義姉は悪役令嬢、義弟は攻略対象、妹は続編ヒロイン……って情報量が多すぎるんだが!?
「いやこれ、どうしたらいいんだ……?」
俺の呟きを聞いていたメイドが首を傾げる。なんでもないと言って部屋から下がらせ、広い自室でぶつぶつ喋りながら紙に文字を書き一人で唸る俺は、とても人に見せられた姿ではない。しかしそれも致し方ないと思うのだ。
「義姉が悪役令嬢、義弟が攻略対象、妹は続編ヒロインの世界のサブキャラって、情報量多すぎんだろ……」
頭を抱える俺の名はハロルド・バレスティン。バレスティン侯爵家の長男で、一応跡取り息子ということになっている。そして俺には今呟いた通り、義姉と義弟と妹がいる。ややこしい姉弟関係ではあるが、特に家族間に問題があるわけではない。
(少なくとも今のところ、俺から見た範囲では……だが)
俺達の父親は、貴族らしい貴族だ。政略結婚で母と結婚し、愛と呼べるものは薄くてもしっかり夫婦としての義務を果たしていた。結婚して三年、正妻に子どもが出来ないことから第二夫人を迎え入れたけれど、決してどちらかに情が偏るような人でもなかった。やがて第二夫人に子どもが出来、第一子としての義姉が生まれた後も、正妻である母をないがしろにせず、一年後に俺が生まれた。結婚から六年とかなり長い時間を要したが、待望の男の子である。貴族において跡取りとなる男子が優遇されるのは当たり前のことだし、正妻の子である俺は尚更そうだった。けれど、だからと言って第一子を生んだ第二夫人がこの家の中で下に見られるということもないよう、父はしっかりと気を遣っていた。結果的に、俺の一つ下には第二夫人が生んだ義弟が、六つ下には正妻が生んだ妹がいる。お陰様で父の血筋は安泰だし、侯爵家から四人とも認知されている。
(ただまぁ、どうしても一般的な姉弟ではないんだよなぁ)
四人姉弟ではあるものの、二人ずつ母親が違う俺達は、それなりに家の中で距離をとって過ごしてきた。俺達自身に憎悪や嫌悪感というものはなく、また双方の母親たちも元貴族令嬢らしく感情を表に出すことはなかったが、子どもというのは分からないなりに親に気を遣うものだ。会話はするし、名前も呼ぶ。俺は義姉を「ソフィア義姉様」と呼ぶし、義弟も俺を「ハロルド義兄様」と呼んでくれる。しかし、それぞれの間には絶妙な距離感があり、仲が良いとも悪いとも言えない。
さて、話を戻して、俺はただ今十歳。ソフィア義姉様は十一歳、義弟のローレンツは九歳、妹のメアリーは四歳である。物心ついた頃から毎日夢の中で前世の記憶を垣間見ていた俺だが、今日はっきりと情報が整理できた。
前世で俺は、こことは違う世界の女性だったらしい。そして、その世界で彼女が遊んでいた乙女ゲームが、この世界。所謂転生というものをしたらしいのだ。他人事のように感じるのは、前世の彼女の記憶を夢で見ていただけで、俺は俺自身としての自我が強いせいだと思う。もしこの世界が乙女ゲームだと気付かなかったら、夢が自分の前世だとうっすら理解していても、こうして頭の中を整理しようとは思わなかったに違いない。
乙女ゲーム『プレシャスファンタジー』、通称PFシリーズは、有名な作品だった。シリーズは共通した世界の話で、時系列や国が変わったりするけれど、全て魔法学校もの。バトルアクションありのシミュレーションゲームだ。パラメータを上げたり、地道にクエストをこなしお金を貯めて狙っている攻略対象の好みの服を買ったりとやり込み要素が多く、飽きる人は飽きるがハマる人はハマる作りで、長いことシリーズが続き幅広い世代から支持を集めていた。俺の前世の女性は、世代的には三作目か四作目あたりからプレイをしていたはずだが、世界観にどっぷりハマって全作全攻略をしていた強者だった。
そんなPFシリーズの一作目に登場する悪役令嬢が、俺の義姉、ソフィア・バレスティンである。彼女は、自分が持っていないものを全て持っているヒロインに嫉妬して真っ向から対立し、やがて彼女への憎悪を募らせ最終的に悪魔へ魂を売ってしまう。物語の終盤で魔物化し、ヒロインと攻略対象たちに倒されるが、最後の台詞は「私だって愛されたかった」という悲しいものだ。
(俺から見たソフィア義姉様は、たしかにキツいところもあるけれど話せば分かる真っ当な感性をお持ちで、気に入らない相手だとしても自分の身を破滅させてまで滅ぼしたいだなんて苛烈なことをする人には見えないが……)
義弟として距離がある自分には見えないものがあるのかもしれない。実際彼女が作中で言う「ヒロインが持っていて自分が持っていないもの」の中には『温かい家庭』というものがあった。今の我が家は、貴族としてはありがちな、けれど全体的に冷めた家庭ではある。そのあたりは追々考えていこうと思考を戻した。
対して義弟のローレンツ・バレスティンは、PF一作目の攻略対象である。彼は自身の姉の、ヒロインに対する態度を謝るところが初登場シーンだ。そこから徐々に交流を深めていき、姉に直接意見が言えず後から謝ることしか出来なかった少年が、中盤からは姉であるソフィアにはっきりと物を言うようになる。もっとも、その出来事が彼女のヒロインへの憎悪を深めるきっかけにもなるのだが、ローレンツ個人として見れば『気弱な少年がヒロインと出会って成長し、地に足をつけて物事を考えられるようになる』というストーリーになっている。
(この家では俺が跡取りとして教育されているけれど、俺に何かあった時のためにローレンツにも後継者教育が施されている。ただし、俺とローレンツの成績や出来に大きい差はなく、何事もなければローレンツが跡取りになる可能性は低い。自分の立場が中途半端で自信がないのは今の時点でもそうだが……)
もしもローレンツが自信を持って、最初からソフィア義姉様に意見出来ていたら。姉弟で腹を割って話し合える環境だったなら、ゲームのシナリオは大きく変わっていたのではないだろうか。
(そして、メアリー)
メアリー・バレスティンは、最近やっと令嬢らしい言葉遣いを覚えてきた、俺の妹。両親が同じ唯一の兄妹ということを差し引いても、可愛くて可愛くて仕方がなく、天使かと思うほど愛らしい。そんな彼女は、PFシリーズ三作目のヒロインだ。二作目の内容は一作目と同時系列の他国の話なのであまり関係ないが、三作目は一作目と同じ国、同じ学校が舞台。ヒロインであるメアリーが魔法学校に入学するところから話は始まる。
ソフィアの事件から二年後、ローレンツや一作目ヒロインの尽力もあり、バレスティン侯爵家は没落こそしていないものの、『魔物化した令嬢を出した家』として社交界から弾かれている。家同士の取引も上手くいかず、貧乏侯爵家として陰で笑われている実家を立て直す為、メアリーは魔法学校のトップ――首席での卒業を目指す、というのが三作目のストーリーラインだ。俺はこの作品で、メアリーの兄として少しだけ出てくるサブキャラである。一作目では、ローレンツのルートで『正妻が産んだ長男がいて、現在他国に留学中である』という情報が分かるだけで立ち絵もなかった、そんな存在。
(ただし、三作目のゲーム設定では、ソフィア義姉様の件で責任を取った父様に代わり、成人になったばかりの十八歳で侯爵家の当主になって、傾きつつある侯爵家をなんとか維持しようと必死に奮闘していた)
正直なところ、前世の記憶を整理した今、俺はそんな苦労を背負いたくない。父だって二年前に祖父から侯爵位を引き継いだが三十二歳だったし、たとえ身内に不幸があったとしても二十代で爵位を継ぐのだって早すぎるくらいだ。勿論、もしゲーム通りの展開になった場合、跡取りとしての責任から逃げるつもりはないが、回避出来るものなら回避したい。
(何より、ソフィア義姉様を、魔物になんてしたくない)
如何に微妙な距離感だろうと、俺のことを本当はどう思っているか分からなくても、ソフィア義姉様もローレンツも大切な姉弟で家族だ。ゲーム内でどれだけ悪く、逆にかっこよく描写されていたとしても、自分にとっては頼りになる義姉と心配な義弟。二人との会話も思い出も、ゲームに出てこなかった現実の記憶が、今の俺にはたくさんある。この世界がどれだけゲーム通りに進むかは未知数だが、少なくとも本編の開始まで五年あるのだ。それまでに、ソフィア義姉様が悪役令嬢になる要素を潰して、ローレンツにも自信を持たせて、なるべく、最低でもソフィア・バレスティン関連の話だけは、ゲームのストーリーが破綻するようにしたい。
(前世が重度のPFプレイヤーだったんだ。俺ならきっと……出来る!)
この日から俺は、整理した情報量と戦いながら、義姉を助けるべく行動を始めるのだった。
五年後、ヒロインがシナリオ通り転入して来たけれど、それまでの奮闘の甲斐あってソフィア義姉様は彼女とそこまで険悪にならず、むしろ『良きライバルであり先輩』というポジションに収まった。ローレンツは自信を持たせようと褒めたり上げたり発破をかけ続けた結果、『悪役令嬢の弟で、気弱な後輩』ポジションの攻略対象とはかけ離れた『自信家で野心家なツンデレ』が出来上がってしまったけれど、それでもなんだかヒロインとは交流出来ていたから不思議だ。俺はと言えば、ゲーム設定ならしているはずの留学を蹴り、義姉弟たちと同じ学校へ進学。途中で同級生となったヒロインの様子を常に気にかけつつ、義姉様のサポートを全力で努めた。時には女子二人の争いの仲裁に入り、他の攻略対象たちに睨まれないよう立ち回り、ゲーム期間の二年間を何とか過ごしていった。
そして、迎えたゲームのエンディング。俺やヒロインの一学年上の代の卒業式。本当ならその場にいないはずのソフィア義姉様の姿を見て、らしくなく涙が溢れた。同級生やヒロインに心配されながら、卒業生として壇上に上がる義姉の姿を目に焼き付ける。
ゲームのままだったら、この卒業式の一ヶ月前、魔物化して倒され、そのまま骨も残らず消えていたはずのソフィア義姉様。それが今は、悪魔なんかと全く関わらずに、バレスティン侯爵家の長子として卒業式に出席している。もう大丈夫だと、十歳からずっと抱えていた不安が溶けていくのを感じた。
「全く貴方は……少しは立派になったかと思ったら、あんなに泣くんだもの。しっかりしなさいな」
卒業式の後のパーティーでエスコートした義姉にそんなことを言われ、また涙腺が危うくなったが何とか堪えた。せっかくゲームと違った結末に出来たのだから、これからも義姉には明るい未来を掴んでもらいたい。
(そういえば、あの子は結局誰とくっついたんだろうか)
大幅にゲームの筋を変えてしまったが、それでもヒロインは順調に攻略対象たちと仲良くなっていたと思う。個人ルートに入った様子はなかったから、大団円かハーレムルートだったはずだけれど、前者なら一番好感度の高い相手がこのパーティーでダンスに誘うはずだし、後者ならヒロイン自ら相手を指名してダンスをするはずだ。そのダンスシーンのCGスチルで、ゲームは終わりを迎える。
(どちらにしても、彼女とダンスをしている相手がいるはずだが……)
自身の同級生の輪の中に入っていく義姉を見送って、会場を見渡す。卒業生も在校生も、その家族も参加するパーティーはたくさんの人がいるけれど、ヒロインはヒロインらしく目立つ存在なのですぐに分かるだろうと首を回す。すると、こちらへ歩いてくる茶髪の美少女の姿が見えた。
(あれ、この辺に誰か攻略対象いたっけ?)
自分の義弟も含め目立つ容姿のイケメンたちは周囲におらず、気のせいでなければさっきから彼女と目が合っている。何故かは分からないけれど、自分に向かってきた少女へいつものように声をかけた。
「トマリス伯爵令嬢。私に何か御用ですか?」
イリス・トマリス。PF一作目のヒロイン。市井で平民として育っていたが魔力が強く、十歳の頃にトマリス伯爵家へ養子に出される。そこから貴族としての礼儀や作法、基礎的な勉強や魔力の使い方を学んでいき、ゲームの舞台である五年制の魔法学校には十五歳になる第三学年から転入してくる。特殊な身の上だが、実の両親とも養子先の伯爵夫妻とも関係は良好で、明るく素直な性根の持ち主。ゆるくウェーブしたセミロングの茶髪に緑の瞳という平民によくある色合いながら、一目でヒロインと分かる美少女である。ちなみに、義姉はザ・悪役令嬢と思える金髪ロングに紅い瞳の美女だし、配色が同じ義弟もイケメン。俺は平凡な赤茶の髪に茶色の瞳。妹は髪こそ俺と同じ赤茶だが瞳が紅く、年々意思の強さを感じさせる美少女に育っている。サブキャラらしく俺だけ箸にも棒にもかからないフツメンなのだが、そんな俺に対してイリスは緊張している様子で言葉を返した。
「……バレスティンくんは、その……」
彼女は義姉のことを「ソフィア先輩」と呼ぶし、義弟のことは「ローレンツくん」と呼んでいる。この世界は仲の良い相手を名前で呼ぶのが普通の価値観なので、俺も関わっていく内に名前呼びに変わりそうになったことがあるが、頑なに「トマリス伯爵令嬢」と呼び続けることで回避したため向こうからも家名呼びだ。そんなことで他の攻略対象に目をつけられたくないし、そこに時間を取られている内に万が一義姉様が闇落ちしたら目も当てられないので。余談だが、ここ数年の奮闘の結果、俺は周りから超がつくレベルのシスコンでブラコンだと思われている。まぁそれくらい、義姉が消えてしまうことに比べたら些細なことだと流していたけれど、今後侯爵家の嫁探しに響くかもしれないと先日家令に愚痴られた。
(嫁かぁ……)
家を継ぐ以上のしかかってくる問題ではある。しかし、ゲームのシナリオが終わるまでは油断できず、自分の縁談の話が持ち上がる度に潰して義姉と義弟の傍に居続けたため、現在俺に婚約者はいない。メアリーがヒロインになる三作目でも、悪評があり落ち目の侯爵家に嫁いでくる人などおらず、作中で十九歳になっていた俺は独身だった。それが念頭にあるせいか、家令の言葉は気に留めつつも俺個人に焦りはない。
(最悪俺が結婚しなくても、ローレンツが彼女や他の誰かと結婚して子どもが複数人生まれたら、その子に侯爵家を継いでもらえばいいしなぁ)
なんてことを考えていた俺の思考を飛ばすように、イリスが一歩前に出てきて声量を上げた。
「誰かと約束してる!?」
「……何をです?」
すっとぼけたわけではなく、本当に何の約束か分からなくて返したのだが、イリスは苛立った様子で顔をしかめた。素直で感情が表に出やすいのは彼女の長所であり短所でもある。注意しようかと思ったが、俺が口を開く前に更に声量を上げたイリスの声が響いた。
「誰かと! 踊る! 約束! してる!?」
「………………してない、けど」
「けど!?」
「いや、うん。してない。とりあえずしてないから落ち着いて」
予想外の展開が続き口調が崩れる。すると何故か先程より機嫌が良くなった様子のイリスが居住まいを正した。そして、確認するように言葉をかけてくる。
「ソフィア先輩と踊らなくていいの?」
「流石に踊らないですよ。義姉様にはそろそろ本格的に嫁ぎ先を見つけてもらわないとですし、卒業パーティーで血が半分しか繋がってない義弟と踊ったなんて話、社交界では変にねじ曲がって伝わっていくに決まってますから」
第二夫人から生まれたことが公になっているソフィア義姉様には婚約者がいなかったが、これはゲーム上の都合だろうと推測できる。何故ならここ一年、悪役令嬢にならなかった義姉には、釣書が山のように来ているのだ。本人が学校を卒業したら考えると先延ばしにしていたけれど、明日からソフィア義姉様はあの大量の釣書たちと向き合わなければならない。個人的には義弟として、なるべく良い条件で義姉を下に見ない家に嫁いでもらいたいと思っている。
「それって、変な噂にならないなら踊りたかったってこと?」
「はい? そんなふうに聞こえました?」
「うん。だってバレスティンくん、ソフィア先輩のこと大好きじゃない」
「まぁ好きですけど。家族としてですよ?」
「本当に?」
何故、彼女にこんなことを聞かれないといけないのだろう。自分はこの七年近く、彼女に義姉が倒されないよう――殺されないように――必死に動いてきた。それは十歳までの自分と義姉との、数少ない義姉弟としての思い出と、家族としての愛情が俺の中にあったから。現在の立ち振る舞いも含めてシスコン呼ばわりされるのは仕方ないと思っているけれど、こんなふうに義姉への恋愛感情を疑われるのは、家族としての情を馬鹿にされているようで嫌だった。表情には出ていなかったはずだが、俺の少しの変化に気付いたのか、彼女が目を伏せる。相手の感情の機微に聡いのは、乙女ゲームのヒロインらしいと思う。
「ごめん。そういうつもりで聞いたんじゃないの」
「……どういうつもりか知りませんが、これ以上我が家のことには立ち入らないでいただけると嬉しいです」
他家の事情に口を出すなど普通ならば許されない。その上、こちらは侯爵家で伯爵家より上の立場なのだから、彼女のしたことを公に問題にすれば、それだけで伯爵家の立場が悪くなる。彼女が家格を気にせず思ったことを口に出すことで救われる攻略対象もいるけれど、それは全ての人間にしていいことではないのだ。
「トマリス伯爵家のことを思うなら、もう少し考えてから発言した方がいいと思いますよ」
「……ごめんなさい」
「いえ。以後気を付けてもらえればそれでいいです。では、私はこれで」
真面目な顔で説教してみたが、実は彼女がどの攻略対象を選んでも侯爵家より下の立場にはならない。それこそ、今日卒業した王太子殿下を選べばイリスは次期王妃。仮にローレンツを選んだ場合でも、婿入りした後に二人で功績を上げてトマリス家はすぐ侯爵へ陞爵し、家格ではバレスティン家と並ぶのである。真面目に努力してきたヒロインの未来は安泰なのだ。正規ルートを無視して未来が不確定なサブキャラと違って。
「あの!」
「……まだ何か?」
これ以上話すことなどないと思うし、早く攻略対象の所へ行けばいいのに。俺が今離れた分、イリスは距離を詰めてくる。そして、可愛らしいドレス姿には似つかわしくないほど綺麗な直角に頭を下げ、右手を真っ直ぐに差し出してきた。
「私と! 友達になってください!」
「…………はい?」
洗練されたカーテシーでもなく、手の甲へ口づけを求めて少し浮かせるでもなく。謝罪のような真っ直ぐなお辞儀と、肘までしっかり伸ばし握手を求める手。これまで様々な情報量に耐えてきた脳が出来るかぎり考えているけれど、処理をしきれず困っている。そうこうしている内にいつの間にかイリスの両サイドには、自分の愛すべき義姉弟たちが立っていた。
「ハロルド、正直に答えてほしいのだけど。彼女のこと、嫌いではないわよね?」
「ハロルド義兄様が誰かをお嫌いになることなんてまずないですから、心配はしてませんけど」
「いや、あの、状況が読めないんだが……?」
ソフィア義姉様はともかく、何故ローレンツがそちらに立っている。むしろイリスを今からでも連れてダンスしに行くべきではないかと思うのに、当のイリス本人は頭を下げ手を出し続けている。普段見ることがない光景に周りの人々の目もこちらに向いてきていて、とりあえず声をかけることにした。
「あの、トマリス伯爵令嬢、頭を上げてください」
「…………」
そっとこちらを伺うように顔を上げた彼女は、緊張からか羞恥からか赤い顔で涙目になっている。それが少し可愛いと思ってしまった自分を頭の隅に追いやり、改めて声をかけた。
「その、言いづらいんですが、」
「…………」
「私たちは友人ではなかったんですか……?」
「えっ」
彼女の驚きの声に合わせて、義姉と義弟も目を丸くする。ちょっと待ってほしい。なんだろうかこの反応は。
イリスが転入してから二年間、俺はソフィア義姉様が悪役令嬢にならないよう細心の注意を払ってきた。その過程でヒロインであるイリスと話すことは多く、同じクラスだったのもあって授業の班で協力したり、行事で声をかけ合ったりして、一般的には友人と呼べる関係だったと自負している。
(そりゃあ名前呼びにならないよう気をつけたり、距離が近すぎないようにはしたけど、友達だと思われてなかったって言うのは流石に傷つく……)
先程の説教だって、自分自身の苛立ちもたしかにあったけれど、何とも思ってない相手なら嫌味で返して終わりだ。具体的にこうしないでほしいとか、ああしたほうがいいなんて言ったのは、イリスに気をつけてほしかったからで、彼女を自分の友人だと思っていなければ出てこない言葉である。
それらを、ゲームの事情は省きかいつまんで説明すれば、何故かイリスは更に泣きそうな顔になっているし、ソフィア義姉様とローレンツは呆れたと言わんばかりの表情を浮かべた。
「ハロルド、貴方ねぇ……」
「え、俺、何か間違えましたか?」
「まずそこですよ、ハロルド義兄様」
「そこ? どこ?」
「ハロルド、貴方、私達に対しての口調とそれ以外の人に対しての口調が違うのは気付いていて?」
「え、はい。それは使い分けてますから」
「でも義兄様、同級生で旧友の方々と話す時は、たまに素の口調になるでしょう?」
「あー、昔から付き合いのある奴らと話す時は、そうだな」
「まぁ、それはまだいいとして。入学してからの四年間、同級生の女子生徒の中で、貴方が自分から話しかけたのは何人くらいか分かるかしら?」
「…………五人くらいですかね?」
「残念です義兄様、イリス先輩を入れて四人ですよ。それも、頻繁に話していたのはイリス先輩だけです」
「なんでそれをローレンツが把握してるんだ……?」
義姉と義弟の話を総合すると、つまりこういうことらしい。クラスの用事くらいでしか女子と話さなかった俺が、義姉弟が関わることとは言えイリスには積極的に話しかけて(いるように見えて)いた。しかし、どれだけ会話をしても口調は丁寧で名前も呼ばせてもらえず、明確な線を引いて距離を置く俺に対し、イリスはあくまで義姉弟と関わりがあるから気にかけてもらえているだけなのだろうと思っていたらしい。それでも、俺と仲良くなりたかったイリスは、今この場で友達になってほしいと頼んでいる。
「…………俺と、仲良く、なりたかった?」
言葉も出せずに首を思いきり縦に振るイリスの顔は先程よりも真っ赤で、扇で口元を隠した義姉から「この期に及んで「どうして?」なんて聞くんじゃないわよ」という圧が飛んできた。目だけで何を言っているか分かる。
(いや、流石に聞かないけど……)
そこまで鈍感ではないが、同時に別の意味で「どうして?」とは思う。だって、イリスはヒロインなのだ。俺と同じように転生しているわけでもなさそうで、前世で画面越しに見たままの、可愛くて、努力家で、人の気持ちに聡くて、でも攻略対象たちからの好意には鈍くて、優しくて、強い。いつの間にかみんなが目で追ってしまって、助けてあげたくなる、誰からも愛される女の子。愛される要素が元々あって、それにあぐらをかかず日々を頑張って生きていた、理想のヒロイン。だからこそ、どんな攻略対象だって攻略出来る。こんなフツメンじゃない超イケメンで、ちょっと性格に難があったり重たい過去があったりするけれど地位も権力も実力もある有望株たち。俺は彼らほどの交流をイリスとしていないし、何故ゲームのエンディングと呼べるこんなタイミングで彼女が俺のところに来たのか全く分からない。「バグか?」とも言いたくなるが、そもそも悪役令嬢だったはずのソフィアの立場や、攻略対象であるローレンツのキャラを変えた大部分の原因は俺にある。もしゲームのシステムが異常をきたしたのだとすれば、それは間違いなく俺のせいだ。
(ゲームシナリオを変えた罰で俺が存在ごと消える可能性は、それなりに考えていたけど……これは予想外すぎる)
攻略対象たちを誰も選ばず、ヒロインが自分に好意を向けてくる事態なんて全く考えたことがない。途方に暮れる俺を、ローレンツがやれやれと言った様子で見ている。
「もちろん、選ぶのは義兄様の自由ですし、僕は彼女が困っていようと全く構わないんですが。……今、義兄様がイリス先輩を友人だと思っているなら、残りの学校生活一年間、もう少し素の義兄様で彼女と話してみるのはいかがでしょう?」
「ただし、これは提案であって、私達からのお願いではないわ。ちゃんと貴方自身が考えて決めてほしいの」
義姉がつっかかるからとか、義弟と仲が良いからではなくて。俺という一人の人間として、イリスという同級生と仲良くするかどうか選んでほしいのだと、義姉弟たちは言う。目の前にいるイリスは変わらず不安そうで、けれど泣かないように目に力を入れている。同情を引きたくないという強い意志を感じて、そこまで真っ直ぐに自分を想ってくれているというのは、素直に嬉しいと思った。友情以上の好意が見えているとしても、イリスは告白するのではなく、友達になりたいと言ってきた。それは、今告白をしても俺から色よい返事がもらえないことを分かっていて、その上で距離を詰める方法を彼女なりに考えた結果なのだろう。自分が『選べる立場』だということも、俺が『選ばれる立場』でないことも、彼女は知らない。この世界が今日この日まで、彼女が主役の物語であることを、彼女自身は気付いていないのだから。
(でもまぁ、分からないのは俺も同じか)
もう、ゲームのシナリオは変えてしまったから。二年後にメアリーがこの学校へ入学しても、きっと続編のような話にはならない。義姉様は魔物化しなかったし、侯爵家もきっと傾かない。これから先の未来は、待っているシナリオは、俺が全く知らないものになる。それなら、俺というサブキャラがもう少し目立つようなことも、あっていいのかもしれない。
「……ご期待に添えるかは、分かりませんが」
「!」
イリスが顔を上げた後もずっと伸ばされていた右手に、自分の右手を合わせてしっかりと握手する。まだ、彼女の向ける好意には応えられないけれど。攻略対象でもない俺を選んだ貴女に、俺もたった今、以前よりずっと強い興味を持ったところだから。
「とりあえず、これからも友人としてよろしくお願いします。……じゃ、なくて……よろしく、イリス嬢」
「……うんっ! ありがとう! よろしくね、ハロルドくん!」
間近で、自分にだけ向けられた彼女の笑顔は、ゲームの綺麗な絵からは想像もつかないほどくしゃっとしていて、情けなくて。だけど、心の底から嬉しそうな彼女の姿が、どんなエンディングのCGスチルよりも、輝いて見えた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
ヒロインのイリスは、最初ダンスに誘ってハロルドとの距離を詰めようと思っていましたが、彼があまりにも脈ナシの塩対応なので、真っ向から頭を下げるという手段に出ました。
ゲームだと「おもしれー女」枠に入るタイプのヒロインだと思います。