1 目覚めれば、魔界
気付いたときには、俺はスーツのまま森の中で倒れていた。
とりあえず、立ち上がってみるが、どうも視点が低い。長くて髪がうっとおしい。はて。こんなに俺は背が小さく、髪の毛が長かっただろうか。それに、色もおかしい。燃えるような赤毛だ。俺は黒髪黒目の純日本人だったはずだ。
「おかしい」
独り言。されど、その声は妙に頭の中に残った。いつもの俺の声より数段高かったからだ。
下腹の辺りに、何か冷たいものが下りていく。
「まさか……」
俺は、どうも、性転換というものをしたらしい。
「ウソだろ、おい……」
胸の辺りを触ってみると、小さく主張する2つのふくらみがある。ああ、これはもう確定的だ。
とにかく、帰らなくては……!
「どこだ、ここ……?」
とりあえず、持ち物は何か探ってみる。そこには、俺が先ほどまで研究していた書物があった。その名は、ラルキアニ草稿という。その昔、ラルキアニという言語学者が石版から写本し、ラテン語に翻訳した書物である。オカルトマニアにして言語学専攻だった俺は、読解に着手したのだが……。
「たしか、このページだよな」
だんだんと直前の記憶が蘇えってくる。そうだ、ここだ。このページまで読んだ俺は、強烈な眠気に襲われてそのまま倒れたのだった……。
「原因は、どうもこの草稿くさいぞ……」
そう、この書物、いわくつきなのだ。最初に翻訳したラルキアニ博士は失踪しているし、この書物を読んだ人物は、例に漏れず次々いなくなっている……らしい。俺はそれにもかかわらず、読みたくなった。引き寄せられるかのように。俺はあらゆる伝手をたどって、ミスカトニック大学に入学、そしてそれを読む権利を得た。この読解の権利も半ば強引に司書からもぎ取ったものだったのだが……。よもや、こんな落とし穴があるとは。
俺はとりあえず、人里を探してみることにした。こんなところで一晩過ごすとか、命をポイ捨てするようなものだ。だが……。歩いて2時間、見事に何もない。
俺は……こんなところで死ぬのか……。
「くそ、死んで……たま、るか……?」
その時だった。俺の視界に、人影のようなものが映ったのは。
俺が取った行動はとっさに隠れる、だった。幸い服が暗色系だったので、隠れるにはもってこいだ。しかし、この燃えるような赤髪は何とかならんのか。こんなの、頭上げたら一発でばれるわ。
「そこ、誰かいるんでしょう? 出てきなさい」
ばれた。
俺はバクバク鳴り打つ心臓を抑えながら、両手を上げて立ち上がった。
「怪しい者じゃない。道に迷っただけだ……って、女の子!?」
そう、目の前には青を基調とした服を着た、金髪のショートカットの小さな女の子がいた。こんな森にはおおよそ似つかわしくない、そんな姿だ。
「女の子で悪かったわね。あなただって、女じゃない」
「いやまぁ、それはそうだけど……」
「まぁいいわ。道に迷ったって言ってたわよね、付いてきなさい。もう日が暮れるわ。今晩は私の家に泊まるといいわ」
「あ、ああ。ありがとう」
女の子だというので安心感が出たが、まだまだここは見知らぬ土地。気を引き締めねば。
「さて、飛ぶわよ。私に掴まって」
「飛ぶ? 飛ぶって……」
「いいから」
そう言っておっかなびっくり彼女の手を握ると、体が重力から解放される感じがした。
「うわ、うわわわ!」
「うるさいわねぇ、もう少し静かにできないのかしら」
「空を飛ぶなんて常識に逆らったことされて落ち着いていられるか!」
「舌、噛むわよ」
そう言うと少女は問答無用で俺を上空に持ち上げた。俺、ひょっとしなくても、とんでもない相手に捕まっちゃったか……?
そこから10分も行くと、巨大な建造物が見えてきた。城、という名がふさわしい。しかし、しかしだ。異様に禍々しい。まさか……俺はとんでもないところに連れて来られたんじゃ……?
俺の心配をよそに、大きなその門の前に降り立つ少女。そこには一人のこれまた少女……だろうか。まだ大人ではないようだが、少女というには育っている感じがする女の子が立っていた。門番だろうか。
「ただいま、ルイズ」
「あら、アリス? おかえりなさい。で、そこの人間は?」
「森で迷っていたから連れて来たの。どうも外来人らしいわ」
「はぁ……。サラはいったい何をやっていたのかしら」
俺は外来人という言葉に疑問を覚えながらも、一つの疑問を解消するべく口を開いた。
「あの……」
「ん? 何かしら」
先に返事をしたのはルイズと呼ばれた女の子だった。
「実は、あの森で倒れていた以前の記憶が無くて……。ここは、一体どこなんです?」
「そうなの。ここは魔界よ」
あっさりと答えられた答えに、驚愕を隠せなかった。魔界だって!? 悪魔とか、そんなのがいる……? まて、魔界……アリス……ルイズ……ここは、もしかして!
「あの、まさか、その、ここのトップの方は神綺という方では……?」
「なんで知ってるの? 記憶がないんじゃなかったの?」
やっぱり……! ここは東方の世界だ! しかも旧作の! 俺は慌てて取り繕う。
「思い出……というものがないんです。これは何で、とかはわかるんですけど……」
「ふぅん、難儀ね」
大した興味もなく流してくれたようだ。よかった……。
「とりあえず、私の部屋に連れて行くわ。人間程度にどうこうされるほど私は弱くないしね」
俺はそのままの流れでアリスの部屋に連れて行かれることに……。
いくつもの廊下を抜け、部屋の前を素通りして10分も歩くと、アリスが急に立ち止まった。ガチャリと無造作に扉を開け、彼女は中に入ると、俺を招き入れる。俺はちょっと不安になりながらも、それでも安堵の方が強く、中に入っていった。
薄暗い部屋だ。彼女は蝋燭に一つ一つ火をつけていった。まぁ、こんな電気もガスも水道も通っていないような魔界じゃ、仕方ないのかもしれないが。
鮮やかに浮かび上がった部屋の中で、一際目を引いたのはその蔵書量だった。
「これは……」
稀覯本から有名な書物までそこには一切が揃っている。それも、オカルトという1点に関してのみ。
「見たことない……!」
「ん? 何がかしら?」
「この蔵書量だよ! すごい、こんなに素晴らしいラインナップは初めて見た!」
「そう、それは良かったわね。ところで、まだあなたの名前を聞いていないんだけれど」
俺は焦った。元の名前を語れば怪しまれることは必定。ここは偽名で押し通す! ……つっても、何が……。
ふと思い浮かんだのは、先ほどまで調べていた文献。それととっさに思い浮かんだ名前で……!
「ら、ララ。ララ・ラルキアニだ……」
「そう。なら、ララと呼ばせてもらってもいいかしら?」
「ああ、構わない」
「うん。で、貴女には2つの選択肢があるわ。1つは、人間界に戻ること。それからもう1つはこのまま魔界の住人になること……って、もう答えは決まっているようね」
当たり前だ。元の世界に……未練はない。元々孤児な上に親しい友人もいなかったし、向こうの世界では得られないような知識がここにはある。
「ああ、ここに住まわせてほしい。そして、あわよくばその本を見せてほしい。元々そういうのに傾倒しててさ、いろんな書物を読み漁った……。だけど、全部書いてあることは嘘っぱち。君、空を飛べただろう? あれも何らかの魔術によるものなのか? できるなら、それを習得したい。それが、多分俺の行動原理だから……」
「俺?」
しまった、つい……うっかり……。ここは、開き直るしか!
「変か?」
「変ね。あなたみたいな見た目はいい女の子が俺だなんて、変よ」
「そ、そうか。そうだよな……。わかった。これから頑張って直すよ」
「まぁ、私にとってはどうでもいいんだけどね……。で、あなた、魔女になりたいの? だったらこれ。この2冊を完璧にマスターしなさい。それが基本だから」
そう言いながら、アリスは2冊の本を本棚から迷うことなく引き出した。
「これは……?」
「捨虫と捨喰の法が書いてあるわ。それをマスターして初めて、魔女としての基盤ができるわね。いわば、基礎の基礎よ」
「ちなみに、君はどれくらいでマスターしたんだ……?」
「大体半年よ。ああ、私の速度は気にしなくていいわ。私が特別速いだけだから」
「そういえば、聞いてなかったけれど……。君の能力って、何?」
「能力? 何の事かしら」
「ほら、『~する程度の能力』ってあるじゃない?」
やはり東方と言ったらこれだ。果たして、アリスはこのころから能力に目覚めていたのだろうか……?
「ああ、それね。私のは『主に魔法を扱う程度の能力』よ。魔界で発現しているのは今のところ私1人ね。そういうあなたは?」
「おれ……私は……」
そう言いながら書物に手を伸ばした時だった。一瞬頭に軽い痛みが走ると、その後に大きな空白、爽快感が残る。これは……?
「ふむ、珍しいこともあるものね。今発現した、か……」
俺の心に浮かぶのは……。
「『他より少し速い程度の能力』……だ」
「微妙ね」
「微妙だ。……ん? 待てよ」
そうだ、この能力を使えば……。
「もしかして、君より速くこの書物を理解できるんじゃ?」
「……! そう言われてみれば、そういう使い方もできるわね。でもまぁ、習得の前に」
「?」
「貴女の部屋を用意しなくちゃね。まず、そのためにはお母様に挨拶に行かなきゃ」
「お母様?」
「ええ、神綺様のところよ」
ついに、きた。ここで暮らすならば、必ず会わなければならないであろう、相手。ラスボスとして、STGでは散々苦しめられた相手。どんなに恐ろしい性格なのか……。計り知れない。とにかく、失礼のないようにしなければ。そんなことを考えている間にも、アリスは扉を開けて歩き出す。俺は慌てて付いていった。
どれくらいの廊下と階段を歩いただろうか。俺は緊張で何も覚えていない。気付いたら、一際豪奢な扉の前で立ち止まっていた。
「ここよ」
そう言って、アリスは無造作に扉を開いた。