交錯の夜(2)
――長く、じっとそこに佇んでいた。不意に近づく足音に振り返ると、暗闇から現れたのはセオドアだった。今一番会いたくない人物の登場に、オリヴィアは肩を強ばらせる。
「こんなところに居たの。そろそろ戻った方が良い」
放っておいて欲しかったが、他ならないセオドアの言葉に、オリヴィアは唇を噛んだ。
「……わかった」
「不満かい?」
見透かすように目を細めて笑うセオドアが、そこに立っている。
「不満なことがあるなら、そう言えばいいのに」
セオドアはため息交じりにオリヴィアの横に来ると、まるで世間話をするかのような口調で話し始めた。
「アルフやクロエは、自分を見つけてるって言うかさ。もう立派に確立してる感じがして、僕としては、それはそれで寂しいと思う。でも、君はそれとは違うよね。自分が無いと言うよりは――諦めることを知ってる。時々面白くないから反発してみるけど、結局周りに従っちゃう。自分の人生は、自分のものなのに」
アルフレッドやクロエとは違う。だが、オリヴィアにとってはそれが普通の事だった。ふと、いつから自分はこうなのだろうと考えて、オリヴィアは瞼を閉じた。
選びたくても選べない道はある。一生の質は、生まれたときからほぼ運命づけられている。それは、貴族も平民も、孤児だって変わらないことだ。ただ、どんな立場の人間でも、一定の折り合いをつけて生きるだけなのだ――それが持論であって、オリヴィアの人生の受け止め方だった。
上手く伝えようにも、良い言葉が見つからない。オリヴィアは、散乱した思考をただ吐いた。
「抵抗したって、どうにもならないことばっかりだ。地位も力もない人間がいくら逆らったって、すぐ大きな流れに捕まるんだ。だったら、諦めた方が――受け入れる方が簡単だ。あんたらだって、無理矢理レジスタンスまで連れて行って、私の話なんて聞きもしなかった。……もう、戻れない」
理不尽にオリヴィアの日常を奪ったのも、結局のところ、己に流れる血が――魔導士の末裔であるという生まれが、決めたことだ。
そこでオリヴィアは言葉を切った。
「言いたいことは、それだけかい?」
月明かりも無い空間に、心の読めない微笑を浮かべるセオドアは、たっぷりと時間を置いて口を開いた。
オリヴィアは、自分の言葉を反芻する。瞬間背筋に冷たいものが走った。口にしたこと全て、逆恨みが甚だしい。次に来るかもしれない罵倒に身構えて、オリヴィアは身体を硬直させた。
「別に怒ってないよ。オリヴィア君って人間が少し分かった気がしただけ。ふふ、僕が思ってたよりも君は子供だったみたいだ」
セオドアの予想外の台詞に、オリヴィアは目を瞬かせた。子供だと言われて、いい気はしない。少し反論したくなるのを抑えて、オリヴィアは続きを待った。
「……すねてるんだよ、君は。黙って自分の殻に閉じこもって、いじけてるだけだ。どうせ自分の話なんて聞いてくれないんでしょ、ってね」
「そんなこと、」
「――君は、変えたいかい? 魔導士を人とも思わない人たちの考えを。ひいては、国を」
不意に尋ねられて、オリヴィアは唇を結んだ。――考えるまでもないことだ。阻むもの無く、会いたい人が居る。
「何かを変えたいと願うなら、まずは自分を変えたらどうだい。すぐ諦めるような人間に、たいしたことは出来ないよ」
セオドアの声色に、刺すような響きが混じる。オリヴィアは、そっと手を握り込んだ。
「……急にそんなこと言われても、分からない。だって、私はずっとこうやって来たから」
オリヴィアが俯くと、セオドアは「ふうん」と何かを考えるような素振りを見せた。
「じゃ、僕から宿題を出そう。隠れ家に帰るまでに、一つだけで良いから――自分の絶対に譲れないものを、みつけてごらん」
「譲れない……もの」
「そう。これだけは自分の意思を尊重してくれってもの、何かあるだろう? 君はまだ子供なんだから、わがままとか理想論とか、綺麗事とか格好付けることとか、何言ったって良い。理性的なのは良いことだけど、君はすぐ自分の能力を見限るからね。自分をもっと信じてみなさい」
セオドアが顔を上げる。釣られて見ると、知らない間に薄くなった雲の影から、僅かに月明かりが溢れていた。
「…………やってみる」
不思議と、素直に従う気持ちになる。ひんやりとした空気を思い切り吸い込んで、胸から身体へと循環させる。
「よろしい。まあ、大人の助言に従ってみるのも良いものだよ。君の三倍は生きてる者からの、ね」
「さ、三倍……」
「君十六歳だろ? 僕は四十八歳だから、ちょうど三倍。ふふ、これでも、酸いも甘いも経験した大人だよ」
頭では分かっていても、そう表現されればとても長く感じてしまう。存在の知れない父親も、生きているとすればセオドアくらいの年齢なのかも知れない――思い至って、セオドアの娘の存在が頭をよぎった。
「あれ、ちょっとは元気出たかなと思ったのに。そんな顔しないでよ」
セオドアの目尻にしわが寄る。何だろう、とぼんやり眺めていたオリヴィアに手が伸ばされる。と、不意にオリヴィアの頬が掴まれる。セオドアが掴んだ肌が、そのまま上向きに引っ張られ、無理矢理オリヴィアの口角が持ち上げられた。左右に伸びた頬が痛い。
「そっちの方が可愛いんじゃない? せっかくお母さんに似て美人さんなんだから、楽しそうな顔しなよ」
セオドアが、いたずらぽい顔で笑った。オリヴィアは、逃げるように一歩下がる。
――今言わないといけない、と思った。
「その、…………ごめんなさい」
自分でも驚く程、その声は小さく掠れていた。
「何の話かわからないな。僕は君に謝られないといけないことを、何もされてないからね」
いたわるように、そして突き放すようにも感じられる声が、セオドアから発せられる。
「だって」
続きを言うのは憚られて、オリヴィアは目を伏せた。
家族と引き離される痛みは、分かっているつもりだ。それが、誰かの為に一生会えないのだとしたら――
「そう思うのなら、精一杯生きなさい。……戻ろうか」
吹き抜ける風が、オリヴィアの髪を大きく巻き上げた。




