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4.続く夜明けの雨・・・無力の実感

とても、とっても、どうしようもなく、憂鬱です。

『そもそも人は自然のうちにおいて何ものであろうか? 

 無限に比しては虚無、虚無に比しては全体。無と全体とのあいだの中間者。両極を把握することからは無限に遠く隔てられている。』


 生前に読んだ、ある天才の著作の1節が思い浮かぶ。

 かつては、ただ覚えるだけだったが、あの様な願いに出食わす度に、コレを思い出す。その度に、長い年月、人を観ても、知っていても、何も理解わかっていないことを思い知らされる。


 何も、自然だの、無限だの、虚無、全体などと、御大層なものではない。男女・異性という身近で当たり前の隔たり、違い、願い、それをまるで理解していないと……。

 その自覚から暗澹たる気分であるが、私は仕事部屋で急ぎ書類をまとめている。


 絵馬に憑いた生霊は、願い聞き届け「願いに必ず応えます」と言ってしまえば、大概、消えていく。

 同様に彼女も先程、消えていった。

 そこに至るまでに随分と時間がかかった。まず、彼女は男性不信の状態で、よもやまを聞く私が異性だからだった。


 生霊に対しては生憎、神様からもらった権能は通じない。ただの絵馬であれば、書物を読むのと大差がないが、意思のある生霊は、当人の意志で語らせない限りは、詳しく知ることが出来ない。

 このままでは願いを聞けずままに彼女が消えかねないので、上司に連絡を取り、同性の者を派遣してもらうことを頼み混んだ。しかし、間に合うかどうかわからない。との返事なので、ともかく彼女の了承を得て、他の生霊憑きの絵馬の相手を始めることにした。


 こちらも女性で、生霊に語らせるために途中、色々と同情を示し、あるいは共感の素振りを見せ、はてに「ああ、それは……私の生前も似たような心持ちが有った」「しかし、自分自身も呪いを背負うことになる」「縁切りを本気で望むのか?」「願いの効果と危険性はこうなる」などといつもどおりに応対をして、リスクとリターンの天秤から、望まないことを確認し、成仏させたら、待っていた彼女に同情されてしまった。

 ……解せぬ。

 この手の話は、私が何処かで捨てられぬ一種の支配欲を嫌悪しているから、同種の野蛮さを捨てられぬ男として詫ただけなのだが、何故。こういうことはたまにある。


 ともかく、この種類の願いは電子的に送る事はできず、本殿に持っていくことになっている。眠気が苦しいが、それを押し殺して清書していく。

 急がなければならない。この手の問題は生霊の願いが届くまでに本体がヘタを打つ時、悲惨なことになるからだ。

 手を動かしながら、先の話を思い出す――。


『私が……夫――彼と出会ったのは大学生の時になります。

 人付き合いが苦手で内気の私を少し強引と感じるところがありましたが、彼は私を誘って、気を使ってくれて、優しく、色々なものを見せたり、教えてくれました。

 彼はとても優秀で、在学中に難関の国家資格を取り、卒業後は堅実な職業に就きました。

 しばらくして、彼にプロポーズをされて、私の両親に挨拶をしたときも、彼の資格などの肩書、就いた職業の堅実さが申し分ないと両親は喜びました。私も、両親がそう言うなら……間違っていないだろう……と。


 そうして…………結婚してからでしょうか。彼が変わったと印象を憶え始めたのは……。


 些細なことなのですが、付き合ってた頃には許してくれていた事を許してくれなくなりました。付き合っていた頃にしていてくれた優しさも見せてくれなくなりました。

 仕事に疲れて、割り振られた家事が出来ていなかったら邪険にしたり、友達と会って遅くに帰ったらイライラしていたり……。


 そのうち子供が出来て、それをきっかけに私は仕事を辞めて家に入りました。妊娠を伝えたら喜んでくれましたから、もとに戻ってくれるだろうと思いました。恋仲であったあの頃に戻ったのだと思いたかった。だって、喜んでくれたから。妊娠している時は本当に――昔に戻ってくれた。と思ったんです。

 けれど、その一時のことでした。娘が出来て娘の世話を私がするようになったら、扱いはもっとひどくなりました。


 ――こう言うんです。「いつも家にいながら家事ができてない」「夜泣きがうるさい」「お前はオレに養われているんだ」って。

 私は、彼にとって家政婦なのでしょうか……都合のいい性処理道具?……そんな、そんなつもり、私はない……ないのに。


 そして……彼は最近、娘にまであたり始めました。

 …………もう、限界です。だから――』


 ここまで回想したところで清書が済んだ。本殿に向かわなければならないので、着替えつつ思う。

 この手の話は、いつも嫌になる。

 良い思い出であったものが時が過ぎるほど色あせ、色が抜け落ち、そこに在るのは疑念と伴に次第に増す憎悪。それをはっきりと感じられた。

 誰が絶対に悪いというわけではない。だが全てが悪く、また全てを悪いと断じるには足りない。


 彼女の夫。彼は……話から引き出した彼女の思い出から言えば、いずれこうなるのは見て取れた。彼女以外の他人に対する態度を見てわかる。それを見落としていた。いや、目を向けるのを無意識に避けていた……向けられなかったのだろう。――使い古されているが『恋は盲目』ということ。最近、脳科学だので、その仕組が解明されたそうだが、詰まる所"盲目"であるだけだ。

 彼女の両親についても、ほぼ同じ。彼らは彼の素晴らしい肩書で判断した。もちろん、普段を見て取る期間が短いのだから仕方がない。尤も人など打算で動くのだから、利益を得るために仮面をかぶるのは当然だろうに……。


 また、彼について言えば、その変節を私はそれなりに理解出来る。

 仮に、彼が弁明すれば、『自身は何も変わっていない』と、言うだろう。あるいは彼から見れば、この願いを知れば、結婚をして伴侶と定めた者に対し、負の感情を持たれるなど、この上ない裏切りという認識を生むに違いない。

 与えたにせよ、受けたにせよ、傷を認識しない者は、反省だの改悟という境地に至ることが無いことは確かだ……。


『彼女は同じではない。彼も同じではない。彼は若かった。彼女も若かった。彼女はすっかり別人である。昔のような彼女であったならば、彼はおそらくなお彼女を愛するだろうが……』


 またしても、数学者で科学者で思想家であった人物の言葉を思い出す。

 この思想家の思索は所詮、男の認識であり、それが全てで当たり前であった封建的な時代に縛られた考えだ。天才でも時代を超えることはできないのだろう。


 そもそも、女性がその性別ゆえに変わるのは当然ではないか。

 少女が初潮を迎え、娘になり、月のモノの痛みに悩まされる。そして、男を知ることで女になる。はてに子を孕み、産めば母になる。その過程で、身をもって痛みと体の変化を、否が応にも味わい続ける。

 変わらない方がおかしいだろう。


 ……だが、男という性に在るのは、ほぼ快楽だけだ。苦痛が性機能から来ることは、金的を打たれぬ限り、まず無い。

 だから、何処かで女性の変化と云うのに置いてきぼりを食らってしまうのではなかろうか。なるほどそうならば、世の男など大方、女性に敵うことなどないのだろう。


 そんなことを考える私も、100年の月日を見ていても、その精神が出来上がった時代の影響を受けた苔むした古臭いモノ……精神・価値観がまるで及ばない。そう思える。


 尤も人は、つまるところ、利己主義、エゴイズムに彩られることがまま在るので、その身に変わることを促される女性ですら、縁切りの対象を子供に向けることがままある。

 そんな志向を糧にした女性の願いはよくある。

 産んだことで、体型が変わった。……と、子に憎悪を向ける。あるいは、男のように快楽にのみ生きる者もいる。

 結局の所、現し世が地獄ならば、適当に快楽、あるいは娯楽、悦楽、愉悦……それに浸れば良い。それが正しいということだろうか……。


 思考が煮詰まったところで、着替えが終わり、境内に出た。


 未だに雨は、木々の木の葉や建物・地面などを打楽器にして、さまざまな音を奏でながら、降り続いている。

 この身は幽霊なので、濡れることは無い。だが、むしろ濡れればこの思考は冷めて落ち着けるのではなかろうか。それができぬ身が恨めしい。


 そう思いながら、女性がしたためた絵馬を手に取り思う。

 ――この願いは夫にとっては悪、自身と娘に取っては善。


『人間は神と悪魔の間に浮遊する。』


 先程から幾度か浮かぶ多彩の天才:パスカルの言葉だが、つまり彼女は子のために鬼子母神となることを選んだのだろう。

 さりとて、彼女が今いるのは地獄か……。ならば、仮に願いが叶い、願いが叶った先にあるのは?独りで子を育てねばならぬ、その様を地獄と言うならば、やはり地獄だろう。

 そう考えると、逃げ出すでも、捨てるでもなく、地獄を歩き続けることを、同じ名前の場所であっても、よりマシな地獄を選ぼう。そんな決意を持つ彼女に加担してしまいたくなる私がいる。

 尊いと思う。

 なのに私の役割は、ただ見続けるだけだ……何もできない。無力だ。


 絵馬には、こう書いてあった。


『夫の、彼のこの世の縁を切ってください。事故でも病気でも、なんでも構いません。私と娘の幸せのために』

どうしてこうなってしまうのか……。因果は図らずもわかりますが、考えても、経験しても、想像しても、どうしてそうなるか……わかりません。

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