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激動

 王宮の朝は早い。心地よいとはとても言えない、どこまでも厚い雲で覆われた空から降る薄暗い太陽の光が、ふんだんに作られた硝子の窓から室内へ入り込んできている。湿気を少し吸い込んだ、いやに柔らかい絨毯が、一歩踏み出す度に男の足を阻害した。

 だだっ広い書斎。机に肘をついてふてぶてしい顔を貼り付けた主の前で立ち止まると、男――サイラスは、腰に手を当てて疑うような目をみせた。

「なあ、ブライアンさんよ。本当にこんな作戦で上手くいくのか? 予定じゃ、連中はあと数日もすればこっちに攻めてくるだろうけどよ。隊長……じゃなかった、元隊長は、前回報告に行ったときにはかなり俺のことを疑ってたみたいだぜ。それでも追求せずにまた俺を送り出す辺りが、甘いところなんだけどな」

 サイラスは、口の端をわざとらしく持ち上げた。目の前にいる壮年の男――ブライアンもまた、髭をたくわえた口元に刻まれた法令線をより深く作ってみせる。

「レナードは必ず来るさ、そういう男だ。疑っていたとしても、お前を助けに――一度仲間だと認めた相手にはとことん甘い、情けない男だ」

 腹から馬鹿にするような笑い声が、二人の口から同時に漏れ出す。

「違いねえ。まあ、そこら辺がくせ者揃いのレジスタンスを束ね上げる所以なんだろうけどな」

 ああ、心地よい。サイラスは、心から愉快な気分に満ちていた。

 ――サイラス・アルファルド。火を司るハイドラ家の従属、アルファルド家の嫡男である。

「で、だ。ブライアンさんよ……あんた、あの話は本当なんだろうな。こっちは隊長を裏切るっていう、心が痛ぁい思いをしてるんだ。反故にしたら――」

 その声を遮るように、ブライアンは口を開く。

「ああ、私がお前を、騙せるわけがなかろう。今の私には、何の力も無いのだから」

 ブライアンは芝居がかった声で言い放つと、自身を包む豪奢な服の胸元を乱暴に掴んでみせた。襟を飾る金の留具が引きちぎられ、重量を受けさせる音と共に絨毯へ落下する。

 男の露出した浅黒い肌に刻まれていたのは、不思議な模様を(かたど)った痣。――聖痕だ。

 ――あれが、サテュルヌ家の。

 サイラスは満足げにそれを眺め、口笛すら吹いてみせる。それに機嫌を良くしたように、ブライアンの唇がそっと弧を描く。仰々しく腕を広げると、高らかに言い放った。

「この忌々しい封印が解けた暁には、必ず」

 魔導士としての力を奪われてなお、魔導士であるという証だけは呪いのように存在する――サテュルヌも、その下に属する一族も。哀れだな、とサイラスは密かに思う。

 ふと物音に窓を見遣ると、いつの間にか降り出していた雨が叩きつけるように硝子を揺らしている。サイラスは、不意に頭に浮かんだ心配事を口にする。

「さて。俺らの大事なお人形ちゃんのご機嫌はどうなんだ? そろそろ玉座の上で暇してる頃だろ、お伺いしとくべきか。……慣れねえんだよなあ、あの顔」

 神の御声の元に政治を行うという王や、王となるべく生まれてくる王太子の容姿が、卑賤な者達の目に触れることは無い。神の為に存在するものであるから、衆人の前に晒すことは禁忌とされてきたのである。さまざまな行事の際には、常に顔を覆う布を身につけて民の前に現れる――これは、必要最小限な世話の者を除いて徹底されている。

 だからこそ、サイラスが初めて王の顔を見たときは、大層な驚きがあったものである。

 そう、あの男と、瓜二つとしか表現できない面立ちで――

「ふん、言うな。私とて最初は驚いたがな」

 嘲るようなブライアンのその顔は、醜く歪んでいる。

 不意に、戸を叩く控えめな音が聞こえる。ブライアンが返事をすると、少しだけ開いた扉から声が飛び込んでくる。

「ブライアン様。陛下がお呼びです」

 響いたのは、まだ若い少女の声。ブライアンは「わかった」とだけ返事をすると、面倒そうにゆっくりと立ち上がった。報告を終え、一礼して踵を返した少女の後ろ姿が、閉じていく扉から僅かに覗く。少女の鮮やかな栗色の癖毛に、サイラスは僅かな違和感を覚えた。

「リチャードの側仕えにあんな女、いたか?」

 王に直接仕える者の数は非常に限られている。王都に来てから長くはないが、見覚えの無い顔があるのは少しおかしい。

「侍女ではない。あれは騎士だ――未来の、と付くがな」

「はあ!? 女だろ!?」

 ブライアンの言葉に、サイラスは思わず大声を出した。広い空間に反響して、鼓膜を揺らす。

「ふ……。ウェステリアで魔導士騒動があったな。そこで面白いものを拾ったのだ」

「それって、アルフレッドの野郎が大暴れしてくれたやつか。あいつが大手を振って暴れ回ってくれたお陰で、隠れてた魔道士らは騒ぎに乗じて上手いこと逃げやがるし、例の小娘――オリヴィアもレジスタンスの連中にまんまと引き入れられたんだろ。ふざけやがって」

 サイラスは先程までの気持ちを一転させて舌打ちする。あのときに限れば、レジスタンスは一枚上手だったと言わざるを得ないのである。――思い出しても、腹が立つ。

「そうだ。オリヴィアを見つけるのさえあと一歩早ければ、もう少し面白いものが見られたのだが――ウェステリア公爵から派遣させた兵も、及ばなかったな。残念なことよ。……だが、あれを見つけた」

 ブライアンは、足を柔らかく包む絨毯を一歩一歩踏みしめるように歩く。髭を撫でつける男の指先は、老婆のようにしなびている。

「あの女……小娘の知己なのだよ」

「……ぶつける気か? あんた、えげつないことするよな。そういうところ、嫌いじゃないぜ」

 やれやれとでも言わんばかりのサイラスを一瞥すると、ブライアンは静かに部屋を出た。乱暴に手を振って送り出したサイラスは、頭を雑に掻きむしりながら――凍てつくような冷笑を浮かべていた。



 顔を出したばかりの太陽は、辺りを薄ぼんやりと照らしている。耐えがたいほど冷たい風が、オリヴィアの長い髪を攫ってゆく。これからの行程を思えば憂鬱になる雲が、行く先の方を覆っている――オリヴィアは風に気を取られて平衡を崩しかけると、慌てて身体の前に伸びている手綱を握り締め直した。

「ぼさっとするな。足手纏いになるようなら置いていくぞ」

 前方から、これでもかと言うほどに睨みを利かせた青年の、氷のような声が刺さる。体制を整え直すと、オリヴィアは青年――ルークの剣幕にすかさず謝罪した。

「す、すまない」

 ルークの操る馬は速度を落としていて、オリヴィアに合わせてくれているのが分かる。レナードやセオドアはもう前方に小さく見える方なので、かなり遅れをとっているのは間違いないだろう。

 オリヴィアは、擦り切れてしまうのではないだろうかと思うほどに痛む自身の尻を嘆きながら、踵を使って馬へ速度を上げるよう指示を出す。ぎこちない動作だが、速度が乗ってくると、先導するルークを追って走り出した。

 オリヴィアらは今、ウェステリアの北の端、ヘルブラオ山脈を下山してすぐの平野に居る。サイラスという男が囚われているという王都を目指して、馬を走らせひたすら南へと下っている道中だ。

 まだ日が昇るよりもかなり前、数刻前にたたき起こされたオリヴィアは、レナードらと王都へ向かうことを告げられた。オリヴィアがいるのは、レナードが率いるこの四人組の一団である。

 アルフレッドやイアンは、同様に四人組の別の一団に編成され、違う道筋を通って王都へ向かっている。これは、組が大きくなることで機動力が落ちることと、人目に付きやすくなることを懸念した結果レナードが出した方策だった。

 この人数で平野を走っていても、商人の一団か何かだと思われる可能性が高い。うなじという比較的聖痕が目立つ位置にあるルークは、それを隠す為の包帯を巻いてはいるが、その他で特に不審に見える点はないはずだ。

 それでも、街や大きな道を通行するということはしない。道の無い、ぬかるんだ地面や草木の生えっぱなしになった草原をただ走るのは、馬にある程度慣れた者であってもかなり体力を削られる行程である。まして、乗馬経験がレジスタンスに加わってからの僅かな期間しかないオリヴィアは、既に泣き出したい気分になっていた。

 オリヴィアは、何度目か分からない大きなため息をつく。少し前を走るルークにもそれが聞こえていたらしく、馬蹄の音にかき消されないよう、半分吐き捨てるような声がオリヴィアの耳に飛び込んできた。

「隊長もお前には期待してるんだ。でなければ、魔力も無い、馬もろくに操れない奴を連れてくるなんて馬鹿げたことはしない。……期待を、裏切るんじゃないぞ」

「期待って、何に」

 思い当たる節が特にない。日々彼に教え込まれている剣の特訓では、隙を見せる度に容赦なく竹刀を叩き込まれ、厳しい言葉を浴びせられ続けている。現に今も、手足の至る所を色とりどりの痣が覆っていた。

「レジスタンスには、いや、魔導士にはもう後がない。十六年前の革命で大きく数を減らした、現状で精一杯の生活の中で子供も育てられない。いいか、お前より後に生まれた魔導士は居ないんだ。直系の一族以外の人間は子供を産み控えているし、その直系の跡継ぎ達がまだ全員若いからな」

 ルークは、そこで少しの間を置いた。その言葉に静かに驚いたオリヴィアは、無意識に少し開いていた唇をくっと結んで、続く声を待つ。

「そして、俺はお前が嫌いだ」

 オリヴィアは、脈絡なく放たれた声に思わず体勢を崩しかけた。この男は、言葉を選ぶということをしない。

「……知ってる」

「だがな、カトレアの連中は、間違いなくもっとお前が嫌いだ。直系の血を汚し、絶やした者として」

「それ、私のせいじゃないよな」

 半ば諦めるような気持ちで、オリヴィアは馬を蹴る。指示を受け取った馬がまた少し速度を上げると、あっという間にルークを追い抜く。

「ああ。そこは、同情するさ。――話が逸れたな。ともかく、そんな状況でレジスタンスが潰れたら、お前の生きる場所は無くなる。ウェステリアにも、カトレアにも戻れずに。それで隊長は、お前をよく気に掛けていたんだ。

 ……最近よく、お前に感心していた。経験や知識の不足が余りに目立つが、物事をしっかりと見極めて判断する力があると。だから、隊長はわざわざお荷物なお前を連れてきたんだ。場数を踏ませて、将来的には、自らの力で世界を切り拓いていけるようにと」

 オリヴィアは、ごくりと喉を鳴らした。無意識に汗ばんでいた手で、手綱をきつく握りしめ直す。

 打ち身だらけで痛むのを内心恨めしく思っていたが、厳しい訓練も彼なりに、オリヴィアを気遣った結果なのだろうか。

「……それは、それは知らなかった」

「ともかく。不本意だが隊長の命だからな、お前の面倒は俺が見てやる。お前は身の程を弁えた行動を心掛けろ」

 返事をする代わりに、進行方向へとまっすぐ向き直ったオリヴィアは、軽く息を吸って吐いた。呼吸の拍子と共に、肩が解放されたような感覚になる。

 オリヴィアの意思に合わせるように、馬の尾が左右に大きく振れ始める。徐々に感じる風が強くなっていく。乱暴に髪を乱していた髪は、いつしかオリヴィアと一体となっていた。


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