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アルテル=レッドファーンの困惑

 ここはアルテル=レッドファーンなる薬師が営む薬剤店である。

 薬の効力は抜群だが、彼は人に誤解されやすく、おかしな噂が常に付きまとう。

 おかげで、ここはすこぶる評判の悪い店であった。当然、客も限りなく少ない。


 そんなアルテルのところで、シェラは住み込みの下働きとしてやってきた。

 今となっては想いを寄せるアルテルのために働くことを喜びとしているのだが、朴念仁のアルテルはシェラを少年だと信じていた。

 それが、そもそもの間違いだった。



「――シェラ?」


 アルテルは盆を片手にドアを閉める。マットレスに寝そべっている病人のために外の冷たい空気を遮断してくれたのだ。

 シェラは赤い顔と潤んだ瞳で、アルテルを見上げる。けれど、本当は首を動かすのも苦しかった。


 先日、シェラは不注意で水路に落ちた。まだ肌寒さの残るこの時季に、濡れ鼠のまま長い道のりを歩いて帰宅したのだから、風邪をひかないわけがなかった。

 結局、その翌日の昼頃、シェラはひっくり返るはめになる。


 朝から具合は悪かった。もしかすると熱があるのかも知れないと思いながらも認めたくなかったので、シェラはそれを否定していた。

 認めてしまえば、立っていられない気がしたのだ。だから、顔が赤いだの、目の焦点が定まっていないだの、アルテルに注意されても聞き入れなかった。


 それに対し、アルテルは珍しく本気でシェラを叱責した。

 無理をしろとは頼んでいない。雇い主として休息を命じる、と。

 すっかりしょげ返ってしまったシェラは、張り詰めていたものが切れてしまい、途端にばったりと倒れたのである。


 慌てたアルテルはシェラを寝室にしている三階へ運び、高熱が続いたシェラのために寝ずの看病をしてくれた。シェラがようやく目を覚ましたのは、明け方になってからだ。

 アルテルは安堵し、昨日からほとんど何も食べていないシェラに食事を用意した。

 スープに野菜を細かく刻んで煮溶かしたもの。それから、特製の風邪薬と水を持ってシェラの元へと戻って来たのだ。


「シェラ?」


 再び、そっと声がかかった。


「スープくらいなら飲めるか? 少しくらいは食べないとな」


 そう言って、盆を床へ下ろす。この時、シェラの上半身を起こそうとアルテルは背中に手を差し入れた。その途端、シェラはとっさに身をよじって転がった。


「だ、大丈夫、起きれます……」


 のっそりと、それでもなんとか起き上がる。あまり、体に触れられたくなかった。触れられれば、女だと気付かれてしまうかも知れない。こんな時でもどこか冷静にそう思った。

 アルテルにはそれが強がりに見えたのか、嘆息されてしまった。


「ほら、熱いからな」


 アルテルはスープをすくって、スプーンをシェラに向ける。その湯気が鼻先をくすぐり、シェラは狼狽した。


「じ、自分で……」

「いいから、食べろ」


 有無を言わさず、口の中に押し込まれる。すごく恥ずかしいけれど、アルテルはお構いなしだった。

 そして、スープが空になると、アルテルはスプーンの上にどす黒いとろみのある何かをビンから流した。


 嫌な予感がした。それは見事に的中する。

 正直、出て来ないはずがなかった。


「も、もしや……」


 アルテルはにこりと微笑む。


「風邪薬。食事に混ぜようかとも思ったんだけどな。シェラは敏感だから、混ぜたら食べないと思って分けたんだ。ちゃんと飲めよ」


 黒く照っているあの色は、絶対においしくない。


「薬なんだから、味は二の次だ。すぐに流し込んでしまえば大丈夫だって。ほら」


 アルテルはシェラに水の入ったカップを手渡す。シェラはそれを受け取って、両手で硬く握り締めた。シェラの震えが水面に表れているけれど、アルテルは気付いていない。


 多分、本気でまずい。

 覚悟が必要だ。シェラは小さく息を吸う。


 あれは高価で、効力は抜群。それをわざわざ下働きの自分に与えようとしてくれている。その気持ちを無下になんてできない。

 その一心で、シェラは目の前に差し出されたどす黒いものを飲み込もうと決意した。

 すぐに水が飲めるように構えると、ぱくりと一口。


 けれど、それはシェラの想像を超えていた。

 えぐい味が脳天に突き抜ける。そして、異臭が鼻にまとわり付き、シェラはぼろぼろと涙を流しながらむせ返った。

 その弾みで、構えていた水を自分で引っかぶるし、泣きっ面に蜂という有様だった。


「あ、おい……」


 その過剰な反応に、アルテルの方が驚いた。シェラは弱々しく手を振って、大丈夫だと訴える。

 けれど、疲れた。なんであれ薬は飲んだのだから追々効いては来るのだろうし、もう少しだけ眠ればいい。そう思った。


「ありがとうございます。少し……眠ります」


 そのままぱたりと倒れ込んだシェラだったけれど、アルテルはそれじゃあ、と言って立ち上がらなかった。


「こら、水をこぼしただろ。病人がびしょ濡れで寝るな。悪化する」


 と、アルテルはシェラのかぶった毛布を剥ぎ取った。シェラは少し動いたせいか、また気分が悪くて、少しそっとしておいてほしかった。


「すぐ着替えます」

「着替えはどこだ?」

「その、大きい方のかごです」


 枕元に置いて行ってくれると助かるので、素直に答えた。アルテルはシェラが指したかごの一番上からシャツを取り出すと、シェラのそばへ戻る。

 その頃には再び毛布をかぶり直していたシェラだったけれど、また剥ぎ取られる。寒い。

 アルテルはしかめっ面をしながら言った。


「だから、濡れたままで寝るなって」


 意識が朦朧(もうろう)として来た。


「そのうち乾きます」


 自分でも何を言っているのか、よくわからなくなっている。


「乾く前に悪化すると言ってるんだ」


 聞き分けのないシェラに、看病で徹夜明けのアルテルは、少し苛立(いらだ)っていたのかも知れない。大きくため息をつく。


「いいから、着替えろ」

「は?」

「は? じゃない。後で、もなしだ。俺が目を放したらそのまま寝るつもりだろ?」

「寝ません。着替えます。……後で」


 青ざめたシェラに、アルテルはいつになく厳しい顔を見せた。丸い眼鏡の奥の目が()わっている。

 アルテルの腕がゆらりと動いた。


 シェラはとっさに、剥ぎ取られた毛布を引っ張り、その中へ逃げ込もうとした。けれど、アルテルはシェラの左肩をマットに押え付け、それをさせなかった。

 そして、身動きが取れないシェラの濡れた綿シャツの裾に手をかける。


 アルテルがそれを力任せに剥ぎ取ろうと捲り上げたのと、シェラが残っている僅かな力を振り絞って、耳を(つんざ)く悲鳴を上げたのはほとんど同時だった。

 アルテルは一瞬、そのままの姿勢で凍り付いた。ほんの少しのその間が、ひどく長かったように感じられる。


 柔肌が描く曲線は、少年のものではない。目の当たりにしてようやくそれに気づいたらしい。アルテルの手が押え付けている肩が、尋常ではなく震えた。


「わ、悪かった!」


 両手を離すと、アルテルは弾かれたように戸口の前まで下がる。シェラは力尽きて、虚ろな瞳からただぼろぼろと涙をこぼすことしかできなかった。

 アルテルが部屋を飛び出して行った途端、シェラはこの最悪の事態に泣き叫んだ。



     ※※※



 扉の奥からシェラの慟哭(どうこく)する声が聞こえ、平素はあまり動じないアルテルでもどうしたらいいのかわからなくなった。

 階段をとぼとぼと下り、一番下まで下りてしまうと、その段上に座り込んで頭を抱える。


「――くそっ」


 どうして、今まで気付けなかったのだろう。

 気付けていれば、こんな最悪の形で傷付けることもなかったのに。


 シェラの虚ろな泣き顔が頭から離れない。

 華奢なのも顔立ちが優しいのも、女なら当たり前だ。


 しばらく悩んだ挙句、アルテルは行動を起こした。

 シェラを残して行くのは心配だったけれど、このまま自分がそばにいても何もしてやれないから。



 アルテルが向かった先は、引っ越したばかりのジェサードのアパートである。

 当のジェサードは手際よく部屋を片付け、明日には劇団の面接に向かおうとしていた。

 ジェサードはドスドスと叩かれる扉を開けたくなかったのかも知れない。それでも音が止まないので、仕方なく顔を覗かせた。


「ア――」


 意外そうに目を瞬かせたジェサードの両肩を、アルテルは扉が開き切るのも待たずにつかんだ。


「ジェド!」

「な、なんだ? アルテル、何があったんだ?」


 アルテルはジェサードの体を強く揺さぶる。


「話すと長くなるんだが、端的に言うと女性を紹介してほしいんだ!」

「は?」


 口を開いたそのままの形でジェサードは固まった。アルテルはその反応の鈍さにしかめっ面になる。


「シェラが寝込んでるんだ。さっき、ラメリアに手紙を出して来たから、ラメリアがこっちに来るまででいいんだ。誰かシェラの看病をしてくれる女性を紹介してほしい」


 ラメリアはアルテルの実姉である女医だが、少々遠いところに診療所を構えている。

 アルテルが珍しく取り乱しているから、病状が深刻なのだと受け取られてしまった。


「ラメリアさんを? あの忙しい人を呼び付けるくらい弱ってるのか? この前、町でばったり会った時は元気そうだったのに」

「……いや、風邪だ。熱はあるけど薬は飲ませたし、しばらくすれば治ると思う」


 いくら心配でも大げさだと、ジェサードは途端に呆れた顔になった。これは事情を知らないからだ。


「じゃあ、お前が看ればいいだろ。お前だって、仮にも医術をかじったんだし」


 これを言われてしまうと口ごもるしかない。

 しかし、口ごもっていては話が長引く。早く帰りたいのだ。

 仕方なく、ぼそりと言った。


「……俺じゃ、駄目なんだ」

「なんで?」


 訊き返すジェサードに、アルテルは自らの気持ちを落ち着けるための間を置いた。そして、一度息を吐いてから言った。


「いいか、驚くだろうし、信じられないと思うけど、ほんとのことだからな」

「うん?」

「シェラは、女の子だったんだ」


 途端に、ジェサードは目付きを険しくしてしまった。


「だから?」


 素っ気ないひと言だった。アルテルはむっとする。


「ほんとのことだって言ってるだろ! ふざけてるんじゃないんだ!」

「だから、なんなんだよ。そんなの初対面の時から知ってるよ。つーか、そんな馬鹿な勘違いしてんの、多分お前だけだぞ」

「へ?」


 ぽかんとアルテルは口を開けた。アルテルの間抜け面に、ジェサードはあきれ半分の声を投げる。


「町中歩いてみて、シェラよりきれいな娘を探してみろよ。あんな美少女、そうそういないぞ。それを男だって言うんだ。気は確かかと思ったな」


 そうなのか。

 皆、知っていたのか。

 アルテルはがっくりとうな垂れた。


「知ってたなら、教えてくれりゃあよかったじゃなか……」

「言ったところで思い込みの激しいお前が信じたか? どうせ冗談だと思っただろ」


 言い返せそうもない。その通りだ。

 どうして、そんな風に思い込んでしまったのだろう。


 働き手の募集は、住み込みも可能なように男性のみにした。だから、女性は来ないという頭はあったけれど、それだけではないはずだ。

 他にも色々とあったように思うけれど、今更思い出せない。


「自分で言うのもなんだが、うちの評判は悪いし、なんの面白みもない。若い娘が働きたがる場所じゃないと思うが……」


 最初にシェラがやって来た時には、ちゃんと理由があった。けれど、辞めずにいてくれた理由はわからない。色々と、恩を感じていたのだろうか。

 うんうんとうなりながら悩んでいるアルテルだったが、ジェサードは少し冷ややかだった。


「最初のことは知らないけど、シェラが嫌々働いてたんじゃないことくらい、わかるだろ。お前の勘違いを否定できなかったのも、女だって知れたらお前のところにいられなくなると思ったからじゃないのか?」

「それは……」


 わからない。けれど、このままだとシェラの将来に傷を付ける。間違いなく。

 ジェサードは、心底困惑しているアルテルに何故だか微笑む。


「彼女には、どうしてもお前のところで働きたい理由があるんだよ」

「お前の方がよっぽど詳しいな」


 思わず苦笑してしまった。

 シェラは、ジェサードに何か話したのだろうか。


「傍目には手に取るようにわかることなのに、お前が気付いてないだけだよ」

「俺が、気付いてない?」

「他人の口から聞くべきことじゃないけど、最悪の状態にまで陥ったら教えてやるよ。そうならないように、せいぜい悩め」


 アルテルは乾いた笑い声をもらし、それでも相談できる相手がいてくれたことが不幸中の幸いだと思った。


「お前がいてくれてよかったよ」


 すると、ジェサードはわざとらしい笑顔を作る。


「まあ、前回の借りがあるしな。ああ、シェラの看病が出来そうな娘も、心当たりがあるよ」

「助かる……」


 アルテルがほっとして顔を輝かせると、ジェサードは急に妖しくアルテルの耳元でささやいた。


「ところでさ、何して女の子だって気付いたんだ? どっか触ったんじゃないだろうな?」


 感謝したのも束の間、無性に殴りたくなった。



          ※※※



 キィ、と蝶番(ちょうつがい)を軋ませて、ドアを開く。ここは雑貨屋だ。アルテルがこの店内に入ったのは初めてのことである。


「あ、い、いらっしゃいませ」


 愛想よく迎え入れてくれたのは、シェラと同世代の若い娘だった。快活そうな雰囲気がある。


「あっ! ジェサードさん!」


 その女の子はジェサードを見るなり驚いた様子で口元に両手を添えた。ジェサードは相変わらず外面がいい。


「やあ、ティケ」


 にこやかに挨拶する。この娘はティケというらしい。

 どこか恥ずかしそうにジェサードにチラチラと目を向けた。


「こんにちは。今日はどうされましたか? こちらも役者さんですか?」


 すると、ジェサードはクスクスと笑った。


「いや、全然。一番向いてないやつだよ」


 その言葉は否定できないところだ。

 それから、商品を何ひとつ見ないまま、ジェサードはティケに言った。


「実は、今日は君に頼みがあって来たんだ」

「え?」


 この時、ティケの顔が更に赤く染まった。だからか、少し困った様子でジェサードはアルテルに振った。


「ほら、後は自分で話せよ」


 頼み事があるのはアルテルの方だ。ジェサードに頼り切りもよくない。

 ティケと目が合うと、アルテルは表情をゆるめた。顔が怖いという自覚はあるのだ。

 なるべく柔らかい言葉を選んで口を開く。


「初めまして。俺はアルテル=レッドファーンといいます。君はシェラの友人だと聞いたんだけど、本当かな?」

「ア――っ」


 ティケは一瞬にして言葉を失ってしまった。けれど、すぐに理解してくれた。見た目以上に度胸のいい娘だ。


「私はティケット=アンバーセルです。――そうですか。あなたが、シェラの言う『先生』ですね? お会いしてみると、本当に噂よりもシェラの言葉が正しかったんだってわかりました」


 その言葉に、アルテルはとてもほっとした。話のわかる娘で助かった。


「俺は評判が悪いから、名乗っていいものか迷ったんだけど、そう言ってもらえると助かるよ。ありがとう」


 本心からありがたい。アルテルの評判が悪いせいでシェラにまで迷惑はかけたくないのだ。

 そうして、アルテルは本題に入る。


「実は、シェラが熱を出して寝込んでいるんだ。少しの間でいいから、看てやってもらえないだろうか」

「え? シェラが? 元気そうだったのに」


 ティケが驚いていると、ジェサードは苦笑する。


「ほら、若い娘の寝室に俺たちが入り浸るのは気が引けるし、困ってたんだ。な、アルテル?」

「……ああ」


 その、『若い娘』だと気づいたのがさっきだとはとても言えない。

 ティケは判断力がある。すぐにうなずいてくれた。


「もう少しだけ待ってもらえますか? 店番を交代してからじゃないと動けないので」

「うん、それでも助かるよ」


 ジェサードはそのやり取りの後、少し考え込んでからつぶやく。


「一応俺も行くよ。ティケだけだと、さすがにお前の家は入りにくいし」

「そうだな。甘えてばっかりで悪いけど、ジェドが彼女を案内して一緒に来てくれるか? 俺は一足先に戻ってるから」


 アルテルはこれを言いながら目が泳いだ。戻って、そして――。

 シェラは今、アルテルの顔を見たくないかも知れないと考えて苦しくなった。


「わかった。心配だもんな」


 それでも、ジェサードの言葉には正直に答える。


「当たり前だ」


 心配で仕方がない。

 あの泣き顔が――。


 そうして、ティケに向き直る。


「じゃあ、頼むよ」

「はい」


 そのまま立ち去ろうとしたが、アルテルはティケにそっと言い添えた。


「……実は、風邪の他にも少し精神的にこたえるようなことがあったんだ。だから、もし泣いていたら慰めてやってくれないか?」


 具体的なことは言えないけれど、シェラから話すかも知れない。話すことでシェラの気が少しでも楽になればいいけれど。


「ええ、そうします」


 ティケが真剣な目をしてそう答えてくれたので、アルテルはようやく帰路に着く。



 アルテルは自分一人ではどうにもできないと思って飛び出して来たけれど、もしシェラの具合が悪化していたらどうしようかと、帰り道にはそればかりを心配していた。


 いくら薬を飲んだからといっても、気が塞いだ状態では治るものも治らない。結局のところ、病は打ち克つ気力がなくてはならないのだ。

 人を癒すことの難しさを痛感する。ただ無性に、店中の薬ビンを叩き割りたいような衝動に駆られた。

 心の傷に付ける薬があればいい。それが作れるのなら、なんだってするのに。それはきっと、不老長寿よりも価値がある。


 ふと、通りかかった商店通りの一角で、アルテルは八百屋の店先の果物に目が行った。

 色とりどりの、愛らしい果物たち。シェラは果物が好きだから、ひとつ買って行こうか。


「苺をひとかごもらいたい」

「あいよ!」


 店主はテキパキと紙袋に苺を移し、口を折りたたんでアルテルに突き出した。アルテルは銅貨三枚を渡し、それを受け取る。


「まいどどうも!」


 威勢のよい店主に微笑むと、その時、隣には勢いよく駆けて来た子供が二人いた。


「おっちゃん、苺ちょうだい!」


 その声に聞き覚えがあった。アルテルが視線を下げると、そこにいたのはノイドとフォーレンという少年だった。

 彼らは肝試しをしにアルテルの店を覗きに来て以来、時折遊びにやって来るという貴重な存在だ。もう一人、クーディというおとなしい少年と三人でつるんでいることが多いのだが、今日は二人だった。


「ノイド、フォーレン」


 アルテルが声をかけると、二人はようやくアルテルに気付いたようだった。


「うわ! アルテルだ! アルテルが、黒以外の服着てる!」


 ノイドがつり目を見開いて騒ぐ。


「それも珍しいけど、町で会ったの初めてだよな」


 フォーレンもしみじみと言った。


「そうだな。今日はクーディはいないのか? また習い事か?」


 アルテルが苦笑気味に言うと、ノイドはむす、と不機嫌そうにアルテルを見上げた。


「違う。あいつ、今、風邪ひいて寝込んでるんだよ。で、俺のかあちゃんが、見舞いに行くならなんか買って行けって言うから買いに来たんだ」

「風邪か。実は、シェラも寝込んでるんだ」

「ああ、あいつもクーディと一緒で弱そうだもんな」


 そこでふと、この子たちにもちゃんと言っておかなければとアルテルは恐る恐る切り出す。


「……そのシェラのことなんだけど、実はお兄さんじゃなくて、お姉さんだったりしたらどうする?」


 言い出しにくかったアルテルに対し、彼らは冷めていた。


「は? どうもしねぇよ。つぅか、アルテルはまだそんなこと言ってんのかよ?」

「まさか、今まで気付かなかったなんて、そんなわけないよな?」

「…………」


 何か、どうしようもなく情けなくなって来た。


「……そう、まあ、な。……さて、じゃあ帰るよ。クーディによろしくな。もし長引くようなら薬を用意しておくから、取りに来いよ。今度はお前らが風邪をもらうかも知れないしな」

「俺はひかない。アルテルの薬はマズそうだから、ヤだ」

「僕もヤだ」

「…………」


 味も研究しようかと、本気で思った。


「まあ、健康で、薬なんて飲まずに済むのが一番だ。手を洗ってうがいして、気を付けろよ」

「とか言って、アルテルはしなさそう」

「するって。するから。じゃあなっ」


 相変わらずというか、なんというか。アルテルは苦笑しながら二人と別れた。



 残りの道のりを早足で戻る。店の前に着いた時、少し息が上がっていた。

 階段を上り、買い物袋を二階の机の上に置くと、そのまま三階まで駆け上がった。扉をノックしようとして、とっさに手が止まる。


 そして、しばらく考えた。まず、なんと言葉をかけるべきかを。

 けれど、悩み始めると答えが出ないどころか、そのまま手を下ろしてしまいそうになる。

 そうしたら、もう二度とこの扉の奥に踏み込むことが出来なくなりそうで、考えがまとまらないままアルテルは勢いでノックするしかなかった。


「――シェラ?」


 返事はない。

 返事もしたくないのか眠っているのかと思ったが、もし万が一、病身のシェラがここを飛び出して行ったなんてことがあったらどうしたらいいのだろう。その考えを否定するために、アルテルは扉のノブに手をかける。もともとこの部屋は倉庫だったので、鍵は付けていないままだった。


 アルテルの不安は外れ、シェラはそこにいた。寝息も立てず静かに眠っている。アルテルはほっとしたけれど、泣きはらした目が痛々しくて、それを眺めていると心臓がギリギリと痛む。


 そのままにしておこうと思ったけれど、熱だけ測るために部屋に入った。屈んで額に手を伸ばすと、壊れ物を扱うようにそっと触れた。

 少しは下がったようだ。

 それだけ確認すると、アルテルは外へ出た。そのうちティケも来てくれるはずだから、今のうちに食事の支度でもしておこう。


 パタン、と控えめな音を立てて、アルテルは扉を閉めた。



     ※※※



 それから、シェラは何度か眠ろうとした。目を閉じて、全部忘れてしまいたかった。

 けれど、下の階でアルテルが立てる小さな物音が、寝そべっているシェラの体に伝わって来る。

 うるさいわけではないけれど、そこにいるのだという気配を感じるだけでひどく落ち着かない気分になる。今、何を思い、何をしようとしているのかと。


 まず、ちゃんと話をしなければいけないのはわかっている。

 それでも、その勇気がない。さっきのように寝た振りをしてやり過ごしてしまいそうだ。

 何から話せばいいのか、少しも考えられない。それが熱のせいなのかそうではないのかはわからないけれど、熱のせいにした。


 多分アルテルも、シェラの体調が戻るまではなんの決断もしないだろう。病気を理由に逃げている自分が情けないと思うのに、完全に治り切ってしまうのが怖い。

 アルテルの口から告げられることを思い、今から涙があふれてくる。


 毛布に包まってめそめそしていると、階段を上って来る軽い足音がして、それを変だと思った時に扉が叩かれた。

 シェラの心臓が跳ね上がる。また眠った振りをするが、鍵のない部屋なので拒絶はできない。

 勝手に入り、とことこと歩み寄って来る足音は、明らかにアルテルのものではなかった。それに気付いて確かめようとすると、柔らかな声が降る。


「シェラ、加減はどう?」


 若い娘の声。聞き覚えのある明るい声に、シェラは驚いて毛布の中から這い出して来た。


「え? ティケ?」

「うん。あらら、目がはれちゃって、美人が台無し……って、それどころじゃないか。ごめんね」


 苦笑しながらそばに座ったティケに、シェラは唖然とした。


「なんで、ここに?」

「アルテルさんに頼まれたの」

「先生に?」

「そう。ジェサードさんがお店に連れて来たのよ。シェラの看病が出来る相手の心当たりが他になかったからって。ジェサードさんに送ってもらって来たから、今も下にいるわ」


 いくらジェサードと一緒でも、よくここまで来られたものだと思う。

 シェラが驚きを隠せずにいると、ティケは苦笑した。


「嫌ね、あたしの度胸に感心してるの? そりゃあ、抵抗がまったくないわけじゃないんだけど、あれじゃあ断れないもの」

「え?」

「シェラのこと、とても心配してたわ。あなたが言うように優しい人なのね」


 普段ならば何よりも嬉しい言葉だったはずなのに、今は苦しかった。

 シェラが思わずうつむくと、ティケは嘆息する。


「シェラは病気だけじゃなくて、精神的にまいってるから、慰めてやってほしいって言われたわ。もしかして……フラれた、とか?」


 ティケは言葉が悪かったと思ったのか、慌てて繕う。


「あ、いえ、もし、言いたくなければいいの。喋ってすっきりしたかったら聴くけど、無理にとは言わないし……」


 彼女もまた、本気でシェラのことを心配して来てくれたのだろう。その温かな気持ちに触れ、落ち着いていた涙がまたにじんで来る。ティケはいよいよ焦っておかしな動きをしたけれど、シェラはようやく彼女に向き直った。


「ありがとう。じゃあ、聴いてもらえる?」


 話している間はつらかった。楽にはならない。のどを絞るようにして言葉を吐く。

 それでも聴いてほしいと思ったのは、ティケが心配してくれるからだ。

 話し終えると、シェラは疲れを覚えた。少し横になり、ティケはそんなシェラに毛布をかぶせながら言葉を探していた。

 おしゃべりな彼女が、文字通り絶句している。


「信じられない……」

「でも、ほんと」

「そっか」


 ティケは深々とため息をついた。


「それで、女の子だって知られたから、気まずいのね?」

「……うん」


 シェラは、毛布で顔を半分隠すようにしてうなずいた。


「先生は結構真面目だから、これ以上私をここに置いておくつもりはないんじゃないかって、思う……」


 嫌われたわけではない。むしろ、心配をして、最善だと思うことを選んでくれる。

 ただ、その最善は、アルテルのもとにいることではなくなっているだろう。面と向かってそう言われた時に、自分の気持ちを主張できる自信がない。困った顔をして拒絶されるのではないだろうか。

 体のせいか、今は心まで弱っている。


「それが怖いの?」


 ティケが優しく問う。うなずくと、ティケは言った。


「そうね。若い娘が男の人と暮らしているなんて、あなたのためを思ったらいけないことよね。シェラが大事なら、そうするかも」


 正論だ。わかっている。けれど、嫌だ。


「でも――!」


 口を開きかけたシェラに、ティケは微笑む。


「嫌なら嫌って言おうよ。わがままでいいじゃない」


 シェラはゆっくりとティケの顔を見上げる。


「あたしは人ごとだから、そう言えるのよ。実際に自分の気持ちを伝えるのは難しいし、勇気が要るわ。自分だったら出来ないかも。けど、今のあなたは、やるしかないじゃない。後で後悔するより、ましな結果になるかもよ?」


 困惑するけれど、ティケは弾むように伸びやかな声で続けた。


「ね、考えようによっては、よかったんじゃない?」

「え?」

「これからは、ちゃんと女の子として見てもらえるのよ? 今までみたいな扱いをされ続けても、苦しかったでしょ?」

「……そんなに高望みしてないから。今はそばにいられたら、それで――」


 ぼそりとつぶやくと、ティケは小さくため息をつく。


「その様子だと、あのプレゼントも渡せてないのね?」

「う……」

「まあいいわ。今はとりあえず、体を治すのが先。後のことはそれからよ。今日はよく寝なさい」


 からりとした口調のティケを見上げ、シェラは微かに気持ちが軽くなっているような気がした。

 やっぱり話してよかったのだと、今更ながらに思う。話して楽になるとは、こういうことだ。

 今まで、人に相談するのは苦手だった。相談と弱音の区別が付けられない。相手には迷惑だと、ずっと思っていた。

 だから、こんな時だけれど、すごく嬉しかった。


「ティケ、ありがとう。そんなに優しくされると、甘えぐせが付いちゃいそう」


 シェラはようやく微笑んだ。ティケも笑って返す。


「今のシェラは病人だから、特別なだけよ。次からは厳しいからね」


 二人は顔を見合わせて笑った。



     ※※※



 少女特有の甲高い笑い声がして、ジェサードが天井を見上げた。


「あの様子だと、少しは元気が出たんじゃないか?」


 アルテルも三階から聞こえる声にほっと息をつけた心地だった。


「そうだな……」


 アルテルはそれだけ言うと、手持ち無沙汰に腕を組んだ。アルテルが自宅にいて調薬をせずにいるなんて珍しいと自分でも思う。

 けれど、今日は何も手に付かない。無理に仕事をしても配合を間違えてしまいそうだ。


「お前がティケのことを知っていて助かったよ」


 感謝を示したつもりが、ジェサードにはあきれられた。


「お前のことだから、どうせシェラを雇う時に素性も何も訊かなかったんだろ? シェラについて、知ってることの方が少ないなんてことはないだろうな?」


 図星だった。そういえば、出身さえどこなのか知らない。


「まあ……身内がいないとは言ってたな」


 ジェサードは嘆息する。わざとらしい。


「ちゃんと話し合えよ。身内がいないって、それじゃあ尚更放り出したりできないだろ。今後のことをきちんと決めろ」


 その言い分は至極真っ当である。それなのに、アルテルは即座にわかったと返事ができなかった。

 それというのも――。


「……話、させてくれるかな」


 あんなに泣いて、傷ついていた。

 アルテルが痴漢と変わりないくらい、シェラにとっては嫌な存在かも知れない。そんなことを考えて不安になる。


「珍しいな。お前がそこまで弱気なのって」


 答える代わりにアルテルはうな垂れると、額に手を付く。そんな親友の姿を見て、ジェサードは苦笑した。


 アルテルにとって、シェラはもはや家族のような存在なのだ。

 けれど、弟のようなつもりが、実はそうではなかった。だからといって、じゃあ妹だと思うのは難しい。そこまで単純には出来ていないつもりだ。


「アルテル。多分、大丈夫だよ」

「ん……」


 傍目にも疲れた顔をしていただろうアルテルはうなずいた。



 それからしばらくして、ティケがシェラにオートミールと苺を運んでくれた。それを食べさせた後、着替えを手伝ったから今日は帰ると言って、ティケとジェサードは去った。また明日様子を見に来ると言ってくれたことで、アルテルは心底安心した。



          ※※※



 そうして、翌朝になると、約束通り二人はやって来た。何故かティケは大荷物で、それをジェサードが手伝い、シェラのところまで運ぶ。

 それから戻って来たジェサードは、何か聞いているのか、わけ知り顔でアルテルに部屋で待つように言った。


 どれくらいか経って、たどたどしい足音が二つ、重なり合うようにして下りて来た。二階のドアがノックされる。

 すると、ジェサードはその扉を開き、ドアを半分だけ開く。顔を覗かせたティケと少しだけ話すと、アルテルの方を振り返った。


「じゃあ、俺たちは外にいるから」

「え……?」


 腰を浮かせたアルテルを放置し、ジェサードは部屋を出る。入れ替わりに白い裾が見えた。

 アルテルは思わず、体を硬くする。


 裾にピンクのフリルが付いた、白いワンピース。肩には薄いカーディガンを羽織って、いつもは束ねている髪を解いている。そんな姿のシェラがそこに立っていた。寄りかかるような姿勢のまま、ドアに手を添えていた。


「もう……立っても大丈夫なのか?」


 そっと声をかけると、シェラは伏目がちに答えた。


「はい。熱はほとんど下がりました。先生のお薬が効いたのだと思います。ありがとうございました」


 後ろ手にドアを閉めた。けれど、スカートの下のひざが、目に見えて震えている。

 そして、部屋の中央まで進むと、シェラは突然床にひざを突いた。また具合が悪くなったのかと思い、アルテルが駆け寄ろうとすると、シェラはその場に正座して背筋を伸ばしてた。かと思うと、今度は深々と頭を下げる。


「ずっと、黙っていてごめんなさい。騙すつもりはなかったんですけど、言い出せなくて……。先生に不愉快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません」


 そんな姿勢をすると、ますます小さくなってしまう。か細くて弱いのだと強調されるようで、アルテルは落ち着かなかった。

 アルテルはシェラの正面に屈み込む。


「気が付かなかった俺の方がおかしいって、みんなに言われたよ。実際、そうなんだ。……シェラの方が被害者だ。謝らないといけないのは、俺の方だ」


 すると、シェラは顔を上げずにかぶりを振る。


「いいえ。先生は悪くありません。それに、先生は優しいから、私のことを真剣に心配して下さっているのもわかります」


 ようやく顔を上げた。青白い肌が、少しやつれたように見える。

 けれど、黒真珠のようなうっすらと緑がかった灰色の瞳には、いつも以上に強い光があった。

 病み上がりの乾いた唇が開く。


「他の勤め先を探してやろうとか、そういったことを考えているのなら、どうか考え直して下さい」

「え……」


 アルテルが声をもらすと、さっきまでは張り詰めて凛としていた瞳が、急に潤んだ。


「これまでのように、ここで働かせて下さいとお願いしてるんです! 駄目ですか? 嫌なんですかっ?」


 よく泣くのも、時々ヒステリックなのも、正体がわかってしまえば不思議はない。

 アルテルは労わるように表情を柔らかくする。


「嫌じゃない。けど、それはお前のためにならないから。人から変な目で見られたり、おかしな噂の的になる。将来のことを考えると――」

「じゃあ、将来なんて考えて頂かなくて結構です! 私には、今があればいいんです! ここにいられる今が何より大切なんです!」

「シェラ……」


 どうしてそんなにも必死なのだろう。

 ひざの上で握ったこぶしが、小刻みに揺れている。

 ひと言、いいよと言えればよかった。そうしたら、輝くように笑うのだろう、と。

 そうしたい気持ちがなかったわけではないけれど、それをできない程度にはアルテルは分別を弁えていた。


「でもな、それは……」


 恐る恐る、口を開いた。そのたったひと言が、目の前の儚い少女を砕いてしまうような気がした。

 言葉を切り、沈黙が続いた。アルテルもシェラも、お互いを見ていなかった。床の染みを数えるように、視線を落としている。


 しばらくそうしていると、ドアを叩く音がした。

 この場から逃れたい気持ちだったアルテルは、自分でも驚くほどに機敏に立ち上がり、ドアを開く。


「話はまとまったか?」


 ジェサードが苦笑気味に尋ねる。

 答えなかったけれど、彼にはまとまらなかったことが見て取れたはずだ。


「……わかった。じゃあ、二人ともこっちに来いよ」


 長い指を優雅に動かし、ジェサードは二人を呼ぶ。アルテルはシェラを振り返り、彼女が立ち上がるのを待ってからジェサードに続いた。

 ジェサードは階段を上がると、シェラの部屋の前で立ち止まった。部屋は大きく開け放たれたままで、中にはティケが行儀よく座っている。


「ほら、アルテル、これは俺からのプレゼントだ」

「は?」


 ジェサードが指さしたのは、開け放たれたドアノブの下に付いている金属片だった。


「鍵。これで大丈夫だろ?」


 眉間にしわを寄せ、かなり険しい表情でジェサードをにらみ付けたアルテルに、彼は慌てて言った。


「いや、別に、お前が悪さをするって言ってるんじゃない。女の子の部屋に鍵がないってのも、どうかと思ってな。着替えもゆっくりできないだろ」

「根本的に対処がおかしくないか? シェラがここにいるって事実が問題なんだ」


 すると、その発言をジェサードは鼻で笑う。


「あのさ、そんなの今更だろ?」

「――なんだと?」

「シェラの性別を勘違いしてたのは、お前だけだ。他から見たらどう映ってたかなんて、今更だ」

「っ……」


 さっと、アルテルの顔から血の気が引く。ティケもくすりと笑った。


「そうですよね。今更、他の職場なんて見付かるかなぁ? 何せ、あの『アルテル=レッドファーン』の店から来たんですから」

「そ、それは……」


 絶句したアルテルに、背後からシェラがぽそりと言う。


「前に誤解されたこともありましたね」

「…………」


 アルテルの顔に冷や汗がにじんだ。ジェサードはそこに追い討ちをかける。


「今まで通りでいいじゃないか。変わったのはお前だけで、シェラも世間も変わってないんだ」


 アルテルは大きく嘆息すると、振り返ってようやくシェラを見据えた。シェラはアルテルよりも低い位置にいたので、普段よりも遠く感じた。


「お前がいてくれたら助かるけど、本当にそれでいいのか?」

「はい」

「わかった。でも、もし、俺に恩を感じて他に行けないのなら、そんなことは気にしなくても大丈夫だから。もし他に行くあてが見付かったら、はっきり言ってくれ」

「……はい」


 シェラはこくりとうなずく。ジェサードは嘆息した。


「ひと言余計なんだよ」

「ん?」


 アルテルが振り返ると、ジェサードはそっぽを向く。それでも、シェラはようやく微笑んだ。


「いいんですよ、ジェサードさん。それでも、私は――」


 アルテルがほっとしたのも束の間、顔の前で振った手がぴたりと止まり、シェラの大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれる。アルテルはぎくりとして固まった。ティケが駆け寄り、抱きかかえるようにして宥める。


「大丈夫……。ごめんなさい。少し、気がゆるんだだけです」

「まだ本調子じゃないんだし、無理しないようにな。さ、アルテル、下に行くぞ」


 そう言って、ジェサードはアルテルの腕をつかんで階段を下りた。その流れに逆らわず、アルテルはされるがままだった。


「まったく、世話の焼けるやつだな」


 と、ジェサードにぼやかれたが、アルテルは苦笑するよりない。


「悪いな。でも、助かったよ」

「はいはい」


 それから、ジェサードはがらりと口調を変え、真剣な面持ちになった。


「なあ、アルテル。一度承諾したんだ。何があっても、ちゃんと責任持って守ってやれよ」


 それは、言われるまでもないことだ。今までも、これからも。


「わかってる」


 短く答えた。ジェサードは満足げにうなずく。


「ま、お前はそういうやつだから、その点は心配してないんだけど。言ってみただけ」

「あ、そ」

「けど、まだまだ時間がかかるのかね?」

「何?」

「こっちの話」

「?」

「焦れったいな……」

「??」



 その後、詳細を知らせずに、すぐに来てほしいという手紙だけを姉のラメリアに送り付けていたアルテルは、無理をしてやって来た忙しい彼女にぼこぼこにされたが、それは仕方のないこと――。



  【アルテル=レッドファーンの困惑 ―了―】

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