第1話 「身売り」
記憶にあるのは両親の泣き顔だった。
父親は毎日畑に出て田畑を耕していた。収穫だけでは家族を養えず、近くの町へ出稼ぎにも出ていた。ボロボロの衣服をまとい、そこから出た手足はささくれ立ち、やせ細っていた。母親は病弱で床にふせていた。家が貧しく薬が買えないので日に日にただでさえ悪い具合がますます悪くなっていった。両親がこんな調子なので小さい弟をお世話するのは自分の役目だった。
自分は生まれつき不思議な黒い靄を見ることができた。黒い靄は人から発され、人の行動や感情に影響されて雰囲気を変える。この能力のお陰で人の様子を察するのが得意だった。小さな弟を世話するときにも弟が欲するものや言わんとしていることを感じ取ることができた。
しかし真綿に首を締め付けられるように家庭は傾いていった。
そこで自分は選んだ。両親のために身を売ることを。
両親は複雑な顔をした。目には悲しみを湛え、頬は安堵を包み込み、寂しさという重しが両端につけられたように唇が歪んでいた。口ではそんなことは言わないでくれと言うが、頭では身売りするしか生き延びる術が思いつかない様子だ。
かくして自分は奴隷として身を売った。
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「何ぼさっとしてやがる。高い金出したんだ。相応の働きをしてもらうからな」
荒々しい声が少年ルクスの郷愁を中断させた。
「すみません。マスター」
ルクスの今にも消え入りそうな声は、ルクスを奴隷として買い取った商人に油を注いだ。
「すみませんだぁ? お前みたいな無能がなんで生きてられるのかわかってんのか、ちっとは考えろ。誠意を見せてほしいもんだね」
黒い靄が商人を中心に荒れ狂う。
「しかしマスター。何日も休まず働き続けています。休みをもらえないでしょうか」
ルクスの言う通り、ルクスを含めた商人に仕える奴隷たちは日が昇り落ちていく様を何日も寝ずに見続けていた。奴隷の靄は日に日に弱まっていく。その仕事は多岐に渡る。商館の清掃や川岸に泊まる船からの荷物の昇降や運搬など。
「おまえら、捨てられたごみどもにそんなこと言う資格なんざねぇ」ぴしゃりと商人は言った。
「不思議だな。こんなゴミに高い金を出したのか」奴隷の一人が言った。
商人はその奴隷の一人(名をジローという)に近寄り殴りつけた。ガリガリの体が飛んだ。身に着けた衣服はところどころ破れていた。毎日過酷な労働で生まれた汗を吸い込み憂鬱な染みを作っていた。
ルクスがジローに駆け寄り介抱する。
「いいかこの廊下の清掃が済んだらあっちの部屋をやれ。次同じようにがたがた言った奴は飯抜きだ」
商人はそう言うと廊下から消えた。
奴隷たちは作業に移った。廊下の床の掃除(塵一つでも残すと商人に殴られてしまう)や廊下の壁に等間隔につるされている明かりの整備をした。
ルクスはジローに声をかけた。
「大丈夫かい?」
「ありがとう。だけどひどい話だよな。ここじゃ人間として扱ってくれない。まるで家畜、いやそれ以下だよ」ジローは言った。
「お前らもうやめておけよ。仕事に戻ったほうがいいぞ」
奴隷の中の一人が言った。
二人は仕事に戻った。
仕事の途中ジローはルクスに言った。
「ここを抜け出さないか?」
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世界アラストル。ここは魔法、その源泉になるマナ、そしてそれを生み出す魔石によって発展を遂げた世界。人々は身の中に宿した魔石を共鳴させる術であるスキルを開発した。限られたものしか知らないその真実はルクスの人生を大きく変える。
ルクスのいる商館はバド海に面しデュー川をまたいだ商業都市エクサスにある。ルクスの故郷の村はデュー川の上流の川沿いにある。
夜、恐ろしいほどに静まりかえるエクサス。夜の船荷の運搬の仕事を受け持っていた二人は桟橋からひそかに抜け出し、商業都市のはずれに来ていた。目の前には城壁と城門が見える。城門からしか外に出ることができない。ジローとルクスは建物の陰に隠れて、城門の近くにある建物、城門を管理する人間たちのいる詰め所を観察していた。
「ここまで来たけどどうする?」ジローが言った。
「任せてくれ」城門を開けるにはきっとあの建物が関係しているに違いない。
ルクスはそう言うと目に意識を集中させた。視界に黒い靄が漂うようになった。人の発する靄は人の存在をルクスに教えてくれる。また人の作り出した建造物や道具の中にも黒い靄を発するものがあることを知っていた。船や商人の持つ自動筆記用の魔道具からも黒い靄が発されていたのを見たことがあるからだ。人以外のものから黒い靄が発されるのを初めて見たときは驚いたものだ。
城門の詰め所から流れ出てくる靄は小粒な球でそれが弾んで出て来る。これは人の気が緩んでいて今にも眠りそうなことを示していた。
「僕は目や耳を使わなくてもいろいろなことが分かるんだよ。おそらくあの建物の中に城門を動かす何かがあるに違いない。それに今は中の人は眠り込んでいるだろう。好機だ。静かに行こう」
ルクスはそう言うと辺りに注意を向けながらゆっくり詰め所に向かった。
「嘘だろ」ジローは呆然としたが、やがて堪忍したようにルクスの後に続いた。「お前が魔法使いなら人を感知するだけじゃなくてこの門を開けてほしいところだね」
詰め所に侵入した二人は城門を開閉する装置を探した。戸口のある部屋はいくつかの机があり、数人の管理人たちが机に突っ伏して寝ていた。酒の濃い匂いがした。床には酒の瓶やボトルが散乱している。
二人は物音を立てないように慎重に部屋の奥に進んだ。
カラン。
二人に緊張が走る。誰かが床に落ちている瓶に触れた音がしたのだ。ルクスはジローを見た。
「俺じゃないからな。ルクスおまえだろ」ジローは小声で抗議を唱える。
管理人の一人がうなり声を立てた。二人は驚いてそちらを見やる。机で寝たままの管理人の姿が目に映る。二人はホッと息をつく。ここでつかまってしまえば商人のもとに帰されるだけでは済まないだろう。商人の仕打ちの激しさは増すに違いない。二人はぶるりと身を震わせた。
「おい交代の時間だ」
詰め所の入り口で声が聞こえた。ルクスとジローは部屋の奥の誰も座っていない机の陰に潜んだ。
すでに詰め所で寝入っていた管理人たちは不承不承といった様子で起き、立ち上がる。詰所の中の部屋が一斉に騒がしくなる。
二人は震え上がった。入口の近くで言葉を交わし合う管理人たち。やがて入れ替わりで外から来た管理人たちが部屋の中に入ってきた。それぞれが机につく。奥のほうの机には誰も座らないようで二人はそのまま隠れ続けることができた。ルクスは胸をなでおろした。
「何も起こらないのはつまらねぇな」管理人の一人が言う。彼らは今まで外で、城壁を左右に挟むようにして立つ塔の上で見張りをしていた。
「仕方ねぇだろ。なにかあったら面白いどころじゃなくなるぜ。近頃北部にいる魔族と人族のあいだで戦争が起こるなんて言われてんだ。ここは魔族の勢力圏から離れてるがいざ戦争が始まってみろ。戦争から逃げてきた大勢のやつらを管理しなきゃならなくなる。大変だぞ」ほかの管理人が答える。
「お前は心配のし過ぎだ。この数十年起こらなかったんだ。起こるわけねぇよ。それに北方では精鋭のテンプル騎士団がいる。あいつらが何とかしてくれるさ」
「お前は緊張感がなさすぎだ」
管理人たちは各々雑談し始めた。
部屋の奥の机に隠れていたジローとルクスの二人は震えが収まると部屋の奥にある入り口に目をやった。二人は奥の部屋に進んだ。
「危なかったぜ。なぁルクス」
ジローは肩を回しながらホッと息をついて言った。管理人たちのいる部屋から離れたため喧噪が遠ざかる。
奥の部屋は細長い通路になっていた。トの字の形の先端のように入口がついている。ルクスは周囲を見渡した。通路の横にある入り口から濃く大きい黒い靄が流れ出ているのを感じた。
「きっとあそこにあるよ」ルクスは通路の横にある入り口を指さす。
「よしきた」ジローは言った。
二人は通路の横の部屋に入った。
通路の横にあった部屋は、管理人たちが居た酒の瓶で荒れていた部屋とは違い整然としていた。一つの机があって上には書類が置かれている。他には黒く光沢のある薄い板が置いてあった。板の表面には光がともっていた。そこから濃い黒い靄が流れ出ていた。
「あの意味ありげな板がそうじゃないのか」ジローは言った。。
「そうだね」ルクスは言うと板に近寄る。
「気をつけろよ」
ルクスは板を手に取り、表面を眺めてみた。長方形が組み合わさった光が出ていた。表面にある長方形に触れた。
ビィイイイイイ
警戒音が鳴り響いた。
「言わんこっちゃない」ジローが蒼白になった。
ジローはすぐさま部屋の入り口に身を寄せて顔だけを出して、管理人たちのいる部屋を覗いた。入口の中で管理人たちが慌てているのが見えた。
「すぐにこちらに来そうだぞ」
「ごめん」ルクスはそう答えると部屋を見回した。二人の身長を足したような高さに窓があることを発見した。「あそこから逃げられないだろうか」
ジローは窓をみるやいなやそばに駆け寄ってかがんだ。
「お先にどうぞ魔法使いさん」
ルクスはジローに礼を言うと持ち上げてもらい、窓を割る。半身を窓に引っ掛けてジローに手を伸ばす。ジローの手を掴んだ。
「お前らそこで何をやっている!」
視線をジローから離し、部屋の入り口を見ると管理人たちが迫ってきているのが見て取れた。大急ぎでジローを引き上げる。体をずらしながら窓の外へ体を運ぶ。手を離すと建物の外へ出た。ジローも窓から顔を出している。ジローが窓に片足をかけた。ジローが窓の外へ飛び出ようとした。しかしジローは建物の中へ吸い込まれる。両手と片足で窓にしがみつき抵抗する。ジローは激しくもがく。そうすると吸い込もうとされた力が消え、ジローが窓から落ちてきた。ルクスはジローの落下を受け止めた。
ジローはルクスに抱えられながら言った。
「危ねぇところだったな」
ジローを地面におろす。二人は城門の方を見た。城門の跳ね橋は降りて通れるようになっている。
二人は駆け出した。跳ね橋を通る。背後から声がした。
「何者だ。止まれ!」
二人はそのまま走る。城壁の外に出た二人は、なおも追ってくる管理人を撒くために森に隠れた。
背の高い木は夜のわずかな光を防ぐ。月や星の明かりをからめとる。森に暗闇をもたらす。人の腰ほどの草木はうっそうと茂る。足跡を隠す。葉擦れの音は気配をぼやかす。
二人は草木のすれる音を引き連れて森の奥に進んだ。二人以外の葉擦れの音も聞こえる。おそらく管理人のものだろう。
二人は腰ほどの背丈のある草木が生えていないはげた場所に出た。葉擦れの音は聞こえなくなっていた。
「あいつらを撒けたのか」ジローは言った。
「かもね。ひとまずは安心かも」ルクスが答える。
二人は腰を下ろした。深く息を吐いた。一仕事終えたという疲労が二人を安心とともに包み込んだ。夜の森は静かに佇む。
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