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アルテル=レッドファーンの休日

「シェラ」


 その日、日が高く昇った頃だった。

 店の床を拭き、ゲテモノの詰まったビンの配列を変えて店の模様替えをしていた、この薬屋の下働きの少女シェラは、亜麻色の長い髪を揺らして立ち上がる。

 雑巾をバケツに落とすと、もう一度声がかかった。


「シェラー」

「はいはい、今行きますから」


 そう答えながらシェラはバケツを店のすみに寄せ、階段を駆け上がる。


「なんですか、先生?」


 無造作に伸びた金髪、長身にまとうのは不気味なまでに黒いローブ。丸眼鏡が筋の通った鼻先に乗っている。

 この昼前になってようやく起きたのだ。

 この店の店主、アルテル=レッドファーンは口元を緩めた。


「ほら」


 差し出された封筒の中身がシェラには予測できなかった。


「なんですか、これ?」


 首をかしげたシェラに、アルテルはあきれた様子だった。


「なんですかって、給料だ」

「はっ……」


 言われてようやく、今日が月初めの給料日であったことを思い出した。ここで働くようになって、初めての給料日である。


「あの、前に肩代わりして頂いた家賃の返済に回して下さい」


 シェラはここに住む前に借りていた長屋の家賃を滞納しており、それをアルテルが肩代わりしていた。

 けれど、アルテルは苦笑する。


「何回も言わなくても、それは差し引いた。だから、これは残りだ。そんなに多くはないけど、多少の買い物はできるだろ」


 気にしなくていいと言ったアルテルに、シェラは頑として返済すると引かなかった。いくらアルテルが甘くても、そこはけじめだと思う。

 ただ、ここでは寝食が保障されている。金銭の必要性を感じない。だから、そんなものの存在を忘れてしまっていた。


「あ、ありがとうございます」


 おずおずと両手で押し頂くシェラに、アルテルは微笑む。


「これからもよろしくな」

「はい!」


 金銭以上に、その笑顔のために働いているとはとても言えないけれど。

 そして、アルテルは唐突に言った。


「それで、今日はもう休んでいいぞ」

「は?」

「今日は仕事をしなくていいって言ってるんだ」

「えっ!」


 シェラが愕然としていると、アルテルは首をかしげた。


「そんなに驚くことか? たまの休日くらいあってもいいだろ?」


 急にそんなことを言われても、どうしたらいいのかわからない。


「で、でも、私が休んでも、先生はお仕事をされるのでしょう? でしたら、私はお手伝いをしないと。休んでいる場合では……」


 アルテルは眉根を寄せて考え込むと、それからいきなり椅子に腰を下ろした。


「わかった。じゃあ、今日は俺も休む。仕事はしない。これでいいだろ?」

「ええ!!」


 頭の中に調薬のことしかないアルテルが、今日は仕事をしないという。そんなことがあるのだろうか。

 疑わしげな視線を向けるシェラに、アルテルは頬杖をついてみせた。


「ほんとだって。今日は一日、本でも読んで過ごす。だから、シェラも買い物に出るなり好きにしたらいい」

「はぁ……」



     ※※※



 そんなこんなで、結局アルテルに勧められるがままに、シェラは町に繰り出すことになった。

 シェラは一人、喧騒の中をとぼとぼと歩く。ぼうっとしながらほしいものを考えた。

 以前は日々の生活で精一杯で、余分なものを買うゆとりがなかった。だから、こんな風に悩んだことがない。


 洋服、靴――。

 自分のくたびれた格好を見ても新しいものを買おうという気は起きなかった。

 シェラは十七歳。世間的に言うならお年頃の女の子だ。普通ならおしゃれのひとつもしたいはずなのだが、そうできない事情があった。


 アルテルがシェラを少年だと信じているせいである。

 他の人に男だと勘違いされたことはないので、アルテルが特殊なのだろう。思い込みが激しいのだ。

 否定できずにここまで来てしまったシェラにも問題はあったかも知れない。

 そうした事情のせいで、スカートやフリルなどとは無縁の生活になってしまっている。


 それでも、アルテルのそばにいられるのならそれでいいと、納得した上でのことなのだ。今更着飾るものがほしいとは思わなかった。

 そんなシェラが一番望むものは、アルテルの笑顔だ。給料の使い道とは関係がない。


 それなら、何か贈り物をしようか。ふと、そう思いつく。

 けれど、いきなり贈り物をしたら、アルテルはどう思うだろう。自分のものを買えと苦笑されてしまいそうだ。

 だとしても、自分の贈ったものをアルテルが使ってくれたら、多分すごく嬉しい。それを目にするたび、幸せな気持ちになれるだろう。

 なんて自分勝手な贈り物だと思わなくはない。


 自分勝手な――それはつまり、自分のための買い物ということにならないだろうか。

 そんな理屈で納得し、シェラは乗り気ではなかった買い物を楽しく感じ始めた。

 何が似合うか、何が役に立つか、考えながら町を歩く。


 とりあえず、雑貨屋から覗いてみた。何かいいものがあるかも知れない。

 シェラはオレンジのカーテンのかかった雑貨屋の扉を開く。女性好みのよい香りがふわりと漂う。


「いらっしゃいませ」


 ぎこちなく客を迎えたのは、見覚えのない顔だった。

 いつも、この雑貨屋には小柄なおばさんがいた。それが、今日は若い娘だ。

 年の頃はシェラと同じくらいだろう。肩を隠す赤茶色のまっすぐな髪に、若草色のエプロンドレス。つぶらな瞳に、本人は嫌がるだろうが鼻先のそばかすが似合っていて、かわいらしい印象だった。


「お邪魔します」


 シェラはとりあえず挨拶をする。いつだって、堂々とはできない性格だ。

 店員の娘は、一瞬反応をせずにシェラを見ていた。かと思えば、今度は力いっぱい嘆息する。

 わけがわからずにシェラがおろおろしていると、それに気付いた娘は苦笑した。


「あ、ごめんなさい。気にしないで」


 そう言われても、自分が入って来た途端に憂鬱そうな素振りをされては、卑屈なところのあるシェラが気にしないでいられるわけがない。何か気に障ったのだろうかと不安になる。


「あの、私の方こそ、何か失礼があったのでしょうか……?」


 すると、彼女は両手を顔の前で大きく振ってみせた。


「そんな! 全然! ――ああ、もうっ」


 それから手を下ろすと、小さな唇で笑った。


「あのね、あなたがうらやましかったの」

「え?」

「あなたみたいに美人なら、どんな男の人にでも振り向いてもらえるんだろうなって。ごめんなさい、それだけなの」


 シェラはカウンターの奥に立つ娘に近付いた。


「全然、そんなことありません。もしそうなら、どんなによかったか……」


 思わず本音がもれた。

 いつもいつも、よりよい薬を作ることばかりを考え、それに没頭するばかりの人だ。

 あんなにも鈍い人を好きな自分が悪いのだろうか。


 この娘もきっと、誰かに片思いをしているのだ。そう思うと微笑ましかった。

 苦笑するシェラに、娘は驚いた風だった。


「そうなの? きれいでも駄目なのかな?」


 そう言いながらも、少し元気が出たようで、うんうん、とうなずいている。シェラは少し複雑な心境だった。


「でも、あなた、美人なのに飾りっ気がまるでないんだもの。それが問題なんじゃないの?」

「えっと、それは……」


 説明するのは大変だ。シェラが困っていると、彼女は目を瞬いて謝った。


「ごめんなさい、あなたにはあなたの事情があるのよね。あたし、考えなしで余計なこと言うなって、いつも怒られてるし……」


 くるくると表情が変わる。そんな姿が年頃の娘らしかった。


「いいえ、本当のことだから、気にしないで下さい」


 微笑むと、彼女はほっとしたようだった。


「きれいなだけじゃなくて、優しいのね。それでも駄目なんて、あなたの想い人は相当に難しい人なんだわ。勿体ない」


 そう言って、彼女は勢いに任せてカウンターから身を乗り出す。


「ね、あなたの名前は? あたしはティケット=アンバーセル。ティケでいいわ」

「シェ、シェンティーナ=トウエルです」


 思わずフルネームで答えた。


「そう。じゃあ、シェンティーナって呼んでもいい?」


 にっこりと微笑むティケは、人懐っこい子猫のようだ。だから、シェラも自然と笑顔になる。


「シェラって呼んで下さい。みんな、そう呼びますから」

「うん、いい響きね。じゃあ、シェラ。あたし、あなたと仲良くなりたい。いいでしょ?」


 驚いている間もないくらいに、ティケは弾むような声音で言った。


「いっぱいお話したいな。お互いに、好きな人の話とか」


 シェラは十二歳から一人暮らしを始め、それからというもの、生活に必死で、友達と付き合うだけのゆとりもなかった。だから、何かとても新鮮な気持ちになる。


「うん、喜んで。ティケは今、お仕事中よね? あんまり話し込むと悪いかな」

「あ、そうだった。シェラは何か買い物に来たのよね?」

「ちょっと、贈り物がしたくて……」

「それって、例の人?」


 シェラは戸惑いながらうなずく。すると、ティケはにっこりと笑ってカウンターから抜け出して来た。


「じゃあ、一緒に選んであげる」


 知り合ったばかりなのに、そのひと言が心強い。


「ありがとう」


 そんな他愛のないやり取りも楽しかった。


「ねぇ、どういう人なの? 年齢は? 職業は? 好きな色は?」

「好奇心いっぱいね……」

「そりゃあそうよ。シェラみたいなのが好きになる人って、どんなだか気になるわ。……まあ、『彼』より素敵だとは思わないけど」


 何気に自慢された気がする。


「ううん、私にとっては、誰よりも……」

「はいはい」


 クスクスとティケが隣で笑う。シェラは目を閉じて、そっと語った。


「あのね、その人は私よりもずっと大人で、優しくて、仕事熱心なの。けど、熱心すぎて周りに目が行かなくて、ほうっておくとひどい有様なの。一人で何でもできるのに、自分のためには何もしないって言うのかな」

「それはまた、困った人を好きになったわね」


 そう言われるくらい、特殊な人かも知れないけれど。


「でも、好きなのね。構いたくてしょうがないんでしょ? 顔に出てるわ」


 思わず顔を押さえたシェラを見て、ティケは笑う。シェラもつられて笑った。


「あたしの方はね、実はまだ数回しか会ったことがないの。最近、よく来てくれるお客さんなんだけど、すごく整った容姿をしてるのに気取ったところがなくて、こんな人がいるんだって、びっくりしたくらい。名前も知らないのに一方的に憧れてるって、おかしい?」

「そういうことは、これから知ればいいと思うけど?」

「うん、ありがと。よし、がんばらなきゃ」


 と、こぶしを握り締めるティケがシェラには眩しく感じられた。

 きっと持ち前の人懐っこさで、その人ともすぐに打ち解けられるのだろう。うらやましいのはこちらの方だ。


「じゃあ、何がいいか選ぼう。うーん、話を聴いている限りでは、おしゃれなものなんて興味がなさそうね」

「うん。見た目なんて気にしないと思う。実用的なものがいいかな」


 二人で話しながら、小物がきれいに陳列された棚を見やる。

 文具、食器、アクセサリー、ハンカチ、色々なものを手に取って選ぶ。


 買ったところで理由もなく渡せるだろうか。そんな品物を選んでいるというのに、何故かどきどきと胸が高揚していた。

 そばにいる時よりも、アルテルのことで頭がいっぱいになる。

 一人で頬を染めていると店のドアが開き、シェラは我に返った。


 いらっしゃいませと言いかけたティケが固まった。かと思うと、棚の陰へと隠れてしまう。


「どうしたの?」


 シェラは首をかしげた。ティケは口元を押さえながらこっそりとささやく。


「だ、だって、噂をすれば……なんだもん。昨日来たばっかりだから、今日は来ないと思ってて、心の準備が……」


 どうやら想い人のご来店らしい。


「あたし、今日の格好おかしくない?」

「おかしくないわ。かわいいと思う」

「そう? よかった」


 ようやくティケは笑った。シェラは棚の裏側にいるその人物が気になった。どんな人なのだろう。

 けれど、こっそり盗み見るのも気が引けて、その場に踏み留まる。

 すると、店内によく通る声が響いた。


「ええと、ちょっといいかな?」


 大声を出しているわけではないのに、柔らかな口調がはっきりと耳に届く。


「はい!」


 上ずった声を出し、ティケは駆け寄った。


「買い忘れがいくつかあってね。ちゃんとそろうまで、どれくらいかかるんだか。男の一人暮らしなんてろくなもんじゃないな。つくづくそう思うよ」


 笑いを含むその声に、シェラは聞き覚えがあった。

 まさかと思いそろりと棚から顔を覗かせると、そのまさかだった。

 清流のような銀の長髪を束ね、痩躯を薄手のコートで包んでいる。その後姿はアルテルの親友、ジェサード=ブルーネスだった。


「ジェサードさん?」


 思わず声をかけると、ジェサードは振り返り、端整な顔立ちで甘く微笑む。


「やあ、シェラじゃないか。一人? 珍しいね。アルテルのやつは?」

「今日はお休みです。読書をするって言ってましたけど」

「ふぅん。お休みねぇ。珍しいこともあるもんだな」


 親愛のこもった苦笑。どんな表情も、彼にはとてもよく似合う。

 自分がどう見られているのか、ジェサード自身はよく理解している。それが彼の仕事でもあるのだから。


「シェラ!」


 ティケがシェラにすがるように、袖口をつかむ。緊張で顔が強張っていた。

 若い娘なら、特別に想う相手が他にいなければ、彼にふらりと心が動くのもわからなくはない。

 けれど、ジェサードはそういった女の子のあしらいには慣れている。

 どうしたものかと考えていると、紹介してと訴えかけてくるティケの視線に耐え切れなくなったので、とりあえず口を開いた。


「えっと、この方はジェサード=ブルーネスさんといって、私の雇い主である『先生』のお友達なの」


 ティケはようやくシェラの袖を放した。けれど、耳が赤い。


「そうなんですか。あたしはティケット=アンバーセルです。ティケって呼んでもらえたら嬉しいです」

「うん。じゃあ、そうするよ。ティケはシェラの友達?」

「はい!」


 ついさっき、なったばかりだけれど。

 ジェサードはピアスを揺らし、小さくうなずく。


「女の子は女の子同士、もっと喋ったり、一緒に買い物したりすればいいんだよ。まだ若いんだから、アルテルみたいにならないように」

「はは……」


 乾いた笑いを零すシェラの傍らで、ティケが嬉しそうに口を開いた。


「シェラは今日、大好きな人への贈り物を選びに来たんですよ」

「!」


 ジェサードは、口を押さえて止まってしまったシェラを見たが、今度はクスクスと笑い出す。


「それはまた、かわいらしいことだな。あの馬鹿に真意は酌み取れないかも知れないけど、大事にはしてくれると思うよ。そういうやつだから」


 名前は出していないのに、バレている。

 今度はシェラが耳まで赤くなって涙ぐんだ。そんなシェラに、ジェサードは優しい目を向ける。


「アルテルは幸せだな。本人は気付いてないけど。……そうだ、よければ助言のひとつでもしようか? 俺も付き合いは長いから、多少の好みはわかってるし」

「ありがとうございます」


 そこは素直に受け取ることにした。その時、隣でティケが小首をかしげる。


「そういえば、アルテルさんって、一緒よね?」

「え?」

「ほら、この辺りに住んでる人なら誰でも知ってるでしょ? あの『アルテル=レッドファーン』よ」


 シェラとジェサードはそのまま凍りついてしまったけれど、ティケは気付かなかった。


「子供をさらい、生き血をすすると言われている黒魔術師。そんなのと一緒にしちゃいけないけど、同じ名前よね。勘違いされて大変そう」


 かわいらしく微笑み、ね? と言われても、二人とも返事ができなかった。


「前よりひどくなってる……」


 ジェサードの暗い声は、シェラにしか届かなかった。ひとつ嘆息すると、額に手を当てる。


「いい加減、なんとかしないとまずいんじゃないのか?」

「私もそう思います……」


 本人は気にしているのかいないのか、傍目にはわかりにくい。

 ただ、そんな風に言われるべき人ではないのに、と近しい人間は悔しくなる。


「俺も当分はここにいるから、何かいい手がないか考えてみるよ」

「ありがとうございます」


 そう言ってもらえると、心強い。

 会話について行けずティケが寂しそうに見えたので、シェラは話題を変えることにした。


「えっと、それで、何がいいかな?」

「こういうのは?」


 ティケが手に取ったのは、銀色をした金属製のマグカップだった。無骨な感じでかえって味がある。


「これ、結構売れ筋なのよ」


 アルテルのカップは染みがあったり、欠けていたりする。ただ、こだわりがないからそれを使っているのかも知れない。人の飲みかけだろうと、飲むし。

 すると、ジェサードがぽつりと言う。


「あいつ、カップとビーカーの区別がないからな。昔、カップに妙なものが入ってて、それを危うく飲まされそうになったよ」

「…………」


 そう言われてみれば、カップの落ちない染みは、緑色だった。薬草の絞りカスらしきものが入れられ、数日間放置されて、干乾びていたこともあったような。


「も、もうちょっと、選んでから決めようかな?」

「そう?」


 ティケはカップを棚に戻すと、シェラに向き直る。


「じゃあ、思い浮かべてみてよ」

「え?」

「その人を思い浮かべて、その人は何をしてる? その時、身近には何があるの?」


 シェラは目を閉じる。

 まぶたに浮かぶアルテルは、いつもの机で奇妙な色をした液体に、少しずつ別の液体を加えている。そして、ぱらぱらと手元の本を開き、そこに直接書き込みを入れる。

 アルテルはひどい時など、とっさに浮かんだ思い付きを手当たり次第に書き留める。本の裏表紙だろうと机の上だろうとお構いなしだ。

 滑らかな紙の上ではなく、そんなものに書くのだから、当然彼の使うペンは先がひしゃげて文字が太くなる。


「よく、なんにでも書き込みしてる。ペン先がすぐに傷むの」


 シェラがつぶやくと、ティケはにっこりと笑った。


「じゃあ、その辺りね」


 文房具の棚には便箋や封筒、ペン、インクなどが並んでいる。機能的なものから、見た目の美しいものまでそろっていた。

 シェラは目をやった瞬間、その中のひとつが気になった。優柔不断な自分にしては珍しい。

 深緑色をした光沢のあるペンは、シンプルな金の模様が入っている。そのペン先も金色で、アルテルの大きな手に似合いそうな気がした。

 それをじっと見ているシェラに、ジェサードもうなずく。


「それ、いいんじゃないか? あいつの書き込み癖も、せめて紙の上に留まるようになりそうだし」


 値段はシェラにとって安くもなかったけれど、他に使い道があるわけではないから、惜しいとは思わない。


「じゃあ、これにします。ティケ、これをお願い」


 ティケはそのペンを手に取って微笑んだ。


「うん。じゃあ、せっかくだからきれいに包むね。ちょっと待ってて」


 と、ティケはカウンターの奥へ引っ込み、次に戻って来た時には、紺地の包装紙に緑のリボンをかけた包みを手にしていた。リボンの結び目には小さな花飾りが付いており、派手ではないけれどとてもきれいだった。


「へぇ。さすがに女の子はこういうの上手だね」


 ジェサードにほめられ、ティケは真っ赤になってかぶりを振る。


「いえ、わたしなんてまだまだで……」


 そして、照れ隠しをするようにシェラにそれを押し付ける。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 シェラから代金を受け取ると、ティケはにやりと笑ってみせた。


「ねぇ、シェラ。それ、あたしなりにがんばって包んだんだからね。やっぱり渡せなかったなんて無駄にしないでよ」

「う……はい……」

「喜んでくれるといいね、アルテルさん?」


 そう言ってから、ティケは少し困ったような顔をした。


「ごめん、その名前で呼ぶと、ちょっと混乱しちゃう。シェラは先生って呼んでるのよね? 何か教えている人なの?」


 突っ込まれたくないところを突いて来る。

 どう答えるか迷った挙句、シェラは心を決めた。


「あのね、ティケ。アルテル=レッドファーン、それが、私の雇い主である先生のお名前なの」

「え?」

「町で噂されてる、その人」


 ほうけてしまったティケと、真剣なシェラを交互に見やり、ジェサードは(わず)かに狼狽した。


「シェラ、それは――」


 今はまだ言うべきではないと言いたかったのかも知れない。けれど、シェラは続けた。


「私も噂を信じていたから人のことは言えないけれど、今となっては噂を信じていた自分が間違っていたって思ってる。実際の先生はとても優しい、さっき話したような方だから……」


 うまく言えなかった。想いは形にならず、言葉は足らない。伝え切れない歯がゆさがあった。

 そんなシェラを援護するように、ジェサードも口を開く。


「おかしな噂が出回り出して、それでもあいつは聞き流して否定しなかった。噂は一人歩きして、もう個人の手に負えなくなってる。こうして話しても、信じてもらえないのかも知れないが」


 誤解を招いたから悪いのか。否定しなかったから悪いのか。

 そんな噂を流した人が悪いのか。伝えた人が悪いのか。信じた人が悪いのか。

 もうすでに、誰のせいとも言えない。


「びっくりしたと思うけど、嘘はつきたくなかったの。これは、私の勝手」


 ティケは小さく、うん、と答える。それから息を吐いた。


「シェラとジェサードさんがそう言うのなら、きっとそうなのね。……ごめんね、知らなかったから無神経なこと言っちゃって」


 その笑顔にシェラは救われる思いだった。潤んだ瞳でかぶりを振る。


「ティケは少しも悪くないわ。ありがとう」

「じゃあ、今度是非、先生に会わせてね。シェラにここまで言わせるんだもん。一度会いたいわ」

「うん!」


 そんな二人のやり取りを、ジェサードは微笑ましく眺める。


「恋する乙女って、どうしてこうも強いんだか」

「え?」


 振り向いたシェラに、ジェサードは笑った。


「なんでもないよ。じゃあ、俺はそろそろ行くけど、なんなら送って行こうか? 一人歩きは危ないし」

「大丈夫ですよ。私、以前は下町に住んでたんですから」


 そう答えるシェラが、ジェサードには頼りなく思えたようだ。このまま一人で帰していいものかと心配してくれている。


「……わかった。でも、暗くなるうちに帰りなよ?」

「はい」


 ジェサードは自分の買い物を済ませると、シェラとティケに極上の微笑を向けてから去った。

 その後、ティケはぽつりとこぼす。


「ジェサードさんって素敵だけど、なんだかとても遠いわ。憧れで終わっちゃう感じがする。虚像に恋してるみたいな……」

「うん、ジェサードさんは役者だから」


 その一言で、ティケは何かが吹っ切れたようだった。


「そっか……そうか。うん、言われてみると納得。……ああ、もう、身近でいい人いないかなぁ」


 シェラはあははと苦笑する。


「それじゃあ、私もそろそろ行くね。また来るから」

「うん、またね。ちゃんと事後報告に来て。待ってるから」

「う、うん」


 そうして、シェラも店を出た。小さな包みひとつを手に。



 そうしてシェラは町を歩きながら、どうやったらこれをさりげなく渡せるのかと、そればかりを考えていた。

 いつもお世話になっているから――でいいのだろうか。

 包みばかりを眺めていて、シェラは周りが見えていなかった。

 誰かの足を踏み、その肩にぶつかって、初めて顔を上げるという有様だった。


「あ! ごめんなさい!」


 慌てて謝ったけれど、遅かった。

 ぶつかったのは、同じ年頃の町娘だ。ツインテールに細いつり目。後ろには他に三人控えている。


「いったぁ。どこ見て歩いてるのよ?」


 彼女はギロリとシェラをにらみ付ける。シェラは縮こまって、ただ謝った。


「本当にごめんなさい。不注意でした」


 けれど、彼女のシェラを見る目付きは更に険しくなった。そうして、ぶつかった箇所を大げさに払う。


「汚い格好でぶつからないでよ。服が汚れるじゃない」


 後ろの少女たちも、そろえたかのようにクスクスと笑い出す。

 明らかに侮蔑の色がある。けれど、こちらが悪かったのだから耐えるしかない。


 けれど、そういう姿勢が、彼女には気に食わなかったのかも知れない。

 もっと難癖を付けるために彼女はシェラの(あら)探しをする。その時、大事そうに抱えていた小さな包みに目を留め、もぎ取った。


「あ!」


 シェラは手を伸ばしたけれど、彼女はそれをするりとかわす。


「何よ、これ?」


 包みを裏返して観察する。雑な扱いだった。

 シェラは珍しく、ふつふつと憤りを感じている自分を認めた。

 あれは、アルテルのために選び、ティケが丁寧に包んでくれた大事なものだ。

 シェラから、先ほどまでのおどおどした雰囲気が消えて行く。まっすぐに彼女を見据え、強い口調ではっきりと言った。


「返して下さい」


 今まで、誰かに対して敵意を示したことはない。少し我慢すれば済むことをわざわざ荒立ててはいけないと思っていた。自分にこんな一面があったなんて、この時まで知らなかった。

 応援してくれた人の気持ちと自分の想いが、あの中には詰まっている。今感じている怒りは、きっと間違いではない。だから、引かなかった。


「返して下さい」


 もう一度、強く言った。

 彼女は少しだけ体を斜めに引いたけれど、それからシェラをにらみ付ける。


「こんなもの――!」


 そう吐き捨てて彼女はシェラの方へ包みを投げ付けようとしたけれど、それを寸止めし、薄く笑って仲間の少女の方に方向を変えた。プレゼントを受け止めたショートカットの少女はその意図を読み取り、それを持って走り出す。他の少女たちもその後に続いた。


「返してほしかったら、取り返せば?」


 そう言い残して。


「待って!」


 待ってくれるわけもないのに、そう叫んでいた。

 シェラは見失わないように、必死で駆け出す。走るのは得意ではないけれど、ただ必死だった。

 少女たちは人ごみをすいすいとすり抜ける。シェラは何人かにぶつかりそうになりながら、なんとか後に続いていた。

 段々と息が上がり、わき腹に痛みが差す。少女たちもようやく立ち止まって、シェラの方を振り返る。


 この辺りは住宅地だ。連なったレンガの壁が見える。反対側には町を巡るように引かれた小水路があり、アーチ状の橋が架かっている。

 嫌な予感がした。町中にある整備された水路でも、流れはある。


 少女たちはニヤニヤと笑いながら橋を渡る。一人は橋の淵を歩き、手を突き出していた。その手に包みを持ち、シェラが駆け寄った瞬間に手を放す。

 包みは風に煽られながら落下し、水面に裏向けに落ちた。

 キャハハ、と哄笑しながら駆け去る少女たちのことなど、もうどうでもよかった。シェラは橋の欄干(らんかん)に手をかけ、下を覗き込む。

 けれど、シェラが息を整える間もなく、すぐに包みは流されて行った。


「どうしよう……」


 おろおろしてしまったけれど、泣いている場合ではない。

 惨めで悔しくて、泣いていられたら気が楽だったけれど、今はとにかくプレゼントを取り戻したかった。


 シェラは橋を渡り切ると、向こう側の通りを、流れに沿って走った。そうして、流されて行く包みよりも先回りすると、水路の柵を乗り越えた。

 水路の淵は急な段になっているけれど、不ぞろいな石が敷き詰められており、その出っ張りに足をかけて、少しずつ下りて行く。迷いはなかった。


 我に返ってみるとその時の自らの行動にぞっとしたが、その時はただ夢中だった。

 もたもたしていたら流されてしまう。

 その時、対岸から声が飛んだ。


「そこの君、何をしている!」


 集中していただけに、びく、と身を強張らせ、シェラはバランスを崩した。


「!」


 冷たい水が全身を(さいな)み、拒絶し尽せないくらいに入り込んで来る。水中で空気を撒き散らした。

 底が浅かったのが不幸中の幸いである。

 シェラが立ち上がると、胸の位置くらいの水位しかない。


 水面に顔を出したシェラはゲホゲホとむせ返り、その苦しさで涙が出たけれど、それでも包みのことは忘れなかった。

 水面を流れて来るそれを受け止めると、ようやく安堵した。

 紙はふやけ、花飾りは取れて中身も心配だったけれど、手には戻った。


「大丈夫かっ?」


 先ほどの声の主、初老の男性がシェラを見下ろしている。


「大丈夫です。お構いなく」


 などとのん気に答えたシェラに、男性は眉根を寄せる。


「まったく、何を考えているんだね? 無事だったからよかったようなものの……。もう少し先に梯子があるから、そこから上って来なさい」


 梯子。そんなものがあるなんて。

 水路をざぶざぶと切って歩くと、確かに梯子があった。それを上ってようやく水から開放される。


「君、家はこの近くか? このままでは風邪をひく」


 シェラはこれ以上迷惑をかけたくなかったので、はいと答えた。


「すぐそこです。すぐ帰ります。ご心配をおかけしてすみません」


 水滴をしたらせながら頭を下げる。男性は、それならいいんだと優しく言った。

 シェラはほっと胸を撫で下ろし、その場を去る。

 この濡れ鼠の姿で帰るのは恥ずかしいけれど、仕方がない。

 そして、なんとなく痛痒いと思っていた左手の側面を見ると、軽くすりむけていた。見なかったことにして、帰りを急ぐ。


 けれど、今度は、歩けば歩くほどに左足首がうずいてくる。それも気のせいだと思いたかったので、しばらく無視して歩き続けた。

 どれくらいか経って、辺りも少し薄暗くなって来た頃、シェラは疲れて一度立ち止まる。

 痛む足首を、裾を巻くって恐る恐る確かめる。触ると熱がこもっており、形が変わるほどにはれ上がっていた。


 それでも、急がないと。

 ここは森の近くだ。一気に暗くなってしまう。早く帰るつもりだったから、明かりは一切用意していない。これでは、獣の餌食になるかも知れない。

 シェラは自分の考えにぞっとしてかぶりを振ると、それから再び歩き出した。


 一歩がこんなにも狭く、そして苦しかったことなんて、今までにない。

 足を引きずりながら、それでも少しずつ進んで行く。もう少しのはずだが、その少しがとても遠い。頭まで重く感じるのは、疲れたからだろうか。

 なんだかもう、どうなってもいいから休みたいと思った。ひどく疲れたから。


「あ!」


 不注意で石に引っかかった。左足をかばうようにして地面に倒れ込む。夜風にさらされて、中途半端に乾いた肌に砂が付く。

 どこが痛いなんて、考えるのも面倒なくらい、全身が疲れていた。

 今日はティケと知り合えたり、とてもいい日だと思えたのに、最終的にはこんな目に遭っている。


 つくづく、自分って、どうしてこうなんだろうと思う。

 自分の不注意が招いたことだとしても、あんまりだ。形のない、大きな流れを恨みたくもなる。

 いい加減に立ち上がらないとと思った時、地面から微かな振動を感じた気がした。


 慌てて上半身を起こし、暗くなった前方に目を凝らす。

 ぼうっと明るい何かが見えた。

 足音は段々と近付いて来る。それは、獣のように軽快な音ではなく、重々しいものだった。


 そうなると、その足音の主は一人だろう。

 こんなところに来る変わり者は、他に思い付かない。

 明かりを手にしたアルテルはさすがに、びしょ濡れで擦り傷と砂にまみれたシェラに驚いていた。


「帰りが遅いと思って迎えに来てみれば――」


 深くため息をつくと、アルテルはカンテラを地面に置く。しゃがみ込んで自分を覗き込むアルテルの顔を見たら、急に色々な感情が入り混じって、少し目が潤んだ。


「わざわざ、来てくれたんですか……?」

「何がわざわざだ。お前は一人歩きするとろくなことにならないんだな。行って来いなんて言うんじゃなかったよ」


 と、アルテルは表情を(けわ)しくした。


「すみません……。ちょっと不注意で水路に落ちてしまって」

「水路? 何したらそんなところに落ちるんだ?」


 返答できず、シェラはあはは、と笑ってごまかした。あの贈り物もさりげなく服の下へ隠す。


「えっと、先生、ほら、暗くなっちゃいますよ。早く帰らないと」


 すると、アルテルのげんこつを食らった。痛くはないけれど、アルテルはあきれている。


「心配かけといて、のん気なやつだな」

「……ごめんなさぃ」


 消え入りそうな声でしょんぼりとするシェラを前に、アルテルは髪をかき上げた。


「まあいい、帰るか。風邪ひいても知らないからな」


 知らないといいながら、看病してくれる、そういう人だ。わかっているから、寝込んでなんかいられない。


「大丈夫ですよ。私、丈夫ですから」


 軽く言ってシェラは立ち上がると、アルテルも明かりを持って隣に立った。

 けれど、同時に歩き出した二人の差は、一瞬で開く。しばらく休んだせいなのか、シェラの足はひどく動かしにくいものに成り果てている。顔を歪めて足を引きずるシェラに、アルテルは振り返った。


「足を痛めたのか?」

「え? あ、でも、もう少しだから歩けます。お気になさらないで下さい」

「気にするなって、無理だろ。おぶってやろうか?」


 よりによって、こんな状態の今、アルテルに密着する勇気はない。その申し出がありがたいとは言えなかった。気持ちだけで十分だ。


「い、いえ、大丈夫です!」


 すると、アルテルは少し厳しい表情になる。


「強情なやつだな。抱き上げて帰るぞ」

「えぇ!」


 そんなの、考えただけで余計に疲れてしまう。シェラは仕方なくぽそりと言った。


「……じゃあ、腕だけ貸して下さい」


 アルテルはようやく柔らかい微笑を見せる。


「ほら」


 明かりを持っていない左腕を差し出す。その腕を取るだけでも、シェラには勇気が要った。けれど、その温もりひとつで、負の感情がきれいに解けてなくなったように思う。

 だから、やっぱり今日はいい日だったのかも知れない。


 その腕に寄り添うと、ほんの少し目を伏せたシェラは、途端に鼻を突く異臭で恍惚から冷めた。

 カビのような、すえた悪臭。あまりのきつさに涙が出て来た。


「っ……!」


 アルテルは、ん? と首をかしげる。


「どうした?」

「どうしたって、変なにおいがしますよ! 先生の手元の、ばら撒いている液体から!」


 アルテルはカンテラと一緒に、右手に小さな霧ふきを持っていた。それを噴射した途端、その臭いが立ち込めたのだ。


「これか? これは獣よけだ。獣はこの臭いが嫌いだから、こうしておけば寄り付かないんだ」


 彼はこの悪臭の中、何故か平然としているけれど、シェラは泣きながら訴えた。


「獣だけじゃなくて、私だって嫌いです!」

「ああ、そうか」


 本当にこの人は、と複雑な心境のシェラだった。

 けれど、それもまた、幸せな思い出のひとつだろう。



 しかし、この日の出来事が後へと繋がると、この時のシェラは気付きもしなかった。

 ただ、あの贈り物をどうしようかと、そればかりを考えていたから。



  【アルテル=レッドファーンの休日 ―了―】

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