呪われた村(2)
カトレアの地へ足を踏み入れたオリヴィアは、ただただ絶句していた。視界を覆う雪すら、今は気にならない。
異国へやってきたのかと錯覚する独自の文化を形成した町並みは、かつては美しかったのであろう。亀裂が至る所に入り、修繕の行き届いていない建物がやたらと目に付く。石畳の敷かれていたであろう道を一歩踏み出す度、残った僅かな石が足に引っかかった。空を覆う木々は、生命を感じさせない。
歴史から置き去りにされてしまったかのように、荒廃した世界が広がっている――
「驚いただろう? これがカトレア。朽ちるのを静かに待つだけの、絶望へ向かう場所さ」
セオドアの言葉に、オリヴィアは静かに息を飲んだ。
「四霊も見放した、お前達には分かるまいて――」
足を引きずりながら歩くギデオンの低く掠れた声が、灰色の世界に沈んでゆく。滅びの道を辿るこの場所には、色彩が無い。
長老と呼ばれた男が目指す先には、大きな一つの建物があった。豪邸と言うにはあまりにも朽ちたその家は、不気味なほどの静かさでオリヴィア達を待ち受けている。
一見しただけでも、元は美しい建物であったことには想像が付く。黒塗りのつややかな柱はその塗装の大部分を剥がれ落とし、剥き出しの木が腐りかかっている。分厚い硝子で出来た窓も、入った罅に這うように降りる氷柱が印象に残る。
カトレアの現状を目の当たりにし、圧倒されていたオリヴィアは、ふと横に居る少年――アルフレッドの様子が妙なのに気がついた。沈黙の中に、顔が強ばる少年の姿は、普段の愛嬌ある彼の様子とはほど遠い。この老人、もしや――そう思ったとき、静寂は破られる。
「――アルフ、平気か?」
レナードは、アルフレッドの肩に手を置き、そっと声を掛ける。
「大丈夫だよ、隊長」
弱々しく弧を描いて見せたアルフレッドの唇は、どことなく白い。
「……大丈夫という言葉はな」
言いかけるレナードの台詞には、どこか聞き覚えがある。
「『大丈夫でないときに使う』――」
男の声に被せるようにオリヴィアが呟くと、レナードは不思議そうな顔をする。苦笑いを浮かべたアルフレッドは、ゆっくりとため息をついた。
「あはは……そうでした。うん、大丈夫じゃないかも」
――ああ、この言葉は、以前アルフレッドから聞いたのだった。思い出して、オリヴィアは密かに二人の関係に嫉妬する。何気ないやり取りに、過ごしてきた時間が滲み出ているのだ。
無言で屋内へと入ってゆく仲間達に、オリヴィアも続く。通された部屋はかなりの広さがあり、中央に置かれた円卓の奥側へ臆することなく座る長老に対する形で、レナードも席についた。
着座するでもなく室内を見渡したオリヴィアは、壁に並ぶ肖像の男達に奇妙な違和感を覚えていた。一様に艶やかな黒髪を持ち、澄んだ夜の闇を嵌め込んだかのような瞳の、美しい男達。オリヴィアは、良く似た少年を知っている――アルフレッドだ。
そっとアルフレッドの様子を見ると、レナードが座る椅子の後ろで、老人の出方を静かに窺っていた。
「儂が聞きたいことも、お主達の用件も、同じであろうよ」
ふてぶてしい顔を貼り付けた皺だらけの顔の老人は、両肘を卓に突き、指を組んでいる。
オリヴィアは、ギデオンに感じていた違和感に気づき、絶句する。この老人――手の指が四本しかない。オリヴィアは壁の肖像を目に入れないよう、意識してレナードに対面する老人の様子を見た。違和感の正体と、薄々気づき始めたその理由から、目を逸らすように。
「……十年近く会っていなかった息子に、何も言うことは無いのか」
レナードの声は、怒気を含んでいる。オリヴィアは、アルフレッドが僅かに肩を震わせるのを見た。アルフレッドはこの老人の息子だというのか。親子と言うには、首を傾げるほどの年齢差がある。
「家を出た者に掛けてやる言葉など、有りはせぬ」
アルフレッドの瞳が揺れる。彼の目は、悲しみではなく、ある種の怯えのようなものを含んでいた。
「お前は、……お前は、子供を何だと思ってる」
黙って聞いていたセオドアは、抑えが効かなくなったように老人に吐きつける。
「……デイモンも、余計なことをしてくれたものよの。まさか貴様が捨て子だったとは、思いもよらなんだ」
セオドアの言葉を完全に無視すると、老人はレナードへと忌々しげな表情を向けた。
「お前は、俺の父すらも愚弄するか――」
「レナード。落ち着いて」
コーデリアの短い制止に、男の奥歯を噛み締める音が聞こえた。そっと近づいたコーデリアは、レナードの肩を撫でる。――と、レナードはやんわりとそれを押し退けていた。冷笑とともにその様子を眺めていたギデオンは、その皺だらけの顔からは想像も付かないほど力強い目でレナードを見下している。
「ふん、手負い獅子めが。……まあよい。貴様には、聖痕が存在したはずであったな? ……右肩を見せよ」
怒りを抑えるように少しの間を置くと、レナードは躊躇無く胸元を大きく開く。レナードの後ろにいるオリヴィアには見えないが、どんな紋が刻まれていたかは目に浮かぶように思い出せる。とぐろを巻いた龍の半身のような、独特な紋――
眉一つ動かさない長老は、嗄れた声を出す。
「……やはりな」
「知っているのだな。俺の聖痕が消えた理由を」
――消えた?
思わず背中側から覗き込んだオリヴィアは、男の肌に刻まれていた筈の紋を探して目を見開いた。まるで最初から何もなかったかのように、そこにはただ男の肌色があった。と、レナードと目が合う。困ったような顔で笑みを作った男に、口元を結って沈黙を返す。
「消えたのは、王都の一件の後だ。あの黄龍とかいう化け物と、関係があるのだろう?」
「ふむ……間違いなく、貴様の身体は『依代』であったようだ」
コーデリアが眉を顰める。
「レナードが……『依代』?」
「黄龍は、土の一族の力の源流。神霊の類いであるよ――この世に留まるには、依代が必要だ。貴様と、リチャードとかいう現国王。この二人の身体へ宿っていた黄龍が、何らかの手段をもって抜け出したものだと考えればよい。その痣――魔導士と偽るための紛い物にしてはよくできていると思っておったが、まさか貴様が王家の血を引いているとはな」
レナードとリチャード。反国王として魔導士組織を纏め上げる者と、国の頂点に君臨する者。この二人が血を分けた兄弟で、しかも双子というのは、余りにも皮肉な話だと今更ながら思う。
「大方の出来事は、ルークから聞いておる。ブライアンの考えていることは分からんが――まず間違いなく、魔力の封印を解く意図は存在するのであろう」
ルーク。彼がレジスタンスの隠れ家を去ってからたった十数日の筈なのに、久しく聞いていなかった気がする名前である。カトレアに戻った彼は、今は何をしているのだろうか。
「魔力の封印を解こうとしている割には、オリヴィアを……害する好機を……、あいつは、みすみす逃して見せた」
口にするのも憚るその事実を、レナードは絞り出すように言う。オリヴィアは、王都で黄龍を見たあの日を思い返した。何度も自身を殺す機会がありながら、ブライアンは敢えてそれをしなかった。思い出しても、肌が粟立つ思いだった。無意識に身体を抱き締める。
「土の一族の封印は二重の構造を取っている。一つは、そう――直系一族の末裔四人によるもの。もう一つが、王家の血筋によるものだ。国王と貴様の二つに分かれた龍の封印を解くためには、二人を引き合わせる必要があった」
「俺は、王都にまんまとおびき寄せられたということか」
レナードの声色には、屈辱のようなものが滲んでいる。
「ふん、そこの小娘には同情しよう――愚かな父親を持ったとな」
無用に男の感情を煽る老人の言葉を、レナードは今度こそ受け流す。謗りが自身の周囲に及ぶのが、この男には堪え難いのかもしれない。興が削がれたとでも言いたげな表情の老人は、アルフレッドを一瞥すると、オリヴィアやイアンにも視線を流す。
「……黄龍の姿を見たという事は、奴は既に封印の片側を解いてみせたということ。――次に狙われるのは、お主達三人のうち誰かであろうよ」
誰もが、一様に重苦しい雰囲気を作り出す。
「魔導士にとって、由々しき事態なのは間違いない。歴史に聞く悲劇を繰り返してはならぬ」
歴史に聞く悲劇とはいったい何なのか。だが、老人の地獄から引き摺るような声が、オリヴィアの耳を通過して背筋を震わせた。
「……どうするつもりだ」
レナードは、訝しむような声を抑えずに問う。
「取れる手段など、限られておるであろう? 再び封印という手段を用い、魔力を源から断つ――もしくは」
「ブライアンを始末するか……か」
毅然とした様子で言うと、レナードは腕を組んだ。
「どちらにせよ、今一度の封印の儀が必要となる。黄龍を野放しにはできぬ。已むを得ん――儂は、お主達の協力を望む」
「……ふん、何時になく素直だな。耄碌したか」
レナードが、小馬鹿にしたように老人を見た。
「戯け、若造。直系の血を汚した罪は重いぞ」
老人はオリヴィアに、侮蔑を隠そうともしない視線を投げる。負けじと、オリヴィアも老人の落ちくぼんだ目を見た。何も言えなくなったレナードを見て満足したように少し嗤うと、ギデオンは疲れ切った顔をした。
「……話にならんな。――今日のところはお引き取り願おうか。封印の儀とて、数百年前の出来事。儂らとて、全てを伝え聞くには時間が経ちすぎている。調べる時間が必要だ」
「ふん、迅速な仕事を頼みたいものだな」
それだけ言うと、男は静かに立つ。アルフレッドとオリヴィアの手首を片手で掴むと、振り返りもせずに早足で部屋を飛び出した。