アルテル=レッドファーンの溜息
春。
それは、美しい花の咲き誇る、最もすばらしい季節。
花好きが高じて庭師という職種を選んだ少年フレイは、花に囲まれている時に一番の幸せを感じる。少しでも長く花を愛でていたいし、手をかけていたい。仕事だけではなく、家で育てている鉢植えもそろそろ植え替えすべきものがあり、やることはいくらでもあった。
なのに、せっかくの休日をいつもの大声でつぶされてしまった。
「フレイ、お嬢様のところへは定期的に足を運んでいるのだろうな? サボってなどおらぬとは思うが、もしそうなら直ちに向かうのだ。拒否は許さん」
フレセス=ブルック。フレイの伯父に当たるが、年齢的には祖父と言っても通る。故に、フレイはじいちゃんと呼んでいた。
「じ、じいちゃん。俺、ちょっと忙しいんだけど……」
フレセスは、手にしていたステッキの持ち手を、フレイの首筋に滑り込ませると、ぐい、と自分の方に寄せた。老人にしては素早い。
「口答えは許さん」
凄む。正直、下手なチンピラよりも、よほど怖いと思う。
フレセスは若い時から執事という職に就いていたためか、常に背筋がよい。ステッキは単なるおしゃれか、もしくは武器だと思う。声もでかいし、何より頑固だ。
そんなフレセスがずっと気にかけている『お嬢様』とは、以前勤めていたお屋敷の令嬢で、両親の死と共に身ひとつで家を出された薄幸の美少女である。
元令嬢シェンティーナ=トウエル――シェラを、フレセスは主従関係でなくなった今も、それはそれは過保護に見守っている。
それが悪いとは言わないが、甥っ子のフレイを自分の手足として様子を見に行かせるのは勘弁してほしい。何せ、そのお嬢様がいる場所は、フレイにとっては魔境にも等しいのだから。
「し、心配ないって。うまくやってたし。シェラの意思で留まってるんだから、下手にちょろちょろするだけ迷惑だろ?」
から回る舌で必死に訴えた。けれど、フレセスはやや白濁した目でじろりとにらんだ。
「フレイ、よもや蛇やトカゲが怖いから様子を見に行きたくない、などとは考えておらんだろうな?」
「…………」
「行かぬなら、今後は私が直々にお前の寝床にゲテモノを忍ばせるが、その方がよいか?」
「っっっ!」
結局、伯父に勝てないフレイは、魔境――アルテル薬剤店に向かうこととなる。
※※※
アルテル薬剤店。
それは、その名の通り、アルテル=レッドファーンなる人物の営む薬屋である。
ただし、その評判はすこぶる悪い。
黒魔術師だの子さらいだの、色々とささやかれている。ただ、それは噂に尾ひれが付いた結果で、事実はただの変わり者だ。
長身にくせのある金髪。丸眼鏡の奥の切れ長の眼。
一見しただけでは何故そんな噂が立ったのか、わからない。シェラが言うには、汚れが目立たないという理由で着ていた真っ黒なローブが悪いらしい。
調薬以外の何かにつけて無頓着なアルテルは、自分の世話を焼く美少女の性別さえ誤解したままでいる。あそこまで行くと、鈍いで片付けていいものかどうか。
けれど、だからこそ安心なのだ。フレセスはもちろんいい顔をしていないが、それでも連れ戻さないのはそのためだろう。
様子を見に行けとは言うけれど、正直なところ、そっとしておいてやればいいと思う。
シェラはアルテルの世話を焼くのが楽しいようだし、アルテルもシェラを弟(?)のようにかわいがっている。間違いも起こりそうにないし、うろうろする方がかえっておかしい。
けれど、そんな意見が通る相手ではないから、フレイはとぼとぼと出かけるはめになったのだ。
辿り着いても、できれば店の中へは入りたくない。シェラが外にいるといいなと思った。
ちらりと挨拶して、フレセスへの言付けでももらって帰ればいいや、とこの時はまだ軽く考えていた。
段々と梢の隙間から見えて来る景色がある。
大樹をくり抜いたような形をした建物。その横に、白くはためくものがあった。洗濯物だ。
その陰から、かごをかかえた少女が姿を見せた。さっと風が吹く。
彼女は立ち止まり、かごを片手に風にもてあそばれている長い髪を押さえた。さらりと細く、日に透けて輝く髪がきれいだ。
春らしい白いブラウス。そして、若草色のフレアスカートの裾から覗く脚に、思わず目が行ってしまった。
「――って、ええっ!!」
立ち尽くして大声を上げたフレイに気付き、シェラはあら、と微笑んだ。
「フレイじゃない。どうしたの? またじいやに様子を見に行けって言われたの?」
普通に声をかけられたけれど、フレイはすぐに返事が出来なかった。
くたびれた男物の服。それがシェラの普段着だった。髪もいつも適当に結んでいたし、せっかくの器量が台無しという格好ばかりを好んでしていた。
なのに、目の前のシェラは、上等とは言えないけれど女の子らしい服装に身を包み、髪も下ろしている。よれよれを着ていてさえ人目を引くような美貌だったのだ。そんな格好をしていたら、フレイでさえ無意識に口をぽかんと開けたまま見入ってしまった。
「フレイ?」
小首をかしげる仕草も様になる。けれど、フレイはようやく我に返った。途端にさっと血の気が引く。
「その格好……もしかして、バレた?」
「うん。ばれちゃった」
かわいらしく言うのは止めてほしい。最悪の事態なのだから。
「そんな……。じいちゃんになんて言えばいいんだよぉ?」
泣きたくなった。脱力したフレイに、シェラは苦笑する。
「でも、なんにも変わりないのよ。今までと同じだから」
「絶対、嘘だぁ!」
「嘘じゃないわ。だからね、じいやに報告する時も変なこと言っちゃ駄目よ? また心配かけちゃう」
なんの変わりもなかったと報告したいのは、むしろこちらの方だ。けれど、それではばれた時が怖すぎる。
滝のような汗をだらだらと流していると、シェラは困ったように言った。
「ねえ、フレイ。私、これから出かけなくちゃいけないの。お茶でも出したいところなんだけど、ごめんね?」
「で、出かけるって、アルテルさん、と……?」
シェラはにっこりと、春の日差しのように微笑む。
「うん。これから薬草を摘みに森までね。この時季にしか採れないものがあるんだって」
それなら、いったん引いて対策を考えよう。
そう思ったけれど、よく考えてみれば、今日ここに来たことをフレセスは知っているのだから、帰ってから何も尋ねられないわけがない。先延ばしは無理だ。
フレイが一人でうんうんうなっていると、店の扉がガランガランと音を立てて開いた。
「!」
そこにいたのは、アルテルだった。普段は真っ黒なローブを着用していると聞いていたけれど、目にしたのは初めてだった。確かに、おどろおどろしい。
黒づくめのアルテル=レッドファーンは、フレイに気付くと、そのおどろおどろしい空気を吹き飛ばすような人懐っこい笑みを浮かべた。
「フレイじゃないか。久し振りだな」
そういう笑顔ができるくせに、蛇とかトカゲとかをビンに詰めるのだから、恐ろしい。
フレイは緊張したまま頭を下げた。
「は、はい。お久し振りです……」
「先生、支度は済みましたか?」
シェラの問いに、アルテルは手元のかごを軽く持ち上げて見せる。
「支度なんて、かごとハサミくらいだ。そっちは?」
「はい。干し終わりました」
小さくうなずくと、アルテルはフレイに視線を落とす。
「せっかく来たんだし、フレイも一緒に行かないか?」
「え?」
「少し、話したいこともあるし」
アルテルがそう言った途端、シェラが緊張したように思う。きっと、余計なことを言われたくないのだろう。
けれど、フレイはアルテルが何を思い、何を言おうとしているのかが気になった。間違いなく、シェラに関することだ。
外で話す分には、ゲテモノのビン詰めがない。その方がいい。
それに、アルテルはこれでも理知的な大人だ。フレセスを相手にするよりいいかも知れない。
「――わかりました」
三人はそれぞれに肩紐の付いたかごとハサミを持って出かけた。シェラはそれに加え、籐のバスケットを持っている。
目指す先に見える新緑の色は、はっとするほど印象深いのに、ゆっくり目に染み入るような穏やかさがある。踏みしめる草の臭いも、庭いじりをする時とはまったく違うもののように濃い。それがフレイには思いのほか心地がよかった。
花咲く造られた庭で、緑に囲まれていたつもりが、実は大自然に縁がなかったのだな、となんとなく思う。
そして、この辺りに住んでいるアルテルにとっては、ここも自分の敷地のようなものなのか、木の根を避けてすいすいと進んで行く。
けれど、時折振り返り、二人が追い付くまで立ち止まってくれていた。
「森なんて木ばっかりだからな。迷うと厄介だし、はぐれるなよ?」
「ア、アルテルさんは道がわかるんですか? どこも同じように見えますけど……」
「まさか。目印を付けてあるんだ。俺にしかわからないけど」
森の緑の中、これほどに黒々した大きなものが動いていればわかりやすいけれど。この背中を見失わないようにしなければ。
「特にシェラは気を付けろよ。お前はすぐに厄介ごとに巻き込まれるから」
「そんなつもりはないんですけど」
と、シェラはふくれる。アルテルは軽く笑った。
そんな他愛ないやり取りも、フレイには複雑だった。
隣に並ぶシェラの横顔を見る。歩きにくい森のせいか、頬がほんのりと紅潮している。
冷静に見ても、きれいだと思う。
少しずつ、少女から女性になりつつあるこの時期の危うさが、見ていてどきどきする。
フレイの場合、あんな祖父を持つせいでシェラに恋愛感情など持てそうもないが、違った出会い方をしていたら恋したかもしれない。
アルテルは毎日こんな娘と二人きりで寝食を共にして、それでも平然としているのだから、やっぱり変なんだと思う。
けれど、彼女をよりきれいにしているのは、アルテルへの恋心のせいだ。もう隠し切れないくらいに、それが伝わって来る。
シェラが誰を好きになろうと、それは自由だ。それでも、よりによってと言わざるを得ない。
普通の幸せを周囲は願っているのに、どうしてそう危ないところに立ちたがるのか。
アルテルが悪いとは言わないが、周囲から白い目で見られるのは確かだ。
フレセスのことがなくても、フレイだって、シェラには幸せになってほしいと思う。泣いているところは見たくない。
すると、シェラがその視線に気付いてフレイの方を見た。
「何?」
笑顔で首をかしげる。そんな仕草は女性的だった。
フレイはなんとなくごまかす。
「あ、いや、そういえば、スカートなんて珍しいよな。随分長いことはいてなかっただろ?」
「うん。だって、動きにくいし」
「じゃあ、なんで?」
「友達がね、自分の古着だけどって、何着かくれたの。なるべくスカートをはきなさいって、前の服も捨てられちゃった」
「友達? へぇ……」
「うん。ティケっていって、雑貨屋さんで働いてるの。とってもいいコよ。今度紹介するね」
シェラはお嬢様育ちなので、下町に住むような少女たちとはなかなか合わなかったらしく、独りでいることが多かった。
「それ聞いたら、じいちゃん喜ぶよ」
「そう? じゃあ、それは伝えてね」
それ、に妙な力がこもっていた。
それからしばらく歩き、アルテルが立ち止まったのは、少し開けた場所だった。
一本の大樹が堂々と、その場所の主であるように見えた。白く小さな花を枝いっぱいに抱え、花弁を地上に降らせる。まるで雪が積もったような幻想的な眺めだった。風に乗って花びらが舞う様子は、言葉を失くしてしまうほどに美しい。
「こんな大きなクローセンの木、初めて見た……」
胸が高揚し、ぼうっと見入っているフレイに、アルテルは今摘み取った植物を手渡した。細かい紫色の花の付いた野草だ。
「アソッド? ああ、薬効までは知らないけど、昔から薬用として用いられて来たって聞いたことがある」
フレイのつぶやきに、アルテルは片眉を持ち上げる。
「へぇ、詳しいな。花が好きなのか?」
「好きだし、仕事です。俺、庭師の修行中だから」
男のくせに花が好きなんて、と言われることも少なくない。けれど、アルテルはそういうタイプではなかったようだ。
「そりゃあ助かる。頼むな」
と、柔らかい笑顔で言った。
「シェラはこのクローセンの花集めだ。木には登らなくていいから、落ちてるのだけを拾うように」
「登れって言われても、登れませんよ。こんなの……」
そうして、三人はそれぞれに作業に没頭した。
アルテルは多種類の群生する薬草を摘み取っているが、フレイにはいくつか名前がわからなかった。シェラはこちらに背を向けたまま、しゃがみ込んで花を拾い集めている。クローセンの花は、ひとつひとつが小さいので、かごいっぱいには程遠かった。
フレイは目の端に映る紫色に逐一反応し、それをせっせと摘み取って行く。けれど、ふと思う。
話があるっていうから付いて来たのに、これではただ手伝わされているだけなのではないだろうか。
もしや、人手がほしかっただけなのでは、と少し不安になった。
それでも、手は止めない。
しばらくそうして薬草採りに没頭していたけれど、あることに気付いた。やはり、アルテルはフレイと話をしたがっている。
フレイはかごを持って立ち上がると、アルテルを通り越えて茂みの方へ向かった。そっと覗き込み、何もいないのを確認すると、その中に足を踏み入れる。日当たりの悪いその場所に薬草はなかった。
そうしていると茂みが割れ、アルテルの足が入ってきた。アルテルはにっこりと微笑む。
「気付いてもらえたみたいだな」
「シェラにクローセンの花拾いをさせたのは、このためですね?」
「ん。本当に必要なんだけどな。あれは、咳止めになるし、腎炎や湿疹にも効く」
「あの花を拾うのは時間がかかるし、何より行動範囲が木の下に限定される。俺たちは移動しながら薬草を探すから、シェラから離れても不自然じゃない。……そんなに聴かれたくない話ですか?」
すでに随分と遠い。こちらからシェラの姿はかろうじて見えるけれど、シェラには二人を探せないだろう。けれど、作業に必死で、シェラは二人がいないことに気付いていない風だ。
「聴かれても困らないが、話を制限されそうだから、とりあえずは抜きで話したいと思ってな」
アルテルはフレイの隣に腰を下ろす。これほど近寄ったのは初めてかも知れない。
少し困ったように、アルテルは言った。
「フレイは、シェラが女の子だって、もちろん知ってたんだよな?」
「当たり前です」
即答したが、アルテルはその答えを予測していたようで、ただ苦笑する。
「まあ、そうだな」
それから、ふぅ、と小さく息を吐くと続けた。
「じゃあ、今みたいに俺のところで住み込みで働いてることをどう思う? フレイがというより、シェラを気にかけているフレイの伯父さんはどう思うだろう?」
「え? えっと……」
そんな恐ろしいこと、訊けない。
「もろ手を挙げて賛成、というわけにはいかないところです」
かなり控えめに言っておいた。
「だろうな」
アルテルはうなずく。フレイは、そんな横顔に言った。
「でも、シェラが望む以上、どうにもなりません」
「うん……」
何故か、遠い目をする。その様子が、理解できないものを前にした時のようで、フレイは少し不安になった。
好きでもない男と一緒に暮らしたがらないことくらい、すぐにわかりそうなものだ。
「一度、その伯父さんときちんと話ができたらいいんだが」
のん気にそんなことを言うが、会ったら何をされるか――。
フレイは嘆息すると、一か八かと切り出す。
「あの、伯父にはシェラが元気に働いているとだけ伝えます。余計なことを言うと、また――」
「また?」
「はい。また、嫁ぎ先を探し始めます。独り身でいるよりは安心だからって」
アルテルは一瞬、ほうけたような顔をした。けれど、すぐに納得したらしい。
「ああ、そうか。そういえば、女の子なんだから、結婚もできる歳なんだな」
言うことはそれだけか。
何か、フレイが緊張しながら紡ぐ言葉が空回りして行く。無駄なことをしているようだ。
最近まで男だと思っていたんだから、急に変わるわけがないのか。フレイは深くため息をつく。
つくづく、難儀だと思う。
「ただ、シェラがうんと言わなければ、伯父も無理強いはしませんから、話は進まないと思いますけど」
よそに嫁に行くのなら、尚のこと置いておけないと思われてもシェラに恨まれるので、一応フォローする。執着のない相手にこんなことを言っても無駄だった。ないんだから、突いたところでやっぱりない。
「……アルテルさんは、伯父に会ってなんと言うつもりですか?」
この質問で会話を終えようと思った。半ば投げやりに言った。
アルテルは、うん、と小さく言った。
「あいつは危なっかしいから、本気でやきもきしているんじゃないかと思ってな。だから、気持ちがわかるし、会ってみたいなと」
お前は保護者かと言いたくなる。
そんなところに気を回すくらいなら、もっと身近に目を向けろと言ってしまいたい。
フレイはそっと、茂みの奥からシェラの姿を見やる。
お前の趣味はわからん、と。
けれど、彼女の姿は、最後に見た時と体勢が違っていた。遠目に、倒れているように見える。
アルテルもそれに気付いた。片手を地面に付き、弾かれたように立ち上がる。
※※※
――そのしばらく前のこと。
シェラはアルテルに頼まれた通り、クローセンの花を拾い集めていた。
白い雪のような花は、ハラハラと舞い、シェラの頭や肩にも積もる。見上げればクルクルと回転しながら落ちて来る花もあり、いつまでも眺めていたいような光景だった。
思えば、一人でいた頃は花を愛でる余裕もなかった。こんな風にゆっくりと自然に浸るのもいいものだなと思う。
この感動をアルテルに伝えたくなって立ち上がる。
「せ――っ」
いない。
振り返ったら、アルテルどころかフレイまでいない。
薬草採りに没頭し、奥まで行ってしまったようだ。
アルテルは慣れているけれど、フレイは大丈夫だろうか。あれで慎重な性格だから、一人にならずアルテルのそばにいるかも知れないが。
いずれ戻って来るだろう。それよりも、今は自分の仕事をしなければ。
小さな花はなかなかたまらない。ようやくかごの半分というところか。
ずっとしゃがんでいたから、足が痺れて来た。腕を上げて、思い切り伸びをした。体が固まっていたので気持ちがいい。
大きく深呼吸すると、木の根元に置いておいたバスケットが目に入った。
「お茶、飲もうかな」
紅茶を持って来たのだ。二人は戻って来そうもないし、戻って来たらいれてあげればいい。
シェラはクローセンの木の根元にハンカチを敷き、そこに腰を下ろした。
そして、バスケットを開き、中から陶器のビンを取り出す。冷めにくいように綿入りのカバーで包んである。それをカップに注いだ。
ひと口含み、飲み下すと、ほっと息をつく。
上を見上げつつ、こんな中で飲むのもいいなと嬉しくなった。
手元の紅茶に、クローセンの花びらがひらりと落ちる。それだけのことで幸運が訪れたみたいに感じる。
「うわぁ。なんかいいな、こういうの。いつもと同じお茶なのに、高級品みたい」
能天気に、うきうきとしながら飲み干す。
「先生たちのお茶にも浮かせてあげよう」
そう思い付くと、クローセン以外の花も目に付いた。黄色や紫、朱色、ピンク、色とりどりだ。
「ああいうのもいいかな」
少しだけ集めてみよう、とシェラは木の下から離れ、野花を摘み出した。
何種類か集めてみるが、ひとつも名前がわからなかった。
黄色の花は花弁が大きく、小さなカップに浮かせてもきれいではなさそうだ。飲みにくいだけだろう。
紫は、フレイが集めている薬草のようだ。これは残しておこう。
水色の花は小さく、まるごと浮かせてもかわいい気がする。
朱色のものは、筒のように内側に花弁を巻き込んでいる、変わった形だ。内側は白い。お茶に浮かべるには不向きかも知れない。
ピンクは春らしくて、花弁がハートの形をしている。これをアルテルのカップに入れる勇気はない。
要るものと要らないものに分けると、結局、クローセンが一番きれいな気がした。
無駄に摘んでしまったことになる。
申し訳ないので、とりあえず、お茶をもう一杯飲むことにした。
何枚かの花弁を代わる代わる入れては出す。最後に、一番向いていない朱色の花を浮かべた。
けれど、細長い花は水面で横たわり、優雅さはまるでなかった。単なる漂流物だ。
「やっぱり、これはいまいち……」
小指の先でつついてみると、筒状の花弁の中にお茶が入り、中途半端に沈んだ。
「もういいや」
シェラは小さなカップを両手で包むと、それを飲み干した。
そうして、ふぅ、と息を吐くと、バスケットの中からふきんを取り出し、カップを拭いて片付けた。ハンカチもたたんでしまう。
シェラは一人きりのティータイムを終え、再びかごを抱えて花を拾いにかかった。
舞い落ちる花弁を見上げ、ここへかごを置いておけば、そのうちいっぱいにならないかな、と横着なことを考えてみた。
「時間がかかりすぎるよね」
苦笑してしゃがみ込む。やっぱり地道に拾うしかない。
そうして、作業を再開してからあまり時間も経っていないのに、シェラは妙に疲れを感じた。
「さっき……休んだのに?」
それも、休む前よりも疲れている。そこまで疲れている自覚はなかった。
何か、変だ。
そう思った時、急に呼吸が浅くしかできなくなる。ただ、苦しい。
頭の奥が麻痺して行くような感覚があった。
意識が断片的に薄れる。
右肩に痛みを感じたけれど、それが何故かもわからなかった。
その痛みさえ、曖昧に響いただけだった。
※※※
隣で獣が跳躍したような風がフレイを叩いた。
アルテルが茂みをひと跨ぎして、フレイを顧みもせずに駆け出したのだ。フレイも遅れないように後を追った。
けれど、アルテルは足が長いのか森に慣れているのか、滑るような足取りで先を行く。フレイが追い付いた頃には、シェラを腕に抱えていた。
「シェラ! おい!」
大きな手で頬をパンパンと叩く。けれど、反応がなかった。
アルテルは素早く、シェラの白い首筋に手を当てた。
「あ、あの、一体……」
フレイは自分の声が震えているのを感じた。気持ちを落ち着けようにも、頭が真っ白だ。冷や汗が背中を伝う。
アルテルは顔を上げずに言った。
「脈はある。でも、呼吸がかなり弱い」
腕をシェラのうなじに滑らせ、頭を下げる。気道の確保をしているのだろう。
狼狽して立ち尽くしているフレイに、アルテルの低い声が飛ぶ。
「この症状、中毒かも知れない。手や足に噛まれたような痕はないか、見てくれ」
「え? あ、はい」
フレイはただ、あわあわとシェラの細い四肢を見渡したけれど、それらしい痕跡はなかった。
「わ、わかりません。ない、と思います……」
思います、などと曖昧なことを言ってしまう。それでは駄目なのに、自信がない。
それに比べ、アルテルは落ち着き払っていた。どうしてそんなに冷静なのだろう。
シェラがこのまま目を覚まさなくても、仕方ないと割り切ってしまうのか。そこまで執着がないというのなら、彼女があんまりにもかわいそうだ。
すると、アルテルはようやく顔をフレイに向けた。
「じゃあ、こっちに来て代わってくれ」
「は、はい」
アルテルはフレイの腕にシェラの首を載せた。フレイの腕に重みがかかる。
青白い顔と、紫色の唇が目に焼き付く。もう何も考えられない。フレイの震えは止まるどころかいっそうひどくなる。
アルテルはシェラの腕や足を裏返して確認するが、やはりそれらしい傷はない。鋭く周囲を見回し、一点に視線を止めた。
シェラが持って来たバスケットだ。正確にはその隣。そこで何かを拾う。
そして、バスケットを開いて中を確認すると、小さく嘆息した。そして、陶器のカップを取り出したかと思うと、唐突にそれを叩き割った。
「ア、アルテルさん……?」
返事はなく、アルテルはその場にあぐらをかくと、折りたたまれた黒い布を懐から取り出す。それを開いた。
中から現れたのは、小指の先ほどのいくつかの薬入れだった。透明なその入れ物には、細かくメモリが入っている。それから、粉末の包み。それから、太さの違う何本かのストローのような管。コインのような大きさの深皿。
「な、何を始めるんですか?」
アルテルはまた顔を上げない。
「原因はわかった。即席で解毒薬を作る。効果は薄いが、ないよりましだ」
フレイはほっとした。シェラは助かるのだと。
じんわりとフレイの頭に体温と思考力が戻る。
けれど、手早く準備をしながら張り詰めた空気を放つアルテルは、とんでもないことを言った。
「呼吸が止まらないか、ちゃんと確認してくれ。もし止まったら人工呼吸を。やり方はわかるな?」
「はあ!?」
フレイの血の気がまた失せた。そんなことをしたら、フレセスに殺される。
「で、で、できるわけないじゃないですか!」
ぶわ、と涙がふき出した。涙目になったフレイを、アルテルは信じられないくらいに鋭い目付きと低い声で恫喝する。
「ふざけるな。できないで済ませるのか?」
琥珀色の目が、あんなにも冷え冷えとしている。それでようやく、そんなことを言っている場合ではないのだと気付かされた。
そうだ。このまま目を覚まさないなんてことになったら、それこそ顔向けできない。
フレイはきつく唇を結び、決心する。シェラの顔に手をかざし、その手に神経を集中した。
アルテルはすでに作業に取りかかっている。
小さな薬入れのふたを指で弾いて抜くと、その中に管を差し込み、その反対側で親指を動かして吸い上げる量を調節している。それは繊細な作業だ。手早くするのは難しいことのように思う。
けれど、アルテルに迷いはない。その手元に思わず見とれてしまう。
アルテルの調合する薬は薄茶色だった。何が入っているのかわからないけれど、それで完成のようだ。
アルテルはゆらりと立ち上がると、シェラの傍らにひざを付く。
「まだ大丈夫か?」
「は、はい」
呼吸は弱々しいが、まだ続いている。
「じゃあ、少し頭の位置を上げて」
言われるままに、フレイは腕を動かす。
飲み込ませやすい体勢にしてから、フレイはふと思った。
少量しかできなかった解毒薬は、この場では貴重だ。もし、シェラが飲み込めずにこぼしてしまったらどうにもならない。
当の彼女は、唇を結んだままでいる。
一体、どうやって飲ませるのだろう。
一人で慌て、一人で想像した。
こういう時って、口移しで飲ませるって聞くよな、と。
じいちゃんにはもちろんのこと、誰にも言いませんから、とフレイは一人でうなずき、納得した。
けれど、相手はあのアルテル=レッドファーンである。それがそもそもの間違いだ。
アルテルはそんなフレイをよそに、調薬に使っていた管を薬の中に突き立てる。それを吸い上げると、シェラの口を指で開かせて、その管を差し込んだ。また親指を使って落とす量を調節し、飲ませている。
「うわぁ……」
思わず声をもらしてしまった。肩透かしもいいところだ。
けれど、アルテルは聞いていない。薬を落とし終えると、今度はのどをさすって嚥下させる。その後で、アルテルはようやく深く長い息をついた。
「まったく、人騒がせな……」
後ろに両手を投げ出して首を回す。緊張が解けたのか、さっきの突き刺さるような鋭さはすでになかった。
それから、髪をかき上げる。その額には玉の汗が浮いていて、額に当てた小指の先に微かな震えがあるのを、フレイは見逃さなかった。
フレイのように慌てふためくのは簡単だ。けれど、必要なのはいざという局面での冷静さで、それを保つ精神力はさすがだと思った。今、あの指先の震えを前に、冷たい人だなどと思った、さっきの自分を殴り付けてやりたい。
しばらくすると、シェラの呼吸はすうすうと寝息のようなものに変わった。
のん気なものだ。腹立たしいほどに。
「結局、シェラはどうしてこんなことに?」
フレイが尋ねると、アルテルは眼鏡を外し、目元を押さえながら言った。
「フレイは、セテギアを知ってるだろ?」
一瞬、どうしてそんなことを尋ねるのだろうと思った。
「そりゃあ知ってますよ。毒草ですから」
答えてから、はっとした。
「……まさか」
「そのまさかだ。そこに花が落ちてた。しかも、茶色の水滴が付いてた。持参した紅茶に入れて飲んだみたいだ」
そんなこと、あるのだろうか。
「あれは花粉に毒があるって、子供だって知ってますよ。それなのに、どうして……」
「それでも、知らなかったんだろうな」
アルテルは、丸眼鏡を手の平でもてあそびながらつぶやく。
眼鏡のないアルテルは、改めて見ると整った顔立ちをしている。その顔で、少し戸惑いを見せた。
「シェラは時々、誰でも知っているようなことを知らなかったりする。一人で暮らしてた割には、世間ずれしていないような」
お嬢様育ちのシェラは、きれいに整えられた美しい庭しか知らない。そこには毒草どころか、雑草さえも存在しなかった。
一人で生活し始めても、それらの危険性を逐一そばで教えてくれた人がいたわけではない。知らなくても不思議ではないのだろうか。
フレイは嘆息する。
「シェラはお嬢様育ちだから、世間知らずなんです」
「ああ、そういうことなのか。言われてみると納得だな」
アルテルは多分、シェラの過去を訊かず、シェラも特に話していないのだろう。二人にとってそれは重要ではないのかも知れない。
「シェラはある意味、純粋です。でも、それが厄介なところです。こんなことばかりが続くと、面倒だと思いますか?」
思い切って尋ねてみた。答えは聞かずともわかるように思えたのは、気のせいではない。
アルテルは柔らかく微笑む。
「厄介か。まあ、今日みたいに命にかかわる失敗は、そう何度もあると困るけどな。迷惑だとは今のところ感じてない」
フレイはほんの少し赤みの差したシェラの顔を眺め、そっと目を細める。
「そうですか。それを聞いて安心しました。危なっかしいシェラに、アルテルさんみたいな人が付いていてくれると心強いですから」
「そう立派な人間じゃないよ、俺は。評判も悪いし」
はは、とアルテルは軽く笑う。けれど、フレイはかぶりを振る。
「俺はうろたえるだけで、なんにもできませんでした。アルテルさんが冷静に対処してくれなかったら、シェラは助からなかったんです」
そんなフレイに、今度はアルテルがかぶりを振った。
「フレイがうろたえていたから、俺は冷静になれたんだと思う。一人だったら、俺がうろたえてたよ。フレイがいてくれて助かった」
「そんな……」
そんなのは嘘だと思った。それでも、そう言ってくれる優しさは紛れもない。一見冷たく見えるようで、本当はとても温かい人なのだ。
じんわりとそれを感じた。
アルテルは眼鏡をかけ直し、ひとつ伸びをすると立ち上がる。
「さて、そろそろ動かしても大丈夫だろう。ちゃんとした解毒薬も飲ませて、体内の毒を散らしてしまわないとな」
「はい」
それから、アルテルはフレイに尋ねる。
「フレイは、かご三つとバスケットか、シェラか、どっちを運ぶ?」
荷物扱いだ。ひどくはない。シェラが悪い。
「かごです」
言い終わるか終わらないかのところで、フレイは太ももに感じていた重みから解放された。
「じゃあ、頼むな」
人形のように眠るシェラを、アルテルは軽々と横抱きにして歩き出す。そうしていると絵になる。似合っていると思うのに。
フレイは一瞬、自分とアルテルのかごがどこにあるのか真剣にわからなかった。それからようやく思い出し、茂みの裏に走った。全力で戻り、かご三つを肩にかけてバスケットを手に持ち、アルテルたちの後を追う。
※※※
シェラは頭を持ち上げようとして、なんて重いんだろうと持ち上げるのを諦めた。転がして横を向く。綿入りの枕に耳が埋もれた。
「――枕?」
あり得ないものに出くわした驚きから、勢い余って身を起こした。けれど、途端に信じられないくらいに気分が悪く、胃の中のものを戻してしまいそうだった。支えにした腕が体を支えていられなくなり、また崩れ落ちる。
そうして、しっかりと認識をした。
森にいたはずが、気付けば自分の部屋で寝かされているのだと。どうやって戻ったのか、まったく記憶にない。
戸惑いと気分の悪さで混乱したシェラに、落ち着いた声がかかった。
「やっと起きたのか。お前、危ないところだったんだぞ」
いつのまに来たのか気づかなかったけれど、戸口のところにフレイが立っている。フレイはシェラのそばに来て座った。
「危ないところって?」
フレイは嘆息した。
「朱色で筒みたいに花弁が巻いてる花、覚えてるだろ?」
「お茶に浮かべたやつ?」
「あれ、毒草だから」
「!」
口を押さえてショックを受けているシェラに、フレイは追い討ちをかける。
「毒草は止めろよ。ほんとに死ぬから。もう大丈夫だけど」
恥ずかしさと情けなさで、シェラは消えてなくなりたいと思った。
「……ごめん」
縮こまって謝ると、フレイは苦笑した。
「じいちゃんには内緒にしとくよ。卒倒しそうだし」
「うん。お願い」
フレイは一度、弱り切ったシェラを気遣うような視線を向けると、ぽつりと言った。
「でもさ、アルテルさんってすげぇな」
「え?」
熱のこもった声で、フレイは言う。
「外出する時、最低限の成分を少量だけ携帯してるんだって。調合次第で応用が利くように。シェラが倒れてるのを見付けた後、その場で解毒薬を調合したんだ。真剣な目付きで手際よく調合してるとこ、カッコよかったよ」
「そう……なんだ」
アルテルがほめられているのはすごく嬉しいけれど、その時、みっともなく伸びていた自分を想像するだけで泣きたくなった。涙目になったシェラに、フレイは笑っている。
「いい人だよな。じいちゃんはあれだけど、俺は賛成するよ」
「賛成?」
「でも、かなり鈍いよな。もっと積極的に迫ってみろよ」
「っ! 余計なお世話!」
シェラは動揺を隠せない顔を毛布で覆うが、フレイが立ち上がった気配を感じた。
「じゃあ、アルテルさんに報告して来る。シェラが気付いたって」
なんと言って謝ろうかと、そればかりを思った。土下座でもしたい気分だった。
それからすぐ後、夕日の茜色と共に黒く長い影が部屋に差し込んだ。
「……あの、フレイは?」
「帰ったよ。明日は仕事が早いらしいし」
アルテルは扉を閉めずにシェラの隣に腰を下ろした。少しの沈黙があり、先に口を開いたのはアルテルだった。
「ここのところ、お前が俺の薬の一番の客になってるな」
それを怒っている風でもなく、ただ苦笑している。
「ごめんなさい……。お代は請求して下さい」
こんなことを言うのは失礼だと思う。そんな発言を嫌う人だと思うのに、口をついて出てしまったのは、他に言葉が見付けられなかったからだ。
案の定、アルテルは眉根を寄せた。
「そういうことを言いたいんじゃない。ただ、今回は俺も悪かったと思って」
「何がですか?」
「ああいう危険のある場所だって認識が甘かった。一人にして悪かった」
無知で不注意だったシェラにあきれることはあっても、アルテルが罪悪感を覚えているなんて思いもしなかった。シェラはそのひと言で顔を上げる。
「先生は、私を助けて下さったんでしょう? 悪いのは私です。毒草の知識もなくて、馬鹿なことをした私が悪いんです」
口にしながら、段々と苦しくなる。
「本当に、迷惑ばかりかけてごめんなさい……」
すると、アルテルは溜息をついた。
それは、何故だかとても柔らかく、安堵にも似たようなものに思えた。
「シェラ、そういうことばかり言うもんじゃない。他に言うことはないのか?」
顔を上げる。情けない顔を見られたくはなかったけれど、今、アルテルがどんな表情でいるのかを知りたかった。
「あの――」
うん、とアルテルは微笑む。
優しいこの人は倒れているシェラを見て、まずどう思ったのだろう。そう考えたらすぐに答えがわかった。
「ありがとうございました。それと、ご心配をおかけしてごめんなさい」
すると、アルテルはうなずいた。
「ほんとにな。さすがに今回はきつかった。けがも風邪も構わないから、死にかけるのは止めてくれ」
「はい、ごめんなさぃ……」
「解毒薬、苦いからって吐くなよ。これからしばらく、毎日飲ませるからな」
「はぃ……」
それから、アルテルはじっとシェラを見た。薬が苦いと聞いて、少しだけ顔をしかめてしまったのがばれたのかも知れない。慌てて笑顔でごまかしてみるが、あんまり効果はなかった。
「先生?」
急に無口になったアルテルに、シェラはおずおずと尋ねる。
「ん? ああ、もう大丈夫そうだなと思ってな。今日はゆっくり休めよ」
最近、休んでばかりで申し訳ない。
立ち上がって背中を向けたアルテルが、少し疲れているように感じられた。呼び止めたい気持ちがあったけれど、シェラはそのまま見送った。
明日にはちゃんと役に立ちたい。
先生の好きな料理を作って、きれいに掃除をして、洗濯をして。
早く。
気が急くから、今日は素直に眠る。今はそれしかできそうにない。
その翌日、シェラはアルテルから野草辞典を手渡された。毎日、寝る前にそれに目を通すことが習慣となった。
【アルテル=レッドファーンの溜息 ―了―】