03 午前零時の鐘が鳴る(3)
さて。
それでは、三日前の回想が終わったところで、改めて情報確認をしようと思う。
私の名前はウィロウ・フォン・イグレシアス。
イグレシアス侯爵家の娘にして、王太子の婚約者。
三日前の放課後、通っている学園にて【純潔の乙女】ことイルゼ嬢を突き落とそうとし、とっさのところでこれを回避。
彼女を助ける代償として階段上から真っ逆さまに落ちた私は、頭を打ち付けた衝撃で脳震盪を起こして失神した。
目立った外傷はなく、問題もなかろうと校医に診断されたものの、今日までの三日間、大事を取って女子寮の自室で療養している。
──そして、何よりも重要なのは、今の私と三日前までのウィロウがほぼ別人である、ということだ。
有り体に言えば、私は転生者である。
それも、昨日今日に意識を取り戻したわけではなく、生まれた時から彼女の中に息づいていたタイプの転生者。
つまり、私と彼女は同じ身体を共有するものの、完全に独立した存在というわけだ。
身体の主導権を持つのも主人格もウィロウなので、私は彼女の中にひっそり居候するおまけのようなもの。
そんなわけで、直接的・間接的な干渉は何もできず、この十八年間は彼女の成長を見守ることしかできなかった。
とはいえ、不自由な状態での転生ではあったけれど、退屈することはまずなかったことを記しておく。
何せ私が転生したのは剣と魔法のはびこる異世界、それも侯爵家のご令嬢という生まれなのだ!
前世とはまるで違う生活、文化、景色……。
何をとっても飽きることなんてないし、目新しさは更新されるばかり。
前世は金持ちだなんて到底言えない、ごくごく一般──よりもちょっと下くらい? の生活だったから、侯爵家の贅を尽くした生活はもちろんのこと、ノブレス・オブリージュを体現するための厳しさには目を見張るしかない。
──とまあ、模範的な回答をしたところで、取り繕うのはやめにして。
何よりも魔法。魔法ですよ皆さん!! ……なんて。
誰に語りかけてるのか自分でもわからないけど、とにかく魔法というファンタジーの産物が実在することにテンションが上がりっぱなしなのは、きっと理解してもらえると思う。
しかもウィロウはとびきり魔法の素質に優れているようで、難しいと言われる魔法もちょちょいのちょい!
誠に勝手ながら、彼女の姉のような母のような気持ちで見守っていた私は、とっても優秀なウィロウに鼻高々な気持ちで興奮しまくっていたのであった、まる。
……まあ、そんな彼女も、自力で魅了を解くことはできなかったみたいだけど。
今から十年ほど前──ウィロウが齢八歳の頃は、まだ平和だった。
婚約者である王太子との関係もつつがなく、微笑ましくて。
王侯貴族の結婚なんて政治の道具でしかないし、愛がないのが普通だけれど、この二人の様子ならきっと大丈夫──そう思えるくらい、幼いウィロウと王太子はとても仲の良い婚約者だった。
そんな二人に転機が訪れたのは、婚約して二度目の記念日を迎えた日。
毎月定例のお茶会を終えて、お城の庭園を散歩していた時のことだ。
いつも通りの完全無欠っぷりを装いながらも、どこか心ここにあらずで上の空というか、様子のおかしい王太子……。
ウィロウは当然、らしくもなくぼんやりした婚約者を心配していたし、かくいう私もどうしたのだろうと気になっていた。
そりゃあ、妹のような娘のような女の子の婚約者なんだから、多かれ少なかれ気になるのは当たり前だろう。
まして、幼い子どもが相手であれば、なおさらそうだ。
……あの日、あの時のことを、私は今でもハッキリとおぼえていて。
少し目を閉じれば、まるで昨日のことのように思い出せる。
ウィロウ、とあの子を呼ぶ王太子の、八歳の少年とは思えないくらいねっとりとした粘着質な声。
華奢な少女の肩を砕かんばかりの力で掴み、どろどろと濁って澱んだまなこが、無垢な彼女の瞳を覗き込む。
……そう、それが、あの忌まわしい魔法を発動させる条件だった。
王太子と視線が交わった瞬間、ウィロウの在りようは──魂は、ぐにゃりとねじ曲がった。
決してあの子が離れて行かぬように、裏切らぬように、王太子に従順で盲目なお人形さんへと書き換えられてしまったのだ。
……ウィロウの中に存在し、ずっとウィロウの魂に寄り添っていた私には、その変化が肌で感じられた。
王太子に抱いていた純粋な敬愛と親愛はいびつに形を変え、歪んだ情愛へと変転し。
あの子の思考も言動も、何もかもが王太子という存在に侵され、汚染される──。
私にはそれがおぞましく、いたましくて……何より、とても悲しかった。
ウィロウ。ウィロウ。
王太子に狂わされてしまった、私の大切な女の子。
侯爵令嬢という立場にありながら、あまりにも善良で、優しくて、何事にも一生懸命な頑張り屋さんで。
普段はちょっと抜けてるんじゃない? なんて思うくらいおっとりしているのに、時には周囲がびっくりするような誇り高い姿や、行動力を見せる子だった。
そんな君が私は大好きで、可愛くて仕方なかったんだ……。
ずっと助けてあげたかった。
解けるものなら、私が魅了を解いてあげたかった。
好きなものを好きと言うことも、嫌なものを嫌と言うこともできず、思考言動趣味嗜好存在意義に至るまで何もかも王太子の存在に歪められた君を見ているのが、私にはひどく辛くて、悲しくて。
あれほどウィロウに干渉できないことを悔やんだのは、後にも先にもないと思う。