青き龍(2)
進めば進むほど、この場所だというという確信が強くなる。先程までは聞こえていたはずの鳥の声すらもなくなり、生命の匂いは消え失せていた。一人分の足音と呼吸音、そして淀みない水流の音だけが鼓膜を揺らしている。視界すらほぼ無いに等しいが、不思議と道には迷わない。吸い寄せられるように歩くと、ついには川の中に足を浸していた。足首まで冷たく、爪先は凍えるほどだが、それでも足が意思を持ったかのようにオリヴィアを前へ運ぶ。気がつけば目の前に現れた滝の奥に、ぽっかりと空いた洞穴が目に入った。
「あれが、『祠』……?」
一瞬懐疑的になるが、間違いないのだろう。四霊の一柱、青龍の御座す場所。自分自身で意志を固めるように深呼吸すると、降り注ぐ水の壁へ向けて走った。気休めのように顔を覆った腕がぐっしょりと濡れる。人一人が通れそうな道の前には、何かが書かれた石版が苔に覆われていた。何の気なしに苔を払い落とすと、刻まれていたのは文字らしきものだ。文字を読めないオリヴィアでも、今フィオーレで使われているよう字形では無いとわかる。そして、眺めているうちに、左目の奥がかっと熱くなる。――聖痕だ。オリヴィアの脳内に、その見知らぬ言葉が染みこんでくる。
――神の息吹は、汝の手に。
たったそれだけの短い文が、オリヴィアの身体を駆け抜けていった。
額を拭い、髪を伝い頬を流れる水滴を振り払うと、そこには絶景が広がっていた。湿っぽい臭いが立ちこめている。暗いかと思った洞穴の中は、意外にも明るい。相変わらず空間を包む水の粒子は健在だが、それら一つ一つが光を浴びていた。至る所から流れる滝が、天から光を拡散しているからだった。この小さな空間だけが、外界とは時の流れを異にするように穏やかだ。
――何かが、いる。否、正体は分かっている。肌に痛いほど、壮大な力を感じるのだ。衣服や毛髪が水気を吸って、重みを増すほどの霧の中であるというのに、その姿だけは何故か浮かび上がるようにすら見えた。
「私に、似ている……いや、私が似ている……」
河の流れのように見事な、腰まで伸びたつやの深い銀の髪。息をするごとに揺れるまつ毛も同じ色。その奥に嵌めこまれた翡翠玉のごとき瞳が放つ光は、穏やかにオリヴィアを捉えている。目に映る光景が鏡に映された世界などではないと証明するように存在する、オリヴィアの紅玉とは違う光。誰に教えられずとも、その姿が何者であるかはよく分かる。オリヴィアの父でさえ、そう呼び間違えたかけたことがあったのだから。
戸惑いを隠せないオリヴィアの様子に対し、女性の薔薇色の唇が小さく弧を描いた。
「まったく……随分、待たせてくれたものよの」
優しげな女性の発する柔らかな音色――とはほど遠い、男女どちらともつかぬ嗄れた老人のような声。オリヴィアは、抱いた淡い期待を振りはらうように目をそっと閉じた。
「……このような姿は好まぬか。いやはや、人というのは難儀なものだな」
オリヴィアの内心を見透かしたように、女性――の姿をした何者かが、またその嗄れた声を発する。
誰であっても、亡き母を騙られればいい気はしないだろう。思い出であればその光景は心の中に納めておくべき類いのものであるし、思い出すら持たないのなら――生者の中にかすかに生きるその亡霊を、生きた痕跡を、残された欠片を、探すことに夢中になるのだから。
「成程。やはり、人というのは難しい」
考え込むように女性が顔をしかめると、かっという光がオリヴィアの目に飛び込んできた。眩しさに思わず目を閉じる。ためらいがちにその瞼を持ち上げたときには、オリヴィアによく似た女性の姿は跡形も残っていなかった。
かわりに現れたのは、まさしく――蒼き龍。濃霧の中でも光かがやくようにすら見える鱗は、緑柱石の欠片をひとつひとつ嵌めこんだようだった。銀糸を束ねたような鬣も、研ぎ澄まされ爛熟すら見え隠れする瞳も、時の流れとは永久に切り離されたような佇まい。
青龍。それは間違いなく、探し求めていた四霊の一柱だった。びりびりと肌が粟立つような謎の高揚が、オリヴィアの身体を襲っていた。神殿に足を踏み入れたときに感じた、あの引き寄せられるような感覚。あの、理屈を超越した「ここに居るのが自分にとって自然だ」という確信。胸が高鳴る。足が震える。
オリヴィアの様子を見たのか、満足そうな色を声に乗せて、青龍は言った。正確には、言葉を発するなどという物理的な動作は必要としないようであったが、確かにオリヴィアは「聞いた」。
「少々遺憾だが、こちらの姿の方がお前には楽か」
まるで容姿というものに拘りが無いのか、そもそも人の価値観とは一切を異にするからなのか。美しき龍――青龍は、少しもそこに頓着する様子を見せなかった。心の中で、面倒くさいやつだな、と毒づいた。こちらの気も知らないで。
「む……。我も美しいものを愛でる心くらいは持ち合わせているのだぞ。だからお前は嫌いではない」
内心を見透かされたような違和感に眉をひそめたが、先日の出来事を思い出し、ある種の諦めをもって適当に頷いた。やはり、あの夢に現れたのは青龍で間違いないのだ。一度、心の奥底まで舐めるように這い回られている。どうせ何もかも筒抜けになるのだから、いちいち不快感を覚えていても身が持たないだろう。
「長居するつもりは無いんだ。どうせ、私の用事もお見通しなんだろう。……その時が来たら、力を貸して欲しい。『約束の地で待つ』――」
黄龍の封印を、今一度。四霊と魔導士の力を、再び一つに。
「構わぬ。サテュルヌは少々戯れが過ぎるようだからな。ふうむ……」
青龍の尾が、空気を震わせてしなった。霧に波動が刻まれる。
「惜しいな。実に惜しい」
またあの舐め回すような目で、青龍は言った。
「純粋な魔導士であれば、母親以上の魔導の使い手であったろうに」
「……はあ」
脈絡のない会話だな、と思う。オリヴィアがそれを使えようと使えまいと、今は関係の無いことだ。神というのはつくづくわからない。
「以前も言ったが、我はお前のことを気に入っているのだよ。快く思わぬ者に力を貸すほど、我は好き者ではない」
青龍の語る「以前」とは、神殿で倒れたときで間違いないのだろう。あのときは、目覚めた後のことも含めて散々だったのだ。
「まあ、そう怒るでない。我にも予想できないことだったのだ」
「何が」
「お前は魔導士の地で育ったのではなかったな。当主になるべき赤子が生まれれば、本来神殿に顔を出すものなのだ。我ら四霊は、そうして次代の当主を認識し、そして見守る――お前にはそれが無かった。我とて万能ではないからな。お前を知り得たのが、あのときなのだ」
何が言いたいのだろう。捉えどころの無い話に、オリヴィアは眉をひそめた。
「四霊と魔導士にも相性はある。四霊と深く共鳴するほど、お前達は四霊からより強い魔を導く」
ルークがしてくれた説明を思い出す。魔導士の力はすべて四霊を源流とするのだ、と言っていた。魔力を導く――それが、魔導士と呼ばれる所以なのか。
「我ら四霊とお主ら魔導士は、時と共にその理解を深めてゆくものだ。が、ごく稀に、その過程を飛び越えて深く通じてしまう者がおる――そう、お前のようにな。……流石の我も、普通は知ったばかりの人間の中身なぞわからん。特殊な例だ、誇って良いのだぞ」
喜べ、と言わんばかりの様子の青龍に、オリヴィアは肩を落とした。
「……すごく不本意だ」
「倒れたのも、我の意識を突然全て受け入れたせいやもしれぬな。見ておったが、周囲の慌てぶりは中々であったぞ」
ふと、目を覚ましたときのレナードの様子が脳裏に浮かんだ。心配してくれていたのに酷いことをしてしまったと、今更謝りたくなった。
「一つ、問うておこう。今リブラの血を引く者は、何人いる?」
不意に青龍の瞳が妖しく光った。オリヴィアは、その姿に僅かに怯む。
「少なくとも、直系の末裔と呼べるのは私だけだと」
他家に嫁ぐといった血縁関係までは流石に把握していなかった。だが、そういった形で血が繋がれているのなら、よりリブラの当主に相応しい者としてオリヴィアよりそちらを立てるのではないか。魔導士の力を持たないオリヴィアをリブラ家の末裔と扱うのだから、そういった可能性も低いように思う。直系が絶えたとき封印がどうなるかなど、唯一残されたリブラの末裔であるオリヴィアが存在する今の段階では誰も知り得ないのだ。
「ふむ……参ったな。そのような状況で護衛を一人しか付けんとは、カトレアの魔導士共は何を考えておる」
「戦える力のある魔導士が、もう殆ど居ないんだ。ランタナ領に向かったアルフ……ハイドラの末裔なんか、護衛についてるのは人間だ」
「……わかった。私は、お前に魔導という形で力を貸すことはできんが――」
辺りに立ちこめる霧が、奇妙にうごめいた。細やかな水の粒が、一点に吸い込まれるように渦を巻きながら何かを形作ってゆく。
「御守だ。連れて行け」
魂を与えられたように、霧の粒が踊る。浮かび上がったのは、一羽の大きな鷹だった。実体と霧のような姿の間で揺れ動くように霞んでみえるが、それは間違いなく生物を象っていた。銀色に輝く翼が印象的な、美しい鳥。
「心許ないが、何も無いよりは随分いいだろう」
大きく羽を広げたその鷹は、一直線にオリヴィアの真横を通り過ぎたかと思うと、大きく旋回してオリヴィアの腕を止まり木にした。
「……ありがとう」
オリヴィアが言うと、主人の代わりをするかのように鷹が鋭く鳴いた。
「名前でも付けてやると良い」
「そういうの、得意じゃないんだ」
孤児院に引き取られた子供は、二つに分けられる。名前があるか、それとも分からないかだ。姓は良いのだ。あの教会に引き取られた皆、同じ姓を名乗ることになる。だが、名前が不明のまま引き取られる子供はけして少なくない。――名付けをするのは院長先生か、子供達で。その度にオリヴィアの命名案は却下され続けてきたのである。
「セイロウ」
頭にふと浮かんだ名前を口にする。甲高い鳴き声とともに、たった今名前を得た鷹は飛び上がった。と、弾けるように姿を霧に変え、そのまま見えなくなる。セイロウの意思で、自由自在に現れたり消えたりできるようだった。
「くれぐれも、身辺には気を付けよ。また会える日を楽しみにしておる――護衛の元まで送ってやろう」
わかった、と返事するより前に、視界が靄で包まれてゆく。
霧のなかの柔らかな光とは違う。瞳を刺すように飛び込んできた世界は、霧一つない穏やかなせせらぎの中だった。下流のほうまで戻ってきたようだ。そこに、目を丸くして此方を見るセオドアがいた。
「お、おかえり……?」
驚きを隠さない声を上げたセオドアに、オリヴィア自身も混乱したまま「……ただいま」と返事する。元気よく風を切って飛び出したセイロウが大きく羽ばたく。晴れ渡った空の青が、美しい羽毛に吸い込まれていくようだった。
「え……なにこの謎の生き物」
何も居なかったはずの場所から出現したセイロウに、驚嘆というよりは呆れたようにセオドアが言った。
「生き物かすら怪しいけど、私の『御守』らしい」
一直線に素早く上空へ飛び立ったセイロウは、オリヴィア達の頭上で旋回を始める。甲高い鳴き声を、一度――もう一度。
「で、会えたの?」
青龍には。と、セオドアが尋ねる。
「問題なく。協力してくれると約束してくれた」
「そっかあ……いやあ、終わってみると案外呆気ないものだね。もう二度とあの場所には行きたくないけど」
セオドアは腕を高く上げて、大きく伸びをした。
「さ、じゃあ、帰ろうか」
「……帰り道も、お願いします」
オリヴィアが小さく笑ってみせると、セオドアの目元にしわが寄った。
「はいはい。無事にお家に帰るまでが遠足ー、ってね」
青空から、またあの鋭い鳴き声が届いた。顔を上げると、セイロウは予想しない行動をした。
「……君の御守、どっか飛んでいっちゃうよ」
「私にもよく分からない…………」
二人揃って呆気にとられながら、帰路を歩み始めた。




