パナメリカーナに恋をして
「すっかり遅くなっちゃったな」
「課長、ありがとうございました!」
見渡せば、いつの間にかフロアには自分と課長の2人の姿しかなかった。
沢山のデスクが並ぶ広いオフィスの一角、自分たちのデスクがある僅かなエリアだけしか明かりが灯っておらず、ふと壁掛け時計に目を遣ると針は21時を回っていた。
週末、金曜日の夜。
プライベートを充実させたい社員たちは皆早々に退社する。
自分もそのつもりだった。
今日は友人たちとの飲み会の予定があった。
大学卒業後バラバラになった友人たちとの、月に1~2度程開催される近況報告会と題した定例の。
恋バナ系やら仕事の愚痴やその他諸々の、気心の知れた仲間との楽しい女子会である。
しかし、終業時刻直前に部長から企画書の再提出を言い渡され、月曜日の朝イチの会議でプレゼンする為にはどうしても今日中に作り直さなければならなかった。
友人たちには急遽欠席のLINEを入れ、後ろ髪を引かれる思いを断ち切るようにスマホをバッグに押し込んで、パソコンに向かった。
課長からしてみれば、部下ひとりを残して帰るわけにはいかなかったのだろう。
結果的に、課長に相談とアイデアを仰ぎながらの作業となり、そのおかげで納得のいくものがスムーズに出来上がった。
その出来栄えに課長からもお墨付きを頂き、
…そして今に至るのである。
パソコンの電源を落とし、明かりを消して、全ての施錠をした課長とエレベーターに乗り込んだ。
自分より5歳年上で30そこそこの年齢の彼がこの大企業の課長という地位にいるのは経営者一族たる所以である。
しかし、縁故というものがなくても彼の手腕は誰もが認めるものだった。
人柄も良く真面目で有能。
尊敬に値する頼もしくてキレ者の上司。
彼女も密かに淡い恋心を抱いていた。
均整の取れた長身に仕立ての良さそうなスーツを嫌味なく着こなし、整った顔立ちにときめかない女子社員などいない。
独身であるが故、彼の隣の座を狙う者はまるで星の数だった。
都庁近隣の高層ビルの高速エレベーターは、沈黙の間すら気まずくすることなくあっという間に一階に到着する。
エレベーターホールからIDゲートを抜けてエントランスに差し掛かると、課長は不意に立ち止まって彼女へ向き直った。
「今日、実は車で来てるんだ。家まで送るよ」
「え!?」
「金曜日とかはたまに車で通勤するんだよ」
「課長、ウチの会社はマイカー通勤厳禁ですよ?」
「うん、だから、誰にも言うなよ?」
秘密だぞと念を押すように人差し指を立てて、唇に笑みを浮かべるその表情の完璧なイケメンぶりに思わず鼓動が跳ねた。
「車取ってくるから、裏の通りで待ってろ」
小声のままそう言うと軽快に走って夜道に消えた。
自動ドアを出て指定されたビルの裏側の通りまで出ると、駐車しやすそうなところへ移動して意味もなく辺りを見回した。
会社の規律を重んじる真面目な課長が、たまに隠れて車通勤しているなどと誰も思いもしないだろう。
思いがけず秘密を共有することになり、況してや課長の車で送ってもらうなんて、ドキドキしないわけがない。
都心の高層ビルが立ち並ぶこの辺りの幹線道路は昼間は車の通りも激しい。
しかし、表の通りとは違い、ビル裏側の片側二車線の通りはこの時間になると車列も疎らだった。
そこへ、少し気になる排気音が響いて、思わずその車へと視線を向けた。
精悍な印象の青白いヘッドライト。近づく毎に感じる重厚な威圧感のような格好良さ。
真っ白なボディに街灯の明かりが反射してキラキラしている。
ハザードを点けながら滑るようにその車は彼女の少し手前で停車した。
車に詳しくなくとも、誰もが知るスリーポインテッドスター。
思わず見惚れるように、無意識に目を眇めてその一点を見つめたまま美しい佇まいに息を飲んだ。
「パナメリカーナっていうんだよ」
いつの間に車から降りたのか、課長のその声で我に返った。
「ぱ…、ぱなめり、かーな…?」
聞き慣れない単語。
車種のことなのだろうか?
思わず小首を傾げると、課長は楽しそうに笑って車のフロントを指差しながら、
「ここ。これだよ、パナメリカーナ。見惚れてただろ?」
そう説明した。
車の事などほとんど無知な彼女には、そのクロームフィンがパナメリカーナグリルと呼ばれるものだとはそんな簡単な説明だけでは理解出来るはずもないことを課長は分かっていたようだった。
だが、追加の情報を付け加えることも無く、課長は助手席のドアを開けて、乗車を促した。
スマートな所作。
まるで特別扱いされたような、そのエスコートに再び鼓動が跳ねる。
「お邪魔します…」
遠慮がちに乗り込んで、シートに身を預けると、その上質な革の質感にひどく驚いた。
肌に馴染むような滑らかさ、心地よく身体を包む安心感。
暗がりでも分かる程の綺麗な発色の革の縁を彩る繊細なステッチ。
車内は新車の香りが漂い、デジタル表示のメーターとナビゲーションシステムのディスプレイは車のそれとは思えないほどハイテクなものに見えた。
其処彼処に光るブルーのライトも相俟って近未来感を醸し出していて、黒い内装にとても良く映えている。
華美な装飾というわけではなく、上品で洗練された高級感が溢れていた。
シートベルトを着用すると、運転席に乗り込んだ課長も慣れた手つきでシートベルトをしてから車を発進させた。
助手席から見つめるその横顔に見惚れそうになるのを堪えて視線を泳がせるとハンドルを握る手さえ綺麗で、何気なく中央のスリーポインテッドスターを眺めた。
「素敵な車ですね」
お世辞ではなく、率直な感想。
「だろ? 俺、カタログ見ただけで惚れ込んじゃって、頑張って買っちゃったよ」
まるで恋人の自慢を言うように嬉しそうにそう言う課長に胸が高鳴る。
「課長にすごく似合うと思います」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
「でも、私なんか乗せちゃって大丈夫ですか? 彼女さんに妬かれたりしませんか?」
ちょうど赤信号で停車すると、課長は顔をこちらに向けて、
「彼女いないから大丈夫だよ。今は俺、こいつが恋人だからさ」
そう言いながら、ステアリングを撫でて見せた。
「課長。マイカー通勤の秘密ちゃんと守りますから、だから」
「ん?」
「また、このパナメリカーナさんに乗せてください!」
交換条件のような狡い手だとは思ったが、勇気を振り絞ってそう告げた。
呆気に取られたように一瞬だけ唖然とした後、課長は声を上げて笑った。
「パナメリカーナさん、ね」
まだ笑い足りないといった口調で反芻する課長に恥ずかしさが込み上げて、
「だって、車種とか分からないですし」
すこし不貞腐れるように呟く。
「分かった。んじゃ、今度また、俺のパナメリカーナさんでドライブしような」
さん付けのままわざとそう言った課長はいつまでも笑っていて結局車種は教えてもらえなかったけど、
複雑で聞き慣れない単語の付いた彼の愛車に
また乗れる口実をゲットしただけで、舞い上がりそうなほどに嬉しかった。
パナメリカーナ。
車のパーツの一部に過ぎない、可笑しな名の付いたカッコいい車ごと、彼女は恋に落ちた。
end