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オリヴィアという少女

 白い大理石の床が、心地よい足音を生み出している。点在する燭台から零れる明かりのみが、視界を照らしている。

 ぐるりと眺めれば、高い天井四隅に立つ太い柱の一本一本には、青、朱、白、玄とそれぞれ違った意匠が施してある。今は暗い闇を湛えているこの床も、穏やかな朝日を浴びて白に、晴れ渡る空を仰いで青に、沈みゆく夕日を一身に浴びて朱に、染まってゆくのだろう。

 ――美しい。それ以上の言葉を失うほどに、ただただ美しい。この空間だけで、魔導士が魔導士としての矜持を持つのにたる理由になると、心から感じる。神聖な空気に飲まれて、無意識のうちに呼吸の音すら潜める自分が存在した。

 オリヴィアは、室の東にある青い柱を見た。刻まれた龍と目があった瞬間、不思議と吸い寄せられる感覚に捉えられる。自分の意志とは関係なく動く足を感じながら、気が付けば柱の目前に立っていた。

「どうした?」

 近くに居るはずのルークの声が、すうっと遠のく。

 ――だが、そんなことはどうでも良いようにすら思う。

 呼ばれている。何かに呼ばれている。オリヴィアは、それに応えるように柱の龍を見た。

「青……龍」

「おい」

 引き止める手を振り払って、惹かれるようにそっと手を伸ばした瞬間、突如足元から地面が消えるような感覚に陥った。


 ――世界が暗転する。深い闇の中に取り残されたように、オリヴィアは一人立ち尽くした。

 割れそうな程強烈な痛みが頭を走る。膝をついて頭を抱え、激しいその痛みに耐えていた。滲む脂汗が、頬から顎を伝って闇に吸い込まれてゆく。

 乱れた息を整え、痛みに抗う。徐々に余裕が出てきたとき、汗の滴る頬を一陣の風が撫でた。風上を追うように、頭を持ち上げる。

 ――闇に覆われていたはずの世界は一転していた。現れたのは、渓谷に流れる一筋の水流。冷たさを感じて足下を見れば、水に浸る素足が砂利の転がる地面に置かれていた。

 心が洗われていくような、せせらぎの音。自身がここに居るのが()()()()()()()()という確信があった。それと比較すれば、ここがどこかなんて、些細なことだ。そう、心の底から感じる。

 そう、心の底だった。オリヴィアにとって最も触れられたくない柔らかい部分へ、何かの声が流れ込んでくるような感覚がする。あまりの不快感に、オリヴィアは胸をかきむしる。しかし、そこには何も居なかった。

『――そうか、そうか。リブラは、王家の血と混ざったか。そうか……』

「誰。私の……私の中から、出て行け」

 抑え込もうとしていた自身の内の本心が、零れてくるような感覚だった。目を逸らしてきた――何かを、覗き込まれているような。オリヴィアの内をじっくりと堪能したとでもいうように、謎の声は続く。

『ほう? お前は、見かけによらず――欲深い人間なのだな』

「分かったような口を聞くな」

 オリヴィアは、震える声で否定する。何故、今()()を思い出すのだろう。声の持ち主は、容赦なくオリヴィアの心を抉る。

『そうか? その、分不相応な言葉遣いも』

「違う。私から、出て行ってくれ」

 もう一度否定する。これ以上、踏み込まれたくない。

『――――悲しいほどに、賢い娘よ』

 心臓を掴まれたように、冷ややかなものがオリヴィアを支配する。()()が胸を抜けて頭まで上り詰めると思ったとき、意識は再び薄らいでいく。


 懐かしい場所に立っている。子供時代を過ごした建物――ウェイバリー孤児院。食卓について、まだ床に届かない足をばたばたと振りながら空になった食器を見つめる、栗色の癖毛を持つ女の子。オリヴィアが手を伸ばしても、その子に触れることは叶わなかった。

「おなか、すいたね」

 記憶に残る、幼いドロシーの声。

 ――その頃は、常に飢えていた。寄付でしか成り立たない孤児院のことだ。世間に余裕がなければ、孤児が弱者としてあっさりと切り捨てられるのは当然のことだった。だが、もう一つ原因があるのは、幼いなりにオリヴィアは理解していた。

 ――あの孤児院には、不浄の赤い目を持つ人間がいる。そう話す大人達の姿を、沢山見てきたのだ。

『――お前は、そのときどうした?』

「……あげる」

 そう言って、自身の食事を渡すことも多かった。満腹だったわけではない。ただ、自分はみんなを守るべき「姉」だったから――

『違うな。違う』

 また、あの声がする。何が違うというのか。これは正真正銘、オリヴィア自身の記憶なのに。

『飢えた子供の前に飴玉を渡して、これはお前のものではないのだから、食べてはいけない――そう言えば、子供が自分を律することができると思うか?』

 無理だ。咄嗟にそう言いかけたオリヴィアは、問いの真意に気付いて唇を噛む。

『お前は今、無理だと思ったろう? そう、無理に決まっている。だが、()()()()()()

 耳元で囁くような声が響く。思わず振り返っても、そこには何者もいない。

『心の底では分かっているのだろう? お前は、ただ――』


 ただ――愛されたかった。


『お前は誰よりも欲深い。目の前にあるものを、聞き分けの良い子供のふりをして手放して――実のところ、誰よりもその不合理なものを求めていた』

 どう否定しようとしても、反論する言葉が出てこない自分がいる。オリヴィアは、血の気が引くのを感じた。

『実際、そうしてお前は愛されたのだろう? 孤児院の人間全てにとって良い「姉」で居られた。それが分かっていて、お前は進んで目前の取るに足らぬものを手放したのだ。欲が無いふりをして――誰よりも、欲深かった』

 謎の声の持ち主は、オリヴィアを躊躇無く苛む。最早、この正体が何かなどどうでもいい。

『忌むべき赤い目を持ちながら、誰よりも愛を望んだ。そして、賢いお前は、そのためにどうすればよいかもまた、よくわかっていた』

 ――これ以上、私に踏み込まないでくれ。

『私はこれでいて、お前のことをとても気に入っているのだぞ。何かを得るには、何かを手放さなければならない――この世の摂理をよく理解している。だがお前は、最も欲するものたちを目の前に二つ差し出されて、どちらかしか選べなければならなくなったとき――どちらを選ぶのだろうな? どちらもお前が心から望むもの。手が届きそうで、届かないところにあるもの』

 オリヴィアは、自身よりも自身を知っているかのように語るこの声に、激しい恐怖を抱いていた。自身の震える身体を抱き締めて、縮こまる。

「誰。誰なんだ。私を、私をこれ以上……」

 頬を伝う零れだした感情を拭いもせず、オリヴィアの内を蹂躙してゆく声の持ち主に、ただおののいている。

『近いうちに、お前は私に必ず会いに来る――』

 濡れた頬を暖かいものが撫でる。何度目か、急速に色が失われていく世界を眺めながら、オリヴィアは目を閉じた。



 瞼を持ち上げれば、見慣れない天井が目に映った。酷い夢だった――荒い息はそのままに、汗の粒と、瞳から零れていたものを乱暴に顔を腕で拭う。

「……目が覚めたか」

 男の低い声に、顔だけをその方へと向ける。怪訝な表情でオリヴィアを覗き込むレナードと目が合った。そこで初めて、自身が寝台に寝かされていることに気付く。いつの間にこんな場所で寝ていただろうか。息をゆっくりと整えながら、オリヴィアは男が口を開くのを待った。

「随分魘されていたようだが。……どこか、悪いところでもあったか?」

「夢を見ていただけだ」

 重い身体を引きずるように、上体を起こす。部屋を見渡して、ここがカトレアで、今自身はリブラの屋敷にいるのだと理解が追いついた。

「覚えていないのか? 神殿に行った後、お前は倒れたんだ。ルークがここまで運んでくれた。……そのまま、二日も眠ったままだった」

「二日も……」

 記憶を手繰る。神殿へ行って、その後――。

 柱へと刻まれた青い龍。そのあと急に知らないところへ飛ばされたように感じたのは、やはり只の夢だったか。否、只の夢というにはあまりにも――苦しい夢だった。人に見せない、自分自身で一線を引いていた心の奥深くを、力尽くでこじ開けられるような夢。

「別に、今はどこも悪くない。多分……疲れてただけだ」

「……泣くほど、辛いのかと思ったがな」

 レナードは、オリヴィアの瞳を真剣に窺っている。見られていたのが嫌で、オリヴィアは唇を小さく噛んだ。

「別に子供じゃないんだから、一人にしておいてくれたら良かったんだ」

「本当に、何も覚えていないのだな」

 呆れたようなレナードの声は、どこか落胆を含んでいる。

「……なにも」

 気まずさを覚えて何気なく窓を見れば、顔を出したばかりの朝日が雪を照らしている。

「そうか。……慣れない気候で体調を崩したのかもしれんな」

 素っ気なく肩を竦めて返事とすると、レナードは苦笑いをした。――正直なところ、放っておいてほしい気分だった。見透かすような男の目が、今はただ鬱陶しい。そんなオリヴィアの様子を感じ取ったのか、レナードは重い息を吐く。

「俺は、父として心配するのも許されない――か」

 男の静かな声色が、心臓に水を掛けられたような冷たさをオリヴィアに伝える。そうじゃないと言いたくて、言えなかった。ささくれ立った心が、否定しようとする喉を阻害する。オリヴィアが黙り込んだままでいると、男は考え直すかのように僅かに首を振った。

「俺は何も知らない。お前がどうやって育ったのかも。お前の好きなものの一つすら、俺には挙げることができない」

「……そんなの。私のことをよく知っているのは孤児院の兄弟であって、院長先生であって――あんたじゃない。アルフレッドだって、実の親なんかより、あんたとのほうが余程親子らしい。……私よりもな」

 八つ当たりに近いのは自覚していた。それでも、レナードを突き放すような言葉が口をついて出て、止まらない。

 ――違う、言いたいのはこんなことではない。

「そうだな。大切なのは血じゃない、な」

 何故、無表情に見える男の、いつも通りの引きずるような声が、こんなにも悲しげに響くのか。

「……もう少し、休んでから来ると良い」

 レナードはそれだけ言うと、その巨躯からは想像がつかない程静かな動作で、そっと部屋を後にする。無意識に伸ばした手が空を切ると、ただ残酷に扉の閉まる音だけが残った。


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