魔導士の少年
「院長!」
箒を投げ捨てると、力強く勝手口を引く。老朽化の進んだ扉が悲鳴を上げる。
吹き荒れる風が、大きな音を立ててその扉を閉じた。
走ったからではない荒れる息を、なんとか整えて顔を上げる。
だが、院長やドロシー、そして子供たちに一斉に見詰められて、言葉に詰まってしまう。
――この状況が怖い。無意識に震える自らの身体を抱きしめる。伸ばした髪から雨粒が滴り落ちる。
「ど、したの……っていうか、アリス? 何でここに」
子供の身体を拭きあげる手を止めたドロシーが声を上げる。
「こっちが聞きたいわよ! ウェステリアの騎士達が、急に寮に来て。オリヴィアを出せ、って!」
「オリヴィア……? 何があったのです?」
疑いの目を向ける院長の声に、目を逸らした。俯いたまま、振り払うように首を横に振ることしかできない。
「ともかく、オリヴィアを連れて戻るわ。魔導士も出たみたいで、今街は滅茶苦茶なの。
……あんたが魔族の内通者って疑いが持たれてる。私にもよくわからない、だってオリヴィアはずっと私やドロシーと仕事していたし、悪魔の印だって無かったもの。でも、こんな大騒ぎになるなんて尋常じゃない」
まくし立てるように、アリスが言う。
「そんな、私は」
戦慄く唇に乗せて出たオリヴィアの声は弱々しい。勇気づけるように、ドロシーが言った。
「だ、大丈夫だよ。オリヴィアとずっといる私が証言する。一緒に行こう」
小さく頷く。だが、院長の目は厳しい。魔族と呼ばれる者達を心の底から忌む、冷たいその瞳。
「……オリヴィア。私の目を見て下さい。本当に、後ろ暗いものは無いのですね?」
逃げ出したい気持ちになる。だが、本当に何も身に覚えがないのだ。
深呼吸して院長の目を覗き込むと、恐る恐る、だが深く首を縦に振った。院長の顔が緩む。
「――信じます。だから、あなたはすべきことをしなさい。きちんと釈明してくるのです」
もう一度深く頷いた。前髪から滴り顔を濡らす粒を、袖口で思い切り拭く。
振り返って歪んだ扉を開いて、再び外へと飛び出した。
――誰もいないはずのそこには、見慣れない人影があった。
雲が分厚く空を覆いつくし、太陽を失った風景。時間からは考えられないほど暗い世界に浮かぶ人影は、ゆっくりと近づいてくる。
騎士の風貌ではない。防具を纏わない細身の影。
正体もわからないのに、どうしてこんなにも逃げ出したくなるのだろう。思わず、じりりと一歩退いた。
オリヴィアの手を掴んだアリスと、その後ろから様子を見ているドロシーと。どちらとも取れない唾を飲み込む音が耳に届く。
「あれ? ここで正解っぽい?」
次に届くのは、呑気な少年の声。だが、その声は何故か不気味に纏わりつくようで。
震える手で、乱雑に落ちていた箒を拾い上げた。
「……何か、絶対普通じゃない」
ドロシーが言う。オリヴィアは振り返らず、無意識に二人を部屋の中に押し戻した。
「えっ、ちょっと、オリヴィア……!」
オリヴィアを制止するドロシーの腕を優しく解く。
「二人とも、中に。子供と院長を奥へ。私が様子を見てくるから」
背中に居るのは、家族と呼べる沢山の尊い存在。
ドロシーのように、皆の心の支えになれる人間ではない。ならばせめて、その身を守れる人間になりたかった。
そう思い始めてから、もうどれくらいになるのだろう。
武器にするには余りにも頼りない箒を、強く握りしめる。雨風が乱暴に巻き上げる髪の毛を力強く掻き上げた。
髪を伝う水が手を濡らす。
扉を後ろ手で閉じると、じりじりと寄ってくる人影に向き直った。
暗い世界に浮かぶ人影が、徐々に姿を露わにしてゆく。どこか不気味に感じるその声の持ち主は、オリヴィアとさほど歳の変わらないであろう少年。整った顔に浮かぶ笑みは人懐こそうでありながら、どこか冷徹な色を湛えている。
雨が強くオリヴィアを叩きつけている。
長い黒髪を揺らしながら、少年は歩むのを止めない。
「……君が、オリヴィアだね?」
そう言いながら、確かめるように全身を眺める少年はオリヴィアとの距離を詰めてくる。思わず一歩引いて、背中が壁に触れた。
逃げる場所は無い。否、逃げてはいけない。だから、逃げ場を奪うその壁は残酷にも優しい。震える足で支えるには余りにも心もとない身体を、何とか立たせてくれる。
気が付けば少年は目の前に立っていた。そっとオリヴィアの方へ手を伸ばすと、少年は彼女の小さな顎を掴み上げる。もう片方の手で頭を抱え込まれると、簡単に身動きが取れなくなってしまう。
壁際に抑え込まれて、持っていた箒を取り落とす。地面に当たって、からん、と音が立った。
困惑するオリヴィアの顔を覗き込むように、少年はそっと首を動かした。少年の黒い瞳と目が合う――左目を、凝視されている。オリヴィアの、紅いその瞳。
少しの間を置いて、少年の手が震えているのに気付く。不意にその手に力が籠って、オリヴィアの頬に指が食い込んだ。
ごくり、と少年の喉が鳴る。
「……セイコンが、あるね――オリヴィア」
先ほどまでのどこか恐ろしいものを含んでいた声とは違う。どこか優しさすら含んだ音が耳をなぜる。
だが、耳馴染みのないその単語が、オリヴィアの心臓を掻きむしる。振りつける礫のような雨粒など、感じなくなっていた。
セイコン……?
オリヴィアを抑え込む手が緩む。はっと我に返って、オリヴィアは横に転げ込むように少年の束縛から逃れた。慌てて箒を拾い上げると、胸の前で構える。
少年の胸を狙って突くが、あっさりと躱されてしまう。
「あっ、ちょっと! 大人しくして、よっ!」
言うなり少年の白い手に光が現れる。その強い刺激に、思わずオリヴィアは目を瞑った。
熱を帯びた風がオリヴィアの頬を掠める。反射的に身体を逸らした。均衡を崩して一、二歩。
「ひっ……?」
遅れて何故か感じた再びの熱に、箒を思わず取り落とす。目を開いて飛び込んできたのは、ゆらりと揺れる火。雨にも消えないその火は音もなく、オリヴィアの持っていたその箒を燃やし始めている。煙が、鼻をつんと指すような刺激を伝えてくる。
――何が起こったのかわからず、オリヴィアは立ち尽くした。頬に違和感を覚えて恐る恐る触ると、火傷のような痛みが走る。
少年は、毬で遊ぶような様子で何かを弄んでいる。その何かが紛れもなく『炎』なのだと気付いて、その人間ではありえない所業に、血の気が引くものを感じる。
「ッ、魔導士……!」
震える足からついに力が抜けて、尻から思い切り地面に座り込んだ。少年はにこりと微笑むと、自身の左の甲を面倒くさそうにふるふると振って見せた。
そこにはくっきりと刻まれた、呪いのような紋――。
「ふふ、大人しくしててね。うっかり手が滑って、教会に火、つけちゃうかもしれないし?」
教会、という単語がオリヴィアの肩を跳ね上がらせた。
ここには沢山の家族がいる。怖気が全身を震えさせる。
少年は突然腕を上に振り上げると、神を憎み、殺すように。激しく光を放つ炎の玉を、雲が覆いつくす空へと放った。
そしてオリヴィアの前に緩慢な動作でしゃがみ込むと、両手を軽々と捻り上げる。奪われた自由に、抵抗することは許されない。
がちがちと音を立てそうなほどに主張する歯の感覚が脳に伝わってくる。
怖い。怖い。――だが、逃げられない。
「オリヴィアを離して!」
耳に、少女特有の甲高い声が飛び込んできた。
――ドロシーが、無謀にも扉の前で仁王立ちしている。
最悪を想像して、オリヴィアはぶんぶんと首を振った。
「ドロシー、逃げ」
少年に乱暴に口を塞がれて、それ以上の言葉を発することは叶わない。
「悪いけど、離すつもりは無いよ。……オリヴィアの友達なら殺しはしないからさ、邪魔だけしないでくれる」
少年が指で軽やかに目の前に線を描くような動作をする――それをなぞるように、地面に炎の壁が現れる。目の前に広がる炎に、オリヴィアは思わず瞼を強く閉じた。ドロシーとオリヴィアの間を引き裂く、残酷な壁。
「ありゃ、泣かせるつもりは無かったんだけど……ごめんね」
思わず滲んでいた涙に気付いて、未だ震える歯をぐっと噛みこんだ。
少年は、一体私をどうしようというのか。意図の読めない間の抜けた声が、恐怖を増幅する。
――突然、遠くからガラガラと荒々しい音を立てながら、幌馬車が一台やってくる。教会には似つかわしくない小汚い馬車が泥を巻き上げ、美しかった芝を崩した。
馬車は、ひと際大きな音を立ててオリヴィア達の目の前で停止する。馬から飛び降りた御者。
「ああ、ルーク。やっと来たの。見てこの子」
マントのような服の襟元から禍々しい紋が覗いている青年に、オリヴィアはぎょっとした。ルークと呼ばれた青年はオリヴィアの方をまじまじと見ると、合点がいったように「ああ」と呟く。
「それより、あっちは? まだだったのか」
言いながら青年は肩から斜めに下げた袋から布を取り出す。オリヴィアの足、腕に順番に手慣れた動作で布を巻きつけ、きつく縛り上げていった。
完全に抵抗力を奪われたオリヴィアは、青年の肩にあっさりと担ぎ上げられる。オリヴィアは恐怖に震える力も使い切って、ぐったりとなされるがままになった。
「そっちはまた今度。こっちのほうが大事でしょ。……ごめんね、オリヴィア。本当、泣かせる気はなかったんだけど……」
少年は、青年の肩から垂れたオリヴィアの頭――そして頬を不気味な紋の刻まれた手でそっと撫でる。何故だか、少し暖かく感じる手。
「また今度って、……心配じゃないのか?」
「まあ、ちょっとはね。でも、あいつは大丈夫だよ。この辺はもう魔導士も居なさそうだし」
青年は少年の言葉に呆れるような顔で「了解」と答えた。
不意に、遠くから地鳴りのような音が響いてくる。そして聞こえる雄叫び――。
「あっ、やばいよルーク。騎士団だよ、絶対」
焦りを隠さない少年の声に、青年は冷静な顔を保ったままオリヴィアを荷台に放り投げた。狭苦しい荷台の壁にぶつかって、背中が悲鳴を上げる。
「お前も乗り込め、とっとと逃げるぞ」
青年は馬に勢い良く飛び乗ると、顎で少年を促す。少年が乗り込むのを待って、馬車はすぐさま走り出した。
首を無理やり持ち上げて教会の方を見る。
燃え広がった炎が建物を侵食し始めていることに気がついて、オリヴィアは目を見開いた。院長や子供たちが、呆然とした様子でこちらを見ている。
声にならない叫びを上げる。教会が。孤児院が。――家族が!
藻掻く、腕に足に力を込める。
家族が、家族の居場所が。
だが、手足の拘束は残酷にも、オリヴィアを開放しない。
少年が、悲しそうな目でその腕を掴んだ。這うことすら奪われて、オリヴィアは手足を無茶苦茶に動かそうとする。
「離せ、皆が……離せ! この!」
縛り上げる布がぎちぎちと音を鳴らす。食い込んだ肉が擦れて、肌に赤い跡を作り出した。
「……ごめんね」
少年がぽつりと呟いた。
ついには諦める程の時間が立って、すでに視界からはかつての家が消えている。
ぐったりと力を抜くと、途端に瞳に浮かんでくる涙。力が及ばない悔しさと、理解が及ばない出来事への恐怖。そして、家族と呼べた者たちの安否。全てが相まって、オリヴィアの頬をみるみるうちに濡らしてゆく。
「ぐっ……う、ぅ……」
その嗚咽は、振動と騒音にかき消されてしまう――激しく揺れる馬車は、オリヴィアを残酷にも何処か見知らぬ土地へと運んでいる。
オリヴィアは、自由の利く膝を頭で抱え込むように丸まると、その身体に全てを閉じ込めるように目を閉じた。