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02 午前零時の鐘が鳴る(2)


「「……え?」」


 わたくしとイルゼ嬢は、それぞれ、戸惑いの声を上げました。


 イルゼ嬢は言うまでもなく、身体が突然、宙に躍り出た現実に思考が追いついていないのでしょう。

 けれど、わたくしは……。


 わたくしから殿下を奪おうとする彼女が腹立たしくて、憎くて、恨めしくて仕方なかった。

 死んでしまえと思っていたし、なんならいっそ殺すつもりだった。


 だから、わたくしは、イルゼ嬢を突き落とそうとした。

 ……はず、でした。


 しかし、不思議なことに、わたくしが抱いていたはずの憎悪も、嫉妬も、殺意も、何もかもが瞬きの刹那に消えてしまったのです。


 まるで最初からそんなものはなかったのだとでも言うように崩れ去り、残ったのは、ただだだまっさらな心……。

 わたくしの中で渦巻いていた禍々しい感情が浄化されたようだ、と言って過言ではないでしょう。


 そして同時に、殿下への狂おしいほどの慕情もまた、砂の城のようにさらさらと跡形もなく消えていくのを理解しました。


 なんとも不思議な感覚です。

 この十年、ほとんどずっと連れ添ってきた想いだというのに、慕情が消えることに惜しむ感情も恐れる心も、何もありません。


 嘘偽りなく、何もないのです。

 ただただ無である、とでも申しましょうか。


 はて、わたくしはこんなにも、殿下に対して無関心だったかしら……?


「きゃああああぁぁあっ!」

「っ、イルゼ嬢!!」


 ああ、そんなことより、今はイルゼ嬢です。

 このままでは、彼女は階段から転がり落ちて大怪我を免れません。


 いえ、元を正せばわたくしが、相応の意図をもっておこなったことですから、それは当然なのですが。

 たとえ誰に信じてもらえずとも、先ほどまでのわたくしと、今のわたくしは違うのです。


 イルゼ嬢。イルゼ嬢。みなしごでありながらも苦境に負けず、清く、正しく、美しく育ったいとけなき貴女。

 神の祝福という名の寵愛を賜った、【純潔の乙女】──。


 我が国の至宝たる彼女を、国母を目指すわたくしが守らずしてどうすると言うのでしょう?


 ええ、そうです。

 わたくしは、わたくしの狂気が成したおぞましい凶行から、イルゼ嬢を守らなければならないのです。


「──えっ?」


 わたくしがしたことは、とても簡単なことです。


 指先ひとつで重力を操作し、イルゼ嬢の身体を物理的に軽くする。

 そして、軽くなった彼女の腕を引いて、階段上まで引き戻す。


 ほら、工程はたったこれだけで、淑女の例に漏れず非力なわたくしでもできるナイスアイデア。


 我ながら、とっさの機転のわりに、よく思いついて実行したものだと思います。

 イルゼ嬢も驚いて目を丸くしていらっしゃいますし。


「……あら?」


 惜しむらくは、イルゼ嬢を引き戻した際、勢い余ってわたくしが宙に身を投げてしまったことでしょう。

 完全に彼女と入れ替わるかたちで、わたくしは階段下まで真っ逆さま。


 自分では冷静なつもりでいましたが、内面の劇的な変化にやはり動揺していたようです。

 前へ前へと流れていく景色に、少しずつ遠くなっていくイルゼ嬢の姿に、やっとのことで間抜けな声を上げました。


 イルゼ嬢に使った重力操作の魔法を使えば、あるいは、来たる衝撃を和らげることもできたのかもしれません。

 しかしわたくしの頭の中は予期せぬ事態に真っ白で、自分の身を守る術なんてちっとも思い浮かばなかったのです。


「イグレシアス様!」


 悲鳴のような声でわたくしの名を叫ぶイルゼ嬢は、とても焦ったお顔をしていて。

 きっとわたくしのことを心配しているのだろうと、ありありと読み取ることができました。


 ……ふふ、本当に馬鹿なひと。

 貴女を突き落とそうとしたわたくしを心配するなんて、お人好しが過ぎるのではないかしら?


 けれど、ええ、そんな貴女を害そうとしたわたくしが愚かだったのです。

 走馬灯のように脳裏を駆け巡るイルゼ嬢の姿を回顧し、しみじみとそう思います。


 何故なら、いつだって彼女は品行方正で、礼儀正しいひとだったのですから。


 自分に祝福を授けてくださった神に報いるように一生懸命で、【純潔の乙女】の名に恥じぬよう、与えられたお役目をこなそうと努力を欠かさなかった。

 第二王子のアレクシス殿下に励まされながら、周囲の圧力に負けず、挫けず、ただまっすぐに前を見据えていて──。


「……ああ、なんてことかしら」


 わたくしったら、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんでしょう?


 脳裏によぎる、アレクシス殿下とイルゼ嬢が見つめ合い、微笑みを交わす姿。

 それはくしくも今までのわたくしとヘンリー殿下そのもので、ほかの誰にも付け入る隙なんてないのは明白です。


 たとえ横恋慕が・・・・・・・ヘンリー殿下の方で・・・・・・・・・あったとしても・・・・・・・、あの、相思相愛の二人を引き裂くなんて無理に決まっています。


 わたくしの嫉妬はきっと、何か……思い違いがあった結果なのだと思うのです。


 恋は盲目、とでも申しましょうか。

 であれば、これは、なるべくしてなったことなのでしょう。


 因果応報。悪因悪果。

 自業自得とはまさにこのこと。


 いうなれば、イルゼ嬢を見初めた神からの天罰が下ったのです。


 愛し子を傷つけようとしたわたくしを、神は見放した。

 ただそれだけの話です。


 がつん、と階段の踊り場に頭を打ち付ければ、強い痛みが走りました。


 頭の中がぐわんぐわんと揺れる感覚に、白く明滅する視界。

 立ち上がるどころか身を起こすこともできないまま、音が、世界があっという間に遠のいていきます。


 ──意識を手放す間際、泣き出しそうな顔でわたくしに寄り添うイルゼ嬢の肩越しに、鬼のように恐ろしい形相のヘンリー殿下が見えた気がしました。


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