異変(1)
馬を奪い取ったオリヴィアは、ただ草原を駆け抜けていた。あの騎士団長が敢えてオリヴィアを追ってくるとは思えないが、彼にもまた行く先があったはずなのだ。それも、たった一人で、国王の側を離れてまでしなければならない任で。悪いことをしたとは思うが、殺そうと斬りかかってきた相手から馬を拝借したことで罰は当たらないだろう。
悪い人間ではないのだと思う。魔導士を恐れる気持ち、魔導士こそが悪だと信じたい気持ち、どちらも理解しているつもりだ。オリヴィアとて、こちら側の立場になったのはほんの数ヶ月前なのだから。魔導士を邪悪と言い切った彼は、オリヴィア含む魔導士達と同様、ブライアンを快くは思っていない。今後出会う機会があれば、説得できないだろうか。敵の敵は味方、というやつだ。
しかし、オーウェンの剣を掻い潜ってこうして生きているのは、何度考えても幸運だった。時期良くオリヴィアの元に戻ってきたセイロウ。突然軽くなった身体。そして、直後に怒った大きな地震――
気掛かりなのは、軽くなったと感じる身体。そして、焼かれるような左目の痛み。
ずっと鳴っていた虫の音が消え、静まりかえった空間でその音の大きさを知るような。軽くなったと思うことこそが間違いで、実はあのとき命を落として魂が身体から抜け出てしまったのではないかと錯覚すらする程の奇妙だった。左目の――いや、聖痕の痛みも、無関係ではないのだろう。
地震との繋がりも気になる。黄龍が解き放たれたときの強い衝撃と、それ以降も数度経験した揺れが一本に繋がる。
――身体の軽さと、黄龍の件に関係が?
王都での一件で、レナードとリチャードを憑依とした黄龍の封印は解けてしまっている。それはオリヴィア達も目撃した事実で、覆しようのないことだ。現状で残っている封印は、四つの直系一族がかつて施した、土の一族と黄龍の結びつきを封じるもの。オリヴィアも人柱としての役割を果たす、魔導士にとっての最後の砦。
魔導士だけではない。土の一族の魔導は、大地を破壊し尽くすというのだから。フィオーレに生きる者全てにとって、この封印は大きな意味を持つ。ウェステリアで生きていた頃からたった数ヶ月かそこらで随分大きな話になったものだ、と自嘲する。
封印について聞かされたとき、教えてくれた人はなんと言っていたのだったろう。それがコーデリアだったことに思い至り、記憶が鮮明に浮かび上がってくる。
――あなたにとっては生まれたときからのものだから自覚がないだけで、身体への一定の負担はあるみたいよ。
厭な予感が、半ば確信に変わる。
――末裔の誰かの身に、何かあったのか。
レナードと共に旅立ったアルフレッドか。コーデリアを連れたイアンか。または、ルークが同行するジャスミンなのか。あってはならないことが、現実になった――?
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。手綱を持つ指先が、無意識に震えていることに気がついた。
悪い想像を振り払うように空を見、馬に乗り駆けるオリヴィアの頭上を旋回し続けていたセイロウに声を掛ける。翼を力強く羽ばたかせた鷹もどきは、耳に刺さるような鳴き声と共に急降下した。猛禽類特有の趾で優しくオリヴィアの肩を掴むと、硬い翼でオリヴィアの頬に触れる。
「……お前がいてくれて、良かった」
少なくとも、一人でいるよりは心細さも相当ましだった。それが、生物であるかすら分からない小さな存在であったとしても。オリヴィアの心を知ってか知らずか、セイロウは甲高い音で鳴くのみであった。
不吉な予想が正しいにしろ、間違いにしろ――一分でも早く、カトレアに戻らねばならない。そして、そのために一秒でも早くセオドアと合流するほかない。セイロウのように飛ぶことができれば、空から探せそうなものなのに。そこまで考えて、ふと、
「お前のその翼で、セオドアさんを探してこられないものかな」
と呟いた。気を紛らわすために言ったようなものだ。期待してのことではなかったが、セイロウはキイと短く鳴いて勢いよく空に舞った。
「……できるなら、最初から実行してくれ」
あの鷹もどきは、本当によくわからない。わからないが、とにかく瞬く間にオリヴィアの来た道を引き返し始めた。オリヴィアは馬に転回するよう指示を出すと、見失わない距離を保ちながら追いかけた。徐々に傾き始めた太陽が、刺すような眩しさだった。
セイロウの姿に気がついたセオドアは、その少し後ろを走る馬と、それを操るオリヴィアの姿を認めて駆け寄ってきた。平原のど真ん中だが、大きな街道からは離れており、人も居ない。オリヴィアは馬から下りると、ここまで運んできてくれた働き者の頭を撫でてやる。
「無事で良かったんだけど……その馬、どうしたの」
困惑したようなセオドアに、オリヴィアも自分自身に呆れるような気持ちだった。
「えっと。例の騎士団長から、奪った」
「何それ、うそ、怪我は!?」
一瞬で顔を青くしたセオドアは、オリヴィアに掴みかからん勢いだった。怪我と言えば膝頭を地面で擦った程度だが、痛みを感じる余裕すらなかったせいか、すっかり忘れていた。衣服を捲り上げると、傷口から血がだらだらと足まで伝っていた。今更じんわりと痛み出すのが、どうにも腹立たしい。
「結構深いじゃないか。でも、それだけなら良かった」
「隊長の特訓のお陰で、なんとかなったかな」
レナードに殺されるところだったよ。言いながら、セオドアは荷物をまさぐる。小さな瓶を取り出すと、栓を引き抜いた。中身を確かめるように振りながら、ほぼ真っ逆さまに瓶の口を傾けてオリヴィアの擦り傷に液体を浴びせる。
「いった……!?」
焼けるような痛み。つんとした臭いで、それが酒だと分かる。セオドアに逆恨みのような視線を送ると、悪戯っぽい笑みで返されてしまう。
「はっはっは。クロエちゃんみたいに、魔力で怪我を治せれば良いんだけどねえ。はい、終わった」
器用な手つきでぐるぐると布を巻き付けられ、一応の手当になった。礼を言って、膝を曲げ伸ばしする。隠れ家に留まって活動するクロエとは一緒に過ごしていない期間も長いが、それでも今や唯一の友人だった。偶には他愛のない会話で盛り上がりたい、とぼんやり考える。
「しかし、本当に無事でよかった。あの地震……」
セオドアの考え込むような瞳は、間違いなくオリヴィアと同じ懸念を抱いている。
「……地震以来、身体がとても楽になって」
目の前のセオドアの顔が、はっきりと焦りに塗り替えられる。
「まずいな。僕が魔法を使えているということは、ジャスミン嬢は無事なはずだから……アルフ君か、イアン君か。そうなると、必然的にレナードかコーデリアも」
セオドアが、小さく親指を噛んだ。魔導士の力は四霊から、直系を通じて各傍系に行き渡ると聞かされたことを思い出す。つまり、直系が潰えた瞬間、その一族に連なる魔導士達も力を失うということである。しかし現状ではセオドアが魔力を使えるということは、水の一族――アクアリウスの末裔は無事ということ。最悪の想定を現実として受け取らざるを得ない状況で、アルフレッドかイアンのどちらかの身に何かがあったと考えるのが自然だった。そして、その護衛にあたっていた二人のどちらかにも。
セオドアと合流して幾分か落ち着いたとはいえ、そこまで冷静に整理できている自分自身がいやだった。たった数ヶ月と言えばそれまででも、家族同然に生活してきたはずの人達が命を落としたのかもしれないというのに。誰かが死んだと聞かされても、涙すら出ないのかもしれない。それが実の父であったとしても。
「君は冷静だね」
苛立ちをぶつけるように言うセオドアを、咎める気にはならなかった。自分自身でもそう思うのだから。繕うように、
「焦って何かが変わるなら、いくらでも焦ってみせるさ」
と呟いた。諦めたような溜息をついたセオドアを後目に、馬の頭を撫でてやる。帰り道は頼むよ、と心の中でそっと頼みながら。良く訓練された馬は、オリヴィアの手を拒むことなく黙ってそこに佇んでいた。
「……戻ろう、一刻も早く」
セオドアが、暗澹とした気分を振り払うように空を仰ぎ見る。つられてオリヴィアも顔を上げると、いつしか沈みかかった夕日が、空を赤黒く染め上げていた。




