三日坊主の変わらないもの
瞬くと、リビングの隅に何の変哲もないカレンダーが掛けられていた。日にちの数字の隅に細かな字で私の予定が書かれている。時折、無骨で無駄にスペースを使う徹也の字がその日を占拠していたりした。
今日は四月三十日。月末。三月の末、二人が新年度に向けた目標を立ててから一ヵ月が経った。私は月に一冊のペースで本を読破する。徹也は、遅番の日は仕事の資格の勉強、中番の日はジョギング、早晩の日は夕飯を作るとカレンダーにデカデカと書いていた。
「今日は早番」
聞こえるように言ってみる。すでに帰宅し、リビングのソファでだらしない格好をして彼はテレビを見ている。
「昨日は中番」
ジョギングなんて、始めの一回しかしなかった。
「一昨日は・・・」
言い掛けた時、徹也は乱暴にリモコンを置いて立ち上がる。
「分かったよ。やってやるよ」
怒って立ち上がった徹也はドスドスとキッチンに入ってきたが、その時にはすでに大半の料理は仕上がっており、彼の出る幕はなかった。
「なんだ、もう出来てるじゃん」
「運んで欲しかっただけよ」
「ならそう言えよ」
わざとらしく乱暴にそう言うと、彼は乱暴に料理を両手に持ち、乱暴にテーブルに運んだのだった。
「お前は俺のことを三日坊主だと思ってるだろ」
箸で刺した大きなタケノコの煮物をこちらに向け、彼は私を睨みつける。私は彼が完全無欠の三日坊主だと確信していながら、否定も肯定もせず黙々と白米を咀嚼する。
「お前は俺のことをバカにしているところがあるよな」
「そんなことないよ」
「うそだ」
「落ちそうだから早く食べて、タケノコ」
煮え切らない表情で彼はそれを頬張ると、うまいなこれ、と呟いてしばらく咀嚼に専念した。
私は小さい頃から何をやっても人並みで、勉強も運動も中くらいの普通の子だった。人間関係も当たり障りなく、親友と呼べる子は少なかったが、周りに友達がいなくなるということもなかった。
そんな私が初めて憂き目に直面したのが大学二年の時だった。当時の私は初めて付き合った彼と別れたばかりだった。私は私なりに誠意を見せて別れを申し入れたつもりだったが、どこかで情報が錯綜し、あらぬ噂が流れた結果、誰からも相手をされなくなってしまったのだった。私は自分の置かれている立場が十分に理解できないまま、理不尽な状況に半分パニックになっていた。昨日まで仲が良いと思っていた女友達が軽蔑の目を向けてきた。誰が、どんな噂を流したのかは分からない。ただ、皆が私を遠巻きで見ながら避けているのは明らかだった。
「だいぶ落ち込んでるじゃん」
そんな中、徹也は当時から変わらないユルいトーンで話しかけてきた。同じサークル仲間だった彼は、大学の近くのカフェで一人ぼっちの私を見つけて断りもせず前の席に陣取った。
「変な噂が流れてるって本当?」
私がこわごわ聞くと、彼は一頻り笑った後、大声でウェイターを呼び、慣れない感じで注文した。
コーヒーが運ばれて来ても彼は黙っていた。ついてきたミルクと砂糖をついてきた分だけ入れて飲むと、にがっ、と顔を顰めた。
「それ、絶対に甘いよね」
思わず笑うと、彼は、いや苦いし、と更に顔を歪めて言った。
「俺はお前はあんなことしないなと思って」
そして彼は唐突にそんなことを言い放った。そして、
「お前、いつもサークルの会報のあとがき書いてるよな」
そんなことを言い出した。私が肯くと彼も肯き、またその絶対に甘いコーヒーを啜った。
「俺はあんな小鹿みたいな字を書く奴が、噂のようなゲスなことをやるとは思えない。本当にやったのかやってないのかなんてどうでもいい。でも俺は、お前はそんな奴じゃないと思ってる」
彼は急いでコーヒーを啜り、苦い上に熱い、と何度も繰り返した挙句に飲み干すとそそくさと席を立った。
レシートを持っていかれたので自分の会計は自分でしようと彼を追うと、レジ前で元彼と同じサークルの女の子が二人で入ってきた所だった。
「さいてー」
彼女に飛び切り冷たい視線を突き刺され萎縮した私は込み上げる涙を抑えるのに躍起になっていた。
「おいおい、なんでそんなこと言うの?」
徹也はゆるくその女の子を呼び止めた。
「あなた、その子がどんなことしたか知らないの」
攻撃的な彼女の後ろに隠れて、元彼は私と視線を合わせようとしなかった。
「噂は聞いたよ。でも、何の根拠もないだろ」
「彼がそう言うんだもの、そうに決まってるじゃない」
そう言って女の子は元彼を指す。予想はしていたが、噂の出所はどうやら元彼のようだった。
「本当にそんなことがあったのか?」
徹也は訊くが、彼は答えない。私は萎縮してしまって何も答えられなかった。
「とにかく、本当かどうかなんてまあいいや。とりあえず俺はこいつはそんな奴じゃないと思うよ」
「なにそれ、それこそ根拠がないじゃない」
女の子は徹也との温度差に憤りを隠さず突っ込んだ。
「お前、こいつの字、見たことあるか?」
そんな彼女に彼はそう問うた。女の子は一瞬、頭の中を逡巡した後、改めて憤った。
「何言ってんの? あんた、頭おかしいんじゃないの?」
そう言って女の子はツカツカと元彼を引っ張って奥へ消えたのだった。
二人はその後もしばらくサークル仲間をし、大学を卒業して社会人になってから付き合い始めた。
「ねえ、なんであの時、私のことを信じてくれたの?」
食器を洗いながら私は呟く。
「なんだって?」
彼はいつもどおりユルく聞き返してくる。しかしグウタラだ。三日坊主もいいところで、大きいことを言ってばかりでなにもしない。私に優しいのはいいことだが、取り柄といったらそれだけのダメ亭主。
でも、私は彼に求めるものなんてない。私は彼がすでに持っているものを信じているのだから。