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アルテル=レッドファーンの親友

 それは、一通の手紙から始まった。


 ただ、最初に断っておくなら、このアルテル=レッドファーンの営む薬剤店に手紙を届けてくれるような気骨のある配達夫はほぼいない。

 立地の問題ではない。問題は店の主だ。


 巷間の噂では、店主アルテル=レッドファーンは、黒魔術の研究をしている魔術師であったり、子供の内臓をビンに詰めて眺めることに喜びを感じる異常者であったり、生き物の生き血をすする悪鬼であったりする。そんなところへ誰が行きたがるだろうか。


 その一人歩きした噂を手紙の主も知っているのだろう。

 だから、手紙を運んできたのは、伝書鳩だった。悪評も、はるか上空の鳩はどこ吹く風である。

 アルテルが手紙を足から外し終えるまで、おとなしく窓際で待っていた。手紙を外すと、アルテルは豆を皿に乗せ、労いを込めて鳩に与える。鳩はそれを平らげると、ようやく飛び立った。

 そんなやりとりを見ていたこの店で唯一の働き手、シェラは尋ねる。


「お手紙なんて、珍しいですね。ラメリアさんですか?」


 ラメリアというのは、アルテルの姉である。

 アルテルは細くたたまれた手紙を読みもせずにかぶりを振った。


「ラメリアは手紙なんか書かない。これは同郷の友達からの手紙だ」

「先生の……お友達……」


 アルテルの友人と言われても、まるで想像できなかった。今まで一度も話題にされたことがない。


「やっぱり、お友達も薬師の方ですか? それとも、お医者様ですか?」


 調薬一辺倒のアルテルと話が合う人間なんて、それしか考えられない。けれど、答えは違った。


「いや、全然」


 そして、アルテルはようやく手紙を開いた。文面はきっと短かったのだろう。アルテルはすぐに顔を上げ、鼻先の丸眼鏡を押し上げた。

 手紙を折りたたむと、シェラに向かって微笑む。その様子がとても楽しげだった。


「こっちに来る用事があるから、寄るつもりだって。シェラは初対面だし、あいつがどういう職種の人間か会って当ててみろよ」


 シェラは、ここで住み込みで働くようになってからまだ日が浅い。浅いなりに色々とあり、濃い毎日ではあるものの、お互いにまだ知らずにいることも多々ある。


 その最たるものが、アルテルがれっきとした女性であるシェラを女顔の華奢な少年だと信じて疑わないことだろうか。

 基本的におおらかで詮索しないアルテルは、シェラが語らない限り、込み入った事情を尋ねるようなことはしない。

 時間が経てば経つほど、どう話したらよいのかわからず、なんとなく日々を過ごしている。

 心地よい反面、もどかしさも多くある。そんな日常だった。


「的外れなことを言ってしまったら失礼じゃないですか。駄目ですよ、そんなの」


 シェラは薬の原料として採取した小さくて丸い木の実の皮をむきながらぼやく。

 アルテルはクスクスと笑った。


「じゃあ、ヒントでもやるか。そうだな、見たまま……かな」

「それのどこがヒントですか……」


 そこでシェラはなんとなく思ったことを口に出した。


「先生、嬉しそうですね」

「そうだな。二年くらい会ってないし」


 答える笑顔が柔らかい。


「そうなんですか。それは楽しみですね」


 シェラも笑って返す。アルテルが嬉しいのであれば、シェラも同じように嬉しかった。



 木の実の皮をむき終え、皮を捨てて実をアルテルに差し出すと、必要なのは皮の方だと判明した。

 その皮をかき集めながら、シェラはアルテルの友人のことで頭がいっぱいだった。


 どんな人なのだろう。

 楽しみだったけれど、ふと思う。

 アルテルの友人なら変わり者かも知れない、と。


 一抹の不安を覚えたけれど、その翌日に(くだん)の人は現れた。



     ※※※



 その日は見事な快晴で、シェラは寝起きの悪いアルテルを無理やり起こし、ベッドのシーツを剥ぎ取って洗濯した。シェラがここで働くようになってからはこまめに洗濯をするので、シーツの白さは保たれている。

 それ以前の状態――あの万年床を二度と作らせないことが自分の使命だと思う。

 アルテルは器用なのだが、ずぼらなのだ。仕事となれば几帳面に仕分けるのに、私的なこととなるとまるで頓着しない。そんなアルテルの世話を焼くことが、シェラの幸せでもある。


 そして、洗濯物が乾いた昼下がり、シェラはそれらを取り込むため、かごを手に階段を下りて表に出た。風にはためくシーツの白さが目に染みる。とても清々しい気分だった。

 洗剤とお日様のにおいのするシーツに満足しながら触れ、洗濯ばさみを外しにかかる。


 その時、周囲のことなどまるで気にしていなかった。

 突然、干されているシーツの表面が不自然に盛り上がった。両端がシェラに向かって迫り、逃げる間もなく洗い立てのシーツに包まれてしまった。そのシーツの上から加わる力は強く、間違いなく男性の腕だった。シーツ越しに抱きすくめられ、シェラは錯乱して悲鳴を上げた。


「え……!」


 その途端、腕の力はさっと解け、絡まったシーツを慌てて剥ぎ取るような動きをした。

 シーツが退けられると、シェラはようやく顔を出せた。その人物はシェラを見て驚き、即座に謝った。


「あぁ、申し訳ない! ここにいる人間はアルテルしかいないという先入観がありまして……。ちょっと驚かせようとしただけだったのです」


 と、彼は言葉を切る。すると、窓からアルテルが顔を覗かせた。


「何やってるんだ? シェラ、大丈夫か?」


 悲鳴が聞こえたのだろう。シェラは大きくうなずく。

 二人の姿を見て大体のことを察したのか、苦笑気味に早く上がって来いと促し、首を引っ込めた。

 シーツの中でもがいて、束ねてあった髪がぐちゃぐちゃだった。シェラは髪紐を解き、それを直しながらおずおずと尋ねる。


「あなたが、先生のお友達の方ですね?」


 軽くうなずくと、青年はようやくにっこりと微笑んだ。


「ジェサード=ブルーネスと申します。美しいお嬢さん」


 青い瞳が印象的な人だった。整いすぎた顔立ち、赤いリボンで束ねた青みがかった長い銀髪。紺青の上着にシルクのシャツとスカーフ。手足も長く、所作もきれいだ。

 その上、歯の浮くような台詞(セリフ)がさらりと言えるし、違和感もない。

 アルテルは彼の職種を当てろと言う。


 貴公子然として、女性なら誰しも見とれてしまうような容姿だ。けれど、それがヒントだと言われてもわからない。

 紳士的で身なりはよいけれど、高慢さはない。

 その外見とは裏腹に、さっきのような悪戯心も持ち合わせている。

 正直、謎の人だった。



 シェラはとりあえず洗濯物をすべて取り込んでしまうと、ジェサードを二階へ招いた。

 この薬剤店の店主は、深緑に染まったすり鉢を片手に友人を迎え入れる。


「アルテル!」


 ジェサードは両手を広げて大仰に再会の抱擁をするが、アルテルは大事なすり鉢の中身がこぼれないようにまず避難させた。

 それからジェサードは、急に砕けた態度になった。アルテルの肩をバンバンと叩く。


「お前、いつの間にこんなかわいい嫁さんもらったんだよ? 部屋も劇的にきれいになってるし。よくよく考えてみたら、不精なお前が洗濯なんておかしいよな。いや、びっくりした」


 外見だけはやっぱり貴公子然としているけれど、これが本来の彼なのだろうか。

 アルテルはにやりと笑う。


「お前って、実はそそっかしいよな。シェラは従業員なんだ。第一、男だぞ。早とちりもいいところだ」


 とっさにジェサードは背後のシェラを振り返り、これ見よがしにため息をついた。


「そそっかしいのはどっちだ? お前、家柄と容姿がそこそこよくて、学生の時だって女子に騒がれてたのに、まったく気付いてなかったよな。お前って、そういうやつだった」

「何で今、そんな話になる?」

「それがわからん人間に何を説明しろと? 俺もお前くらいに鈍感だったらよかったな。デリケートで気苦労が絶えないよ」


 友人のぼやきを聞き流し、アルテルはシェラに問う。


「どうだ? ジェドの職種、もうわかったか?」

「え? えっと……」


 全然わからない。シェラは困惑し、うなった。


「富豪の御曹司とか?」

「それって、職種か?」


 けれど、ジェサードはにっこりと微笑む。


「いや、ちょっとだけ当たってるよ」

「嘘つけ。いつからそんなものになった?」

「いや、俺って、なんにでもなるのが仕事だから」


 意味がわからずほうけたシェラに、ジェサードは営業用の輝く笑顔を向ける。


「正解は、役者だよ。巡業劇団員。今回、ジーファの町で公演することになったから、隠遁中の悪友のもとへ立ち寄った次第だ」

「隠遁してるつもりはないんだが」

「してるようなもんだろ。地味のひと言に尽きるぞ」

「お前が派手なんだよ」

「そうか? まあ、お前はどうせ薬漬けで干乾びてるんだろうし、今日は夜の町にでも連れ出してやろうと思ってたのに、来てみたらこんなかわいいコと仲良くやってるんだから、心配して損した」

「あのなぁ……」


 閉口するアルテルに構わず、ジェサードは紅茶を運んで来たシェラにもう一度目を留める。


「うちの劇団はまあまあ大きいし、きれいどころもそろってるけど、君は中に入っても遜色(そんしょく)ないよ。興味があったら、どう?」

「む、無理に決まってるじゃないですか!」


 シェラは慌てふためいてかぶりを振る。ジェサードはそんなシェラを微笑んで眺めていた。


「こういう反応、新鮮だなぁ。役者は役の取り合いだし、みんな我が強いからな。実際、おとなしいコには大変かも。俺も肩身狭いし」


 嘆息するが、どこまで本気なのかいまいちわからない。アルテルも笑っている。


「お前も我が強いだろうが。……けど、少し痩せたな。忙しいんだろ?」

「忙しいよ。ま、ありがたいことだけど」


 へら、と笑う。けれど、アルテルは少し引っかかりを覚えたようだ。


「心配事があるんだな?」


 唐突に思えた言葉だったけれど、ジェサードは静かにうんと言った。長い脚を組み、切り出す。


「団長には相談したんだけどな。未だに解決できてない。お前は部外者だから、気休めに聴いてもらおうかな」


 嘆息すると、ジェサードは張りのある声で続けた。


「最近、俺の持ち物がよくなくなるんだ。最初はどこかで失くしたのかと思うような、ちょっとした私物でさ」

「お前の追っかけの娘の仕業じゃないのか?」


 憧れの人の持ち物を宝物にしたいという、そういう気持ちが高じてのことではないかとアルテルは考えたようだ。けれど、ジェサードは首を僅かに傾けた。


「さぁ。団長もそう言うんだけどな。部外者が見咎められずに入れるかどうか。それに、最近はエスカレートして来て、小道具や衣装に悪戯されたこともある。それが……」

「まだ上演していない芝居のものだったと?」


 ジェサードはうなずく。その苦笑がなんとなく痛々しい。


「俺がどの衣装で出るとか、わかってなければ悪戯のしようもないだろ? 稽古を盗み見してたなら話は別だけど、そうじゃなかったら内部の人間の嫌がらせだからな。内輪もめが嫌で、団長は確証のないことを口にするなってさ」

「けど、大事な商売道具に手を出されたら、黙ってるわけには行かないだろ?」


 アルテルの声は抑揚に欠けていたけれど、冷ややかな憤りがあった。それは、思いのほかにジェサードが精神的に参っていることを感じたからだろう。自分のことよりも、周りの人のために怒る人だから。


「裏方は俺のせいじゃないって言ってくれてるけど、徹夜で作り直しなんてさせてしまうと、やっぱり罪悪感があったりする」


 笑顔を保っているけれど、本当は悔しいはずだ。そう思うと、やりきれない気持ちがシェラにもわいて来る。


「ジェサードさんは被害者です。それを感じなきゃいけないのは、そんな悪質なことをした人です」


 思わず口を挟んでしまってから、シェラは小さく、すみませんと頭を下げた。

 けれど、ジェサードは優しく微笑んだ。


「いや、ありがとう。……そうだね、その人が悔いて止めてくれるといいんだけど」


 アルテルは深く息をつくと、ところどころがはねた金髪をかき上げた。


「そんな楽観的なことを言ってる余裕があるのか? 協力は惜しまないから、言ってみろ」


 そして、指折り数える。


「睡眠薬、強壮剤、自白剤、催眠剤……どれだ?」


 そういう協力のし方なのか。シェラは脱力した。


「先生……」

「アルテルは相変わらずだな」


 さすがに親友だけあって、ジェサードは動じない。


「冗談だ」


 本当に冗談だろうか。


「まあ、本気で必要なら用意するけど。……そうだな、とりあえず、様子を見に行ってみるのもいいか。何かわかるかも知れないし」

「俺の芝居にまるで興味のないお前が? 珍しいこともあるもんだなぁ」


 そう憎まれ口を叩きながらも、ジェサードはどこか嬉しそうだった。

 どこに敵が潜んでいるのかわからない状態で、疑いようのない味方がいてくれるのだから心強いはずだ。

 それからアルテルは立ち上がると、シェラに視線を向ける。


「そういうわけで、ちょっと出て来る。シェラはどうする? 来るか?」

「はい、お供します!」


 ここまで来て、留守番なんてできない。アルテルはにやりと笑う。


「よし、じゃあ、行くか」



     ※※※



 ジーファの町の第一地区、富裕層の娯楽施設のひとつであるフォルメラ劇場に、ジェサードの所属するレイザス劇団は逗留している。フォルメラ劇場はひとつの劇団のお抱えではなく、音楽や踊りなども含めた幅広い巡業の一座のための舞台だ。築三十年ということだから、少々時代に取り残された感じもしないでもないが、今もまだ賑わいが残っている。


 巡業劇団レイザス劇団は、役者、裏方、総勢六十二人。それなりの大所帯であり、宣伝に力を入れているのか、劇場の周囲には必要以上に貼られた広告とビラを手配りする劇団員とがいた。


 それらを通り過ぎ、シェラは二人に続いて白い神殿のような外観をした劇場の中へ入った。

 少しくすんだ赤い毛氈(もうせん)が敷かれたロビーで、ジェサードは二人に言った。


「じゃあ、俺は戻るけど、俺の名前を出せば見学くらいはさせてくれると思うよ」


 アルテルとシェラはうなずいてジェサードの背中を見送った。

 まだ公演が行われていない劇場で、二人は明らかに浮いていた。通り過ぎる劇団員たちに視線を向けられつつ、こっそりと相談する。


「先生、どうやって調べたらいいのでしょうか? 思った以上に人が大勢です」

「そうだなぁ」


 アルテルも特に策があったわけではないようで、しばらく考え込む。そうしていると、体の奥にまで浸透するような中年男性の美声がした。


「君、そこの君!」


 その美声に反し、容姿はでっぷりとした体型の男性だった。隙なく整えられた口髭と、ワインレッドの燕尾服という格好も目立つ。一度会ったら忘れられない人だ。

 彼はのしのしと体を揺らしながらこちらに近付いて来る。そして、首を上下させてシェラを観察すると、短く言った。


「よし、来なさい」

「え?」


 シェラがきょとんとしていると、彼は目を糸のように細めた。


「なんだ、入団希望者だろう? テストするから来なさいと言っているんだ」


 どうやら、彼が団長のレイザスらしい。けれど、とんだ勘違いをしている。


「ええ!」


 素っ頓狂な声を出して後ずさったシェラの肩を、アルテルが止めた。そして、笑顔で押し出す。


「よろしくお願いします」

「せ――っ」


 涙目になったシェラに、アルテルは耳打ちする。


「内側から探るいい機会だ。大丈夫、俺も付いてる。うまくやればジェドが観劇の特等席を用意してくれるから、がんばれ」


 そんなことよりも、失敗した時のことをまず考えてほしい。

 口をぱくぱくと動かしているシェラに構わず、アルテルはレイザスに言った。


「俺はこいつ……シェラの兄です。ジェサードとは友人で、彼の影響を受けてこいつも役者になりたいと思ったようなんです。適性があるのかはわかりませんが、よろしくお願いします」


 笑顔で嘘をついている。そんなお芝居ができるなら、自分なんかより先生が役者志望で潜入すればいいんだと思った。

 レイザスは疑うでもなく、鷹揚にうむ、とうなずいた。


「では、来なさい。ああ、君、兄さんはここまでだ。稽古の見学なら許可するから、よければ行って来るといい。ジェサードも張り合いが出るだろう」

「はい、ではそうさせて頂きます」


 さっき、自分も付いているからと言ったのに、あっさりと行ってしまった。

 あんまりだとその背中をにらむが、アルテルは振り向きもしなかった。


「さて、まずはこっちだ」

「あ、はい」


 丸くて赤い背中をシェラは慌てて追う。

 レイザスは短い脚を高速で動かし、廊下を歩く。どうやら、かなりのせっかちのようだ。


 シェラは早足でそれに続いた。その間、数名の劇団員の視線が横っ面に突き刺さった。好奇の目をかいくぐりながら進むと、ある一室からジェサードが出て来た。台本を手に、驚いている。


「あれ? どうして座長と?」


 レイザスは目を細めて髭を撫でる。


「お前の友人の妹だそうじゃないか。何も聞かされてないのか?」


 すると、ジェサードはすぐに頭を切り替えて微笑んだ。


「この兄妹はそういうやつらなんですよ。さっきまで一緒だったくせに、ひと言も言わないで驚かせる。まあ、そういう悪戯心があるのは兄貴の方で、彼女は引きずられているだけですけど」


 今日会ったばかりだというのに、昔からの知り合いのように振舞う。こちらの方が錯覚してしまいそうだ。職業柄か、機転が利く。


「ご、ごめんなさい」


 なんとか合わせないとと肩肘を張るシェラに、ジェサードは声を潜めてささやいた。


「無理はしないように――」



 そうして、廊下をそのまままっすぐに歩いた。そのすぐ後、シェラに向けられていた好奇の視線に、敵意のようなものも混ざる。あまりにあからさまなので、さすがのシェラもすぐに気付いた。

 ひそひそ声と冷たい空気にさらされ、シェラはいたたまれない気持ちでうつむいたけれど、レイザスはお構いなしだった。ひとつの扉をノックもなしに開く。それが普通なのか、中にいた人物は驚かなかった。


「団長、どうかされましたか?」


 ごった返した衣装の中から出て来たのは、小柄な女性だった。特別美人ではないが、短めのふわふわしたくせ毛と薄い眉が、大人なのにかわいらしい。


「この娘に適当な服を見繕ってくれ。このままではあまりにみすぼらしいので、テストするにも気が乗らん。ただ、元はよいので切り捨てるには惜しいからな。では、身なりを整えたら、舞台袖に来なさい」


 本人を前に、早口でまくし立てる。そして、さっさと立ち去った。

 呆然としたシェラに、女性は苦笑する。


「座長はせっかちで、ものをはっきりと言う方だから、あまり気にしないようにね。……ええと、私はフェリエ。衣装担当なの。よろしくね」

「シェラです。よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げたシェラに、フェリエはやわらかく微笑む。雰囲気はかわいらしいのに、落ち着いている。


「じゃあ、さっそく。どんなのがいい?」

「……お任せします」


 こんなにあふれている衣装の中からなんて、選べない。シェラはフェリエに丸投げした。

 すると、フェリエは林のような衣装の隙間に潜り込む。小柄なので、頭のてっぺんしか出ていない。


「うーん、どうしようかな。新人なら、あんまり派手だと怒られちゃうわね」


 喋る間にも何枚か抜き取っている。シェラのところへ戻って来るまでに、ほとんど時間はかからなかった。おっとりしているようで、仕事は早い。

 そこにあった椅子に二枚のワンピースをかける。一枚はピンク。もう一枚は藍色。手には白色。


「やっぱり白かな。花の刺繍がきれいだし。あなたの雰囲気には合ってるわ」


 正面の鏡で見えるように、シェラに白いワンピースを押し当てると、それをそのまま手渡した。


「そこのカーテンの裏で着替えて」

「は、はい」


 シェラは急いでカーテンの裏側に回り、着替えを済ませた。

 こうなると、アルテルが付いて来なかったことが、唯一の救いだ。

 脱いだ服を手に戻ると、椅子の上は片付けられており、そこへ座るように促された。


「髪の毛のセットは専門外なんだけど、ついでだしね」


 と、フェリエはシェラの髪紐を解いて(くし)ですき始めた。

 その間、シェラはようやく本来の目的を思い出す。

 幸い、フェリエは話をしやすい相手だ。それとなく、シェラは切り出す。


「あの、フェリエさんはジェサードさんを知っていますよね?」


 一瞬、髪をすく手が止まる。


「え? それはまあ。うちの看板役者だもの。誰だって知ってるわ。それがどうかしたの?」


 声は落ち着いている。再び手も動き出した。


「いえ、私の兄の友人なんです。劇団の中での評判とか、どうですか?」

「どうって……。役者同士、配役で揉めたり、けん制しあったり、摩擦はあるけど、基本的には親切で丁寧だし評判はいいと思うわ」


 そうなると、嫌がらせはその、揉めたりする役者仲間だろうか。少し絞れた気がする。


「そうですか。ありがとうございます」

「いえ……。さあ、出来たわ。舞台袖にはこの部屋を出て左にまっすぐ。それから、突き当りを更に左に進んだところよ。迷わないとは思うけど。終わったら、荷物を取りに戻ってね。じゃあ、がんばって」


 最後に出された靴を履き替え、シェラは礼を言って部屋を出た。

 言われた通りに左へ進む。けれど、数歩進んだところで我に返った。


 テストを済ませると、身動きが取れなくなる。一人になった今が、内部を探る絶好の機会だ。

 かなり不安は感じるものの、うまくやれたらアルテルに褒めてもらえる。それだけを心の支えにして、シェラは心を決めた。


「……よし」


 何か言われたら、迷ったことにしよう。

 シェラは突き当たりの通路を右に折れた。


 右には小部屋がいくつか続いており、人気(ひとけ)は少なくなった。部屋の扉には名前の付いた札がある。


「楽屋かな?」


 すぐ手前にジェサードの名前がある。一人で大きな部屋を与えられているのだから、実績があるのは事実なのだろう。

 ここで見張っていたら犯人がわかるかも知れないが、隠れる場所がない。どうしたものかと思案していると、二つ奥の扉ががちゃりと開いた。

 出て来た人物と目が合う。


 二十代半ばくらいだろうか。額の中央で分けた長い前髪、黒い瞳。顔立ちは端整で独特の雰囲気があった。間違いなく役者だろう。


「す、すみません。道に迷ってしまって……。でも、すぐに退散しますから」


 シェラが慌てて頭を下げると、笑いを含んだ声が耳をくすぐった。


「何、新人さん? 退散したってまた迷うんじゃないのか? どこへ行きたいの?」

「あ、えっと、舞台袖の方に」


 正直に答えるしかなかった。

 すると、青年はじっとシェラを見た。シェラは困り果て、落ち着かなくなってうつむいた。青年は嘆息する。


「その様子だと俺のことなんて知らないんだな。俺もまだまだだな」


 役者にとって、自ら名乗るのは屈辱なのかも知れないと気付いたのは、後になってからだ。けれど、本当にわからなかった場合にはごまかしようがない。


「ごめんなさい。私、そういうことに(うと)くて……」

「いいよ。俺はユーガル。役者だ」

「私は、シェラです」


 今日限りのつもりなので、よろしくとは言えなかった。そこを突っ込むでもなく、ユーガルは言った。


「そういえば君、さっき団長と一緒だったような? 衣装が違うけど」

「はい、まぁ……」


 曖昧な答え方になる。あまり口数を増やすと、その分ぼろが出てしまいそうだ。


「遠目で見ただけなんだけど、ジェサードと親しそうだったな」


 尋ねる前からその名が浮かび上がる。シェラはそれを好機だと思った。


「はい、兄の友人なんです」


 用意してあった嘘なら淀みなく言える。けれど、ユーガルの反応は冷めたものだった。


「へぇ。男友達なんて、いたんだ?」


 どこか揶揄(やゆ)する響きがある。そこでようやく、シェラは彼の感情に気付いた。


「ジェサードさんとは、あまり仲がよろしくないのですか?」


 思わず口にしてしまってから、シェラは後悔した。ユーガルは口の端をゆっくりとつり上げる。


「子供の仲良しお遊戯じゃないんでね。役は取り合いだし、誰もが敵同士の世界だよ」


 役の取り合いと。競い合う相手との軋轢もあると聞いた。

 ジェサードによい役を取られて妬んでいる人間が、彼に嫌がらせをしていると考えるのが自然だろう。証拠は何もないけれど。


 シェラはユーガルを観察する。そういう卑怯な真似をしそうな人間だろうかと。

 けれど、自分の見る目に自信がなかった。ここはアルテルに報告して指示を仰ぐ方がいい。

 とりあえず、ここは一度去って、他も当たってみよう。


 今は時間が惜しい。

 立ち去ろうとしたシェラだったが、ユーガルはシェラをじっとりと見つめている。


「あの、何か?」

「いや、ジェサードのやつ、君には特別な感じがしたなと思って」


 特別の意味が違う。大体、今日初めて会ったばかりだ。けれど、それは説明できない。

 ユーガルはそっと目を細めた。


「なあ、ちょっとゆっくり話さないか?」

「え? すみませんが、私はもう行かないと――」


 引き止められている場合ではない。それなのに、ユーガルはシェラの肩に手を伸ばす。その手が蛇のように首の後ろを這い、回りこむようにして肩を抱かれる形になった。

 その手の感触がたまらなく嫌だと思った。隠し切れない嫌悪感で、シェラは思わず身震いする。強張った体を放そうと、腕を伸ばすと、今度はその手首をつかまれた。


「あ、あの……っ」


 絞った声がかすれていた。ただただ、自分の感覚のすべてがこの腕を拒絶する。

 どうしたらいいのかわからず、頭が真っ白になった。

 その時、背後から声がした。


「嫌がってるだろ。放してやったらどうだ?」


 適度に低く、心地よい声。

 途端にシェラは安堵に包まれ、力が抜けてしまった。


「はぁ? 誰だ、お前?」


 ユーガルは噛み付きそうな勢いだったけれど、彼はまったく動じない。


「誰でもいいだろ」


 そして、シェラの手をまだ放さずにいるユーガルを力任せに剥ぎ取った。


「いってぇ!」

「こんな集団生活の中で信用をなくしたら、苦労するのはそっちじゃないのか? 女性陣の非難は目に見えてるぞ」


 舌打ちし、しぶしぶ部屋に引っ込んだユーガルの背。それを眺めつつドアが閉まる音を聞いて、シェラは心底ほっとした。思わずその場にへたり込む。


「大丈夫か?」


 差し出された草色の染みだらけの手を取り、シェラはようやく声を出せた。


「せんせぇ……」


 情けない声と顔でアルテルを見上げると、アルテルは瞠目したまま固まっていた。

 シェラは不思議そうに首を傾げたけれど、すぐに思い出した。

 白いワンピースにリボン。今の自分はそんな姿だった。


「シェラ……」

「ち、違うんです! これには深いわけが――っ」


 どうして、女子の一般的な装いに対して言い訳が必要なのだろう。深く考えると悲しくなる。

 アルテルは、新種の薬草を発見したかのような、珍しいものを観察するような目をしていた。


「似合いすぎるのも問題だな。さっきの男が間違えたのも無理はない」


 間違えているのはそっちだと言いたい。

 そんなことはつゆ知らず、アルテルはため息をついた。


「よし、じゃあ、勘違いされてるついでだ。ここにいるうちは妹で通そう」

「……そうですね」


 苛立ちを込めて答えたが、気付かれなかった。

 この姿でもわかってもらえないのなら、正直に女ですと告白しても冗談だと思われてしまいそうだ。

 シェラが肩を落としていると、アルテルは平然と言う。


「それで、首尾はどうだ?」

「衣装係の方と、さっきの方に少しだけお話を伺いました。配役を巡って役者同士が揉めることがあるそうなので、やっぱりその線かなと思います」


 アルテルは、うーんと小さくうなった。


「そうだな。じゃあ、ジェドに会いに行くか。俺も少し仕込んでおいたから、確かめたいこともあるし」

「え? あ、はい。でも、私、団長さんに呼ばれているんですよね。どうしましょうか?」

「もう少しだけ見学したかったとでも言っとけばいい」


 あっさりとそんなことを言う。


「そういえば、先生はこんなところまで入って来てもよかったんですか?」


 来ないと思ったから、油断していたのに。


「道に迷ったでいいだろ?」


 同じ発想だ。自分は段々とアルテルに似て来たのかも知れない。

 なんとなくアルテルを見上げると、はた、と目が合った。普段ならにっこりと笑い返すアルテルが、さりげなく目をそらした。


「そんな格好してると、別人みたいで落ち着かないな」


 もしかして、照れているのだろうか。だとしたら、とても珍しいものを見た気分だった。それだけで今日、ここに来た甲斐があったように思う。


「私は私です。どんな格好をしていても」


 少し余裕が出たので、アルテルに微笑んでみせる。アルテルも苦笑した。


「そうだな」



 アルテルと共に向かった舞台では、高らかに響く女性の声が真っ先に飛び込んで来た。哀切なその声に胸を締め付けられる。稽古とはいえ、緊迫した空気だけは伝わって来た。

 そして、ジェサードの、柔らかだけれど熱のこもった声がする。


「――共に生きること、それが適わぬのなら、私が滅するべきだ。あなたに咎はなく、あなたの生にこそ私の……」


 それ以上、台詞が続かなかった。シェラとアルテルは思わず顔を見合わせる。明らかに流れが止まっていた。

 すぐさま鋭い声が飛ぶ。


「見せ場でとちるなんて、身が入っていない証拠だ! 主役がそんなでどうする? お前の代わりなんていくらでもいると思え! 頭を冷やして来い!」

「すみません……」


 短く潜めた声が、彼の心情を表していた。カツカツと靴音を響かせ、ジェサードは舞台を降りる。

 ただ、シェラとアルテルのいる場所とは反対に降りたようだ。


「向こう側か。回り込まないとな」


 アルテルがそう言った時、もうひとつの靴音と衣擦れの音が二人に近付いて来た。

 それは、ジェサードの相手役を演じていた女性だった。

 赤と黒のドレス姿。波打つ黒髪と、意志の強そうな鳶色の瞳。自尊心の象徴のように凛と美しく、他を寄せ付けない雰囲気があった。

 彼女はアルテルに目を留める。


「あら、あなたは……」

「何か?」


 アルテルは部外者だというのに、我が家と変わりなく堂々としている。その図太さが、華やかな彼女に気圧されているシェラには信じられない。

 艶やかな女性は柳眉を顰める。


「あなた、ジェサードのお友達ね? 何年か前にもお会いしたわ」

「ああ、よく覚えてましたね。ええと……」

「ラキアよ」

「そうそう、ラキアさん」


 絶対、覚えていなかった。


「ジェドのこと、よろしくお願いします。あいつ、今、ちょっと悩んでるんです」


 すると、ラキアは豊かな髪をかき上げて嘆息する。


「そうね。最近、細かなミスが目立つもの。公演は明後日だけど、代役だっているんだからいくら人気があっても、ね」

「そんな……」


 シェラが思わず声を上げると、ラキアは一瞬、シェラを威圧するように見た。シェラが怯えて小さくなると、ラキアはそれ以上シェラに構わなかった。


「どんな理由があるのかは知らないけれど。出来なければそれまでよ」


 間違ったことは言っていない。けれど、事情を知るシェラにはそれが悲しかった。

 アルテルは何を思っているのか、表情ひとつ変えなかった。かと思えば、突然らしくないことを言い出す。


「ところでラキアさん、握手して頂けますか?」


 あまりの衝撃に、シェラは開いた口が塞がらなかった。


「せ、先生ぃ?」


 ラキアは慣れた様子で嫣然(えんぜん)と微笑む。


「ええ、いいわ」


 黒いレースの付いた手袋をしたままの手を、アルテルは取った。

 それから手を放すと、アルテルは何故か今度は自分の手をじっと眺めている。もう手を洗わないなんて言い出したらどうしようかと、シェラは複雑な心境だった。


 こういったことに誰よりも興味の薄い人だと思っていたので、もうわけがわからない。何をしに来たのだと言いたい。

 アルテルはようやく手を下ろし、静かに言った。


「ラキアさん、ジェドのやつ、今頃どうしていると思いますか? 失敗を取り戻すために台本にかじりついていると思いますか?」

「……さあ。そうだと思うけど」

「そうしたいとは思いますが、できないんですよ」


 ラキアは、どうしてとは尋ねなかった。ただ、アルテルの言葉を表情を浮かべずに聴いている。


「見当たらないんですよ、台本が。だから、あんなに動揺してるんです」


 シェラの知らぬ間に、そんなことが起こっていたらしい。思わずアルテルを見上げたけれど、彼はラキアから目をそらさなかった。


「台本が? 珍しいわね。彼、そんなに大事なものは、他人の手の届くところには置かないのに」


 ふう、とラキアは息をつく。流れるような仕草で髪をかき上げた彼女に、アルテルは笑顔で言った。


「あんまりその手で、髪とか服に触らない方がいいですよ」

「え?」

「両手に粉が付いてるでしょう?」


 ラキアは素早く両手を返し、黒い皮手袋のはまった手を見る。シェラも注意してそれを見ると、確かにキラキラと光る粉が微量に付着していた。

 顔を上げたラキアに、アルテルは冷めた目を向ける。


「それ、蛾の鱗粉です」

「!」


 ヒッと短く悲鳴を上げ、ラキアは手袋を脱いで投げ捨てた。

 そんな様子を、アルテルは静かに見守る。


「それは、俺があいつに、台本を人目に付くところに置いて振りかけておくように言ったものです。少なくともあなたはその台本に触れているのに、知らない振りをした」

「……あなた、何を仰るの?」


 先ほどの取り乱しようとは別人のように落ち着きを取り戻した彼女は、やはり女優なのだ。証拠を付き付けられても、内側を覗かせない。

 それでも、アルテルは引かなかった。


「あいつに嫌がらせをする理由はなんですか?」

「止めて下さる? 悪い冗談だわ」


 シェラは、この段階になっても何かの間違いではないのかと思えた。それくらいに彼女は堂々としていた。けれど、その装いは綻び始める。


「――ラキア?」


 その声を聞いた途端、彼女はびくりと身を震わせる。ゆっくりと歩みを進めるジェサードから逃れるように、ラキアは一歩後ずさった。


「ラキアが?」


 瞬きもせず、大きく開かれた青い瞳がラキアを直視する。

 ジェサードの表情は痛々しく崩れた。それはきっと、信頼する者の裏切りに傷付いたからだと、シェラもアルテルもそれ以上口を挟めなかった。


「あ、あたしは……!」


 髪を振り乱す。蒼白な顔に、先ほどの落ち着きはすでになかった。


「あたしが、そんなこと……」


 シェラはいたたまれなくなって、目を背けてしまいそうだった。

 彼女の気持ちに同調してしまい、ただ苦しくて仕方がない。

 彼女が嫌がらせをしていたというのなら、根っこにある理由はひとつだろう。


 それは、今もシェラの胸にあるものと同じ想い。多分、ラキアにとってジェサードは特別なのだ。

 見ていてそれがわかった。だから、彼女の苦しみが自分のもののように感じられた。

 がたがたと震えるラキアと、目を伏せたジェサード。二人を残し、アルテルはきびすを返す。


「シェラ、帰るぞ」

「え……でも……」

「後はジェドの問題だ。俺たちができるのはここまでだ」


 こんなことを言ったら、アルテルは顔をしかめるかも知れない。けれど、シェラはジェサードよりもラキアの方が心配だった。

 真っ青になり、震えたままでうつむく彼女は、すでに周囲を遮断している。

 かける言葉はない。それでも、心配だった。

 後味の悪さを引きずりながら、シェラはアルテルにうなずく。


 シェラは団長に謝り、断ってから衣装を返してアルテルと帰路に着く。

 そうして、二日後のことだった。



     ※※※



「シェラ、出かけるから支度してくれ」

「え? どちらまで?」

「ジェドの決意を見ておかないと。お前もずっと気にしてただろ?」


 今日は、レイザス劇団の公演日だった。


「はい!」


 指摘された通り、シェラはあれからジェサードとラキアのことが気になって仕方がなかった。

 その結末が今日、舞台の上にあるのだろうか。

 二人して町へ繰り出した。



 ――公開時間間近で賑わう劇場を前に、シェラは傍らのアルテルにつぶやく。


「……先生、ラキアさんはきっと悪い方ではないと思います」


 ただ、彼女は自分に負けてしまったのだろう。

 想いを寄せるジェサードの人気が上がるにつれ、置いていかれる恐怖と、これ以上人目にさらしたくない気持ちがわいたのかも知れない。失敗して、ほんの少し目立たない場所にいてくれたら、と。


「そうだな。けど、だからといって、ジェドが許せるかどうかは別だ。それは、あいつにしか決められない」


 これがもし、ジェサードではなくアルテルの身に起こったことであったなら、どうしただろう。

 恐ろしくて訊けなかった。

 込み入った劇場の中、臆面もなくジェサードの名前を出してよい席を確保したアルテルは、隣にシェラを座らせる。

 薄暗さと緊張でシェラは終始落ち着かず、平然と脚を組んでいるアルテルがうらやましかった。


 そうこうしているうち、垂れ幕のまん前にずんぐりとしたレイザスの姿が現れた。来場に感謝するといったことを喋っている。

 そうして彼が一礼すると、大きな拍手が鳴り響いた。


 いよいよだ。

 場がいっせいに静まり返る。

 レイザスは黒子から手渡された一冊の本を観客に見えるように表紙を向ける。そして、それを開き、姿に似合わない美声で語り出した。



         ◇◇◇

     


  『あるところに、一人の貴族の娘がおりました。

  彼女は、家柄、財産、美貌、すべてに恵まれ、何不自由なく暮らしております。

  彼女には毎日沢山の求婚者が現れ、取り巻きたちと贈り物に囲まれていることを、

  当たり前に感じていました。

  そうした日々が続くうち、彼女は傲慢な人間に成り果ててしまったのです。

  そんな彼女の前に、一人の男が現れます。

  それが、すべての始まりとなりました。

  この二人の物語を、私は今、紐解こうと思います。

  どうか皆様、温かい目で二人をお見守り下さいませ――』



  深紅の幕は波打つと、両端へ分かたれる。

  その途端、楽隊がいっせいに音を奏で、そこは舞踏会の会場となった。

  皆がクルクルと踊り、美しいドレスをまとった女性たちが艶やかに映る。

  その円舞が、花が散るようにひらりと分かれ、中央にいた赤いドレスの女性が振り返る。

  ラキアだった。


  『ソフィア、今日は君の誕生日だ。君のためにこのバラを――』

  『いいや、この宝石を』

  『違う、このドレスを』


  男たちから差し出される贈り物の数々を、彼女は一瞥しただけでそっぽを向く。


  『どうして? 何がいけないんだ? いつになったら振り向いてくれるんだ?』


  その一言に、彼女は失笑する。


  『何がいけないですって? そんなこともわからないの? 何もかもがよ』


  去って行った彼女の後に、取り残された取り巻きたちは、口々に彼女を(ののし)る。

  かわいげがない。何様のつもりだ。

  地位と財産と美貌がなければ、人から見向きもされない、空っぽの女のくせに。



  そうして幕が下り、場面が切り替わる。

  そこは庭のようだった。夜気を表す暗い色。

  花々は咲き誇っているけれど、どこか寂しい。

  彼女は憤りを隠さないまま、靴音を響かせてその場に現れる。

  その気性の激しさを、言葉なくして物語っていた。

  彼女は突然つまずいた。


  『あっ』


  前に手を付いて倒れ込む。

  脱げた靴を手に取ると、それを思い切り叩き付けた。

  赤い靴は一度跳ね返ってから、むなしく横を向いて転がった。彼女はため息をつく。


  『毎日毎日、退屈で仕方がないわ。みんな口をそろえて同じことを言うの。

  私の周りにはそんな人ばかり。もう、うんざりする』


  立ち上がりもせずにつぶやいた。そんな彼女のもとに声が響く。


  『だからといって、靴に八つ当たりするのは止めておいた方がいい』


  甘く、涼やかな声。彼女は苛立たしげにそちらを見た。

  すると、貴公子然とした美青年が現れる。

  ジェサードだ。

  途端に女性の嬌声が飛ぶ。そこで人気のほどが知れた。

  彼は優雅に靴を拾い上げる。


  『靴にも愛想を尽かされるよ。なくなったら困るくせに。人も同じだ。

  誰もいなくなったら、君は耐えられないだろう』


  彼女はカッとなって立ち上がる。


  『あなた、なんて失礼な人なの? 私の靴を返して!

  そして、私の目の前から消えて頂戴!』


  その剣幕に押されることもなく、彼は微笑む。


  『あなたは、私の欲するものを持っている。

  それを頂く代わりに、私はあなたの空虚を埋めてあげよう』

  『私が持っている? それは一体なんだと言うの?』

  『それを語るのはまだ早い。いずれ時期が来ればわかるだろう』


  青年に警戒を解かずとも、彼女の心が揺れていると見て取れた。

  差し出された靴に爪先を滑らせる。

  彼は微笑をたたえたまま、彼女の目を見つめた。


  『私はナサニエル。また、あなたに会いに来る』



  彼女は父親に、ナサニエルという青年のことを尋ねた。

  けれど、招待客の中にその名と特徴を持つ人物はいない。

  夢でも見たのだろうかと思い始めた頃、彼はまた現れた。

  そのたび、テラスの下から、弦楽器のように艶やかな声で彼女を呼ぶ。

  そうして、時にはテラスまで上がって来て、そばで語り合う。

  空虚を埋めると言った彼の言葉に偽りはなかった。彼女は徐々に心を開いて行く。



  ある日、彼女は言った。


  『ねえ、私が持っているという、あなたの欲するものとはなんなのかしら?

  宝石か何かなの?』


  けれど、彼は悲しげに微笑んだ。


  『その話は、今はよそう』


  彼の欲するものとは、彼女の命だった。

  彼は人の命を食らい、闇に生きる魔物だったのだ。

  けれど、彼もまた彼女に恋をした。

  彼女に自分のおぞましい正体を知られるくらいなら、自分が飢えて死ねばいいと思った。

  それでも、彼女は姿を消した彼を探し出す。

  彼はいよいよ飢えて、命の危機を感じながらも、理性のあるうちに彼女を突き放す。


  『いい加減に気付いたらどうだ? 私はお前の命を食らうつもりで近付いた魔物だ。

  お前は、そんなにも私に食われたいのか?』


  彼女はそっと手を伸ばし、その頬に触れる。


  『ええ。あなたのために差し出せるものがあることを嬉しく思うわ。

   このまま離れてしまうよりも、どんな形であれ、あなたと共にありたい』

  『止めてくれ! そんなこと、出来るはずがない!』


  彼は頭を抱えて苦悩する。


  『共に生きること、それが適わぬのなら、私が滅するべきだ。

  あなたに咎はなく、今となってはあなたの生にこそ私の希望がある。

  あなたが幸せであるなら、私はどうなろうと構わないというのに――』

  『けれど、あなたがいない世界に私の幸せは存在しないわ』


  そうして、二人は決断をする。


  幕が下り、再び開いた。

  一対の美しい男女は、手を取り合い、森の中で眠るようにして息を引き取る。



  『彼は彼女の望み通り、半分だけその魂を食らいました。

   そうして手に入れた僅かな時間を、二人は幸せに暮らしました。

   言葉にすれば、ほんの僅かな歳月でしたが、

   二人はその濃密な時間を噛み締めながら生き、

   幸せに浸りながら終えたのです。

   そこにはなんの憂いもありません。

   そんな二人がおりましたことを、皆様、どうか忘れずにいてあげて下さい。

   誰かを愛おしく思った時、ほんの少し思い出して頂ければ幸いです――』



          ◇◇◇



 幕が再び下り、観客からは嵐のような拍手が巻き起こった。

 役から抜け、笑顔の役者勢が幕の前にずらりと並んで一礼する。

 シェラも必死で拍手をした。手が腫れるほどに。

 隣のアルテルは軽く手を叩くと、シェラに向かって不思議そうに首をかしげる。


「なんで泣いてるんだ?」

「先生はどうしてそんなに平然としていられるんですか? ジェサードさん、迫真の演技だったじゃないですか!」

「どんな役でも俺にはジェドにしか見えないから、時々吹き出しそうになる」


 最悪な発言だ。芸術を解さない朴念仁には何を言っても無駄だろう。

 シェラは嘆息して涙を拭う。


「けど、よかったですね。ジェサードさん、何か吹っ切れたように見えました」


 ラキアに向けた、愛おしげな目。あれが答えなのだろう。

 心配していたシェラは安堵する。

 けれど、アルテルはどこまでも淡白だった。


「そうかな? まあ、答えは出たんだろうけど」


 二人は、他の観客がすっかりいなくなるまでそこにいた。

 すると、どこからともなくジェサードが現れ、シェラの隣の客席に座り込む。


「あ、ジェサードさん! とっても素敵で、私、感動しました!」


 素直に賞賛するシェラに、ジェサードは笑顔でありがとうと返す。


「今日の主役が、こんなところにいていいのか?」


 アルテルが静かに言うと、ジェサードは縛ってあった銀髪を解き、椅子の上で反るようにして脚を組んだ。やはり、疲れているのだろう。最初に大きなため息をついた。


「いいんだよ。今更だし」


 意味がわからない。


「今更……ですか?」


 ジェサードは苦笑する。


「ああ。今日限りで辞めるって、話は付けてあるから」

「ええ!」


 大声を出したシェラに対し、アルテルは最初から答えを知っていたかのような落ち着き振りだった。


「何事もなかったかのように、今後も接して行くつもりはないんだ」

「で、でも、さっきはあんなに……」

「あれは演技だ。俺は相手が親の仇でも、必要なら演技してみせるよ。……向こうだってそうだ」


 それなら、ラキアはこの結末を知った上で、演技をしていたということになる。矜持(きょうじ)があろうと、つらくなかったはずがない。

 その心を思うと、シェラはさっきとは違った意味で泣いてしまいそうだった。


「私物までなら我慢もしたけど、仕事道具にまで手を出したのは、どうしても許せない」


 自分が叱られたかのようにうつむくシェラに、ジェサードは笑顔を向ける。


「ま、役者は辞めないよ。当分は、この町の劇団で芝居を続けようかと思う。だから、改めてよろしく」


 アルテルは嘆息した。


「積み上げて来たものをなくしてでも、お前が清算したいのなら、俺はそれでいいと思う。まあ、がんばれよ」


 ジェサードは苦笑すると、額に組んだ両手を添える。祈るような仕草だった。


「正直に言うと、今回のことはきっかけに過ぎないんだ。段々と、演技そのものよりも人気で配役を決めてしまう方針に疑問を感じてた。だから、これで自分の力を試せるよ」

「人気が演技の評価だと、素直に受け入れないお前の頑固さはどうにもならないよな。でも、お前は間違った選択をしても、それを他人のせいにはしないだろ。お前が選んだことなら俺は応援するだけだ」


 アルテルのひと言が、いつもシェラを救ってくれたように、ジェサードにとっても救いになるのだろう。

 ジェサードはほんの少しましな笑顔を見せた。


「稼ぎは少なくなるから、たまにはメシ食わせてくれよ?」


 そう言って、おどけている。

 シェラは複雑な心境で二人の間にいた。


 二人とも、対照的なようでいてよく似ている。

 全力で仕事に打ち込む姿は尊敬する。けれど、時折、感情を排除してしまうような、その厳しさに追い付けない。

 そんな風に感じる自分が二人の間では異質であり、甘えた子供だと思い知らされるような気がした。


 恋心も、それらの前では理由にならない。

 それを理由に、重荷になってはいけない。

 置いていかれないように、ついて行けるだけの人間になりたい。

 そう、強く望んだ。



【アルテル=レッドファーンの親友 ―了―】

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