掛けて、静かに言ったその眼差しはいつものおちゃらけた雰囲気を一掃するもので。
その視線の先を追うと、愛らしいクロッカスの蕾が風に揺れていた。
「お前は…」
誰だろう、ヘルメスにこんな瞳をさせるのは。
アポロンの目が僅かに細められる。
「知らなかったっけ?君は」
「…何を?」
「僕が、結婚しようとしていたことを」
思わず絶句したアポロンに、ヘルメスは「酷いな、僕だって真剣に人を好きになることだってあるんだよ」と笑う。
「その女性は…」
「…谷底に落ちて」
僕は彼女を助けられなかった、と呟く。
死者を導く神でもあるヘルメス。その彼でも、失った婚約者を生き返らせることなど出来ない。
オルフェウスは竪琴で成し遂げようとし、ディオニュソスは実際母親を冥府から救ったが、タナトスと並ぶ死神である彼には出来ない。自分の役目を自ら覆すことは。
「僕が彼女の名を付けた花だ、あれは。僕のクローカス…」
独り言のように囁かれたその言葉を、アポロンは呆然と聞いていた。
だから、お前は結婚しようとしないのか。
失うのが恐いから、真剣な恋はしないのか。
悲恋を嘆く私を、ロマンティストだとからかいながら、いつも…。
「…アポロン?」
不思議そうな声ではっと意識が戻る。
知らぬうちに、掌がぎゅっとヘルメスの濃緑のマントを掴んでいた。
まるで、何かに縋りつく子供のようで、恥ずかしさに手を離したが、逆に顔を覗き込まれる。
「…顔、赤いよ?」
「煩い。……お前は、いなくなるなよ」
「…は?」
「お前は、私の前からいなくなるなよ。花になるのも、樹になるのも許さない!」
まるで春に芽吹く新芽のような、緑色の瞳が大きく見開かれる。
そして、ほんの少し笑うと「誓うよ」とヘルメスは囁いた。
「で、僕、伝令の途中だったんだけど」
「…誰からだ?」
「えーと、アルテミスが呼んでたよ」
「なに?!早くそれを言わないか、馬鹿者!!」
「あ、酷いな~」
春はやはり、生者の季節。
花の神話…
アポロン様のは有名ですが、ヘルメスにもあったりします。
初めて読んだ時、ちょっと彼の違う一面を見たような気がしました。
親友以上、恋人未満な二人が、やはり一番書きやすいですね。