忖度文化は日本語によるものかも
クリスマスのイルミネーションは点滅するから美しいと感じる。しかし、お寺では明かりを点滅させることはない。仏教では明かりは主に命や道しるべを意味している。
同じ明かりなのに、日本人はどちらも違和感を感じない。そう考えた時、日本人は状況によって無意識に意味を変えているといわざるをえない。なぜ、そんな器用なことができるのか。おそらく、日本語の同音異義語の多さに由来しているのではないだろうか。
日本語では同じ発音の後でも、話の内容によって意味を的確に捉える必要がある。
「今日はアメじゃなっかった。」
天気の話の中では雨だし、お菓子の話だったら飴だとわかる。地域によってイントネーションは若干ことなるが、ほかにも「カシを作る。」と言えば菓子や歌詞、貸しなんて候補もある。
話によって相手も言葉の意味を察する。つまり、忖度そのものだ。つまり、日本人に忖度するなというのは酷なことなのかもしれない。なので、記録を残すことが重要になるだろう。
日本の貴族や武士はかつては記録をよく残していた。いつから記録を残さない国になってしまったのだろう。