遠くの夕陽
夕陽はいつも赤く、僕に純粋な感動を与えてくれた。彼女の存在も僕にとってはそのようなものだったのかもしれない。遠くから綺麗だと眺めているくらいの関係。向こうが僕の名前を覚えているかどうかも不明だ。なにせ、数回話した程度なのだから。
たまたま同じ大学に入って、たまたま同じ授業をとって、たまたま近くの席に座った。それだけの縁なのだから当たり前のことではある。話すことは少ないが、彼女を見ていることは多い。もちろん本人に不快な様子があればそんなことは出来ないが、どうもある程度は気に入られているらしく、目があったときにウィンクを返されるようなこともあった。
いつものように始業前の待ち時間に近くにいた彼女へ視線を送ってみる。彼女は特徴的な癖毛なので見つけやすい。コンプレックスになりかねないそれを、彼女はいつも恨むことなくむしろ誇らしげに示している。背も、顔も、スタイルも、別段際立ったところはなかったが、彼女からは自分自身に対する自信が満ち満ちていた。
そういった彼女の光が、僕はとてもまぶしく見え、同時に美しいと思わせたのだろう。だがどうしたかことか、今日の彼女からはその光が全く見えては来なかった。
「どうしたの? なんか……あった?」
声を落とし、出来るだけ慎重に僕は尋ねた。彼女は自信に満ちてはいたが、とても傷つきやすく、敏感な人間でもあったからだ。
「ううん……大丈夫。別に、大したことじゃないから」
そう言って、彼女は遠慮がちな苦笑を浮かべた。
僕は少なからずショックを受けていた。彼女のような人間でもこんな風になってしまうのかと、子供の頃に親が泣いているのを発見した驚きにすら匹敵した。
「大丈夫そうには見えないよ?」
実際そうだった。顔は赤くはれぼったいし、目の下にはパンダの霊が乗り移っているような隈が浮かんでいる。明らかに寝不足で、体調の優れない様子だった。
「今日はもう帰ったら? 別に、大事な用があるわけでもないんでしょ?」
僕はそう提案したが、彼女は「ううん」と言ったきり、黙り込んでしまった。そして、僕と彼女の間には深い沈黙が横たわり始めた。
声をかけにくい雰囲気が彼女からは撒き散らされていて、ヘタなことを言おうものなら、蹴り飛ばされん勢いだった。しかたなく僕は口に糸を通し縫い合わせた。だが数瞬もすると、居た堪れなくなってしまった。彼女はその間もなにか物憂げな表情でため息などをつくのだ。これで平静を保っていろというのは無理な話である。
僕はイライラと机の上に指で馬を走らせ始めた。ああ、この馬のように颯爽と走れたらどんなにすっきりすることか……僕は意を決して、もう一度口を開こうとした。
だが、
「……あれ?」
見れば、彼女はいつのまにか消えていた。なにも言えなかった僕に怒って帰ってしまったのだろうか? 姿を探して立ち上がる。すると、足元からむにゅっとあまり踏みなれない感触が発生した。
「うわっ?!」
思わず足を引っ込める。身を屈め、恐る恐る覗いて見ると、そこには彼女がいた。彼女のだらしなく開かれた口元で、積もった埃がダンスを始めている。どうやら本当に疲労困憊だったらしい。こんなところで、倒れて寝てしまうほどに。
僕は野次馬の目から守るように彼女を抱えて医務室に向かった。その途中で彼女が身じろぎをし、うぅんと唸るたび、僕の心中は切り立った断崖に身体をぶつける荒波のようになっていった。だが僕は辛抱強くそれに耐えると、彼女をなんとか無事医務室へ連れていくことに成功した。
僕はこの時、自分が勇者のように思えた。悪者にさらわれた姫を救出し、抱きかかえたまま城へと帰還した勇者。彼は大いなる富と名声と人々の信頼を得たわけだが、僕の場合は一体なにを手に入れることが出来るのだろうか?
「ふぅ……」
医務室には誰もいなかった。ある意味好都合である。こんなところを見られたら変な誤解をされても文句は言えない。僕は胸を撫で下ろすと同時に、また少し動悸を早めた。なにせ、今ここにいるのは僕と彼女だけなのだ。
僕は彼女をベットに寝かせると、布団をかけてやった。彼女は安らかな寝息を立てていて、起きる気配は全くない。
「まったく、人の気も知らないで」
僕は少し憤慨した。ここまで世話を見たのだから、なにがあったのかを聞く権利くらいは与えてもらいたいものである。もっとも、僕は勝手に世話をしたのであって、この中途半端な眠り姫には、一言も頼まれていないのだが。
なんとなく彼女の顔をじっと見つめていると、唐突に、その猫のような瞳がぱちりと開かれた。僕はなにか悪いことをしているような気分になって、慌てて顔を遠ざけた。
「……お、おきた?」
出来るだけ平静を装って尋ねる。僕の心臓は、もはや8ビートどころではなかった。バクバクと脈打つ心臓に、拳を叩きつけてやりたくなった。だが、彼女はそんな動揺する僕を見て、こんなことを口にした。
「うん。というよりも、寝てなかったんだけどね」
「……へ?」
彼女のあまりにも意外な言葉に、僕の目は丸く見開かれた。寝ていなかった? 寝ていなかったということは、その反対は寝ていたわけで、寝ていたの反対は起きていたってことだから、彼女はすぅすぅ寝息を立てていたと思っていたのも、実はただの控え目な呼吸だったりして、僕の背中で身じろぎしたのもわざとで、つまり、つまり……
「な、な、な……」
僕が彼女を見ておたおたと色々なことをしたのは、筒抜けだったということになる。体中に血液が顔に集めって来たような気がする。
「でも、変なことしなかったのね。良かったわ」
淡々と言う彼女に、僕は呆然とした表情だけを浮べていた。
「変なことなんて……するわけないじゃないかっ」
「そうね。でも、私は昨日それをされたわけよ。だから、疲れてたの」
「………………えっ?…………」
彼女はあっさりとトンでもないことを言ってのけた。それはつまり、誰かに無理やり犯罪的な行為を受けたということに違いなかったからだ。
「ごめんね。ちょっと、君を試してみたかったの。まあ眠かったのはホントだし、倒れちゃったのも本当だけどね。さすがに、踏まれた起きるわよ?」
意地の悪い笑みが彼女の口元には浮んでいた。しかし、僕はどうにもやるせない思いが胸の中でうずまいていて、彼女の笑みを見るどころではなかった。顔中に集まっていた血液が、今度はさっとどこかに消えてしまったような感じがした。つま先から全身までが、氷に突き刺さったかのように冷えていった。だが、頭だけは熱い。
「どこのどいつだよ! そんなことしたのは!!」
「ん? 知らないわよ。なんか歩いてたら、いきなり、ね」
そこで彼女は言葉を切って苦笑を浮かべると、
「……まったく、私なんかのどこが良かったのかしらね?」
そんなことを言った。
僕はますますその『誰かさん』が許せなくなった。もしも今ここにそいつが現れたりしようものなら、このベットの角でそいつの頭を叩き潰してやろうかと思った。
「でもよかった。君にまでそんなことされたら、私また疲れちゃって、明日も昼間っから寝ちゃうところだったわよ。それに……男全般を、信じられなくなっちゃいそうだしね」
そう言う彼女の腕が、少し震えていることに僕は気が付いた。僕はほとんど無意識のうちに彼女の手を握った。今まで遠くから見ているだけだった夕陽が、僕のすぐ近くにいる。
「……大丈夫だよ。そいつが自分を制御できないバカだっただけだよ」
「ん……ありがと」
彼女はごく自然に、するり、と僕の手から抜け出した。僕は少し悲しかったが、彼女の表情を見て、すぐになんて無神経なことをしたんだと後悔をした。僕はすっと立ち上がり、彼女から数歩分の距離を取った。一瞬だけ近づいた夕陽は、もう月ほどの距離になってしまっていた。
このままで終わってしまったら、もう二度と近づけないかもしれない。
ふいにそんな感情が浮かび、気が付けば僕は口を開いていた。
「ねぇ、今度どこか遊びに行こうか?」
なんの脈絡もなく、唐突に出た誘いの言葉。ぐっとこぶしを握り視界がかすむほどに力んでいる僕の姿は、彼女にどう映ったのだろう。
不自然で怪しいはずの僕に、彼女はきょとんとした表情を浮かべ、その後になぜか柔らかく微笑んでくれた。「そうだね、気晴らしは必要だよね」と言いながら。
ベットから身を乗り出す彼女の口元に、目線を釘付けにされなれながら僕は思った。
どうやら月へのスタートラインに立つことには成功したようだな、と。