取引
どこまでも砂の海が続く、コルチ西部。強い西日の中でその翼を翻すセイロウが、二人を導いてくれた。乾いた風を感じながら、オリヴィアとルークを乗せた馬はひたすら太陽の沈む方角を目指している。時折魔物とも遭遇し、その度に体力を削られてきた。互いの存在のみが、今の二人の拠り所だった。
魔力を糧として、ただ人を襲う化物。端から魔力を持たないオリヴィアと違い、ルークにとっても余り慣れない戦いを強いられている。
「ルーク、傷の様子は?」
心配な要素は他にもあった。エレノアの護衛中に負ったという怪我は、当然残っている。馬に揺られ、戦闘でも酷使し、傷にとって良い環境であるわけがなかった。
「問題ない。無駄に喋るな、体力を使う。……いざというときに動けるように、――っ!」
言いながら、ルークが急に手綱を引いた。後ろに乗っていたオリヴィアは、堪えきれずにつんのめる。顔を上げると、人の影が薄ぼんやりと見えた。
音を立てぬよう馬を下りると、手近な砂の丘に身を隠す。セイロウもオリヴィアの意図を汲んだように、静かに肩に降り立った。ルークとオリヴィアは、互いに目配せをする。何があっても動けるように身構えて、様子を窺う。あれは、騎士だ。それも、オーウェン達の一団。そしてその奥に見えるのは――奇妙な影が、十数個。魔物の集団だ。その中心にブライアンが居るのが見えて、オリヴィアは息を飲んだ。
――いる。追ってきた相手が、今ここに、いる。
鼓動が、うるさいくらいに聞こえている。ルークの喉が小さく鳴るのを、オリヴィアは聞いた。
「まだ、様子を見るだけだ。わかっているな」
ルークが、限りなく抑えた声で言う。視線は彼らに向けて逸らさないまま、オリヴィアは頷いた。ブライアンにとってオーウェンが目の上の瘤であろうことはわかるが、そうであったとしても宰相と騎士団長だ。表だって対立するようなことがあるのだろうか。
「本格的に一戦やろうって雰囲気だ……ルーク、どう思う」
「……そうか。有事特権だ。国王が指揮するブルーメ騎士団は、国王の身に危機が迫っており、国王が直接指揮を執ることが不可能または困難であるときに限り、独断で行動することができる」
――なるほど。それならば、この状況にも説明が付く。リチャードの行方が知れないというのが真実であれば、その彼を傀儡とし実権を握っていたブライアンは事実上、騎士団の指揮権を失ったことになる。オーウェンは堂々とブライアンを追い立てることが可能なのだ。ブライアンが西にいることを突き止め、生え抜きの騎士を連れてここまで来たのだろう。リチャードを、簒奪者の手から救い出すために。しかし、この場にリチャードの姿は見えない。
「……動いたっ」
思わず、見入る。騎士達は流石の動きで魔物と渡り合っているが、一体消えたと思うと一体が生み出される。これでは一方的な戦いだ。視界の端に妙に小さな影があるのに気がついて、オリヴィアは目を瞠った。
「ドロシー……!?」
「落ち着け。まだだ。まだ……」
ドロシーの動きに目が釘付けになる。魔物の黒い影が、彼女を翻弄するように動き回る。彼女も勿論黙って攻撃を受けるばかりでは無い。しかし何度も繰り返せば、当然息も上がってくる。ぶん、と勢いよく振り上げられた腕を前に、ドロシーはとうとう地面に崩れ落ちた。
「……っ! ドロシー!!」
オリヴィアは、耐えきれなくなって飛び出した。セイロウも、飼い主と意思を同じくするように天空へ舞い上がる。一直線に走った。だが、遠い。はやる気持ちに身体が追いつかない。
「――この、馬鹿!」
背後から聞こえた声とほぼ時を同じくして、稲光が真横を通り過ぎる。ルークが放った雷は、ドロシーを襲う魔物に突き刺さった。
――効かないのは承知で、注意を逸らしてくれたのだ。気がルークの方に向いている間に駆け寄る。ドロシーの手首を掴んで、オリヴィアは走った。
「オリヴィアっ……!」
懐かしい声で、名前を呼ばれる。胸に込み上げるものを抑えると、尚も襲いかかる怪物に刃を突き立てる。目の前の脅威を一つ消し去ったとき、その男は歓喜の声を上げた。
「ほう。役者が揃ったようだ」
土気色の男は腕を大きく振り上げる。その途端に、彼の従える木偶達の動きが止まった。
先程までとは打って変わって、静寂。
オリヴィアの為に姿を現すことになってしまったルークは、少し離れた位置で彼の動きを伺っている。
「……オリヴィアよ」
場の空気を支配しているブライアンは、まるで雑談でも始めようというような笑顔でオリヴィアへ近寄ってくる。警戒しながら、一歩、一歩とブライアンから退く。握ったままのドロシーの手も、震えている。
「ふ。嫌われているようだな」
気味が悪い。魔物なんかよりも、オリヴィアにはこの男の方が余程恐ろしく感じる。
「……オリヴィア、あいつは無理だよ。死んじゃうよ、逃げようよ」
かつて王都で見たドロシーで無いことが、オリヴィアを冷静にした。一方のブライアンは、そんなドロシーを見て鼻で嗤う。
「……やれ」
その瞬間、身体が大きく跳ねた。弾みでドロシーの手がすり抜ける。あっと言う間に引き離されたドロシーとの間に、大きな亀裂が走った。――空が割れる程の揺れ。視界がぶれ、膝が砕ける。
「いやあああああああっ!」
ドロシーが、悲鳴を上げた。黒いものが、彼女の身体の自由を奪うように巻き付いている。――ドロシーが、黒い影に包まれていく。
「ドロシー! 嫌だっ、ドロシー!!」
嫌だ。返せ。私の大切な家族を。頭がぐちゃぐちゃになったまま、オリヴィアは走った。ドロシーは泣き叫びながら、必死にオリヴィアに手を伸ばしている。地面に大きく走る罅を飛び越えようと地を蹴ったとき、思わぬ方向に身体が引っ張られる。背中から、ルークに腕を回されたのだ。
「無理だ! 冷静になれ、オリヴィア!」
「放せ、ドロシーがっ。ルーク! 放せ!!」
青年の腕力にはびくともせず、オリヴィアは向こうへ行くことを阻まれてしまう。
「落ち着け!!」
耳元で怒鳴られて、思わず身体が震える。ルークに、背中から抱き締められていた。身体に回された腕を感じて、気持ちを無理に落ち着ける。セイロウが、オリヴィアの盾になるように滞空していた。セイロウもまた、ブライアンの動向を窺っているのだ。鷹もどきに冷静さで劣るようでは駄目だ。オリヴィアは余計な気を振り払うように、息を吐いた。
「――返して欲しいか?」
不意に、粘着質な男の声が届く。はっとして顔を上げれば、ドロシーはブライアンによって捕らえられていた。高さも幅も男の背丈の数倍はあろう、一際大きな黒い土塊が、二人を取り囲むように渦巻いている。
「オリヴィアあああっ……!」
助けを求めるドロシーの声が、砂の海に木霊する。少女の髪を乱暴に掴み、挑発するような笑みでブライアンが見下ろしている。まるで、この状況そのものを楽しんでいるように。人の命を弄ぶ醜く歪んだ顔に、怒りでどうにかなりそうだ。耳元で聞こえたルークの歯ぎしりが、彼自身も腹に据えかねていることを表している。
「ドロシーは、関係ないだろ……!」
その台詞が何ら意味を持たないことを知っていても、言わずにはいられなかった。
「ふん。そうだ、私に関係は無い。……まあ、ちょろちょろと嗅ぎ回っているのは知っていたが、たかが野良鼠一匹。どうということはないな」
「だったら……!!」
「だが、お前に関係がある。それだけで、十分なのだよ。……サイラスを遣ったはずだが、あの無能はしくじった」
そう言って男は、ドロシーの髪を引っ張って高く持ち上げる。彼のもう片手は、ドロシーの首にかかっている。
「少し、黙れ」
泣き叫ぶドロシーの意識が消える。オリヴィアの血の気が引く。
「なに、殺してはいない。大事な取引材料だからな。悪い話では無いと思うぞ? お前は生きながらえ、お前の父が死ぬこともなくなる。ここの小娘も返してやる。お前達が魔物と呼ぶそれも、私は呼び起こす必要が無くなる」
ブライアンはこう言ったが、オリヴィアには理解ができなかった。彼は、彼の持ち出した取引の条件をオリヴィアが既に知っている体で語っている。
話がおかしいのだ。彼はオリヴィアを亡き者にすることを望んでいた筈だ。それは、青龍を求めて赴いたウェステリアにサイラスが差し向けられ、命を狙ってきたことからも明らかである。もしオリヴィアを「生かす」ことに目的があるのだとすれば、サイラスの行動はブライアンの台詞と噛み合わないのだ。彼は間違いなく、オリヴィアに惜しみない殺意を向けてきた。
――そして、レナードが関係している?
オリヴィアが押し黙ったままであることを、躊躇と捉えたのかもしれない。ブライアンは畳みかけるように続ける。
「……見たのだろう? レナードが苦しみ、悶え、喘ぐ姿を。そのまま見殺しにして構わぬか? 別段、情も湧かぬか。十六年もお前を放置した父親に」
オリヴィアの脳裏に、記憶が蘇ってくる。戦闘の最中に片膝を突き、脂汗まで流していたレナードの姿が。見え透いた嘘で身体の不調を誤魔化した彼の、その原因は何だというのだろう。
「私と共に来い。真の王が、所望しているのだぞ」
真の王、と男は臆することなく言った。かつてフィオーレの頂点に君臨していたというサテュルヌの血を引く男。――男の持つ欲望に、ようやく理解が至った。玉座を狙うその野望は、確かにこの男によく似合う浅ましさだ。
オリヴィアは、側に居るルークの顔色を窺った。彼もまた、オリヴィアにとっては何物にも代え難い人だった。
少なくとも、ブライアンと共に行けば、オリヴィアの望みの大部分は叶うのだろう。大切な人がこれ以上傷付くのを見たくない。何も失わず全てを得ようなどというのは子供の我が儘だ。もし彼の語ったことが本当であるのならば、オリヴィアにとっては願ってもないこと。魔物は消え、愛する人を失うことはなくなる。――その結果、自身がどうなろうとしても。そして、ブライアンがおそらくは「力」という手段を以て、国の形を作り替えようとも、だ。
急に肩が振れて、オリヴィアは顔を上げた。ルークが、両肩を揺すっていた。
「……何を考えている、オリヴィア」
「大丈夫。ブライアンが私を殺すことはないみたいだ。心配しなくていいよ、ルーク」
ルークは、オリヴィアがどうしようとしているか理解している。彼らしくなく声を荒らげ、
「馬鹿なことを言うな! 俺がどれだけ――」
「大丈夫だから」
ブライアンが何を望んでいるのかは分からない。だが、きっと彼の言葉に嘘はないのだろう。ブライアンが欲しているものはオリヴィア只一人であって、魔物の出現すらそれを達成する手段に過ぎないというのだ。フィオーレ中を巻き込む災厄と、己の身一つの重み。天秤がどちらに傾いているかなど、考えるまでもない。
オリヴィアは、静かに覚悟していた。小さく背筋を正すのは、決意だ。ブライアンのほうへ向き直ると、その気色の悪い土気色の顔を見据えた。
「……乗るよ。あんたの口車に、乗ってやるよ」
オリヴィアがそう言うと、男の顔は歪な笑みを浮かべる。抑え込もうとするルークの背後に、魔物が現れた。ルークがオリヴィアを引き留めることを見越した、ブライアンなりの迎えなのだろう。彼らは決してルークを傷つけない。ただ、オリヴィアがあちら側に向かうための、手助けをしてくれる。
「ごめん、ルーク」
今まで守ってくれて。これ以上傷つけさせないために、オリヴィアは行くのだ。あちら側とこちら側の橋渡しをするように、大きな黒い腕が足元へ降りてくる。ドロシーが解放されたことを確認したオリヴィアは、一歩踏み出してその迎えに身体を預けた。忽ち、ブライアンの居るその場所まで引き寄せられていく。
「存外、あっさりと来たな。……ゆくぞ」
満足げに言ったブライアンに背を向ける。オリヴィアはわざと無視して、ルークの方を見た。ブライアンは、何処へ自身を連れて行こうというのだろう。ブライアンを包む黒い霧が、オリヴィアにも纏わり付いてゆく。
視界が、漆黒の霧に覆われていく。ルークの姿が見えなくなっていく。
「オリヴィアあああ――――!!」
ルークの呼ぶ声が、耳に残った。




