12 白百合の淑女に祝福を(1)
草木も眠り静まる頃、火事だ、と叫ぶ誰かの声が寮内に響いた。
ガウンを羽織って自室を出れば、すでに廊下いっぱいに人があふれており、押し合いへし合いしながら皆一様に一階の出入り口めがけて流れていく。
それをわたしは、息をひそめて見送り、とある貴人の部屋に向けて歩き出した。
この火事は、その貴人が……ウィロウ・フォン・イグレシアス様が意図的に引き起こしたものであることを、わたしは知っている。
それもこれも、ひとえにウィロウ様が婚約者であるヘンリー王太子殿下から逃げるため。
そのことを、わたしは──わたしだけが、知っていた。
☩
ウィロウ様には、ずっと、複雑な思いを抱いていた。
王太子殿下の歪んだ愛情に翻弄される、気の毒な御方。
それでいて、いつもわたしに敵意を向ける、恐ろしい御方。
そんな風にわたしが考えることすら烏滸がましいのはわかっている。
でも、やっぱり、そう思わずにはいられないのは、ウィロウ様が素直でお可愛らしい方だと一度でも考えてしまったからなのだろう。
あの方が王太子殿下を想う姿はとてもひたむきで、一挙一動にやきもきし、ちょっとのことで照れてしまう。
たとえどれほど恐ろしい形相で睨まれようとも、憎悪の念を向けられるほどに疎まれても、出会ったばかりの頃に見たその様子が、ウィロウ様の本質。
そう思えば、悪いのはあの方ではなく、己に向けられる愛情を弄ぶ真似をする王太子殿下であり、その幇助をするわたしとしか考えられなくて。
……生まれ育った教会を盾に取られたとはいえ、王太子殿下の戯れを拒むことができず、ウィロウ様を泣かせてしまった時は本当に苦しかった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
貴女を傷つけることを止められないわたしは汚らしく、穢らわしい。
神の祝福をたまわる【純潔の乙女】なんて称号は、わたしには相応しくない。
王太子殿下だってそうだ。
何が完全無欠、才色兼備の麗しの王太子だ。
そんなのただのハリボテで、偽物の偶像じゃないか。
あんなヤツ、婚約者の想いを蔑ろにする最低なクズ野郎で十分だ!
……それまでも、夜な夜な涙を流すことは何度もあったけれど、自責の念と罪悪感で泣き明かしたのは、あの日が初めてだった。
第二王子のアレクシス殿下は、王太子殿下の歪んだ愛情に気付いていて、何かとわたしの心に寄り添ってくださった。
困りごとはないか、悩みはないかと、わたしなんかのためにお心を砕いてくださる優しい御方である。
『王太子殿下に比べて第二王子殿下は劣ってばかりだ』と、誰もが口を揃えて言うけれど、そんなことはない。
アレクシス殿下はちょっぴり口下手だけど、それだけだ。情に厚くて、人のことを思い遣れる、素敵な方だ。
王太子殿下もアレクシス殿下も、ご兄弟だけあって同じ金髪碧眼だけれど、アレクシス殿下の色はいつだってわたしの心を慰めてくれる。
わたしの心を、あたたかく包み込んでくれる。
……そんなアレクシス殿下をわたしが慕うようになったのは、ごく自然の成り行きで。
だからこそ、わたしはいっそう、自分のことが許せなくなった。
恋い慕う人がいるのに、それとは別の人に唇を許してしまった。
権力には逆らえないから仕方ない、なんて、どうやっても考えられなくて。
ただただ王太子殿下と唇を重ねたという過去が、肩に重くのしかかり、心に暗い影を落とす。
とにかく辛くて、悲しくて──死んでしまいたいとさえ、思った。
だから、ウィロウ様に階段から突き落とされた時、実はちょっとだけ嬉しかった。
もう、こんな苦しい日々が終わりになるんだと、そう思ったから。
でも、その時、わたしは祝福の力が働くのを感じた。
わたしがいただいた祝福とは、あらゆる穢れを打ち払う浄化の力。
毒も呪いも、わたしが触れればたちまち消えてしまう──そんな力だ。
だけどそれが、ウィロウ様に対して働いた?
一体どうして?
驚いて混乱している間にも、ウィロウ様はわたしを階段上に引き戻し、身代わりとでも言うように階段下まで落ちて行った。
……それからのことは、ところどころ記憶が飛んでいて、あまりよくおぼえていない。
ただ、王太子殿下に激しく責め立てられて頬を打たれ、アレクシス殿下に部屋まで送っていただいた。
それだけは、確かにおぼえている。
結局わたしは死ねなかった。
ウィロウ様によって摘み取られかけた命は、ほかならぬウィロウ様によって拾い上げられたからだ。
でも、それで良かったのだと思う。
わたしが死んでしまったら、きっと、わたしを育ててくれたマザーがとても悲しむ。
教会に残してきた弟や妹たちだって、わんわん泣いてしまうだろう。
何より、マザーたちに……アレクシス殿下にも、二度と会えなくなると思ったら、わたしにはそれがたまらなく恐ろしいことに感じられたから。
だから本当に、生きていて良かった。
けれど、そう思うようになると、今度はひとつ、疑問が湧き上がった。
──どうしてウィロウ様はわたしを助けてくれたんだろう? と。
真っ先に頭をよぎったのは、働いた祝福の力のこと。
もしかしたら、アレがあったからこそ、ウィロウ様はわたしを助けてくれたんじゃないかな。
だけどそうなると、ウィロウ様にはなんらかの呪いがかかっていたか、毒で判断力が鈍っていたとか、そういう話になってくる。
……でも、ウィロウ様にそんなことする人なんかいないよね?
だって、ウィロウ様は王太子殿下の婚約者で、二人はとっても仲がいい。
下手にウィロウ様に手を出せば、かえって自分の命の方が危うくなるってことくらい、お貴族様ならちょっと考えればすぐにわかるだろうし。
そうして次に思い浮かんだのは、王太子殿下に頬を打たれたこと。
あの時の王太子殿下はひどく取り乱していて、ウィロウ様に触れるなと、唾の飛び散る勢いで怒鳴りながらわたしの頬を打った。
いつも穏やかで悠然とした態度の王太子殿下らしくない言動に、わたしも、遅れて現れたアレクシス殿下も、野次馬の人たちもひどく驚いていたっけ。
そんなことを思い出して──ふと、邪念がわき上がった。
王太子殿下がウィロウ様とわたしを離したのは、もしかしたら、わたしに触れてほしくない理由があったんじゃないか……って。
こじつけと言えばこじつけで、確証もないこと。
でも、こういう疑念は、一度でも考えてしまうと中々消えないものだ。
しかも、もし仮に、本当に王太子殿下がウィロウ様に毒を盛っていたとか、呪いをかけていたとか、そんな恐ろしい真似をしていたとしたら、かなりの大事になる……と思う。
いくら婚約者という間柄だからって、世の中やっていいことと悪いことはあるわけで。
わたしの懸念が事実だったとしたら、王太子殿下がやっていることは、間違いなく悪いことだ。
昼休み更新。お昼休みのおともにどうぞ。
夜はいつもと同じくらいの時間に投稿できると思います、たぶん。




