(Ⅰ)
切り立った崖を撫で付けながら、うねるように昇って来た一陣の突風が、深紅のマントを下から殴りつける。
ふわっと、マントごと持ち上げられそうな感覚にミゲルドは思わず踏ん張った。
遙か向こうの地平線から朝日が徐々に顔を覗かせて、辺りを暖かく染め上げようとしている。
しかし相変わらず、この若すぎる騎士を取り巻く高山の空気は、無数の針で皮膚をつついたかのように冷たかった。
ミゲルドは、ゆっくりとした足取りで崖の方へ近付いてゆく。
大気が痛いほど澄んでいる為か、はるか遠くまでくっきりと見渡せる。
これまで幾度となく我が軍を手こずらせ、さすがは難攻不落の王都と言わしめたセレディン王国の要衝・リムサークが、あんなにも小さく、まるでおもちゃを踏みつぶすかのごとく簡単に壊せそうだ。
その背後に広がり、旅人から魔の森と恐れられているベルガイム大森林も、そこら辺に生えている草むらであった。
そして、王都から手前の麓まで広がる、豊かな恵みを約束されたグリュンバード平原の茶色が、まるで踏み固められた運動場に見えた。
そんな敵国全土がすっぽりと収まった山頂からの景色に圧倒されつつも、ミゲルドはそれらの主になったかのような感覚に浸って胸を高鳴らせていた。
「全員、せいれぇ~つ!」
辺りの静寂をつんざく団長の号令が、突如として響き渡った。
ミゲルドはその怒鳴り声で、反射的に後ろへ倒れ込んで尻餅をつく。
もし、前のめりに倒れていたら間違いなく命は無かったであろう。
さっきとは正反対の感情に、心臓が早鐘のように鳴っている。
しかし軍隊という組織は、そんな猶予を許してはくれない。
ミゲルドは、すっくと立ち上がって自分のいるべき所へ駆け込んだ。
チェインメイルの上にブレストプレートを着込んだ騎士達が、兜を左手に抱えて背筋をピンと伸ばす。チェインメイルとはいわゆる鎖帷子の事で、ブレストプレートは胸部だけを覆った板金鎧である。
敬礼と共に十二人の鉄靴の音が一回、大きく響き渡った。
そして、金色の鎧を纏ったエミハール団長が、満足気にチョビ髭を撫でながら整列した部下達を見回し、口を開く。
「諸君!」
エミハール団長は、名門かつ有力貴族であるゲーテバウム公爵家の当主である。
豪華絢爛の金色に輝く甲冑を纏っている事から、金ピカのミエハールという陰口を叩く者もいるが、万が一、本人の耳に届こうものなら厳罰は免れないであろう。
「いよいよ、皇帝陛下の威光を、我ら竜騎士団の力で知らしめる時が来たのであ~る」
両手を後ろに組んで胸を反らし、皇帝陛下の正統性をつらつらと述べるエミハール団長の一言一句が、今回が初陣であるミゲルドの愛国心とエリート意識を刺激してゆく。
いつの間にか、身体が小刻みに震えていた。
竜騎士は、幼き頃よりの憧れであった。
天空を舞う誇り高き父の勇姿に、いつも自分を重ね合わせていた。
いつか父のように――。
「ドゥーレンベル帝国に、栄光あれい!」
エミハール団長が叫び終わるや否や、背後で大人しく待機していたワイバーン達が、翼を大きくはばたかせて一斉に咆吼を上げる。
その直後、ミゲルドを除く全員も気を引き締めるべく、激昂の雄叫びを発した。
あまりのタイミングに、ミゲルドの顔が思わず引きつった。
必勝の自信に満ちた気迫が、痛いほど澄んだ空気からびりびりと伝わって来て、一瞬たじろいでしまう。
しかし、それも束の間の事。すぐさま景色を眺めていた時と同じ余裕を取り戻し、なおかつ自分の手にした強大な力を、一刻も早く試したいという欲望に駆られるのだった。
「全員、騎乗!」
号令と共に、各々のパートナーであるワイバーンへ駆け寄る十二人の騎士。
ワイバーンとは、コウモリの翼のように変化した前足で滑空し、二本の後ろ足で陸上を歩くドラゴンの亜種で、その身体は青い鱗に覆われており、ワニのように長く伸びた口から鋭い牙が見え隠れしている、一見獰猛そうな爬虫類だ。
しかし、一度でも心を通わせる事ができた人間なら、彼らが如何に理知的で賢い動物であるかを知り、その間違った考えをすぐに改めるだろう。
そんな心を通わせた人間だけが、栄光の竜騎士になれるのだ。
「我が軍のラッパを合図に出陣だ。それまで待機であ~る」
そう――当たり前だが、攻め手のドゥーレンベル帝国軍も麓で陣を展開していた。
如何に竜騎士が強大な力を有するとは言え、団長を含めた十三騎の空襲だけで一国を壊滅できるわけもない。
今までは陸軍だけで作戦を進めてきたのだが、戦況は御覧の通り芳しからず。
ついに、皇帝ドゥーレンベルⅨ世自らが出陣すると共に、切り札の竜騎士団を投入するに至ったのだ。
もちろん、士気はうなぎのぼり。
今回の戦で、セレディン王国は必ずや陥落するであろう。
(若、落ち着きなされ。戦場で、焦りは禁物ですじゃ)
マントの止め金を外して鐙に足を掛けたミゲルドの脳裏に、老人のようなしゃがれ声が響く。
名をセルジオンという、ミゲルドのワイバーンの声であった。
一般的に竜語と認知されているその言葉は、声によって発せられるのでは無く、テレパシーのような思念波で直接脳へ届けられる。
「何を言う、俺は充分に落ち着いてる!」
しかしそう言ったものの、はやる気持ちを抑えられるほど、ミゲルドは年を取ってはいない。
天空を自在に舞いながら夢のように敵を射抜いてゆく、そんな己の活躍を思い描いては心躍らせていた、が――。
(やれやれ、困ったものじゃて)
そんなセルジオンのつぶやきを聞き流し、矢筒を右肩に装着するミゲルド。
その矢筒には、下からさっと矢を抜き取れるよう、騎射戦に適した工夫が施してある。
そして所在を確かめるように右腰の水袋に触れた後、弓の弦を数回弾いて張り具合も調べた。
もちろん、異常はない。
「なぁ、じい……」
ウェーブのかかった長めの金髪を流し込むように、兜をかぶるミゲルド。
朝日に映える、よく磨き込まれた鉄兜は、帝国の威圧感と竜の意匠を凝らした見事なデザインである。
「父さんはこんな時、どうしてたんだ?」
エリート部隊である竜騎士に任命されて心躍らせる反面、果たして自分に務まるのだろうかという一抹の不安が、どうしても拭いきれなかったミゲルドは、思いあまってセルジオンに質問をぶつけた。
(さぁて……、レイナード様は傭兵を営んでいました故、じいには分かりかねますじゃ)
ドゥーレンベル帝国の英雄と謳われた、勇猛果敢な傭兵・レイナード。
多くの敵を屠り、帝国に幾多の勝利をもたらした彼は、その功績を認められてリュントゥール男爵家の主となった。
竜騎士に任命されたのも、そしてミゲルドが生まれたのも、後の事である。
「じゃ……、ハロルド兄さんはどうしてたんだよ」
ためらいつつも、ついに出てしまったその言葉によって、ミゲルドの心は沈んだ。
リュントゥール男爵家を継いだ兄は現在、作戦参謀として麓の本陣に着座しているはずだ。
頭脳明晰で魔術にも通じ、中でも得意の薬学で右に出る者はいないと言われる天才学者。
本来なら、彼が竜騎士になってもおかしくはないのだが、何故か、どうみても見劣りする次男坊のミゲルドが大抜擢されたのである。
(さぁ、あの方は頭でっかちですからなぁ……)
セルジオンは、しれっと質問をはぐらかした。
実は、竜騎士を選ぶ権利は、ワイバーンにこそある。つまり、ミゲルドを選んだのは他ならぬセルジオンなのだ。
(大事なのはこれからですじゃ、若!)
そんなミゲルドを叱咤激励するように、短く吼えるセルジオン。
「そうだな……。手柄を立てて、兄さんを見返してやればいいんだな……」
セルジオンに心の内を見抜かれている事に苦笑しながらも、腰に帯びたショートソードの柄を左手で握り締めた。
そうすると、ふつふつと勇気が湧いてくるような気がする。
(その意気ですじゃ、若!)
セルジオンのおかげで気を取り直したミゲルドは、兜の緒を締めようとして手を止めた。
マフラーをしていない事に気付いたのだ。
このままでは鋭利な刃物のように冷たい空気が、鎧の隙間で吹き曝しになっている首筋を容赦なく切り付けるだろう。
「くそっ!」
もう、時間はそんなに無いはずだ。
慌てて兜を剥ぎ取り、おぼつかない手つきでマフラーを巻き付ける、が――。
よりによって、股で挟んでいた兜がはずみで落ちてしまった。
がちゃんと、地面にぶつかる鈍い金属音が憎たらしく響き渡る。
「ええぃ。何をしとるか、バカモンがあ!」
地面に降りて兜を掴んだミゲルドに、すかさずエミハール団長の怒声が響く。
「はっ、申し訳ありません。ただ今!」
そして、ミゲルドが慌てて姿勢を正したまさにその時、ついに麓の帝国軍本陣から、大気をつんざくラッパの音が高らかに鳴り響いた。
ごとん――。
狼狽するミゲルドの手から、再び兜が離れてしまったのは言うまでもない。
「いざぁ! 出陣であ~る!」
冷徹にもそう叫んだエミハール団長は、パシィンと手綱を大きく鳴らした。
団長のワイバーンが一声、猛々しくいななきながら駆け出す。
地響きと共に砂埃を巻き起こし、そのまま崖の向こうへ姿を消した。
「続けぇ!」
川が流れるかの如く、三列縦隊で次々と飛び立ってゆく竜騎士達。
団長一人が飛び立ったさっきよりも、激しい地震となって砂煙を巻き上げ、ミゲルドの心を揺らした。
金色の甲冑が、朝日を照り返してきらびやかに輝く。
空に溶け込むような青い鱗のワイバーン達が、山頂に取り残されたミゲルドをあざ笑うかのように、円を描きながら優雅に滑空している。
「ゆくぞ、じい!」
兜をかぶる暇などあらば――。
マフラーを雑に巻き、兜を抱えながら手綱を叩くミゲルド。
しかし、彼の予想に反して、ワイバーンの足は微動だにしなかった。
「何をしてるんだ、さっさと行かないか!」
(たわけがあ!)
セルジオンは、ますますムキになって手綱を激しく振るうミゲルドに、彼が今まで聞いた事がないであろう、魂を揺さぶる大きな咆吼を聞かせた。
(大空を侮ってはならん。少しの油断が、命取りなんじゃあ!)
脳裏に響くセルジオンの真摯な声が、ミゲルドの頭に冷や水をかぶせた。
(転落事故などという恥ずかしい事で若を死なせては、レイナード様に申し訳が立たないですじゃあ!)
そう言われたミゲルドは、右脇に抱えた兜をおそるおそる見ながら、それを飛行中に被ろうと考えていた自分の甘さを呪った。
「……すまない、俺が悪かった」
沈痛な面持ちで、丁寧にマフラーを巻き始めるミゲルド。
(まだ、出陣のラッパが鳴っただけですぞ。結局は、戦闘開始のラッパに間に合えばよいのですじゃ……)
さっきとは打って変わって、穏やかな口調で諭すセルジオンの言葉が、ミゲルドの焦りと緊張を和らげてゆく。
(常に冷静であられるのじゃ、若。父上様もそうなされて、英雄となったのですじゃ)
口元を覆うまでマフラーを持ち上げてから、兜をかぶるミゲルド。暖かい毛糸の感触が、唇を優しく包み込む。
「……ゆくぞ!」
兜のバイザーを下ろし、キッと前を睨み付けたミゲルドは、手綱を大きく鳴らす。
吼え猛ったセルジオンはついに、力強く地面を蹴った。
どす、どす、と。鋭い爪で大地をえぐるような足取りが、騎乗したミゲルドを波打つように揺らし、その身体を覆い尽くした鎧をきしませる。
一回だけ、翼を羽ばたかせる大きな音が聞こえたが、それっきり、ワイバーンの翼は折り畳まれたままである。
断崖の縁が次第に近付いてくると共に、鐙を思いっきり踏みつけ、手綱を三回ほど手に巻き取って短く持ち、腰を少し浮かすミゲルド。
竜騎士の騎乗飛行は、絶妙なバランス感覚を要求するのだ。
もちろん、度重なる飛行訓練の末、なんとか身に付けたミゲルドではあるが、それでも離陸時に伴う極度の緊張感は拭えなかった。
セルジオンが、断崖を右脚で踏み切った――。
翼は相変わらず、折り畳まれたまま。
もちろん宙を舞ったのは、ほんの一瞬の事である。
そして弧を描くように、真っ逆さまに落下してゆく。
けたたましい空気の叫びが、耳を裂いた。
風が、すさまじい力で身体を押す。
手綱を握る腕が――、鐙を踏みつける足が――、
あらん限りの筋肉を硬直させて、それにあらがう。
意識が引きずり降ろされるような感覚に、ミゲルドは全身を硬直させて耐える。
兜のバイザーの隙間から、みるみるうちに麓の景色が大きくなってゆくのが、見えた。
そして――。
布を、大きくはためかせたような音が聞こえた。
その瞬間、ミゲルドの身体が――いや、ワイバーンの身体がふわりと浮かぶ。
風の叫びが、鎮まってゆく。
もう一回、大きくはためかせる音を聞いた。
今度は、麓の景色が少し遠ざかった。
意識がまだ、朦朧としている。
ミゲルドの手足は頑なに硬直し、しばらくは機能しないだろう。
それに、相変わらずツーンという耳鳴りが、聴覚を支配している。
セルジオンの翼の膜が、空気を包み込むように膨らんでいた。
ワイバーンは翼を微妙に上下させて、やさしく優雅に、風を掴んでは逃がす。
感覚が少し戻った右手を何とか動かし、ミゲルドは兜のバイザーを引き上げた。
麓の小高い丘にぽつんと佇んだ小さな木の影が、細長く伸びている。
断崖絶壁の岩肌が、朱と灰色の複雑に絡み合った、美しい色彩を醸し出している。
朝日の暖かな光が、光と影の壮麗な絵画を生み出しているその様子に、ミゲルドは純粋な感動を覚えた。
「すごいな……」
(ふぉっふぉっふぉ、レイナード様はこれを見られて、御自分が戦場にいる事も忘れておられた。その事が、たまらなく嬉しかったですじゃ……)
セルジオンは、全てを見透かしているかのような口振りで、しかし思わず口元がほころんでしまったような声色で、ミゲルドの呟きに答えた。
(若を見ておりますと、昔を思い出しますじゃ。さて……)
ゆっくりと楕円軌道を描きながら、安定した飛行を続けるセルジオンの口調が、不意に険しくなった。
約10年前に、長編として書き出し……途中で投げ出したモノです。
やっぱり、書きたいものを書かないとモチベーションが保てませんね^^;
そうしたモノを短編にリメイクし、それでも少し長かったので、三部作にしました。
よろしくお願いします。