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アルテル=レッドファーンの特別

 ルシノーラ=セテスが初めて『彼』に出会ったのは、私にはひどく似つかわしくない、晴れ渡った昼下がりのことだった。

 実際、外へ出た瞬間、あまりのまぶしさに顔をしかめていた。昼の太陽が目に染みるなんて不摂生な証拠だ。


 昨日、ルシノーラが寝付いたのは明け方だった。だから、起きたのは今になってだ。

 仕事柄、どうしてもそうなってしまう。今更言っても仕方のないことだと、苦笑するしかない。

 もう七年もこんな生活をしている。選ぶ余地はない。逃れるあてもない。


 それをわかっているから、自由に町を歩けるのだ。そうでなければ、たとえ買い物ひとつでも外に出してはもらえない。

 その買い物も、人に頼んだ方がいいのはわかっていたけれど、自分でどうにかしたかった。

 明るい太陽の下で生きる人々が、ルシノーラたちを(いと)うのにも慣れたつもりだった。いちいち傷付いてなんていない。


 あの日も、そうだった。



「おばさん、このお香いくらかしら?」


 露店で、ルシノーラは客としてごく当たり前の尋ねごとをしただけだった。けれど、女店主はルシノーラを一目見て察したらしく、すっと目を細めた。何も言わずとも、女だからこそ気が付くことがある。

 そうして、女店主はルシノーラから視線をそらし、周囲のほこりを羽ぼうきで払い出した。無視を決め込むことにしたらしい。

 それでも、ルシノーラは引かなかった。


「ねえ、これは――」


 もう一度声をかけると、今度はきつくにらまれた。女店主は羽ぼうきを下に投げ捨てると、ルシノーラの手からお香の入った包みを引ったくる。さも、汚らわしいとでも言わんばかりに。

 その時にかすった爪痕が、甲に赤く筋を残す。そんなことはお構いなしに、彼女は激昂した。


「あんたみたいなのが店先にいると店の雰囲気が悪くなるんだよ! さっさと失せな!」


 それでも引けない理由がある。ルシノーラはそんな罵倒にもグッと耐えた。


「用が済めば帰ります。それをひとつ頂きたいんです」


 頑として譲らなかったルシノーラに、彼女は更に口元を歪めた。


「帰れと言ってるんだよ! この売女(ばいた)!」


 体しか売るものがない。それは蔑まれることなのかも知れない。

 けれど、そうしなければ生きられなかった。だから、いちいち傷付いたりしない。

 ルシノーラは片腕を腹に添え、正面から女店主を見据えた。


「だから、売って下さいとお願いしているんです」


 しつこいしつこいと、うなり続ける女店主を道行く人々は一瞥したが、かかわり合いたくなかっただろう。誰一人足を止めなかった。助けを求めたわけではない。もし、立ち止まった人間がいたとして、それが味方だとは限らないから。


 自力で切り抜けるつもりでいた。なのに、思いがけない援護をしてくれる人間がこの時、奇跡的に現れたのだ。それが『彼』だった。

 お節介なようには見えなかった。むしろ、他人には興味のなさそうな、どこか冷めた印象を受ける。

 けれど、彼は立ち止まるなり言った。


「この店は、客に商品を売らないのか?」


 くせのある長めの金髪。丸く縁のない眼鏡の奥の、切れ長の眼。長身によく似合う、白いシャツと焦茶色のパンツ。

 二十代後半くらいだろう。腕には紙袋をひとつ抱えていた。

 女店主は慌てて取り繕う。


「いえ、ね、普通のお客さんにこんな扱いはしませんよ。けどね、コレは……」


 語尾を濁す。それで彼が何かを察すると思ったのかも知れない。

 けれど彼は、何だ? と深追いする。女店主はもぞもぞと言った。


「この女はね、娼婦なんですよ」


 すると、彼は眉根を寄せた。

 別に、こんなことには慣れている。ルシノーラは、体に添えた手にほんの少し力を込めた。

 けれど、彼が顔をしかめた理由はそこではなかった。


「だから、何だ?」


 女店主は一瞬、ぽかんと口を開け、それからやっと声を発した。


「え? ですから……」

「この店は、そんなことで客をえり好みするのか? 終いには潰れるぞ?」


 女店主が呆然としていると、彼はポケットからむき出しの紙幣を取り出し、それを長い腕で突き出した。


「じゃあ、俺になら売れるんだろ。拒む理由はあるか?」


 彼女は顔を真っ赤にして憤りながらも、つり銭とお香を乱暴に彼に手渡した。彼は苦笑すると、今度は低く優しげな声音になる。


「うん、ありがとう。でも、女性だったら男の俺なんかより、彼女のつらさをわかってやれるんじゃないのか? 今すぐじゃなくても、いつか理解が与えられるようになればいいな」


 揉めている相手にも、笑顔でそんな言葉をかける。その落ち着きと度量に、ルシノーラ自身も驚いていた。

 今まで、こんな風に庇ってもらったことなどない。慣れない事態にどうしたらいいのかわからなかった。

 そんなルシノーラにも、彼は微笑む。


「はい、これ」


 と、お香を差し出す。ルシノーラはそれを両手で受け止め、礼を言おうとしたけれど、女店主の射るような視線が刺さる。


「――少し、歩きませんか?」

「俺はこっちだけど、君は?」


 彼は、ルシノーラが帰るべき方角とは真逆を指した。


「私もそっちです」


 思わず嘘をついた。そして、歩き出す。


「ありがとうございました。あの、これ、お代です」


 差し出した紙幣を前に、彼は苦笑する。


「いいよ。そんなに高いものじゃないし」


 あまりしつこくするのも失礼かと、ルシノーラは素直に受けた。


「すみません。助けて頂いた上に……」


 頭を下げると、彼はつぶやいた。


「じゃあ、ひとつだけ訊いてもいいか?」

「え?」

「どうして、そこまでして食い下がったんだ? そんなに必要なものには見えないけど?」

「……新しい娘が最近入ったんです。口減らし……家の都合で売られたそうです。まだ幼いから家が恋しいみたいだし、いずれはお客を取らなければならなくなる不安もあって、よく泣いているから……。少しでも気持ちを落ち着かせるものを用意したかったんです」


 この話を彼はどのように受け止めるだろう、とルシノーラは頭の片隅で考えた。

 娼婦の手練手管として、話半分に聴いただろうか。ルシノーラは、ここ数年、人を信じるという行為ができなくなっている。特に男性ほど信じていない。

 けれど彼は、そうか、と穏やかに言った。


「君は苦労性だな。面倒見がいいのは結構だけど、それで体を壊してどうする?」


 一瞬、何を言うのかと思った。すると、彼はルシノーラの腹部を指差す。


「痛むのは、胃か? ただの胃痛と思ってほうっておくと悪化するぞ」

「よくわかりますね」

「そうやって、無意識にさすってしまうくらい、常に痛んでるんだろう?」

「はい……」


 図星だったので、ルシノーラは正直にうなずいた。彼はポケットの中から小さなケースを取り出すと、その中から白い小さな包みを差し出す。


「これ、飲んでおくといい。胃痛なら効くから」


 なんて用意のいい人だろう。この人も、胃が悪いのだろうか。


「ありがとうございます。でも、薬なんて高価なものを頂いてもいいんですか?」


 受け取った時、手が触れた。その大きな手は、指が長く、よい形をしていた。けれど、指先は染色でもしたかのように薄黒い。

 彼はその手を軽く振って笑った。


「まあ、少ししかないし、気にしないでいい」


 改めて彼を見た。この人はどういう人なのだろう、と。

 品はあるように思うが、裕福そうだとは思わない。それに、俗っぽさがないというか、つかみどころがない。無欲で利他的な人間などいないと思うけれど、少なくともルシノーラに見返りを要求するような素振りはなかった。


 不思議な人だ。それに、ルシノーラは何故、この人について来てしまったのだろう。

 少し優しくしてもらっただけのことなのに、どうしてこんなにもこの場で別れてしまうのが嫌なのだろう。

 初めて会ったのに、そばにいるだけで、生活に疲れた心が晴れて行くような温かさを感じる。そんな自分に驚いた。


「あの、私はルシノーラといいます。あなたのお名前を教えて頂けませんか?」


 繋がりがほしかった。心の支えでいい。今の温かな気持ちを覚えていたいから。

 けれど、彼は一瞬、名乗るのをためらったように思う。あごを指でさすり、視線を宙に浮かせ、それからぽつりとつぶやいた。


「アルテル=レッドファーン」


 その名を反芻するのに時間を要した。聞き間違いかと思ったのだ。

 けれど、苦笑を浮かべる顔は、その名前の持つ影響を理解している風だった。


「ごめん。驚かせたみたいだな」


 すぐに返事が出来なかった。

 アルテル=レッドファーンといえば、黒魔術師だとか、子さらいの悪魔だとか、最低最悪な噂のある薬師だ。この辺りでその悪評を知らない者はいないに違いない。

 ただ、その噂を聞いた時、身の毛がよだつほど醜い老人を想像していた。目の前の、いっそ清々しい青年がその人なのだと言われても驚くばかりだ。


 そんなルシノーラの様子を、アルテル=レッドファーンは怯えていると解釈したのかも知れない。申し訳なさそうに言った。


「まあ、評判がいい方じゃないって自覚はあるんだけど。ええと……困ったな。でも、薬はほんとに効くから。毒とかじゃないって、俺が言っても信用ないか」


 誰が流したかもわからないような噂を信じて、目の前の人を信じないなんて、馬鹿なことだと思った。これでは、さっきの店主と変わりない。偏見でこの人を傷付けたくない。


「信じます。私、ちゃんと飲みますから」


 すると、彼は困惑した表情のままで一度固まり、それから徐々に解れて行く。その、まるで子供のように邪気のない、照れた笑顔に、ルシノーラは長く閉じ込めてあった感情を呼び覚まされてしまった。それはあまりに突然で、不覚だったけれど、なかったことにはできない。


 人からの心無い噂に傷付き、理解のなさに苦しんでいたのは、この人もルシノーラも同じだ。だから、ルシノーラの心を覗いたように思いを酌み取ってくれた。

 だからこそ、彼を理解してあげられるのは自分なのだと思う。


「ありがとう。それじゃあ、俺はもう行くけど、もし薬がまだ必要なら店に来てくれ。おまけしておくから。場所は……言わなくても知ってるか」


 苦笑する。ルシノーラも笑った。


「そうですね。ぜひ、伺います」


 頭上で手を振る彼に、ルシノーラも手を振った。

 この時、またすぐに会えると思ったから、別れるのはつらくなかった。

 今はとても、満たされた気分だった。



     ※※※



 小さな雑貨屋の店内で、二人の少女は談笑していた。

 この雑貨屋の店員であるティケは、カウンターの内側から小さな包みを差し出す。リボンをかけた贈り物だ。


「はい。これで大丈夫。今度こそ、ちゃんと渡しなさいよ?」


 今日、買い求めたわけではない。これは以前、相手に渡す前に水路に落ちるという散々な目に遭った贈り物で、ふやけてしまった包みを直してもらったのだった。

 受け取った方の少女シェラは肩を落とす。


「はい……」


 答える声には覇気がなかった。

 ティケは、あきれた様子で肩口で切りそろえた赤毛を揺らす。


「それで、まったく進展してないのよね?」

「だって……」

「だってじゃない」


 ぴしゃりと言われた。


「シェラが悪い。アルテルさん相手にのんびりしてたら、あっという間におばあちゃんよ?」


 シェラは口を尖らせる。が、ティケの言うことがもっともであるのもわかっている。

 むしろ正論すぎてつらい。


「そういうティケは? ジェサードさんとはどうなの?」

「ジェサードさんは憧れで留めておくの。眺めるだけで満足することにしたから。でも、シェラは違うでしょ?」

「う……ん……」

「そんな調子だと、他の人に先を越されても知らないからね?」


 ティケはそう言うけれど、あの評判の悪いアルテルに近付く女性がどれくらいいるだろう。


「まあ、それは冗談だけど」


 あはは、と二人は笑い合う。けれどこの時、笑い事でなくなるような出来事が近くで起こっていると、二人は知らなかった。

 少女らしくお喋りに花を咲かせていると、雑貨屋の扉が開いた。シェラはとっさにアルテルへの贈り物の包みを隠そうとしたけれど、その手をティケがつかむ。


「あ、アルテルさん。いらっしゃい」

「ああ、ティケ。今日も元気そうで何よりだ」


 焦っているシェラの様子に気付かず、アルテルはのん気にティケに挨拶する。それからようやくシェラに言った。


「話は終わったか?」


 そんなアルテルに、ティケは悪戯っぽく笑う。


「若い娘なんて、ほっといたらいつまでだって喋りますよ。終わるんじゃなくて、終わらせるんです」

「そうか」


 クスクスとアルテルは笑った。優しい、穏やかな笑みだ。

 ティケもアルテルを怖がらない数少ない人間になってくれた。そのことを嬉しく思い、シェラはすっかり油断していた。


「ねえ、アルテルさん、シェラがアルテルさんに渡したいものがあるみたいですよ」

「!!」


 不意打ちもいいところだ。シェラは、びくっと肩を跳ね上げた。


「うん?」


 アルテルは不思議そうに首をかしげると、二人のそばに寄った。どうしようもなくなってから、ティケはようやくシェラの手を放す。シェラは涙ぐみながらその包みを抱えて困惑するが、今更どうにもならない。


「あ、あの、私、このところ、風邪を引いたり、毒にあたったり、先生に看病させてばかりだったので、何かお礼がしたいなって思って、その……」


 ぼそぼそと、聞き取れるかわからないほどの声で言い訳がましく言い、ようやく贈り物を差し出す。

 けれど、こんなものは全部嘘だ。本当は前から持っていて、渡せずにいただけだ。

 それをティケは知っているが、そこは黙っていてくれた。

 アルテルは苦笑する。


「気を遣うなって言ったのにな」


 自分が選んだものを使ってほしいという、シェラの自分勝手な発想から始まっている。やましくなったシェラが顔を曇らせて手を引っ込めようとすると、アルテルはその包みを取り上げた。


「せっかくだし、もらっておく。ありがとな」


 そのひと言で、シェラは頬を染めて微笑む。

 ティケは嘆息していた。世話が焼けると言いたいのだろう。そこで、ティケはふと何かに気付いたようだった。


「あれ? アルテルさん、微かにいい匂いがするような?」

「え?」

「ああ、さっき、そこで知り合った人のが移ったのかな?」


 二人はええっと声を上げてアルテルを見上げたが、アルテルは特に何も反応しなかった。


「さて、じゃあ帰るか。やることもあるし」

「あ、はい」


 追求できず、シェラはうなずく。


「ティケ、じゃあ、また来るね」

「うん。報告待ってる」

「……はい」


 店を出る。

 追求できないものの、アルテルの言う、さっき知り合った人というのが気になって気になって、シェラはちらちらとアルテルを見上げた。

 よく見ると、アルテルはどこか機嫌がよさげだ。ますます気になる。

 シェラが一人で悩んでいると、アルテルの方からその話題に触れた。


「あのな、さっきそこで知り合った人なんだけど」

「は、はい」


 身構える。その緊張に、アルテルは気付いていない。


「どうも胃が悪いみたいだったから、手持ちの薬を分けてあげたんだ。その人、俺の名前を出しても、ちゃんと飲むって言ってくれたんだ。正直、嬉しかったよ」


 アルテルは普段、噂など気にも留めていない風に見える。けれど、まったく気にしていないわけでもない。だから、その噂を越えて自分に接してくれる人を、とても大事にする。

 シェラはアルテルの一番そばにいるからわかるのだ。


「よかったですね、先生」


 その言葉に、アルテルは笑顔で返す。それがシェラは素直に嬉しかった。

 はにかんだような、無邪気な笑顔。新たに心の中に刻み込まれた表情を、ただ愛しく思う。

 誰でもいい。先生が喜んでいるのだから、その人に感謝しないと。

 シェラは微笑みながらそう思った。



     ※※※



 夜が近付き、娼館が開くまで間がない。化粧部屋でルシノーラの仲間たちも身支度を始めていた。

 ルシノーラはこの店で個室をもらえるほどの稼ぎ手ではない。

 化粧部屋で、彼から受け取った薬の包みをそっと開く。そこには種のように小さな黒い丸薬が三粒転がっていた。

 断言した通り、信じようと決めた。まったくためらいがないと言えば嘘になるかも知れない。けれど、信じて死ぬのならそれもいいかと思う。


 思い切って薬を水で流し込む。ただ、薬を飲む前から胃の痛みは和らいでいた。

 きっと、彼と出会ったことで心が少し和らいだからだろう。

 大丈夫。薬はきっと効く。

 大きく伸びをして鏡台に向き直った。


 鏡に映るルシノーラは、特別美人ではないが不器量というほどでもない。平凡な、見飽きた顔だ。

 色が白いと言えば聞こえはいいが、実際は青白いと表現した方が正しい。首がやや長く、鎖骨にかけてのラインがきれいだと言われるので、それだけが唯一の自慢だろうか。

 下ろしていた髪を無造作に高く結い上げる。うなじがきれいに見えればそれでいい。

 化粧も本当は好きではない。どうせ暗い部屋の中だ。念入りにしたところで無駄だと思う。

 立ち上がると、仲間の一人に声をかけられた。


「あんたはいつも、支度が早いわね」


 まだ下着姿の彼女に、ルシノーラは軽く舌を出してみせる。


「いいの。いじっても土台がいまいちだし」


 すると、彼女は驚いた顔をした。


「何? なんかいいことでもあったの?」


 こういう時、女は敏感だ。ルシノーラは少しだけ笑ってごまかした。


「さぁね」


 その横で下働きをしている入り立ての少女、ニニカがルシノーラに向かって微笑んだ。十三歳になったばかりだという。その初々しさが、こんな場所では痛々しい。


(ねえ)さん、あのお香、焚く前からすごくいい匂いがしたわ。焚くのがすごく楽しみ。本当にありがとう」


 ルシノーラは勝手に家を飛び出し、挙句にこんな道に足を踏み入れてしまったから、自業自得だと思っている。けれど、この子は選んでここへ来たわけではない。親から突き放された子は、どんなに苦しいだろう。

 同じ年頃の娘たちはもっと大切にされ、輝く時を楽しく過ごしているのに。不憫だけれど、ルシノーラにしてあげられることはこの程度だ。

 今はただ、女将がこの子を商品として扱う日が一日でも遅ければいいと思う。


 そうして、ルシノーラは仕事場に立つ。

 酒の臭いと笑い声。媚びた甘い声。笑顔を貼り付け、嫌悪感を押し隠す。

 今日は、何度か指名されたことのある男だった。どこといって特徴のないその顔を眺め、今になって初めてその瞳の色に気付いた。

 アルテル(あのひと)とよく似た琥珀色の瞳。

 それだけで、ルシノーラは救われたような気がする。馬鹿だと思うけれど。


 たった一度の出会い。

 少し話しただけの人。

 それでも、今もこの胸に根付いている。



     ※※※



 ――ルシノーラが目覚めてからまず思ったのは、体がだるいということ。

 胃の痛みで目が覚めることもあることもあったから、それを思うと随分楽なものだ。

 薬の効果が表れたのだと、それがとても嬉しかった。

 大きく伸びをして、それからすぐに身支度をする。


「薬を買いに行かなくちゃ」


 そんなものは口実で、本当はただ、あの人に会いたいだけなのかも知れない。

 かも知れない、ではなく、そうなのだ。

 昨日の今日で店を訪れるなんて、びっくりされるだろうか。間を空けるべきだろうか。


 それでも、会いたい。

 それくらいのわがままを自分に許してはいけないだろうか。

 ルシノーラはいつもより薄い化粧を、いつもより入念に施した。そんな自分を滑稽に思いながらも、軽い足取りで部屋を出た。



 アルテル=レッドファーンの営む薬剤店は、彼が言うように、誰でも場所を知っている。

 うっかり近付かないために。

 それが役に立つなんて、皮肉な話だ。


 木々の間から、木漏れ日がきらきらと落ちて来る。町の外に出たのは、何年振りだろう。自然が多い道中はとても清々しい。

 それも、考え事をしながら歩けばすぐだった。

 不安と期待が交錯する。


 徐々に見えて来たのは、大樹をくり抜いたような建物だった。煙突からは紫煙が上がり、妙に苦々しい臭いが立ち込める。間違いはなさそうだ。

 店の横には洗濯物が丁寧に干されていた。意外と几帳面らしい。

 扉の前に立つと、彼に似つかわしくないような、かわいらしい丸文字の看板がぶら下がっていた。ルシノーラはその前で三度深呼吸をすると、目を瞑ったままでドアノブをひねった。

 ベルの音が鳴り、目を開けたらそこに彼がいると信じた。


 けれど、予想は外れた。誰もいない。

 ただ、店の壁一面に並べられた薬ビンの数に圧倒された。

 そうこうしているうちに、タンタン、と軽快な足音が近付いて来た。ドクン、と心音が大きく鳴る。

 まず、なんと切り出そうかと考えると、口の中が急に乾いた。

 奥の扉がガチャリと開く。


 いらっしゃいませというひと言と共に店先に現れた人物は、彼ではなかった。

 誰もを魅了するような微笑をルシノーラに向ける。

 最初、驚きが勝ちすぎて声も出なかった。

 長年、あんな場所で過ごしていれば、沢山の女を目にする。けれど、こんなにも美しい少女を見たのは初めてだった。美貌を売りにしている仲間でさえ、隣に立てばかすむだろう。

 長く艶やかな亜麻色の髪。大粒の黒真珠のような、潤んだ瞳。滑らかな白い肌。細い四肢。

 安物のワンピースを着ているだけで特に飾り気もないのに、それだけで輝いて見えた。

 ルシノーラがほうけていると、彼女はかわいらしく小首をかしげた。


「どうかされましたか?」

「あ、いえ……」


 それしか言えず、戸惑った。けれど、すぐに落ち着きを取り戻す。そして、これはどういうことなのかを考えた。

 悪名高いアルテル=レッドファーンの店に他の人間がいるなんて、そんな話は知らなかった。ルシノーラは控えめに尋ねる。


「あの、ここはアルテル=レッドファーンさんのお店よね?」

「はい、そうです。お客様は初めてのご来店ですね?」

「ええ……」

「でしたら、まず店主をお呼びしますね。症状などをご相談の上、お求め下さい」


 少女は滑らかに、歌うような口調でそう言った。


「そうね。お願い」


 かしこまりました、と少女は頭を下げて後ろに下がる。ルシノーラは思わず呼び止めた。


「ねえ、あなた」

「はい?」


 少女はきょとんとして瞬きを繰り返した。どうやら、おっとりとした性格のようだ。


「あなたは、妹さんか何か? ここに他の人がいるなんて思わなかったわ」


 すると、彼女は苦笑する。


「まだ日が浅いですから。私は下働きに雇われている者で、シェラと申します。どうぞお見知り置き下さい」


 丁寧に挨拶をする。素直そうだし、きっといい子なのだろう。そうは思うのに、それだけで飲み下せない。明らかにこれは嫉妬だった。若く美しい容姿をしているばかりか、あの人のそばにいられることへの。

 返事もせずに、ただ立っていたルシノーラへの対処に困った様子で、彼女はもう一度頭を下げてから奥へと下がった。


 この隙に帰ってしまおうかと思った。会うことで何が得られるのか、もうわからなかった。

 勝手に失望して、昨日の温かな気持ちは幻のように消えるだけかも知れない。そのくせに、足は動かない。未練がましく根を張っている。


 そして、アルテル=レッドファーンは再びルシノーラの前に現れた。そのいでたちは、昨日とはまったく違い、真っ黒で丈の長いローブをまとっていた。似合っているとは思わないが、それが作業着なのだろう。確かに、噂されるような格好ではある。

 彼はルシノーラを認めると、少し驚いたようだったけれどすぐに柔らかく微笑んだ。それがとても嬉しそうに見えたのは、ルシノーラの願望でしかないのだろうか。


「ああ、昨日の。確か、ルシノーラさん。ここへ来たってことは、薬が効いた?」


 名前を覚えていてくれた。呼んでくれた。それだけのことで、さっきまでの気持ちも忘れ、ただ嬉しかった。


「ルシノーラでいいです。お薬、とてもよく効いて、びっくりしました。それで、もし買えるような額であればと思って……」

「そうなんだ。嬉しいな」


 彼は顔をほころばせ、子供のように無邪気に喜んでいる。その様子は、ルシノーラにとっても喜ばしいものだった。

 けれど、アルテルは急に後ろを振り返った。そこには、後ろの戸口に張り付いているシェラという少女の姿があった。隠れたつもりはないのだろうが、彼の長身に隠されていた。

 シェラは複雑な面持ちでそこにいる。けれど、彼はそんな機微に気付く様子もなく彼女に言った。


「シェラ」

「は、はい」

「昨日、話しただろ? 胃の薬を渡したって。彼女なんだ」


 それだけを一方的に告げると、彼はまたルシノーラの方に向き直った。背を向けた途端、シェラが不安げにしおれたことなど、彼はまったく気付いていないようだ。二人の関係がそこに表れている。

 ルシノーラとしても、寂しさを覚えた。二人だけの出来事が、そうでなくなった。

 二人の女の間で彼はまったく何も感じていないらしく、にこにこと笑みを浮かべている。


「昨日渡した薬より、こっちの方がいいと思うよ。どうも慢性的みたいだし」


 棚から、とろりとした緑色の液体の入ったビンを取り出す。そして、引き出しから紙を取り出すと、深緑色の真新しいペンでさらさらと書き記す。それを紙袋に一緒に詰めた。


「用法は書いて添えたから。ちゃんと守って飲めば徐々によくなるよ」

「……はい。それで、おいくらですか?」

「うん、おまけするって言ったし、八ヘンスでいいよ」

「すみません。じゃあ、ありがたく」


 紙幣をそろえて支払った。彼はそれをシェラに手渡す。片付けて来いということだろう。

 けれど、シェラはこの場を離れたくないように見えた。顔を曇らせているけれど、アルテルはすでにシェラに背を向けている。

 ルシノーラは薬を受け取ると、一度だけシェラを見た。彼女は驚いたようで身を強張らせる。

 これは挑発だった。宣戦布告とでも言うべきか。


「アルテルさん」


 ルシノーラは彼を見上げる。


「うん?」


 そうして、ルシノーラは微笑んでみせた。こんな時、どうやって微笑んだらいいのか心得ているつもりだった。けれど、この時ばかりは残念ながら、うまく行っている自信がなかった。そこを強気で押し通す。


「また、来てもいいですか?」


 彼もにこりと笑って返した。


「ああ、もちろん」


 深い意味を探ろうともせず、簡単に答えられる。だから、言葉を続けるしかなかった。


「あなたに会いに来てもいいですか?」

「へ?」


 ぽかん、と口を開けた。そんな様子をかわいく思ってしまった自分は重症なんだろう。


「いいけど?」


 多分、まだ意味をよくわかっていない。女にここまで言われて尚、この反応は相当だ。

 この鈍さでは、奥手そうなシェラはかなり難航しているはずだ。好都合だけれど。


「じゃあ、また来ますね」


 そうして、ルシノーラは店を去った。けれど、まだひと勝負残っている。

 その予感があったから、ゆっくりと歩いた。



 昨日、町で会ったと話してくれた、その相手に好意を持たれている。この重要な事実をシェラは知らなかった。

 アルテルのことだから、好意に気付いていない。だから、話しようもないのはわかる。それでもシェラはショックだった。


 おかしな噂が付いて回るアルテルに対し、恋心を抱くような存在は自分だけだと思っていた。噂がアルテルを隠してくれていると、安心していたのだろうか。

 それを否定できない自分に嫌悪感を覚えながら、シェラは店を出てルシノーラの後を追っていた。


 考えがあったわけではない。

 ただ、話をしてみて、勘違いであればいいと願った。


「あの!」


 ふわりとゆるく波打った長い髪と、薄紅色のショールが風に揺れている。

 突然呼び止めたのに、少しも驚いた様子はなかった。


「なあに?」


 余裕の微笑だった。きっと、全部わかっている。それでも笑っていられる大人の女性なのだ。

 シェラは立ち止まると、ごくりとのどを鳴らした。そして、絞るように言った。


「お、おかしなことをお尋ねしますけれど、どうか気を悪くなさらないで下さい。あなたは、その……先生のことをどう思われていますか?」


 ルシノーラは笑顔を絶やさなかった。


「とても優しいし、素敵だと思うわ。会ったばかりだけど、好きよ」


 はっきりと言われた。もう頭が真っ白だった。呆然としていると、笑われてしまった。


「私のだから、盗らないでって?」

「そ、そんなこと――」


 多分、耳まで赤くなって涙も浮かべている。平静を装えない自分は馬鹿だとシェラも思う。


「そう。じゃあ、いいわよね?」


 何も言い返せない自分を軽蔑するしかなかった。

 はっきりと渡したくないと言えないのは、自分のものではないと自覚しているからだ。

 思わずうつむきそうになった時、ルシノーラの声が僅かに低くなる。


「ねぇ、あなた、私を見ても何も気付かない? 私はどういう種類の女だと思う?」

「え?」


 意味がわからなかった。シェラがただ困惑していると、ルシノーラは軽く眉根を寄せ、それから表情をなくした。


「わからないならいいわ。あなた、幸せに育ったのね」


 きびすを返して立ち去る彼女を、シェラはしばらく立ち尽くして見送っていた。遠く遠く、姿が見えなくなるまで。

 そうしてから、服の胸元を握り締めてうずくまった。

 そんなことで痛みは消えなかったけれど。



 ルシノーラが帰ってから、気もそぞろで失敗ばかり繰り返すシェラをさすがのアルテルも見かねたらしい。


「――シェラ、体調が悪いなら休んでろ」


 緻密な計量をしている脇でこの調子だと、気が散るのだろう。口調が厳しい。


「体調じゃありません。えっと、お風呂の掃除をして来ます!」


 病んでいるのは心だと、シェラはアルテルの視線を振り切るようにして背を向けた。



          ※※※



 今日もルシノーラはあの店を訪れようとしていた。

 薬は昨日買ったから、行く必要はない。けれど、宣告通りにただアルテルに会いに来た。日を置いてはいけない。


 あの、シェラという娘。

 彼女はルシノーラが娼婦だとはまったく気付いていない風だった。そんな世界とは離れた場所で幸せに育ったのだ。ニニカのような子供がいることを思うと、それが無償に腹立たしかった。絶対に負けたくない。

 木々のアーチを抜け、高くそびえる建物が見えた。ルシノーラは気を引き締める。


 店のすぐ横で、白くもぞもぞと動くものがあった。洗濯物だ。

 か細い腕が洗濯ばさみを外して洗濯物を取り込んでいる。動きは緩慢で見ていてもどかしくなる。

 その様子を少しだけ眺めていると、そのすぐ上の窓に人影を発見した。アルテルだった。


 彼は窓辺で何か作業をしながら、しきりに下を気にして覗いている。その視線の先には、要領悪く洗濯物を取り込んでいるシェラがいる。シェラは、彼の視線に気付いていないようだ。

 そして、すべての洗濯物をかごに収めると、両手でそれを抱え、階段に向かう。アルテルは身を乗り出すようにして見ていた。


 そのすぐ後に、シェラは階段の二、三段目を踏み外した。その弾みでふら付いて、後ろにひっくり返ってしまう。あの程度なら痛いで済んだだろう。

 けれど、洗濯物をぶちまけてしまっている。なんて鈍臭い、とルシノーラが思っていると、アルテルが階段を下りて来た。何を言っているのか聞き取れる距離ではない。


 シェラも何かを言い、それから彼はシェラの腕をつかんで立ち上がらせた。シェラは汚れた洗濯物を見てショックを受けていたが、彼はそんなシェラの頭を優しく叩く。シェラは彼を見上げ、しょんぼりとした顔をしたけれど、アルテルは柔らかく微笑んでいた。


 さっきから彼が下を気にしていたのは、普段からこうこうことがあり、心配して見ていたのだとわかった。

 二人でいるのが自然で、入り込めない空気がある。


 なんて、大切にしているんだろう。

 それを感じて苦しくなった。今は恋愛対称でなかったとしても、彼女は間違いなく特別な存在だ。

 ルシノーラは急に自分が惨めになった。


 強気で努力すればいつかはこちらを見てくれるなんて、あり得なかった。あの娘はこれからもっときれいになって、たったひと言であの人を手に入れるだろう。

 ふつふつと、醜い感情があふれ出る。

 自分はこんなにも汚れているのに、あの娘はきれいなままで、ほしいものを手に入れる。あまりの理不尽な世の中に涙が出た。


 だから、今日はそのまま帰った。

 翌日になって、もう一度薬剤店を訪れる。

 店の中へ踏み入ると、最初と同じようにシェラが出て来た。


 今日は真っ白で、縁に花のモチーフの付いたワンピースだ。清楚な服装が彼女にはよく似合う。

 シェラは目に見えて緊張していた。それを解くためにルシノーラは微笑む。笑いたくない時に笑うのは、そう難しくない。


「そんなに構えないで。今日は彼じゃなくて、あなたに会いに来たの」

「え?」

「あなたとはもっとちゃんと話がしたいの。勝負するには相手を知らなくちゃ。でも、あなたは逃げるのかしら?」


 くすりと笑ってみせると、シェラは唇を噛んだ。それから、細い声で言う。


「わかりました」

「でも、ここではできない話でしょ?」


 そうして、ルシノーラは用意して来た紙切れを彼女に渡す。


「時間と場所を書いておいたから、必ず来てね」


 そう言い残すと、ルシノーラは店を出た。

 口止めするまでもなく、シェラはこのことを彼には伝えないだろうと確信を持っていた。


 気持ちが加速して行く。どす黒い感情がルシノーラを支配する。

 けれど、まだ選べた。止まることもできた。

 そうしなかったのは、正しいとは思わないけれど、間違っているとも思いたくなかったからだ。



     ※※※



 ルシノーラが指定した時刻は夕方で、場所はジーファの町。第二地区と第三地区をつなぐ橋の上だ。

 夕方からでは、話終える頃には暗くなる。ここまで帰って来るのは無理かも知れない。ティケに泊めてもらうしかないだろう。

 シェラは気を引き締め、時間を過ごした。そして、アルテルに断る。


「先生、これからティケのところへ行って来てもいいですか? どうしても今日じゃなきゃいけない用があるんです。今日は泊めてもらって、明日の朝には戻りますから」


 嘘をついた。用意してあった嘘は、怪しまれずにすり抜ける。


「わかった。気を付けてな」


 笑顔で送り出され、シェラは心苦しかったけれど、なるべく何も考えないようにして先を急いだ。どうしても先に待ち合わせ場所に着きたかった。

 けれど、その甲斐も虚しく、ルシノーラはすでに橋の上で欄干に手を添えながら水辺を眺めていた。がっくりと肩を落としたけれど、気を取り直してシェラは彼女に声をかける。


「お待たせして、すみません」


 ルシノーラはおもむろに振り返る。


「私が早く来ただけよ。気にしないで」


 そう言った彼女は、いつもよりもあでやかな装いをしていた。

 髪は高く結い上げられ、首のラインがきれいに強調されている。唇は赤く、大きく開いた胸元に目が行ってしまう。

 シェラが子供っぽいので、大人の色香を見せ付けられているのだろうか。シェラが気後れしてしまうと、ルシノーラは言った。


「ねぇ、私が胃を病んでるのはどうしてだと思う?」

「え?」

「仕事が大変なの。でも、働かないと食べて行けないから。わかるかしら?」

「ええ……」


 こくりとうなずく。それを見てルシノーラは笑ったけれど、その目は冷めていた。


「結構大変なのよ。接客業だから、嫌な顔はできないし、我慢しているうちに胃を壊したのよね」

「そうだったんですか……」


 シェラは素直に、彼女を労わる気持ちを持った。シェラ自身も器用な方ではなく、アルテルに雇ってもらうまではどこも続かなかったのだ。

 ルシノーラはシェラをじっと見つめながら続ける。


「でも、私はまだマシな方。一番下の子はまだ十三歳なの。その子ね、親に売られたのよ。貧しいからって。それでも毎日必死で働いてるわ。……かわいそうでしょう?」


 はい、とシェラは答えた。


「うまくは言えませんが、それは本当につらいことでしょうね……」


 ここまでルシノーラに会いに来た目的も、今はどこかに置き忘れた。会ったこともないその子の心中を思うと、シェラも胸が痛む。

 シェラは親と死に別れたけれど、大事にされていた。売られるなんて、どんなにつらいだろう。

 ルシノーラは、そんなシェラに真剣な面持ちで言った。


「ねぇ、今日だけ代わってあげてって言ったら、どうする?」

「え?」

「無理かしら? あなたは優しい雇い主のもとで、大事にされながら働いている人だから。つらい仕事はできない?」


 唇を強く結ぶ。すると、ルシノーラはシェラに顔を近付けた。甘い匂いがする。


「できるなら、私はあなたを認めるわ。ただの苦労知らずのお嬢さんじゃないって。競い合うに値する相手だって」


 ここではっきりと言えればよかった。

 あなたに認められなくても、私は誰よりも先生のことが好きだと。

 けれど、シェラには彼女を退けるだけの強さがなかった。自信があれば言えただろう。不安しかなかったから、口に上らなかった。


「――わかりました」


 ルシノーラはゆっくりと妖しく微笑む。


「じゃあ、行きましょうか」




 それから、シェラはルシノーラに続いて歩く。


「ところでお仕事って、具体的にはどういったことをされるのですか? いつも、こんなに遅くから始まるのですか?」

「時間は遅いわ。夜から明け方まで。仕事内容は、お客の機嫌を取ること……かしらね。お酒をついで、ほめそやして……笑顔でね。どんなに嫌な人でも逆らっちゃ駄目」

「それは大変ですね」


 話を聴く限りでは、どうやら酒場のようだ。そういう場所で働いた経験はないけれど、やっぱり難しいのだろうか。


 第二地区の奥へと足を踏み入れる。あまりこの辺りには来たことがなかった。保護者のような存在のフレセスから、治安が悪いから近寄るなと言われている。

 実際、シェラが住んでいたところとはまた違った意味での汚さがある。向こうはぼろぼろなだけだったけれど、こちらは汚いだけでなく、派手派手しい色合いが多くて、ひどく落ち着かない気分になる。

 道で出会う人々も派手な服装が多かった。ここではこれが普通なのだろうか。


 シェラは明らかに浮いていた。じろじろと見られている。

 そして、もうひとつ気になることがある。やたらと恋人たちが多いのだ。特に、女性が積極的に腕を絡めている。あまり目にしたことのない光景に、シェラは驚きを隠せなかった。

 そんな時、ルシノーラは立ち止まる。


「ここよ」


 そこは、外観は宿のように見えた。割と大きく、造りもおしゃれだ。バルコニーに緑のつたが巻き、物語に出て来そうな気がする。酒場だと思っていたので、拍子抜けした。看板らしきものは、目立つ場所には見当たらない。

 正面玄関から光が漏れ、なにやら陽気な声が聞こえて来たけれど、ルシノーラはそこを避け、横の細い路地に入った。


「こっちから入って」


 従業員用の裏口らしい。シェラは慌てて後に続いた。

 中に入ると、内装もやはり宿のようだった。いくつもの扉があり、廊下が続いている。その途中に一人の女性がいた。


「ルシノーラ、後ろの娘は誰だい?」


 五十代だろうか。かなりはっきりとした化粧をして、ふくよかな体型を隠さず、細身の煌びやかなドレスをまとっている。その視線は怪訝そうにルシノーラとシェラを行き来した。


「女将……」


 雇い主のようだ。女将と呼んだ女性に、ルシノーラは遠慮がちに言った。


「詳しくは後から話します。彼女を部屋で待たせて来てもいいですか? こんなところにいたら、目立つでしょう?」

「……ああ。ちゃんと説明しておくれよ」

「はい」


 きっと、ルシノーラは信用があるのだろう。それ以上、うるさくは言われなかった。

 そうして、彼女は階段を流れるように上がった。その途中、やはり何組かの男女に出会った。シェラは浮いているので、ここでもじろじろと見られた。


「ここで少しだけ待っていて」


 ルシノーラはシェラを一室に通す。外観とは違い、その中は薄暗く、かなり殺風景だった。丸いテーブルと、壁にかかった鏡。ベッドだけが大きくて、それが部屋の中で妙な存在感を放っていた。

 ここはルシノーラの部屋だろうか。人のことは言えないけれど、飾り気がなくて寂しい部屋だな、と思った。

 椅子がないので立っていようかと思ったけれど、とりあえず、ベッドの縁に腰かけさせてもらい、待つことにした。

 その間に、先生は今頃どうしているかな、と思った。



     ※※※



 ルシノーラは階段を下り、女将のもとへ向かった。女将はニニカに何か指示をしていて、ニニカは深刻な顔でうなずくと、ルシノーラには気付かずに去って行った。ルシノーラが女将に近付くと、女将は疲れた様子で嘆息した。


「ああ、ニニカはちょっと下がらせたんだ」

「……またあのお客?」


 思い当たる節があった。


「まあ、金持ちの息子らしいけど、まだ子供のあの子に付きまとうなんて、いい加減にしてほしいよ、まったく」


 女将もこんな商売をしているけれど、悪魔ではない。むしろ、寄る辺のないルシノーラのような人間さえ受け入れてくれた恩人だ。ニニカのことも心配してくれている。

 ルシノーラが少し黙ると、女将はちらりと目を向けてきた。


「ところで、さっきの娘はなんだい? まるで住む世界が違うよ。どう見ても堅気だ。ふらふらさせて、なんかあってからじゃ遅いんだよ?」


 女将は何でもお見通しだ。女将は、笑顔を浮かべたルシノーラの腕をがっちりとつかむ。


「あんたがそういう顔をする時、どんな時だかわかってるかい?」

「え?」

「周りが見えてない時だよ」


 冷水を浴びせられたように、心臓が萎縮して痛んだけれど、ルシノーラはそれを隠した。


「私は――」

「あんたがここへ来るきっかけになった男。そいつに捨てられたってのに、あんたは戻って来るって言い張ってたね。その時の顔だ」

「そんな昔の話……」


 ルシノーラは顔を背けたけれど、女将は続けた。ただ、その声音は優しかった。


「あんたは面倒見がよくて、義理堅い。一番下のニニカのこともよくかわいがってる。あんたは根が優しいから、あの娘を傷付けたら、あんたはもっと傷付く。あたしはそんなのは嫌だからね」


 何も言えなかった。声が出なかった。自分の浅ましさに気付かされる。


「ごめ……っ、ごめんなさい……私……」


 子供のように泣いていた。化粧が崩れるのも忘れ、しゃくり上げる。

 アルテルへの恋慕と、シェラへの嫉妬。

 どちらが勝って自分を動かしたのか、もうよくわからなかった。


 ただ、自分が最低の人間で、アルテルの特別になれる可能性など微塵もなかったのだと思い知った。

 そんなルシノーラにも、抱きしめてくれる優しい腕があった。


「そんなに泣かないの。化粧が落ちてひどい顔だよ。大丈夫、まだ間に合うから。今日はもう休んでいいよ」


 本気で客の相手をさせるつもりはなかったけれど、絡まれて少しくらい怖い思いをすればいいと思っていた。下らない理由で、罪のない彼女を傷付けようとした。自分の醜さに直面し、気が狂いそうになる。

 ルシノーラは女将の腕の中で泣きながら何度もうなずいていた。女将は背伸びをしながらルシノーラを抱きしめ、娘をあやすかのように頭をそっと撫でてくれた。ルシノーラを人へと戻してくれた。

 落ち着くのを待って、それから女将はにっこりと笑う。


「ほら、顔を洗ったら、あの娘を送っておいで」

「はい」


 そうして収束する――。

 そんな虫のいい話はなかった。ルシノーラは他人を陥れようとした分だけ、罰を受けなければならない。

 それは、すぐ後に迫っていた。



     ※※※



 それにしても、遅い。

 シェラは困っていた。時間はわからないけれど、結構待った気がする。

 することもなくただ待っているだけだから、余計にそう感じるのかも知れない。

 張り詰めていたものが、段々とゆるんで行く。


「遅いなぁ……」


 ため息混じりにぼやくと、ドアが乱暴にガチャリと開いた。シェラは驚いてベッドから立ち上がった。

 けれど、それはルシノーラではなかった。うっとうしい前髪を横に流し、どこか虚ろで陰湿な目をした青年だった。身なりはよいけれど、趣味は悪い。初対面の人に、そんな失礼なことを思ってしまった。


 きっと部屋を間違えたのだろう。相手もシェラを見て驚いているようだった。

 なのに、彼は扉を閉め、ふらりとした足取りで近付いて来ると、ベッドの縁に座り込んだ。隣を叩き、シェラにも座るように促す。仕方なく、シェラも再び腰を下ろした。


「あの、失礼ですが、お部屋を間違われてはいませんか?」


 すると、彼は正直にうなずいた。


「そうだけど、まあいいんじゃない?」

「はぁ……」


 いいとは思わないけれど。

 すると、彼はシェラを食い入るように見つめた。シェラは自分の顔が強張るのがわかる。この状況で笑えない。

 けれど、相手の方が不意に笑った。


「あのさ、僕、本当はニニカちゃんを探してたんだ。女将が隠しちゃってさ。けど、もういいや。君の方がいい」

「え……と……」


 なんのことだかわからない。仕方がないので正直に答える。


「ごめんなさい。私、さっきここに来たばかりで、ここのことはよくわかっていないんです」


 その途端、青年は破願した。シェラは何故だか、その表情に寒気を覚える。 

 なんだろう、この感じは。

 腕をさすると、その右手に青年の手が伸びた。悪趣味な金色の指輪が光っている。

 突き飛ばしたい衝動と、それをしてはいけない理性で、シェラは固まった。そんなシェラの髪をさらりとすくい、彼は耳元でささやく。


「君は、僕のためにここに来たんだ。それだけをわかっていれば十分だよ」


 気持ちが悪い。もう、言いようもなく気持ちが悪かった。

 変な人だ。そうだ、酔っ払いなんだ。シェラは納得して、水でももらって来てあげようと思った。

 立ち上がろうとしたら、手首をつかまれた。結構な力がこもっていて、痛い。


「何?」


 少し声が尖る。


「えっと、水でももらってこようかなって……」


 シェラが笑ってごまかしても、相手は笑わなかった。


「駄目だ。逃がさない」

「え?」


 つかまれた腕が抜けるほどに強く引かれた。



     ※※※



 ルシノーラは僅かに落ち着きを取り戻すと、女将に言われた通りに顔を洗った。鏡の前の化粧っけのない顔は、今日一日で年齢よりも老けた気がする。

 また、胃がきりきりと痛い。そういえば、薬を飲み忘れている。これは自業自得だ。

 シェラは彼のもとに帰ったら、今日のことを彼に告げるだろうか。

 そうされても文句は言えない。ルシノーラは彼女に裁かれるしかないのだ。

 覚悟を決めて、部屋を出た。


 階段を上がり、シェラの待つ部屋に向かう。待ちくたびれているだろう。

 ルシノーラは話すべき言葉を探しながら目を瞑った。少し、指先が震える。

 そんな時、部屋の近くに何人かの人が集まっていることに気付いた。その異変に、背筋がぞくりとする。


「な、何か……?」


 客も仲間もルシノーラに顔を向けただけで、答えたわけではなかった。答えを聞くよりも先に状況を飲み込んだ。中から甲高い悲鳴が上がり、それを短い怒声が遮る。

 ルシノーラの頭から血の気が失せた。

 慌ててドアノブをつかんだけれど、開かない。鍵がかかっている。

 仲間の一人が心配そうに言った。


「中に誰がいるの? この部屋、さっきあいつが入って行ったのよ。ほら、ニニカに付きまとってたやつ」


 ルシノーラはその時、叫んでいた。

 女将の言葉は正しかった。本当にシェラに何かあったら、ルシノーラはどれだけ後悔しても時間を巻き戻すことはできないのだ。

 シェラが助かるなら、もう何を差し出してもいい。


「誰か! 急いで鍵を……お願い!」


 誰かが事情を知らせてくれたのか、廊下から駆けて来た女将が鍵を手渡してくれるまで、ルシノーラはドアを叩き続けていた。鍵が差し込まれ、ガチャリと開くのと同時に、ルシノーラは薄暗い部屋の中へなだれ込んでいた。

 その途端、ルシノーラは扉のすぐ前に立っていた男に強い力で髪をつかまれた。気が遠くなるような痛みに(さいな)まれる。その力は、男の怒りを反映していた。


「貴様、なんのつもりだ!」


 息が詰まって、とっさに答えられなかった。

 けれど、部屋の隅で肩を抱いてうずくまっているシェラの姿が目の端に映った。

 それだけで十分だった。ルシノーラは声を振り絞る。


「行って!」


 シェラは、涙でぼろぼろになった顔で怯えている。殴られたのか、左の頬が赤くなっていた。

 彼女に向け、ルシノーラはもう一度声を絞る。


「早く!」


 びくりと体を強張らせ、それからシェラは駆け出した。男はルシノーラから手を放し、シェラの後を追おうとしたけれど、今度はルシノーラがその腕にしがみ付く。


「この!」


 頬を打たれ、口の中に血がにじむ。それでも、声を上げてシェラの足を止めたくなかった。

 けれど、彼女は振り返る。傷付いても優しい目がルシノーラを心配してくれている。

 それが余計に苦しかった。ルシノーラにはその資格がない。


「お願いだから、早く行って!」


 シェラはためらい、痛々しいまでに顔を歪めてきびすを返した。それでいいと、私は少しだけほっとした。

 男は何かわめいているけれど、私にはもうどうでもよかった。

 自分の蒔いた種を、これから始末しなければならない。ただ、そんなことよりも、彼女の帰り道の無事を祈った。



     ※※※



 その頃、アルテルは歩いていた。

 シェラはティケのところに行き、泊まると言っていた。シェラは世間知らずではあるが、自分のことは自分で決められる年齢だ。一人で出歩くことだって、珍しくはない。

 それが普通の思考だと思う。なのに、どうしてだかアルテルは町の中を歩いていた。

 手にしているカンテラの明かりのように、アルテルの心もふわふわと定まらない。


 過保護だと思う。

 訪ねて行ったところで笑われそうだ。そう何度も逡巡(しゅんじゅん)し、その結果がこれだ。

 つい、何かあったのではないかと思ってしまう。その心配をさせるだけの前科が、シェラには山ほどある。今日がそうとは限らないけれど、送り出した後になって不安が募った。


 胸騒ぎとか、そういう言葉が当てはまるのかはわからないけれど、じっとしていられなかった。

 少し目を離すと、人に文句を言われていたり、怪我をしたり、そんな相手だから心配になる。


 隙だらけなのだ。

 警戒心がないのは、純粋だからだと思う。けれど、それで済まない事態が多くある。

 だから、それをシェラが自分で見極められるまでは、目を離してはいけないような気がしていた。

 子を見守る親のような心境だろうか。


 アルテルはとりあえず、ティケのところへ行こうと思った。けれど、よく考えてみると、ティケは雑貨屋で働いているだけで、そこで寝泊りしているわけではないだろう。住まいまでは知らなかった。

 すでに雑貨屋の周辺に差しかかっていただけに、急に目的地がわからなくなって困ってしまった。どうしようかと考えていると、通りの先をとぼとぼと歩く人影があった。後姿だ。

 相手は明かりを持っていないし、アルテルの手元の明かりだけで照らせる距離ではなかった。なのに、アルテルはそれがシェラだと思った。


 こんなに遅くに一人歩きなんて物騒な、とアルテルはあきれながら駆け寄った。けれど、その足音を近くで感じられるくらいに距離が狭まると、相手は振り返りもせずに逃げ出した。

 どうも、変質者と間違われているらしい。こんなところにアルテルがいるとは思っていないのだから、薄暗い中で男が後をつけて来るとあっては無理もないのだが。

 アルテルは近所迷惑にならない程度に声を絞り、呼びかける。


「シェラ!」


 振り返らない。聞こえていないようだ。

 ここまで来て人違いだったらどうしようかと思ったけれど、近付くにつれ、やはり間違いない。着ている服も出かけと同じだ。


 所詮、シェラの足は遅かった。それにしては、かなり必死だった方だろう。

 よほど怖がっているのだと思い、アルテルはその勘違いに早く気付かせてやりたかった。だから、手を伸ばしてシェラの腕をつかんだ。

 その途端、腕は硬直し、シェラはこちらを見ようともせずに悲鳴を上げた。


「いやっ!」


 けれど、その声は恐怖のあまりのどの奥でかすれて消え、ろくに出ていなかった。尚も振り払おうともがくシェラに、アルテルは驚いて声を少し大きくした。


「シェラ、俺だ! 落ち着け!」


 ようやく、シェラはぴたりと動きを止める。恐る恐るアルテルを見上げた。

 アルテルは、これでシェラは安心してくれると思った。そう、自惚れていたのかも知れない。それくらいの信用はあると思っていた。


「先……生……」


 一瞬だけ、シェラの緊張が解けたかに思えた。けれど、何故か再び腕に力がこもる。そのことに、アルテルは軽くショックを受けた。

 ただ、もう一度だけ自分を見上げたシェラの顔を改めて見た時、今度はアルテルの方がぎくりとする。

 泣き続けていたのか、真っ赤になった目と、未だに乾いていない涙。それに、ぶたれでもしたのか左の頬が赤い。シェラはまた、顔を隠すようにうつむく。


 何があったと訊けなかった。

 アルテルがつかんでいる腕にも、赤い跡がいくつも付いていた。それは、人の指の形をしている。大きさからいって男のものだ。細い首にも、片手で絞められたような痕跡がある。

 それらを理解した時、自分の血が凍るような感覚があった。どのような悪意が向けられたのか、考えることを頭が拒んでいる。


 アルテルは、手を放そうと思いながらも、それができなかった。放したら、どこかへ飛び立ってしまいそうだった。

 感情を抑え、できる限りの穏やかな声をかける。


「もう大丈夫だから。俺がいるから、怖がらなくていい」


 けれど、シェラは力なくかぶりを振る。ぼそぼそと言った言葉が聞き取れない。


「――るんです」

「うん?」


 アルテルはそのか細い声を拾おうと、少し頭を傾けた。そうして、やっと聞こえたその言葉に耳を疑う。


「あんなにつらい思いをして、それでも必死に生きている人たちがいるなんて、知らなかったんです。なのに私は、先生に守ってもらってばかりで、なんて……ずるいんでしょうか……」

「何を言ってるんだ?」


 守れてなんかない。

 今もこうして、ずたずたに傷付いて泣いているのに。

 もどかしいくらい、届かない。

 無力な自分が、何をしてやれていると言うのだろう。


 無性に腹が立った。色々なものに対して。

 段々と冷静さを欠いている自分が、この時はどうにもならなかった。シェラの震えが止まらない限り、平静は取り戻せない。

 シェラはまた、ぽつりとこぼす。


「先生に優しくしてもらう資格なんか、私にはありません……」


 頬を伝わずに大粒の涙が落ちる。その時、アルテルは手にしていたカンテラを地面に落とした。カシャン、という音と、焦げ臭い臭いが広がる。二人の視界が暗くぼやけた。

 そうすることが正しいと思ったわけではない。ただ、他のことは何ひとつできないから、そうするしかなかった。


 アルテルは華奢な体を抱き締め、シェラの震えを止めようとした。意識していないと締め付けてしまいそうになる。そうしていると、震えているのは自分のような気がして来た。

 言葉が届かないとしても、かけ続けることで伝わるかも知れない。そう信じた。


「確かに、つらい思いをしながら生きている人間は沢山いる。けどな、それがお前が傷付かなきゃいけない理由にはならない。そんなの、俺は認めない」


 シェラが誰のことを言い、何に義理立てして苦しんでいるのかなんてわからない。それに、どうでもいいと思った。

 その相手が苦しむより、シェラが苦しむ方が嫌だから。身勝手でもいい。それでも、選ぶから。

 シェラが笑うことを望むから。


 不意に、腕に重みがかかった。それを感じた瞬間、シェラの体がくずおれる。

 感情の波について行けなかったのだろう。今日はひどく疲れたはずだ。

 アルテルは、涙の残る柔らかな頬をそっと拭った。

 

 この傷が癒えるまで、どれくらいかかるのだろう。アルテルにできることはもうないのだろうか。痛みをわかってやることすらできない。

 なすべきことが見えて来なかった。

 そんな苦悩が、アルテルの内に生じる。


 シェラが目が覚めた時、最初にかける言葉を考えながら、ぐったりとした体を抱え上げる。

 朝まで考えたら、少しはましな言葉が言えるだろうか。



  【アルテル=レッドファーンの特別 ―了―】


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