願い
カトレアを発つ前日。今日を最後に、仲間達ともしばしのお別れだ。リブラの屋敷は居心地が良い。オリヴィアは広間に一人、椅子の上ですることもなく黄昏れていた。昼下がり、つかの間の平穏だった。
オリヴィアは、セオドアと共にウェステリアへ行くこととなっている。自分の準備は殆ど終えてしまって、あとは明日を待つだけだ。あまりの寒さに、外に出るどころか動くことさえも憂鬱である。できればこのまま、暖炉の前を陣取っていたい。しかし窓の外を見ても何も面白みがなく、ただ一面の銀世界が広がっている。
「退屈だ……」
暇な時間を持て余したことなど、ほぼ経験がない。何をしたらいいのかわからず、ぼんやりと暖炉の炎を眺めていいると、扉が開く音がした。顔だけ向けて、それがレナードだと知る。
「なんだ、暇なのか」
「聞こえてたのか?」
「見れば分かる。……散歩でもしてきたらどうだ」
レナードは、窓の外を指差した。簡単に言うが、極寒の屋外に出る辛さをこの男は分かっていない。カトレアに来るまでも、アルフレッドがいなければ耐えられなかった。
「寒いから無理。絶っ対にここから動かない」
「……ふっ」
レナードは部屋の中までやってくると、対面する椅子に座った。――話し相手になってくれるということだろうか。
「フェリシアは、よく出歩きたがったが」
彼の口から母の名がでてきて、オリヴィアは少し意外に感じた。あまりそういうことは話したがらない性格なのだと、勝手に思っていたのである。
「カトレア育ちと比べてもらったら困る。ウェステリアじゃ、雪が降っただけでも子供が大はしゃぎするよ」
実際、オリヴィアがとうに見飽きてしまったこの雪景色も、最初はそれなりに楽しめていた。その感動も寒さを前に崩れ去ってしまったが。
「まあ、そうだろうな。……あいつは逆に、外の暑さに参っていた」
レナードは今、とても優しい顔をしている。こんなに穏やかな表情もできるのだな、と思わず眺めてしまった。
「……なんだ」
レナードは眉間に皺を寄せた。自分がどういう顔をしているか、分からないのだろう。
「いや。……馴れ初めって、どんな感じだったんだ?」
今なら教えてくれる気がして、なんとなく尋ねてみた。こんな屋敷で育った謂わゆる「お嬢様」と、この無愛想で面白みもなく頭も固い、挙げ句反政府組織に身を置くような男である。仮にも――まさしく、仮にも――父親である相手にこんな感想を抱くのもなんだが、どう考えても釣り合いが取れていない。
と、扉を叩く音がした。片手で盆を持ちながら、器用に部屋へと入ってきたのはルークである。紅茶の用意が二人分、盆の上に乗っている。
「……居たのか」
ルークの視線が、レナードから逸らされた。レジスタンスを飛び出した気まずさがあるのだ。レナードもそれは重々承知している。レナードとて、素性を黙っていた後ろめたさがあるのだ。どうしたって、こうなるだろう。
「ルークも、気にならないか」
だから、そう話題を振ってみた。間にオリヴィアが居れば、少しは普通に会話できるのではないかと、そういう気遣いであった。レナードがオリヴィアの意図を察したように苦笑いする。一方のルークは微妙な顔で返事をしてくれた。
「……何が」
「俺とフェリシアの馴れ初めが知りたいんだと」
そう言って、レナードは顎で近場の椅子を指した。ルークは少し迷ったかと思うと、男の促すままに席に着いた。持ってきていた紅茶を、オリヴィアとレナードに配る。
「お前の分だろう。気を遣わなくて良い」
「……じゃあ、もう一つ持ってくるから、それでいいだろう」
何となく互いに意識したまま、ルークは部屋から出て行く。だが、それでも彼はここに居てくれる気になったらしい。程なくして戻ってきたルークは、椅子に深く座り込んだ。
ではレナードが話し始めるのかと思ったが、彼は彼でたまに紅茶を啜って黙り込んでいる。
「隊長、焦らしてるのか」
「……そう言われてもな。話すようなことは何もない、というのが正直なところだな」
オリヴィアが急かすと、レナードはそう言った。
「何かあるだろう。……俺も、あんたがどうやってフェリシア様を誑かしたのかは気になるな」
台詞から受ける印象とは裏腹に、ルークは別にレナードを嫌っているというわけではなさそうだった。どちらかというと、親しい人をわざと弄るような、そんな優しさが滲んでいた。オリヴィアはほっとして、少し笑った。
「お前……。どちらかというと、誑かされたのは俺なんだがな」
「なんだ、それ」
思わず、突っ込みを入れてしまう。レナードはまた少し紅茶を啜ると、
「あくまでも俺が認識している『馴れ初め』で良いなら、歩いていたらフェリシアが降ってきた」
「…………は?」
オリヴィアとルーク、どちらからともなく間抜けな声が漏れた。
「屋敷の窓から、だ。自由がかなり制限された生活をしていたらしくてな。家族や使用人の目を盗んで、屋敷を抜け出して散歩するのが楽しみなのだと言っていた。だからって普通、窓はないと思うが……。敢えてあれを言葉で表現するなら、奇人か変人って言うのが妥当だろうな」
ぼんやりと想像していた母の姿とはちがう。レナードの言葉の中で、フェリシアが生き生きとしている。
「……まあ、そういう方だよな」
額に手を当てながら、ルークがため息をついた。苦労したらしい。
「意外と……って言ったらなんだけど、どこかの歌劇みたいな話だな。囚われのお姫様、みたいなさ」
素直に感想を述べると、レナードは少し驚いたような顔をする。
「お前からそんな感想が出てくるとはな。それこそ歌劇なんて縁が無いんじゃないのか」
「一回だけ観たことあるんだ。王都の歌劇団の慈善公演が教会に来て」
ドロシーと大はしゃぎで真似していた過去を懐かしく思う。窓掛けを巻き付けて衣装だと言い張ったり、どちらがお姫様役かで喧嘩したり。
「なるほどな。あれは物語に出てくる令嬢のような落ち着きも、淑やかさも持ち合わせてはいなかったが。気分屋で、思いつきで突拍子もないことをしでかすような奴だった」
レナードに続けてルークは、
「あの傍若無人さがお前に遺伝していなくて良かった」
と言った。ずいぶんな謂われようである。
「……間違いないな。お前を隠れ家に軟禁していたとき……実はな、窓の下に昼夜交代で人を置いていたのだ。あれの子供なら抜け出しかねんと思ってな」
「食事に手をつけた痕がないって報告がある度に、本当に中に居るか確認しに行った。確か隊長、屋根裏と屋根にも監視を配置してただろう」
オリヴィアの知らぬところで、随分頭を悩ませていたようである。実際のところ、脱出を考える余裕などそのときには無かったのだが。思わず苦笑いする。
「いや、それは流石に……。でも、私はきっと母親似なんだよな」
母の姿を見ることは叶わないが、レナードの要素が瞳以外ほぼ感じられないのだから、そういうことなのだろう。
「ああ。……お前を初めて見たときは、息が止まるかと思った」
レナードが、オリヴィアの向こう側にフェリシアを探すような目をした。オリヴィアと同じ色の、その朱い瞳で。
「目は隊長似なんだよな、少しつり目がちで。……あんたらよく見ると、黒子の位置も同じだぞ。左目の下」
ルークに言われて、オリヴィアとレナードは互いを見た。
「ほんとだ」
「気付かなかったな。……さて」
レナードが、太陽の位置を確認するように窓の外を覗き込んだ。時間が気になるのだ。
「……今日の夕食当番は、ルークじゃなかったか」
ふと思い出したように、レナードが言った。
「俺だな。……もうこんな時間か」
屋敷を管理してくれていたルークも、一時的に当番に組み込まれている。ともすれば、彼がレジスタンスを抜けたことを忘れそうになってしまう。自分の家に帰っても誰も居ないルークを誘ったのはコーデリアだった。彼女も、なんだかんだ言ってもルークのことを気に掛けている。断らない彼も、彼だが。
「ルークは料理上手だよな。結構、楽しみにしてるんだ。久々だし」
オリヴィアがそう言うと、ルークは少し怪訝な顔をした。
「そういえば、お前が料理しているのを見たことがないんだが……?」
基本的に、レジスタンスの家事は持ち回り制だ。具体的には、掃除、洗濯、料理である。これは隊長であるレナードであっても例外ではない。オリヴィアも、料理担当の一回目以降、掃除と洗濯に関しては人よりも頻繁に担当している。仮に免除されることがあるとすれば――
「……切って焼くくらいは出来るんだぞ」
言い訳のようにそう返事すると、レナードが余計な形容を付け加えた。
「味付けが壊滅的なだけだ」
「致命的だな」
ルークにばっさりと切り捨てられて、オリヴィアは項垂れた。
「胃に入ったら全部一緒だろ……」
「よし、分かった。今日のお前の分は火だけ通しておいてやる。有り難く胃に入れろ」
「私が悪かったです」
不利を悟って即座に謝罪する。ルークに勝ち誇った顔をされた。食卓を握る者に勝ち目はないのである。会話を聞いていたレナードは、何かを思い出したように立ち上がった。
「……夕食にはまだ時間があるな。筆記具を持ってくる」
「なにに使うんだ?」
尋ねると、彼は小さく微笑んだ。
「ゆっくり出来るのも久々だからな、良い機会だ。お前も読み書きくらいは出来たほうがいい。少し勉強しよう」
オリヴィアは文字を知らない。が、別に特段珍しい話でもないのだ。その辺りの事情は、魔導士とは違うらしい。隠れ家へ連れていかれてすぐ、文字を知らぬことをアルフレッドがひどく驚いていた。
「……不便に感じたことはないけどな」
「いや、覚えるべきだと俺も思う。やっておけ」
ルークにまで言われて、オリヴィアはため息をついた。
「数字の大小くらいは読めるし、困らない」
「覚えておいて損はない。知識はお前を必ず助けてくれる。本当はもっと早く教えるつもりだったが、ごたごたしていたからな。……少し待っていろ」
そう言ってレナードは部屋から出て行った。オリヴィアは少し面白くなく感じて、椅子の背に勢いよく身体を預ける。
「意地を張るなよ。地理も戦術も、勉強には積極的だったろう」
ルークは呆れたような顔をしていた。オリヴィアは肩を竦める。
「べつに、意地ってわけじゃ……。こっちじゃ、子供でも文字が扱えるのが普通なんだろ。今更教わるのが、なんていうか……」
「誰も笑ったりしないさ。イアンも、アルフもクロエも、隊長に教わった。早いか遅いかの違いがあるだけだ」
「……そっか」
「これが何か分かるか」
レナードの指先が、するすると紙に線の集合体を描いていく。今まで文字を扱ったことのないオリヴィアにとっても、男が生み出す字がそれなりに美しい方に分類されるであろうことは分かる。だからといって、その線の塊はオリヴィアに何の意味も伝えてはくれない。
「いや」
「O―L―I―V―I―A……お前の名だ。まずはこれからだ」
そう言って、レナードは筆記具をオリヴィアに手渡した。書く練習をしろ、ということなのだろうが、紙に触れた筆先は彼が見せたようになめらかに滑ることはなく、記念すべき一文字目は情けない円になった。
「持ち方からだったか……。しかし、人間っていうのは文字も知らずにどうやって生きているのだか」
男に示された通り見よう見まねで筆を持ち直すと、姿勢を正して紙に向かう。あんたも人間だろう、という言葉は飲み込むことにした。
「私の住んでた辺りだと、院長先生くらいしか文字を扱える人は居なかった。頼んだら教えてくれただろうけど……周りの大人だって、手紙が来たとか言って良く教会を訪ねてきてた。読み上げて貰って、必要があったら代筆を頼むんだ」
言いながらやっとのことで書いた一文字目に、即座に講評が入る。
「……Oを下から書くな。馬鹿者」
「あんた教える気ないだろ」
理不尽を感じて抗議する。筆記に順序があるなら先に伝えて欲しい。
「いや? ……字を知ることは歴史を知ることだからな。王宮が隠蔽したい事実も、文字で容易に語り継がれてしまう。下々の連中が教養を身につけては困る。そうやって、意図的に学ぶことから遠ざけられているのかもしれんな」
父である男は、複雑そうな顔でオリヴィアの手元を見た。彼の考えていることが読めず、適当に頷いた。
「私も、こんな数奇な人生歩むことにならなければ学ぶ機会もなかったよ」
自身の名前だというその線の塊を二度、三度と紙に生み出しながら、オリヴィアは言った。
「数奇……か。そうだな……」
頷いた男もそうだろう。人間社会で育った魔導士であるオリヴィアと、魔導士の世界で育った人間であるレナードの歩んだ道、どちらもありふれた生では勿論ない。この男に限って言えば、歴史に間違いなく名を刻む「犯罪者」なのは間違いなく、しかも正体が闇に消された王の双子の弟である。
「ずっと未来にさ。この時代の劇でも作られたら、隊長はどう描かれるかな」
ふと思ったことを口にする。歴史上の英雄と讃えられることになるか、フィオーレ最大の咎人と貶められるか。描かれるのは悲劇か、喜劇か。それすら、今は分からない。
「目的を果たすためなら俺は手段を厭わんが、目的は手段を正当化しない。俺の行いが讃えられる日など来ないことを望むさ。俺は、俺にとって都合の悪い者を殺すただの簒奪者だ」
「それでも、隊長は剣を握るんだな」
自分を詰るような言い方をするが、この男は自分の道を改めようとはしない。
「それしか手段がないからだ。魔導士が虐げられるのを許せないからだ。俺にとって大切なものがこれ以上苦しまないために。……フェリシアがいつだか言っていた。俺の剣は大切なものを『守るための剣』なのだと。そんなものは只の幻想だ。守るための力など無く、あるのは壊す力だけ。守るために壊す、それだけのことだ」
オリヴィアは黙り込んだ。レナードの為人を、今更ながら知る。彼の生き様は矛盾に満ちている。矛盾を抱えたままそれを否定せず、簒奪者を自称する彼にとっての幸せとは何なのだろう。
「俺はお前に人の殺し方を教えている。それがお前の命を守ることになると信じているからだ。……だが、そんな力が役に立たないことを願う」
得心する。彼が真に望んでいることを。ならばオリヴィアは、全力でそれに応えたいと思った。未来はきっと彼が拓いてくれる。大量に流される血を以て。その先を作るのは、彼の望む手段であってほしいと思う。その「力」に代わり得るものは、既にここにある。
「……次は隊長の名前の書き方を教えてくれ。ちゃんと勉強して、私は……剣に頼らない道を探すから」
伺うように父の顔を見る。レナードは、これまでに見たこともない程嬉しそうな顔をしていた。
「――飯。あんたら、ずっとやってたのか。疲れただろ? とっとと来い」
きっちりと戸を叩いてから開ける性格であるルークが、少しだけ開いた扉から顔を出していた。食事の準備をすっかり終えてしまうほどの時間が経ってしまっていた。
「続きはまたの機会だな」
そう言って立ち上がったレナードを追いかけるように、筆を置いた。
身体に障る酷い振動が、いつも生きる道の分岐点だった。豪華な二頭立ての馬車に詰め込まれて、王都への道を進んでいる。
「……そういうことがあってさ」
共に先の見えない道を歩んでくれているのは、ルークだった。黙って聞いてくれていた彼は、少し間を置いて、
「だから、叶えてやりたいんだな」
と言った。父の望みを知っているのは、オリヴィアしかいないのだから。叶えてやれるのも、オリヴィアしかいないのだ。
理想論なのだと思う。魔導士と人間が続けてきた対立とて、圧倒的な「人殺しの才能」を持つ魔導士を恐れるところから始まっているのだから。刃を隠し持っていると分かっている相手に剣を構えるなと言うことの難しさは、計り知れない。
「結局、父さんの名前の書き方も、教えてもらえなかったな」
あの日を最後にレジスタンスは分かれてフィオーレの各地に向かい、国の在り方そのものを揺るがすブライアンの企てに巻き込まれていった。思えばあの日以降、言葉を交わした記憶も数えるほどしかない。そのまま、レナードは命を散らした。
「――泣きそうな顔してるぞ」
「大丈夫。あ……違う。平気」
レナードの口癖を思い出して言い直してから、深呼吸して気を持ち直す。思えばここのところ、ルークには心配ばかり掛けているように思う。
「ありがとう、ルーク。私は強くなるよ」
今オリヴィアが求められているのは、新たな指導者としてでは勿論無い。オーウェンが語った、「傀儡として都合が良い」という言葉が全てだ。最も王家の血筋を濃く引いており、且つ魔導士の子として生まれたオリヴィアは、新しい時代の「顔」に相応しいと、それだけの理由だ。だが、そんなものになるつもりは毛頭無かった。命の危険を伴うかもしれない。それでも立ち向かわなくてはならない。
これからの路は、踏みならされていない。草木を掻き分けて進んで振り返ったとき、道が出来ていることをただ願う。




