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交錯の夜(1)

 雲に覆われた日が、沈もうとしている。途中雨に見舞われるという災難があったことを除けば、ウェステリアの平野をおおよそ予定通りに進んでいた。

 服や髪が雨水を吸い込んで、重くなった身体を休める場所を求めたレナード達は、やっとのことで見つけた森の木々に、降り続いている雨から逃れるように入り込んだ。遮蔽物が存在する分、屋根が無いよりはまだ気持ちが違う。

 オリヴィアは髪、そして服の裾を順番に力一杯絞ると、肌に滴る水を払い落とした。

 野営の準備を始めたレナードへ、疑問に思ったオリヴィアは尋ねる。

「今日はもう進まないのか?」

 半分は願望を込めてだ。オリヴィア自身の体力が限界に近い。最初は尻だけだった痛みも、既に腰や肩にまで広がっている。

 雨除けの布を木に掛けていたレナードは、手を止めることなく、何でもないように答えた。

「ああ。雨も酷いが、これ以上走れば馬を潰す。馬にも休養が必要だ」

「まあ、年頃のお嬢さんにはきつい道だったよねえ。僕らがやっとくから、オリヴィア君は座ってて。身体を温めないとね」

 セオドアはオリヴィアの頭をぽんと叩くと、そのまま「よっこいしょ」と言いながら隣に座り込む。どこかから見つけてきたらしい乾いた木に紐を掛けると、ルークに手伝わせて火を起こし始めた。

「アルフレッドがいれば楽なんだがな」

 ため息をつきながら作業するルークに、背後から急に声が飛んでくる。

「僕を火種代わりにしないでよ」

 突如響いた声に振り返ると、アルフレッドやイアンといった面々がそこに立っていた。アルフレッドが軽く人差し指を向けると、瞬く間に火がおこる。オリヴィアは、燃え上がる火が放つ熱を一身に浴びて、ほっと息をついた。

 軽やかな足取りで歩いてくる魔道士達の中には、知らない顔も混じっている。馬を引きながら戦闘を歩いてくる女は、こちらをぐるりと見渡した。

「考えることは同じのようね」

「そのようだな」

 レナードは、女をちらりと見るとぶっきらぼうに言葉を返した。雨を防げる場所というのは、限られている。二班の合流の予定は王都まで無かったが、同じ場所を訪れるのは必然と言っていいだろう。やってきた人数を数えて、レナードは極めて事務的に女に尋ねた。

「……一人足りないようだが」

「馬負傷。撤退」

 続く女の言葉も、非常に簡素なものである。言葉以上の信頼関係のようなものが、オリヴィアにも伝わってくる。レナードは眉を顰めて渋い顔をした。

「勘弁してくれ」

 アルフレッドに乗っていた馬を渡すと、女は真っ直ぐにこちらへ向かってくる。アルフレッドやイアンが馬をつなぎに言ってしまうのを尻目に、オリヴィアのそばで歩みを止めた。セオドアを一瞥し、オリヴィアを品定めするかのように見る。穴が開くのでは無いかと言うほど見つめられて、思わずオリヴィアは顔を女に向けた。

「えっと、……あんたは」

 オリヴィアの瞳に映ったのは、艶やかな唇に妖麗な笑みを浮かべる女。三十代前半くらいだろうか、大人の魅力に満ちた美しさがある。だが、胸や尻を大胆に強調し、へそまで露出した服装には、同性でも目のやりどころに困ってしまう。

「年上の知らないお姉さんに向かって『あんた』はないんじゃなくって? ずいぶん失礼なお嬢さんだこと」

 意地の悪い笑い声すら聞こえてきそうな口調で、女が言う。オリヴィアが返事に詰まっていると、レナードが鼻で笑ってみせる。

「お姉さんって歳でもないだろうが……うっ」

 言うが早いか、女の肘がレナードの腹に刺さる。的確にみぞおちを突く一撃によって、レナードは静かに悶絶していた。初めて見るレナードの様子に、オリヴィアは耐えきれず吹き出した。

「隠れ家の方でも、ちゃんとお話ししたことはなかったわね。私はコーデリア、コーデリア・エレクトラ。そこにいるレナードの、まあいわゆる幼馴染ってやつよ」

 コーデリアと名乗った女は、美しい所作でオリヴィアに一礼してみせる。だが、オリヴィアはそれよりも彼女の言葉に疑問を抱いた。

「幼馴染って言うには、歳が離れているような……?」

 四十代前半らしいレナードと、十は離れて居るであろうコーデリアが幼馴染というのは、少し違和感がある。

「騙されるな……こいつは俺より年上だ、三つばかり。ふん、随分若作りしているようだがな」

 さっきの報復だとばかりに言い放ったレナードに、オリヴィアは思わず変な声を上げそうになる。どうやっても、四十代には絶対に見えない。若作りというよりは、本当に若いのだ。

「あら、可愛くないわね。小さい頃はデリ姉デリ姉って言って、ちょこちょこ後をついてきたくせに。ねえ、レニーちゃん」

「………………うるさい」

 コーデリアの言葉は、レナードからそれ以上の言及の機会を無残に奪いとった。レナードが普段は絶対にみせないような顔をしていることが、オリヴィアの笑いを誘った。

「さて。お嬢ちゃんは座りっぱなしで手伝わないのかしら?」

 先程までの態度とは一転して、オリヴィアを見下ろしながら冷ややかな口調でコーデリアは言った。思いがけず、オリヴィアの背筋が反応する。

「それは」

「……僕が休んでてって言ったんだ。不慣れなんだから、可哀想だろう」

 セオドアが助け船を出す。だが、コーデリアの顔は不愉快の色を隠そうともしない。

「そうだとしても、よ。この子には負い目とか贖罪とか、そういうものが無いのかしら」

 女の声は、思わずぎょっとするほど冷たい。

「コーデリア」

 セオドアから牽制するような声を掛けられても、コーデリアの顔は凍り付くような鋭さを含んでいる。堪らずオリヴィアは、戸惑いながらも口を開いた。

「……な、何の話」

 その瞬間、コーデリアの顔に熱が走る。オリヴィアの肩を掴むと、堰が切れたように叫んだ。

「ふざけないで! あなたのせいで姉と姪は――! セオドア義兄さんから妻と娘を奪っ……」

「コーデリア!」

 レナードが、耐えきれないといった様子で二人の間に割り込んだ。勢いよく、オリヴィアの肩からコーデリアを引き剥がす。

 オリヴィアは言葉を失って、コーデリアの怒りのにじみ出る顔を呆然と見つめていた。

「あれは、俺の過失なんだ! オリヴィアを恨まないでくれ。……頼む」

 苦悶を顔に浮かべたレナードは、最後には消え入りそうな声で言う。オリヴィアは、明確に自身へと向けられた憎悪にただ戦慄いていた。不意に何かが肩に触れて顔を上げると、ルークの手がそこにあった。目が合った瞬間、ルークはばつが悪そうに顔を逸らして歩き去ってしまう。

「悪いけど、無理よ。割り切れない。……頭を冷やしてくる」

 それだけ言うと、コーデリアは踵を返して森の奥へと消えてゆく。オリヴィアは、焦点の定まらない目でその背中を追った。自分の人生に交わることのない劇を眺めているような、どこか違う世界にいるような感覚だった。

「……ア、オリヴィア」

 呼ばれていると気がついて、声のする方を見る。どこか上手く働かない頭で、呼んだのは隊長だったか、と認識する。自身の両肩に手を置いて、真剣な顔で見つめるレナードの朱い目がそこにあった。

「オリヴィア。聞こえているのか」

 重い頭で、オリヴィアは小さく頷いた。

「……気にしなくて良い。お前は悪くない。気にしなくて良いんだ」

 レナードはそう繰り返した。それでも、コーデリアの憎しみに満ちた声がオリヴィアの頭を支配していた。

「でも、私のせいだ、って」

 目の奥が痺れるような感覚のする頭で、オリヴィアはコーデリアの言葉を反芻するように言った。

「それは違うよ、オリヴィア。君が悪いわけがないんだ。ほんの赤ん坊だった君が責められる事なんて、あるはずもない」

 頭上から届いたのは、優しいセオドアの声。

 だが、激しい恨みの籠もったコーデリアの言葉は、オリヴィアの心を抉るには十分だった。黙り込むと、セオドアが苦い笑いを零した。

「僕が言っても納得しなさそうだね。こうなる前に……話しておくべきだったのかもしれない」

 セオドアは、後悔を滲ませた表情をしていた。レナードは静かに頷くと、もう一度オリヴィアの目をしっかりと見た。

「俺が話そう……。黙っていて悪かった、我々にとっても思い出したくない過去で――説明から逃げていたんだ。十六年前の、俺達の起こした革命と……その、結末を」

 レナードは、彼自身にも言い含めるかのようにゆっくりと、そして力強く言った。声色は低く、彼の顔には僅かに汗が滲んでいる。

 オリヴィアの肩から手を離すと、レナードはそのまま眉間による自身のしわへと手を置いた。

 いつの間にか戻ってきていたアルフレッドやイアンを認めて、レナードは声を掛ける。

「アルフレッド。お前にも、話したことは無いな」

 レナードはオリヴィアに対して焚き火を挟んだ反対側へと回り込んで、そのまま片膝を立てて座り込んだ。アルフレッドにも座るように顎で指すと、時折激しい音を立てながら揺れる炎へと視線を投げる。

「僕たちは席を外そうか、二人とも。身体を乾かすのはあとでいいね」

 ルークとイアンは、それぞれ思うところのあるような表情で佇んでいた。膝を庇うような動作でゆっくりと立ち上がったセオドアに、ルークは歯切れの悪い声で返事をする。

「……そう、だな」

 無言で頷いたイアンに静かに微笑むと、セオドアはゆっくりと歩き始めた。


 三つの足音が遠ざかってしまうと、辺りには雨音のみが響き渡っていた。レナードは、ゆっくりと、話すことを選ぶように――そして、悲しみを抑えるような声色で話し始める。

「ことの始まりは、十七年前の冬。草木のほぼ育たないカトレアの冬越えは、厳しいものでな。カトレアをぐるりと囲む山々で行う狩猟の他は、他地域からの輸入で賄うことしか出来ない食料を、どうにか分け合って乗り越えている。カトレアの魔導士達にとって、他地域からの穀物は命綱のようなものだったんだ」

 実情を知るアルフレッドは、どこか遠い目で頷く。

「今もそうだが、人間の住む地域に単身で潜り込む魔導士は一定数いた。――そんな風にカトレアから抜け出しても、たいていの魔導士の結末は同じだ。先日のウェステリアでの布告もそうだが、領主はとにかく魔導士を排除する政策をとるからな。それだけで魔導士を恐れる人々の信頼と人気を得られるのだから、当然のこととも言えるが……。

 その一環とも言える政策を、突如国王が出したのだ。先代の王であるロナルドは、愚王として有名でな。風向きを変える意味もあったんだろう。『カトレア領への輸出を全面的に禁止する』――勿論、カトレアに輸出することで儲けを出す商人達は反対したが、それを喜ぶ大多数と比べれば小さなものだ。魔導士達はいとも簡単に、国王の生贄にされた」

 レナードは、一度そこで言葉を切った。オリヴィアはそっと唾を飲み込んだ。続く男の言葉を、ただ待った。

「……丁度、アルフが生まれた頃だな。当然カトレアは瞬く間に立ちゆかなくなる。俺の父が結成していたレジスタンスは、それまではとても小さなものだったが――カトレアでも声が大きくなった反国王の者を加えて、ずいぶん組織が大きくなった。お前の母――フェリシアが入ったのも、そのときだ」

 オリヴィアは、自身の身体を抱き締めるように縮こまる。

「ともかく、俺達には後がなかった――食べるものが無ければ、生きられないのだからな。無茶なのは最初から承知で、俺の父は革命を起こすことを決意した」

 いつの間にか雨は止んでいた。ひんやりとした秋の夜を、湿っぽい空気が充満した寒さが包んでいる。オリヴィアはずいぶん乾いた身体を擦りながら、男の言葉に耳を澄ましていた。静かに燃え上がる火が、不意に大きな音を立てて跳ねる。

「最中、……俺の父は死んでな。若造だった俺だが、他の魔導士の意向もあって、組織の指揮を執るようになった。

 ……多くの犠牲を出したが、後が無いというのは人を強くする。結果として、王は倒れたんだ。これで全てが変わると、俺達は信じて疑わなかった――俺は、長年の友で、長く共に戦ってきたブライアンに後始末を任せることにした」

 その名前はよく知っている。オリヴィアは、その驚きに思わず声を出した。

「ブライアンって、国王の側近の? ……魔導士だったのか」

「そうだ。……ブライアンは、俺達魔導士をあっさりと裏切った。理由は俺にも分からんが、ともかく、前王の息子であるリチャードを王に祭り上げると、それを操り始めたのだ。……裏切られたと分かった時点で、俺は既に身重だったフェリシアや、子が産まれて間もなかったセオドアの夫妻を逃がした。カトレアでも、今はウェステリア領になっている辺りにだ……。戦争にも鉄則がある。即ち、兵士以外には危害を加えないということだ」

 炎に照らされた男の顔が悲しみに染まった。

「ブライアンは、当然俺達のいる隠れ家に攻め込んできた。……完敗だったよ。生き残ったのは、当時若かった俺や――歳が近い者が数名。年長者達は、若い者の命を優先しろと言って俺達を逃がした。俺達レジスタンスの革命は、最終的に大敗で終わった」

「隊長……」

 悔しさを滲ませたレナードの表情に、アルフレッドが思わず呟く。

「――勝者は敗者に対し圧倒的有利な条約を結べる。レジスタンスと言っても、魔導士は魔導士だ……責任はカトレアが負った。カトレアへの輸出は一部解禁されたが、重税が掛けられるようになった。逃げ延びた俺はブライアンによって指名手配されたが、……ともかく、これで終わった、はずだった」

 ああ、とオリヴィアは悟る。この先は聞きたくない。それでも、レナードは重い口を開く。

「しばらくは何も無かったんだ。冬を越して年が明けた後、フェリシアは無事に娘――オリヴィアを産んだ。……そのすぐ後だ。カトレアが襲われたのは」

 ――ああ、やはり。オリヴィアは、結末を予感して目を伏せた。

「国王はウェステリアと手を組んで、騎士団を送り込んでみせた。俺は、そのとき壊滅したレジスタンスを立て直すのに必死で――いや、言い訳だ。知らせを受けて、すぐに馬を走らせた。だが、着いたときには既に」

 オリヴィアは、呼吸を忘れそうになっていた。唾を飲み込んだまま、聞きたくもないその結末を、只頭にある筋書き通りか確認するためだけに、男が口を開くのを待った。

「……魔導士にとって、直系一族の血は大切なものだ。カトレアが攻め込まれたとき、フェリシアは真っ先に狙われた。セオドアの妻は――そのとき、自分と、そして娘を。……フェリシアと、オリヴィアの身代わりにすることを選んだ」

 胸に刃を突き立てられたような痛みが、オリヴィアに襲った。無意識に小さく震えていた唇が、急速に乾いてゆくのを感じる。

「フェリシアは結果として倒れたが……それでも、お前だけは無事だったんだ。機転を利かせたセオドアが、何とかウェステリアの孤児院に預けた。だから、お前は今ここにいる」

 震える身体を押さえ込んで、オリヴィアは膝を抱き締めた。寒いのか、怖いのか、自分でも分からない。今セオドアやコーデリアの顔を見たら、逃げ出しそうだった。

「……赤ん坊だったお前が、恨まれる筋合いもない。だが、そう割り切れるほど感情というものは簡単でもない……さっきも、楽しそうにしているお前を見て湧き上がってくる者があったんだろう……。コーデリアのことを、嫌いにならないでやってくれ」

 膝を抱き込んで目を伏せたまま、オリヴィアは小さく頷いた。

 どれくらいたったのだろうか。急に肩に手を置かれて振り向くと、寂しそうな顔で唇だけの笑顔を浮かべるレナードがいた。

「さっきも言ったが。全て、俺の誤った判断が招いた事態だ。……すまない」

 男の、普段の超然とした雰囲気からは考えられない声に思わず見ると、後悔の色を湛えた朱い瞳と目が合った。反応に迷って、オリヴィアは視線を逸らす。沈黙が辺りを包んで、時折聞こえる葉擦れの音だけが耳に残る。

「……少し、風に当たってくる」

 一人になりたいと思った。オリヴィアは反応を待たずに立ち上がると、振り向かずに木々の合間を縫った。

 オリヴィアは、とにかくがむしゃらに歩いた。雨が止んだばかりの土はぬかるんで、土と混ざりあった葉は時折足にまとわりつく。生い茂った草木は足を、そしてオリヴィアの意識を阻害する。

 切り立った崖に行きついて、オリヴィアは足を止めた。気が付けば、しんと静まり返る暗闇がオリヴィアを包み込んでいる。濡れた木の幹に身体を預けると、空を見上げた。厚い雲で覆われた夜空には、月すら見られなかった。

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