邂逅
――とにかく、ここから離れるように。生きていれば合流できるから。
子供に言い含めるような声で、セオドアはそう囁いた。その言葉通りに、森を抜け平地へ出たオリヴィアは、一人歩いていた。
サイラスは、セオドアが食い止めてくれている。それを信じてここまで来たが、離れすぎても合流が難しくなるだろう。こういうときこそ、青龍が授けてくれた「御守」であるセイロウが居てくれれば有り難いはずなのだが、あいにくのところ彼――彼女かもしれない――は何処かへ飛んでいってしまっている。無意識に腰に下げた剣の柄に手を当てながら、ひんやりとした心細さを感じていた。思えば、こうも周囲に人が居ない環境で過ごした記憶がない。
幼い頃にはいつもドロシーがいた。孤児院を出てからも、それは変わらなかった。同じ時を過ごして、同じように大人になるのだと信じて疑わなかった。ある日狂ってしまった運命の歯車が、たった一つで空回りしているような。
レジスタンスの魔導士達は皆、良くしてくれる。それなのに時々寂しく感じるのは、それが――オリヴィアという個ではなく、その身体に流れる血の方の為に思えるから。自らが父と名乗ろうともせず、徹底して直系一族の末裔として接し続けたレナードも。こうして守ってくれているセオドアも。コーデリアも。皆、皆。
アルフレッドは、クロエは、イアンは――ルークは? これ以上考えるのは、怖くなりそうだった。
セオドアと別れたのは、川沿いに進んだ山の中。必死に逃げるうちに、いつの間にか穏やかな草原に景色が変化していた。合流の方法など考える暇も無く分かれてしまったために、何処へ行くべきかも見当がつかない。セオドアが通りそうな道を探すしかないのだろうか。行きに通った道に戻るのが良いだろうか。ブライアンの動向も気になる。サイラスがオリヴィア達の前に現れたのと同様、何らかの行動は起こしているのかもしれない。
馬の嘶きが、高く辺りに響き渡った。はっと我に返る。それが何を意味するのかを考える間もなく届いた男の声が、オリヴィアを戦慄の風で包んだ。
――ぼんやりしていた。気付くべきだった!
「見つけたぞ、魔族の娘」
矜持に満ちた、空気を低く震わせるこの声には聞き覚えがある。思わぬ出会いに足が竦んだ。目前に居たのは、見事な鎧姿の騎士。その上に羽織られた外衣は、かつてドロシーが身につけていたものと同じブルーメ騎士団のものだった。何故、王都から遠く離れたこんなところに――たった一人で? そのような疑問も、今はただ空しい。
強烈な殺気に吸い込まれるように、オリヴィアの目は男の瞳を見た。
王都の一件で騎士団長と名乗った、オーウェンという男。記憶が即座に呼び起こされて、全身が粟立つ。――セオドアがいないこんな時に。恐怖に叫ぶ心臓を抑え込みながら、オリヴィアはつとめて動揺を隠す声で言った。
「……生きて、いたのか」
オリヴィアとルークが城から脱出したあのとき、レナードと剣を交えたのだ。レナードと同じ顔を持つ国王、リチャードを守るべく立ち塞がった男。レナードが無事隠れ家に帰還したのだから、漠然とそういうことなのだろうと思っていた。いや、この状況下では、そうであってほしかった。
「そうか、お前はレナード殿の娘。彼とはまた手合わせ願いたいものだが――」
言いながら、オーウェンは勢いよく剣を鞘から抜き放った。太陽の下で、刀身が不気味に光る。
――確実に息の根を止める、そう男の目が言っている。
「お前に興味は無い。あのときはみすみす逃してしまったが、今度はそうはいかぬ。邪悪はこの私が断つ」
少なくともレナードと同等、あるいはそれ以上の剣の腕を持つ男。逃げ出したくとも、馬の速度を振り払えるはずもなかった。それでも、死ぬわけにはいかない。殺されるわけにはいかないのだ。
正面から戦って勝てる相手だとは、微塵も思っていない。セオドアが来てくれるまで、無様でも何でも、持ちこたえさえすれば。そう心を奮い立たせて、オリヴィアも剣を構えた。
互いに何も言わなかった。手綱を引いた男の挙動に合わせて、馬蹄が土を巻き上げる。勢いよく飛び込んでくる男の剣先をすり抜けるように、地面を転がった。受け身を考えなかったために膝を大きく擦ったが、傷に頓着している余裕など当然無い。第二撃第三撃と、間髪を入れずに襲う剣先から逃げ惑った。
「……かわすだけか。それも良かろう」
オーウェンの声は余裕に満ちている。当然だった。既にオリヴィアの息は上がっている。大きく身を捩り、翻し、かわす。そんなことを繰り返していれば、あっという間に体力も底をつく。反応が遅れた次の瞬間には、首が跳ね飛んでいることだろう。
もはや、助けを待つという希望は捨てるしかない。何でも良い、何か手は無いのか。
何度目か飛んでくる切っ先から生還したとき、オリヴィアの中に僅かな引っかかりが生じた。手練れの容赦ない攻撃を、こんなに都合良く何度も避けられるものなのか。決して深く踏み込んでこず、一定の間合いから剣先を差し込まれているような、微かな違和感。もし相手がレナードなら、きっと――そこまで考えて、ふとあることを思い出す。
もしかしたら。その疑問の答えを探るように、オリヴィアは挑発する。
「あんた、国王のお守りは良いのか? 魔導士の言いなりの騎士団長っていうのも、滑稽だよな」
オーウェンの眉間に力が込められる。
「私が、ブライアンの言いなりだと!」
彼らしくない、大きく振りかぶった一撃。オリヴィアは、それを難なくかわす。
「勘違いするな。私が忠誠を誓うのは陛下ただ一人」
「なら、何故こんなところにいる?」
魔導士がいつまた攻めてくるかも分からない中で主君の元を離れるなど、愚かとしか言い表せないだろう。だが、オーウェンは問いに答えない。
「魔族全てが、この私の仇なす者。あの男も例外ではない。どこから始末しようと、それは同じ事だ」
疑惑が確信に変わる。この男、ブライアンにとっては不都合な者なのだ。つまり――彼は国王に一番近いところにいながら、重要な事を殆ど知らされていない。そう、オリヴィアのことも――たまたま、見覚えのある魔族を見つけただけなのだ。
恐らく、使えるのは一度だけ。失敗すれば今度こそ命はない。馬の鋭い嘶きと共に斬りかかってくるオーウェンを見据えると、剣を片手でしっかりと持ち直した。
――一つだけ覚えておけ。お前が魔力を持たないと知っているのは、魔導士だけだ。
出立の日。レナードが放った言葉の意味に、ようやく理解が至った。記憶にある、確かな活路。
選んだ行動は、先程と異なる。微動だにせず待ち構えるオリヴィアに、訝しむオーウェンの剣先が届く寸前。地を力強く踏みしめると、そのまま掌を思い切り突き出した。
――まるで、今から魔導を使わんとするかのように。
予想しないオリヴィアの動きに怯んだように、オーウェンが手綱を引いた。僅かにできた隙を逃さず、オリヴィアは剣を男の手に向けて一気に叩きつけた。肌を傷つける厭な感触。飛び散る鮮血と共に落下した男の剣に、思わず笑みがこぼれる。
しかし、オーウェンの判断力はオリヴィアの思惑の上を行く。太い血管の走る腕が、オリヴィアの胸倉を掴み上げた。弾みで剣が手から滑り落ちて、足元で落下音がする。深い傷を負ったはずの手に頓着もせず、男はその眼光に残忍性を見え隠れさせた。
「……驚いた。貴様、どうやら魔族としては出来損ないらしい」
たった一度だけしか使えない切り札は、もう無い。出立前のレナードの言葉は、確かに彼を欺く切っ掛けをくれたにもかかわらず。
足は、抵抗できないまま宙に力なくぶら下がっていた。オーウェンの血に濡れた手が、残酷にもオリヴィアの喉元へと伸びてくる。
「最後の言葉くらいは、父親に届けてやろう」
恐怖に息が荒くなる。動揺が思考を阻害する。死ぬわけには、いかないのに。どうすれば――生きられる。
不意に、空の先から甲高い鳴き声が耳を刺した。はっとして見上げれば、その姿は間違いなく。
「……セイロウ!」
主の叫び声に呼応するように、一筋。その嘴が、男の肩を貫く。
予想しないその衝撃に、オーウェンは平衡を崩す。捕らえたオリヴィアもろとも、地面に倒れ込んだ。
今なら。衝撃で緩んだ男の拘束を振りほどくと、男の身体を踏み台にして一気に馬によじ登る。
「させるものか!」
慌てて上体を起こしたオーウェンは、オリヴィアの足を掴み引き摺り下ろそうとした。瞬間だった。
――不意に、身体が軽くなったような気がした。足首を掴もうと伸ばされた男の手が、するりと抜けるように離れる。
須臾。耳につんざくほどの地鳴りが襲う。――地震だった。空を舞うセイロウの姿が、幾重にも見える程の揺れ。瞬く間に地に亀裂が走る。その途端、左目の奥が焼けるように熱くなって、思わず蹲りたくなるほどだった。経験したことのない激しい痛みが、たちまち頭全体に広がってゆく。歯を食い縛って、鐙を思い切り踏み込む。
今しかない。走り出した馬に振り落とされないよう、鬣にしがみつくように風に乗った。鍛え上げられた馬の脚は、未だ揺れの収まらない地面を強く蹴り上げ、泥を跳ね上げる。ここから逃げなければ。手綱を力一杯握りしめ引くと、馬は順調に速度を上げた。
いつしか、揺れと地鳴りがおさまったとき――後を振り向けば、巻き上がる砂埃の中に、屈辱的に睨みつけるだけの、影があった。




