パーフェクト2
先日、セカイについての論考を深めていて思い当たった事柄だが。
俗にいう「天罰」という事象をセカイに組み入れる方策を練ってみたんだが……結論から言うと、これは「ない」という処へ落ち着いた。
「完全」というものを人の世に当てはめるなら、多元宇宙におけるすべての魂がすべてのアクションを起こす事で完全に均一となるからだ。偏りがあるかに見えて、今生きている人生を終えた後にローテーションしていくとするなら、なんらセカイが干渉する必要性がない。
単純に順番が定まっていないだけで、隣の人の人生は生まれ変わった自分の人生という具合ですべてが経験されるなら、魂の記憶における不均衡はないと言える。
いや、いっそアカシックレコードと同化すると考えたほうが合理的だろう。
一度この大きな記憶媒体と同化することでリセットするわけだ。答え合せだ。
0点のテスト用紙もこれで一度全員ひと並びに100点となる。おそらくそうだ。
魂の性質によっては、ローテーションをいくら組んでみても選択の上に偏りが出てしまうだろう。殺人鬼の魂が聖人の魂と同じアクションを取り続けられるはずがない。
つまり、魂の一つ一つは全パターンのアクションを本来知っていて、どれをなぞるかはその個体の持つ要素、肉体を得た後に構築される性質によって決定するのだろう。だから、輪廻において似たような人生ばかり歩む魂があったとて、セカイの原理は崩れない。
魂はその思考パターンに沿ったアクションしか起こせず、外的要素、すなわち生まれた国や家庭環境、周囲の人間関係の影響で人生が決まるということだ。
不幸な選択ばかりする魂は、やはり不幸な人生に陥りやすい。
そして、他人任せ、運任せの魂は、ギャンブル同様さまざまな人生を体験するだろう。
魂のレベルには、一見して不均衡があるということだ。
宇宙の数だけ無数の「わたし」が存在し、これは「わたし」であって厳密には「わたし」ではない。
そうすると、ある意味では「人生は一度きり」ということも言える。
なにより、セカイの記憶媒体と同化して切り離されるを繰り返す「魂」という存在は根源的には一つであるとさえ言えるはずだ。
一度きり、しかも天罰などない、これはセカイには本来タブーも罪もないということだ。
思考パターンの差は、もちろん「格」の差などではない。
では、モラルをどう捉えるべきだろうか。
セカイを貫くルールというべきは、すなわち「質量保存の法則」だの「重力の法則」だの「相対性理論」だのの、科学的な分野だろう。
悪い事をしたら天罰がくだる、という事はあろうはずがない。可能性を制限してしまうからだ。
「悪い事をしても何も起こらない」この可能性がある以上、天罰というものがくだるパターンとくだらないパターンが必ず生じなければならない。「完全」を崩してしまうからだ。
天罰としか思えない事柄が降りかかるパターンと、降ってこないパターン、なのだ。
だから、いわゆるところの「天罰」はない。
天罰などないのだから何をしてもいいのか、という問題になるな。
これは、「そうだ、」と言える。
少なくともセカイの運用上においては何をしようと問題にはならないだろう。すべて可能性の範疇だ。
だが、それゆえに「報復」という行為は正当化される。
天は罰を与えない。だから、人が与えるということだ。
これは善悪を価値基準に置くとおかしくなる。そう、セカイには善悪などなく、可能性におけるパターンが無数に存在するだけだからだ。
では、何に基準を置くか。
人は社会を営んで、人独自のルールの元に運用しているわけだが、人が人に報復するのはこのルールに違反したという理由により、また、これ以外の理由などないという事だ。
ルールに対するペナルティであるから、ルールがなければ罰されないのかという話になるな。
「○○をしてはいけない」と明文化されていない時、○○をしても報復を受けずに済むかという話だ。
明文化されていないのだから受ける謂れはないのだろうが、セカイは可能性で動くのだ。「明文化されていなくとも報復される」という『可能性』の問題だ。
単純に、迷惑の度合いに応じて可能性は高くなるだろう。
だから、一見世界に矛盾や理不尽が満ちていても、セカイは関知しない。
矛盾、理不尽の現象自体は可能性の中に、それに伴う感情は記憶としてアカシックレコード内部に、すでに存在している範疇だ。
魂がどのパターンを選び取っていくかというだけだ。
自殺すると天国へ行けないという説、わたしは天国自体を否定する。
臨死体験というものも、アカシックレコードと同化すると考えるなら説明可能だ。
あの世というのは魂自身が作り出すもので、アカシックレコードの中に収納された情報を自身で構築して自身の周囲に張り巡らせている状態だと考える。
物質世界の法則に縛られない為に、これは自在に作り替えが利く。いわば幻覚のようなものだから、実像は伴わなくていいのだ。
夢というものも、同じ原理だろう。
夢を見ている時、魂は肉体から抜け出ているのだろう。
物質世界に縛られない唯一の物質界の存在である魂は、すなわち、物質世界のあらゆる方法をもってしても計測できないだろう。計測器そのものが、「物質」だからだ。
魂となった時、そこにあるのは巨大な記憶媒体「アカシックレコード」と、自身、それでセカイは完結する。他者は必要がないのは説明を要しないはずだ。
他者が介入するのは、物質世界においてのみ、ということになる。
第六感などもこれで説明が可能だろう。
我々は、記憶の中に本来、すべての可能性のパターンをすでに知った状態でこの世界に存在する。
忘れているだけか、否、脳という物質的制限で多くがすっぽ抜けてしまうのだろう。
多く、夢を覚えていない理由にはならないだろうか。
夢が支離滅裂なのも、「すべて」であるアカシックレコードの容量のまま、むりやり脳に戻った時にごっそりと抜け落ちてしまった、と考えられる。
シナプスの記憶回路に合う部分だけがかろうじて残るのだろう。
だから、正しい答えを向こうで見てきても持ち帰ることは出来ない。
脳が似た構造をしていたならば、かろうじて「違うような気がする、」と感じる程度か。
向こうで宇宙の謎の回答を得たとしても、脳に普段から貯めている記憶がアイドルのゴシップばかりなら、カケラも残さずきれいにすっぽ抜けるだろう。
研究者などに時折訪れる「閃き」は、実はこのような仕組みで抜けずに残るのではないか?
「セカイ」は「魂」と「物質世界」と「アカシックレコード」のみで構築可能だ。
アカシックレコードがまた、魂の集合体、あるいは魂がこの巨大な集積回路から飛ばされ、のちのち回収される伝達信号と考えるなら、セカイは完全に信号のみで回ってしまう。
魂も、計測不能なある種の原子と言えまいか。
物質というものは、ある意味、脳内の信号によって認知されるにすぎないから、「わたし」というこの自己が、本当にはどのような姿をしているかは、誰にも確かなことが言えないのだが。
究極には、セカイは情報のみの存在であり、情報のみで完結している、と言えるのかも知れない。
すべては夢が見ている夢のようなもの。
アカシックレコードが魂の集合体とするなら、迷惑かけたあの人も迷惑かけられたあの人も、もれなく意識がドッキング。
嬉しさを共有出来る反面、憎悪も怨嗟も共有するという恐ろしい世界だな。
しかも、全生命と。
正しかったか間違っていたかは、嫌も応も無く知らされるわけで。
あの世に言ったらジタジタすることになるな、恥ずかしい生き方をしたら。(笑
あくまで持論。ね。