異変(2)
「この辺りは滑りやすいので、お気をつけて」
ルークの言葉に素直に頷くエレノアだが、その直後に少しふらつく。行き来に慣れているルークですら、時折ひやりとすることがあるのだ。カトレアという檻の中で育った少女には、なおさら厳しい道のりだろう。少し前までは初めて見る外の世界のすべてに興奮していたエレノアだったが、もうそんな余裕もないようだった。最初からわかっていたことではあったが、少女の体力にはかなりの不安がある。生まれてこの方屋敷か神殿に籠もっていたような娘だ。いざとなったら担いででも連れていくつもりで来たが、ルークにとっても楽な道ではけしてない。エレノアが、彼女自身を奮い立たせるように口を開いた。
「どこまでも真っ白な道が続いているのですね……。ご本で読んだような景色が、早く見てみたいです」
「それなら、外でゆっくりしていかれるといいでしょう。フィオーレは広い」
豊かな緑のウェステリア、広大な砂漠を持つコルチ、冬でも暖かなランタナ。カトレアとは全く違う季節の顔がある。彼女を待つ世界を想像したのか、心なしかエレノアの足が軽くなったように見えた。雪の覆う地面に足跡が増えていく。さくさくと雪を踏みしめる音に、不意に少女の声が混じる。
「……ルーク様は、あの革命の前も殆ど外で過ごされていたのですよね」
突然尋ねられて、意図がわからず困惑した。事実ではあったので、とりあえず肯定する。
「ええ、まあ」
「不思議だったんです。言い方が気に障ったら申し訳ないのですが……せっかく生き延びることができたのに、壊滅したレジスタンスに留まり、危険を冒す方々の多さが。当時のことは幼かったのでよく知らないのですけれど、戻ってこられた方の方が少なかったと聞きます。やっぱり、外の方が居心地がよいからでしょうか」
それは、違う。当時からレジスタンスに身を置いていた訳ではないルークでも、それだけは違うと心から言える。
「きっと、隊長がいたからです。自分だって何もかも失ったくせに、ぼろぼろだったくせに、ふらつきながら……前に進むのをやめなかった。魔導士のために生きるっていう気持ちは、誰よりも強かったから。足を止めなかったから。そうするしか、なかったんでしょうけれど……助けないとって、思わせたんじゃないですか」
人間からは、得体の知れない魔導士の親玉と恐怖され。魔導士からは、魔導士の立場を窮地へ追いやった者と憎悪され。居場所なんてどこにもなかったのだろう。
だから隠した。レナードが人間であるという事実は、嘗ての戦争を知る組織の者によって、徹底的に隠蔽された。フェリシアとレナードの関係ごと。それは、保身のための汚い嘘だったのだろうか? ――そう罵ることは、ルークにはできなかった。革命の後にレジスタンスに加わった者は、多少なりとも――レナードの真摯な生き様に心を打たれたから、協力すると決めたはずなのだ。そこに彼の誠意はあったのだろうと思う。
「ルーク様も、そうなのですか? レナード様を助けたくて?」
「いえ。……俺は」
心の内側を引っかかれるような感覚だった。意図的に思い出さないようにしていた部分だが、隠すほどでもない。小さくため息を漏らすと、口を開いた。
「母と東カトレアに居た俺は、国王軍の侵略に遭いました。フェリシア様とオリヴィアを逃がすために皆必死に抵抗して……誰も生き延びられなかった。俺だけが、無様に生き残って。隊長に聞かれました。カトレアに戻るなら、送り届けてやる。戻りたくないのなら、レジスタンスが面倒を見てやる。他に選ぶ道があるなら協力する。自分で決めろ、と」
こんなことを話すような義理はなかった。ただ、足音すら吸い込んでゆく一面の銀世界はすべてを覆い隠してくれるようで、どうにもルークを饒舌にした。
「それでレジスタンスに入ったんですね。ではなぜ、戻らなかったのですか」
「よく、わからなくなったから」
正しい生き方が。魔導士としてではなく、人として進むべき道が。エレノアの不思議そうな顔を見て、ルークははっと我に返った。喋りすぎた、と内心で後悔した。うまくはぐらかす方法に思考を巡らそうとしたとき、背を震わせるような厭な気配を感じた。
「エレノア様、下がってください。何かが……どこだ? 足……元……?」
そんなことはあり得ないと、口から飛び出した声をルークの頭が否定する。感覚は、獣でも人間でもなかった。では何だというのであろう。あり得ないはずにもかかわらず、身体中が禍々しい気配を感じ取っている。
「ルーク様!」
エレノアの声にはっとする。咄嗟にその場所から離れて、腰の剣を抜く。剣先を気配のする方に向けたまま、エレノアの元にじりじりと近寄った。徐々に「気配」の全貌が明らかになってゆく。
「…………っ!」
――ルークの感覚に間違いなどなかった。
確かにそこには、獣でも人間でもないものがいる。ゆっくりと、ゆっくりと、地面から這い出るように、ルーク達の前に姿を現した。
泥でできた木偶のよう、と表現しようとした次の瞬間には大蛇のように身体をうねらせる。穴が開いたのかと錯覚するほどの漆黒の物体。形を持たぬ黒いつちくれ。生命の温かさを感じられない、異形の化け物――
「これは、一体……」
「外の世界によくある生き物」ではないことを、エレノアも肌で理解したのであろう。その声には怯えが見え隠れしている。感情など持たないであろうその怪物は、しかしルークやエレノアに対する害意をはっきりと持っているのが伝わってくる。
「ルーク様。……微かにですが、魔力を感じます」
エレノアとほぼ同時に、ルークもそれを感じ取っていた。魔力を持つ生物など、聞いたことがない。この生物の正体は――思考を巡らそうとしたとき、闇の怪物が大きく動きを見せる。その腕を獅子の爪のように鋭利に尖らせると、ルーク達に向けて一直線に飛びかかる。迷っている暇はなかった。指先に全神経を集中させ、迸る魔力を解き放つ。指を離れたいかずちは、最短距離で怪物に突き刺さった。即座にエレノアの腕を引いて飛び退る。そんなことを、二度三度と繰り返す。どれだけ頑強な者であろうと、これだけの衝撃を浴びせれば既に命はないはず。はず、だった。
――まるで、効いていない。
確実に命中させた。ルークの魔力に異変はなく、力を出し惜しみしたわけでもない。魔導士としても相当恵まれた力を、ルークは持っているはずであるというのに。いや、今はそんなことはどうでもいい。魔力が通用せずとも剣がある。そう考え直して、ルークは敵に向かって走った。いざというときの盾代わりに持っていただけだった剣を構え直すと、地面を強く蹴り漆黒の塊へと斬りかかる。
切っ先が真っ直ぐにつちくれを切り裂く――ことはなかった。斬撃は僅かにでも怪物に傷を負わせることなく、耳に劈く音とともに剣先は無残にも跳ね返される。込めた力がルークの肩にそのまま戻ってくる。その隙を化け物が見逃すはずもなく、体勢を大きく崩したルークの下腿に容赦なく爪が襲いかかった。
「ぐっ……!」
鋭い痛みとともに、ルークの左脚から鮮血が吹き出した。白い地面に血だまりが広がる。足に深い傷を負ったルークは、迫りくる次の衝撃を回避するすべを失っていた。
「ルーク様! あれを――――!」
離れた位置から聞こえるエレノアの声に、はっとして剣を持ち直す。これで駄目ならば命を落とすのだろうという覚悟を込めて、全身全霊の力と共に剣を突き出す。
ぴし、と鋭い音がした。面白いほどあっさりと、黒い塊が崩れていく。地面に吸い込まれるように、その怪物は姿を消したのだった。一か八かの賭けに勝ったルークは、安堵の息と共に大地に身を投げた。
「ご無事ですか」
ルークの呼びかけを合図とするように、エレノアが駆け寄ってくる。折り目正しく礼を言った彼女は、ルークの傷口を確認するように屈んだ。
「……今、手当てします。少し我慢してくださいね」
エレノアは、ルークの身体から滴る血の量を見て、僅かに顔を顰める。ろくに手当の経験もないのだろう。ルークが自分でやってもよかったが、それでは彼女の気が済まないようで、されるままに任せていた。彼女の覚束ない手によってどうにか一通りの処置がなされる。包帯を幾重にも巻かれた足は動かしづらく不格好だが、すぐに解けてしまうよりはましかもしれない。
「しばらく安静にしないと……どこか、休めるところはありますか?」
「平気です。それよりも、あの化け物は……」
ルークは何でもないように立ち上がると、背にびっしりと付いた雪を払いながら言った。形容しがたい外見の、魔力を持つ恐ろしい生物。ルークの魔導は通用せず、ある一点を除いて剣も歯が立たなかったのである。たとえるなら心臓なのだろうか、不気味に光る球のようなものが、身体の中に埋め込まれていた。
「あんな怪物がいるなんて、聞いたことが……。あの球から強い魔力を感じました。おそらく、魔力を蓄える核になっているのでしょう。そしてそれをルーク様が破壊した途端、崩れていった……。魔力で動く生物……?」
エレノアの声はルークに聞かせるようで、混乱した情報を整理しているようでもあった。ルークの脳裏には、古くからの友人――イアンの顔がちらついている。
「……急ぎましょう。一体なら良かったですが、あんな化け物に囲まれでもすれば勝ち目はない」
正直、エレノアを庇いながら複数体を相手にするのは厳しいだろう。最も、今後あの化け物にまた遭遇するとも限らないが。そうであることを祈りたい。
もしかすると、今――フィオーレは、急速に破滅の道を辿っているのかもしれない。あの正体不明の怪物の出現は、その前触れですらないのかもしれなかった。




