ぼくのおうちのねこ事情
1.雨の日の記憶
あれは秋の中頃の、強い雨が降っていた日だった。
朝、いつものように憂鬱な気分で学校へと向かうとき、ぼくは見たくもないものを見てしまった。
自宅の前の歩道で、ねこが死んでいたんだ。
出血は口から少しだけだったと思う。それでも、手遅れだということはすぐにわかった。雨に打たれながら、そのねこは冷たく硬直していた。
自宅の前には大きな道路があって、傾斜が急な坂道になっている。
近くには学校もあるし、自転車の通りも多い。きっと、そのどれかにひかれてしまったんだろう。かわいそうに。
せめて楽になれるようにと、傘をさしてあげたかったけれど……通勤通学で多くの車が走っていたし、そんなことはできなかった。
大型トラックがけっこうな速度で走っていって、傘をさしながら茫然と立っていたぼくと、目の前に置かれた儚い遺体に水をかけていった。
気分はこれまでにないくらいに下がった。どん底に穴でも掘っていたのかと思うほどだった。
遅刻しそうだったので、心の中で冥福を祈ってバス停へと急いだ。
ぼくはねこが大好きだったから、その日はほんとうにつらい状態で始まったのを、今でも覚えている。
思い出すのもつらいから、この話はここまでにしておこう。
この物語を、そして記憶を、悲劇として残したくはないからだ。
翌日には役所の方が手配したのか、その遺体や事故の痕跡は綺麗になくなっていた。それもまた、ぼくを虚しさでいっぱいにした。
2.あの日、僕たちは出会った
それから数日が経った。
人ってある意味残酷だと思う。このときには、ぼくは雨の日の憂鬱な記憶をほとんど忘れてしまっていたのだから。
最寄りのバス停を降りて、ぼくはのんびりと『サイガ崖』の景色を眺めながら自宅への帰途についていた。
『サイガ崖』は自宅の近くにある――崖だ。それ以外に言いようがない。
ほんとうにただの崖なのだが、地元民は歴史的に由緒ある場所だとのたまう。
ぜってー、誰も知らねーよって、いつも突っ込んでいる。
ぼく自身、地震がきたら怖いやろなって、思うくらいの認識だ。
向かいの歩道でぼくの母校の小学生たちが、たのしそうに下校しているのをみて、微笑ましくなった。だって、ほんとうにただの崖なんだもん……。
崖の話は置いておいて、自宅の周辺までくると、なにやら下校途中かと思わしき二人の女子高生が自転車をとめ、ぼくのおばあちゃんと会話をしていた。
ぼくのおばあちゃんは自他ともに認める難聴もちだ。高齢だから仕方がないが。
今も女子高生がなにか言うたびに「あァ!?」とパードゥンを促している。
居た堪れない気持ちになったぼくは、つとめて平静を装いながら声をかけた。
「どうしたの?」
「あ……。この中にねこがいるんですよ」
女子高生Aがそう答えながら指さしたのは、自宅の隣にあるボロくて小さな空き家だった。金属っぽい質感の屋根や外壁は錆びだらけで、植物がのびのびと這っている。
ぼくがもの心つくときから空き家だったし、土地の所有者が誰かもわからない。
「ねこかぁ……」
内心、テンションが上がってたと思う。
ぼくはねこが大好きで「ねこがいる」というワードを聞いただけで視線がそちらに向いてしまうくらいだ。「ねこが」くらいで脳の処理がそちらにシフトする。
しかも、同じくらい女子高生も好きだった。女子高生と話すのは、とても久しぶりだった。だからすごく緊張していた気がする。
みーーー。
不意に、空き家の中からそんな声が聞こえてきた。
それを合図に、他の声も加わった。子猫が何匹か、空き家の中にいるようだった。
ああ、やっぱ子猫の声はかわいいなぁ。
そんな思いでその鳴き声に耳を傾けていたのだが。
――ふと、数日前の事故の光景が脳裏によぎってしまった。
ほんとうに突然で、不思議な出来事だったと今も思う。フラッシュバックってやつなのかな。
それから子猫たちの鳴き声が、助けを求めるような声に聞こえてしまい。
内心かなり不安になって、自宅の庭に置いてあった脚立をもってきて、空き家の窓から中を覗き込んでみた。近くに女子高生がいたからこその行動力だ。
しかし、真っ暗でよく見えない。浴室のような場所だったが、落ち葉が大量に敷き詰められていて、もはや人の住んでいた痕跡すら残っていなかった。
鳴き声は確かにここから聞こえる。そのたびに得体の知れない焦りが、ぼくの中に満ちていった。
「もう遅いで、帰んな」
「はーい」
おばあちゃんにそう言われ、女子高生たちは心配そうな様子こそしていたが、そのまま帰っていった。
おいババア。女子高生パワーを奪う気か。
……なんてことは、ちょっとしか考えなかった。いや、正直言うと5割くらいだ。
それでも、肌に触れる空気は確かに冷たくなっていたし、陽も沈みかけていたから、おばあちゃんが居なかったらぼくも同じことを言ってたかもしれない。
何より、子猫たちが心配だった。
やがて母親が買い物から帰ってきて、なにしてるのと声をかけてきた。
ぼくは状況を説明した。相手が母親だからこそ、恥をしのんで言えた事がある。
「たすけてって言ってる」
当然だが、ぼくはねこの言葉がわからない。それでも、彼らの鳴き声はそんなふうに聞こえていた。
母親もねこが大好きで、だからこそ葛藤していた。
「かわいそうだけど、うちにはミクちゃんがいるから……」
ミクちゃんとはぼくの家で飼っているねこのことだ。サバもようの灰色の毛なみがとってもキュートな我が家の女王さまだ。
もう14歳にもなるミクちゃんはすっかり痩せ細っていて、いずれお別れの時がくることは、目に見えていた。
飼い主にとっては覚悟をしなければならない年齢だった。だからこそ、ミクちゃんには最期までしあわせに暮らしてほしいと思っている。
――それでも。
目の前にある儚い命を見捨てる気にはなれなかった。
それでミクちゃんに嫌われたとしても、後悔のある選択をしたくはなかった。
けれど、助けるにしてももう一つの懸念があった。
実は親ねこが近くにいるのではないか。自分たちが空き家のそばにいるから、帰ってこれないのでないか、というものだ。
子猫たちが助けを求めているのだって、結局はそんなふうに聞こえるだけに過ぎないのだ。
ずっとミクちゃんと過ごしてきたから、彼女とは多少会話ができるが、言葉がわかるわけではない。
だからこそ、ここで子猫たちを助けることで、誘拐したことにならないかどうかが、大きな不安の一つだった。
ノラの親ねこは、一度ひとの手垢がついた子猫の世話はしないらしい。
たぶん、ニオイがついてしまうんだろう。偽善と、カタチの違った愛情に染まったニオイだ。
ぼくはこの子たちを助けたかった。けれど、それによって誰かから子供を奪うような行為だけは、絶対にしたくなかった。
家に戻り、一時間ほど様子を見ることにした。
相変わらず、鳴き声はとまらなかった。
その一時間は、かなり長く感じた。趣味のネトゲもせず、テレビも見ず、ずっと窓の外を眺めていたらしい。
そして、とうとうぼくは親の同意を得て、子猫を助けに向かった。
ダンボール箱に毛布を敷きつめて、それとねこ用のおやつを持って空き家の窓のところにきた。窓は小さく、ダンボール箱は通らない。
ぼくはその中に、強引に身体を押し込んだ。
みーーみーーみー。
やはり、助けを求めていたんだろう。
そこには4匹の子猫がいて。
こわかったろうに、得体のしれないぼくという存在にすらよじ登ろうとする。
ずっと鳴いていたし、中には声が枯れてしまっている子もいた。
必死に生きようとしているのがひしひしと伝わってきて、早く助けなかった自分をおもい胸が痛くなった。
だけどもう、大丈夫だ。
ぼくは空き家の中で、ねこのおやつを子猫たちに与えた。
子猫が食べても大丈夫なのか不安があったが、ものすごい勢いで頬張ったし、もっとよこせと懇願してきた。
それをみて、ぼくは少し安堵していた。
母の手伝いもあり、子猫たちはダンボール箱へと移動して家に連れてかれた。
突然の来客にミクちゃんはびびって隠れてしまい、そこで唸って威嚇していたらしい。ミクちゃんはコミュ障なんだ。
ごめんねミクちゃん。里親探すだけだから。
とりあえず、これで安心。
さて、自分も戻ろう。そう思って、窓を見上げる。
つかの間の思考のあと、確信した。これ出られねえ。
入るときは脚立を使っていたが、出るときのことなんて全く考えてなかった。
ここは誰もいない古びた空き家だ。場所は浴室。時刻は夜。
おまけに不法侵入ときた。普通に考えたら怖すぎる。
「ミ"ーーーー!」
ぼくは母親に向けて助けを求めた。
3.ねこと和解せよ
それから一年が経って。
ぼくは就職して、そして情けないことにすぐに辞職して自宅に戻ってきていた。
あの日、助けた子猫のうち3匹は自宅で飼うことになった。1匹は里親のもとで元気に暮らしている。
ミクちゃんとは仲良くなれそうにないから、3匹はぼくの部屋で、ミクちゃんはそれ以外の家内で過ごしてもらっている。
もちろんミクちゃんには今まで以上に愛情を注いでいるが、やはりまだ3匹の新入りの足音とかが気になるみたいだった。
というか、もはやここはぼくの部屋ではなく、3匹のねこの部屋だった。
ぼくは無職という立場にありながら、ニャンズ(家族からそう呼ばれている)に寝るところを提供していただいているのだ。
けれどある日、ぼくの……いや、ニャンズの部屋で奇怪な現象が起きたんだ。
ぼくはネトゲが趣味で、札束で殴りあうオンラインゲームをしている。
そこまでがっつりハマっているわけではないが、ログインを要求されるイベントがかなりシビアで、一晩中つけっぱなしにして寝るということは珍しくない。
ある朝、ふと街で佇む自キャラをみると、とんでもないことが起きていた。
チャットログを遡ると、ゲーム内の自分のキャラがひとりでに発言していたのだ。
誰も、パソコンに触っていないというのに。
ぼくの育てた紳士的な風貌のキャラクターは虚空に向けて、
「@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@99999999999999999(以下省略」
と、呟いていた。ぼくはあなたをそんなふうに育てた覚えはないよ。
悲しい気持ちになって、床でごろごろしていたパステルみけのハル様に目をやった。
「にゃん?」
「…………」
……一体、何が起こったんだ?
ぼくは心の奥底に湧き出ていた一抹の疑念を押し殺しながら、そう考えていた。
似たような現象はそれからも、幾度となく起きた。朝、画面を確認すると、キャラクターが喋っているのだ。謎の暗号文を。
まさかニャンズが、ぼくとコンタクトを取ろうとしたのでは?
やはり一つの部屋に3匹は狭いから、生活に不満があるのだろうか。
それを伝えようとしても、にゃーと鳴くだけでは分からないと、ひとのつくりあげた情報化社会への介入を試みたのか。だとするならば、まごうことなき天才……!
もしかしたら、世界で初めてねこと意思の疎通ができた人間になれるかも。
そう思い、ぼくは張り切って怪奇現象の調査をはじめたんだ。
けれど、さらに不可解なことが初日に起こった。
【調査開始から一日目】
今日はどうなっているのかと、画面を確認するがゲーム画面には変化が見られなかった。
なのに、夜になってゲームを操作しようとするとやけに動作が重いんだ。
つけっぱなしなのが悪いのかと思って、パソコンを再起動しようとゲームを落とした先に答えがあった。
「うわ」
驚きのあまり思わず声を上げてしまった。
デスクトップ画面を埋め尽くすほどに大量の、電卓が起動していた。
パソコンがバグったかとおもうくらいに多かった。恐ろしくなってそのまま再起動をしたが。
ニャンズはそんなにたくさんの電卓を起動して、ぼくに何を計算させたかったんだろう。それは今でも分からない。
【調査開始から四日目】
自分で起きる前に目を覚ました。
ゲーム内のBGMが爆音で部屋に響き渡っていたのだ。
寝ぼけ眼でミュートにして、二度寝した。
おなかがすいたから起こしたかったのかな。
【調査開始から七日目】
ぼくはこの日を最後に、調査を断念することにした。
ゲームに使っていたノートパソコンが、あろうことか部屋の入口まで吹っ飛んでいたのだ。
この部屋には夜中に走り回るくらい元気なねこしかいないのに、なぜ……。
とにかく、これが警告であることに間違いはない。
ぼくは寝るときにはちゃんとパソコンをしまうと、泣きながら肝に銘じたのだった。
「ごはんほしいひとー」
「にゃー」
ねこは意外と賢いいきものだ。
ごはんごはんと言いながら食事を与えると、その言葉が食事の合図だと学習する。
ぼくがニャンズを呼んで、返事をもらえるのはそのときだけというのがちょっと悲しいが、ひととねことの距離感というのは、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
たまに思うことがある。ねこはひとに飼われて、幸せなのだろうか。
精一杯の愛情が、迷惑になっていないだろうか。
その答えは、たぶん一生わからないと思う。
一瞬、視界の隅に、窓の外でねこが走る姿がちらついた。
慌てて外を覗き込むが、ここは2階だしねこの姿もなかった。幻覚だろうか。
もしもあの日、事故に遭っていたねこがニャンズの親だったとしたら、伝えたいことがある。
これは死ぬまで変わらない気持ち。ぼくは、ねこが大好きだ。