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アルテル=レッドファーンの失敗

 それは、早朝の出来事だった。


「おはよう、シェラ?」


 昨日、何かとバタバタしていて、つい眠るのが遅くなってしまった。いつもよりも一時間ほど寝坊してしまったのだが、だからといって普段の彼が起きているような時間ではなかった。

 このアルテル薬剤店で、安っぽい男物の服に身を包んだ下働きの少女シェラに、この店の店主アルテルらしき男は笑いかける。

 シェラはうめくように息をしながら固まった。


 薬師アルテル=レッドファーンは基本的に夜型人間で、寝起きも悪い。もし朝早くに起きているとしたら、それは寝なかっただけだ。だから、朝方に爽やかな挨拶ができるタイプではない。

 けれど、シェラが銅像のように動けないのは、アルテルが早起きをしたからというような生易しい理由からではなかった。


 いつもの場所、いつもの位置に立っている当人が、今日は少しばかり違うのだ。

 シェラは我に返ると、まだまとめていない髪を乱して部屋に飛び込んだ。そして、その灰色のセーターの腕をつかんで揺さぶる。


「なんですか、これは!」

「何が?」


 彼は、揺すられて頭ががくがくと前後している。


「先生は今、おいつくなんですか?」

「え? 多分、二十八?」

「違います! 普段じゃありません! 今です、今!」

「今?」


 首を傾げてから、アルテルはくすりと笑った。


「十八だよ」


 シェラはそれを聞くと、思わずその場にへたり込んだ。


「十八歳ですか……。どうして急に十歳も若くなっちゃったんですか? 一体、なんのお薬ですか?」


 アルテルは、うーんとうなった。


「どうやら、失敗したみたいだな」

「失敗って、それで済むんですか?」

「さあ? なんとかなるんじゃないか?」


 シェラは改めてアルテルの顔を見上げた。その位置も、いつもより低い。

 淡い金髪もはねておらず、自然に流している。涼しげな目元に鋭さはなく、視力も回復したのかトレードマークの丸眼鏡もかけていなかった。


 普段と比べて幼さを感じてしまうその姿が、ため息を誘う。

 そんなシェラにお構いなしで、アルテルはにこやかだった。


「いや、このところ、疲れて抵抗力が落ちてたみたいだ。そのせいかな」

「そういう時に、どうしてまた試薬なんてされたんですか……」


 あきれた。確かに少し風邪気味のようだった。

 だから休めと言ったのに、言ってもきかなかったのだから、たちが悪い。

 それに、肝心の風邪薬は飲まず、変な薬の試薬をするのだから本当にどうしようもない。


「この薬の効果が気になったらしいな」


 アルテルは机の上の小ビンを持ち上げて見せた。中身はない。


「飲んだ時、成長痛みたいに体が痛くて、さすがにまずいと思ったみたいだけど」


 丸眼鏡のないアルテルの顔を、シェラは嫌な予感とともに見やる。


「……先生、さっきからどうして、『らしい』とか『みたい』とか仰るんですか?」


 すると、アルテルは、あははと軽く笑った。


「外見だけじゃなくて、中身も歳相応に戻ってるから。俺が二十八だった時のことは覚えてない」

「え?」

「だから、実は君とも初対面だ」

「ええっ!!」


 愕然とするシェラを、アルテルは急に真剣な面持ちで眺めた。それから、ため息をつく。


「そんな泣きそうな顔をされると罪悪感があるなぁ。ごめんな、シェラ」


 その途端、シェラは気付いた。そして、むっと膨れてアルテルをにらむ。


「冗談にしてはたちが悪いですよ。覚えていないと仰るなら、私の名前だってわからないはずです」


 けれど、アルテルはかぶりを振る。机の上の便箋をひらりひらりと振った。


「わけがわからなくなる前に、できる限りのことは書き込んだらしくて、ここに書いてあった。シェラっていう住み込みのコがいるから、事情を説明してやるようにって」

「……じゃあ、本当に?」

「うん」


 がっくりと肩を落とした。持ち上げる気力もない。

 これでは、怪しげな魔術師だ何だという、(ちまた)での噂を否定できない。害はないが怪しいことに変わりはない。


「シェラ?」


 呼びかける声がぎこちない。

 顔を覗き込むアルテルに、シェラは視線を合わせた。

 若返ったおかげなのか風邪はすっきりと治ったようで、顔の色艶もよかった。


「……体調はよくなったようですね」

「うん。快調」

「でも、治りかけが肝心ですよ。今日はゆっくりとなさって下さい」


 けれど、いくつであろうと、そこで殊勝にうなずくような男ではなかった。


「それが、岩塩と糖蜜と小麦粉を買い足しておけって書いてあったぞ」


 この状態の自分にそんなことを頼むのか――。

 けれど、今のアルテルに小言を言っても無駄な気がした。

 シェラは深く長く嘆息する。


「私が行って来ますから、先生はここにいて下さい」

「えー、重いのばっかりだろ? 俺も持つから、一緒に行こう」


 珍しいことを言う。

 普段のアルテルなら、腕力を付けろだとか言って逆に荷物を持たせようとする。ただ、シェラが真剣に潰れかかると、最終的には持ってくれるのだが。

 シェラが戸惑っていると、アルテルは首をかしげた。


「俺、何か変なこと言ったか?」

「いえ……」

「その反応、もしかして、俺って人使い荒いのか?」


 うーんと一人でうなり、それからアルテルはつぶやく。


「それにしても、何を基準に採用したんだ? これって……」


 段々と独り言が大きくなっている。シェラはすうっと目を細めた。


「役に立ちそうもなくて、すみません」


 力もなく、知識もない。今のアルテルが不思議に思うのも無理はないのだけれど、ついにらんでしまった。にらまれ慣れていないアルテル少年は、少し困惑する。


「あ、いや、だって、こういうところって薬臭いし、結構汚れるし、ゲテモノもいるし、あんまり魅力的な職場じゃないだろ? どうして君みたいな若いコがいるのかなって」


 弁解するためによく喋る。そんな姿も、なんとなく珍しかった。

 そんなことを思っていたシェラが黙っていると、アルテルはまだ続けた。


「それにさ、こんな何もないところで俺と二人で顔を突き合わせて、楽しい? 君くらいの歳なら、もっと華やかな町でおしゃれしていたいんじゃないかって思っただけで……。そんないつ汚れてもいいような格好ばっかりじゃ、つまらないだろ?」


 別に、汚れてもいいからこういう格好をしているわけではない。単にそんなものしか持っていないだけだ。話せば長くなるが、つまりは貧乏なのだ。


 シェラはもともと豪商の令嬢で、昔は上質のドレスを普段から来ているような生活をしていた。

 両親が死んで一人になって、日々の生活に精一杯で、着るものなど気にしなくなってしまった。


 けれど、よりによってアルテルにそんな風に言われてしまうと、何かすごく恥ずかしい気がして来た。返す言葉に詰まる。

 耳まで赤くなってうつむいたシェラのうなじに視線を落とし、アルテルはまた困惑した声で言う。


「ごめん、余計なこと言ったみたいだ」


 シェラはゆるくかぶりを振った。


「別にいいんです。私がそんなことを気にしていたらおかしいでしょう?」


 シェラがそう言ったのには、わけがあった。

 それは、ちょっとした誤解から、アルテルがシェラを男だと誤認したままでいるせいだ。

 シェラは正真正銘、女の子なのだが、アルテルは疑いもしていない。

 外見が女みたいだとか、それをからかっているつもりなのだから、本気で気付きそうもない。


 ちなみに、アルテル以外の人間に性別を間違われたことはない。

 そして、その誤解を解けないまま今日に至る。

 アルテルはシェラの複雑な心中を何ひとつ知らないまま、不思議そうに首をかしげた。


「なんで? 何が?」

「……もういいです」


 この話題はもう沢山だった。シェラは話を変える。


「とにかく、買い物は私がなんとかしますから、先生はおとなしくしていて下さい。お願いですから」


 すると、アルテルは自分の髪の毛先をくりくりといじりながら苦笑した。


「シェラはいつもそんな感じなの?」

「え?」


 小言がうるさいとか、うっとうしいとか、そういうことだろうか。初対面のような状態だということを忘れていた。今更にそのことを思い出し、今度はシェラが動揺する。


「あ、あの、つい……」


 けれど、アルテルは無邪気な笑みを見せた。


「退屈しないな。十年後の俺も楽しそうだ」


 その言葉が嬉しかったけれど、アルテルはさらりと流す。


「それより買い物だけど、俺も行くから」

「駄目です。病み上がりなんですから」


 ぴしゃりと言ったけれど、アルテルは何故か遠い目をした。


「俺、小さい頃から勉強三昧で、ゆっくり買い物なんてしたことないんだ。ローテスタークしか知らないし、違う町も見てみたいな……」


 アルテルの実家レッドファーン家は、首都ローテスタークでは有名な医療の名門らしい。その跡取り息子だったというのに、結局家業は継がずにこんな辺鄙な土地で薬屋を営んでいる。

 確かに、ここに来るまではずっと勉強漬けの毎日だったに違いない。

 だから、そんなことを言われると少し弱い。シェラはどうすべきか少し迷った挙句、こう言った。


「わかりました。けれど、絶対に無理はなさらないで下さい。それから、目立つことはしないで下さい」

「なんだそれ?」

「変な噂が立ったら困るからです」


 これ以上の黒い噂は絶対にいらない。


「ふぅん。よくわからないけど、了解」


 本当に納得してくれたのか、怪しいところだが、とりあえずはその言葉を信じる。

 けれど、念のために、最寄の町は避けることにした。

 ただ、シェラもアルテルに負けず劣らず世間知らずである。最寄のジーファの町を通り越えた先にある、ウェイカという小さな町にさえ、一、二度しか行ったことがなかった。

 ちゃんと案内できるだろうか、と一抹の不安を覚える。

 それでも、たかが隣だ。多分、大丈夫だろう。



 そうして、支度も何もなく家を出ようとしたアルテルを、シェラは呼び止めた。


「そんな薄いセーターでは駄目です。首が寒そうです」

「別に寒くないよ」

「治りかけが肝心なんですから、温かくして行って下さい」


 ふわりとその首にショールを巻き付ける。すると、アルテルは照れたように笑った。


「心配性だな、シェラは。大丈夫なのに」

「大丈夫じゃなかったから、そういう目に遭われたのでしょう? 説得力がまるでありません」

「ははは……」



 二人は家を出て少し歩き、分岐路で辻馬車に乗った。贅沢だが、この際仕方がない。

 馬車に揺られると、アルテルはすぐに寝入ってしまった。窓際にいたシェラの肩に寄りかかる。


 上を向き、少し口が開いていた。あどけない子供のような寝顔だった。

 なんとなく笑ってしまう。

 いつもはこちらが子供扱いをされてばかりなので、同世代になった今は、ある意味新鮮だった。


 けれど、見れば見るほどに、信じがたい光景ではある。

 今後、試薬は絶対に断ろうとその時心に決めた。



     ※※※



 そして、ウェイカの町に着いた時には、正午を少しばかり回っていた。

 町の入り口には広場があり、緑の整えられた芝生や白いベンチ、走り回る子供たちという平和な風景が広がっていた。

 馬車を降りてうぅん、と伸びをしたアルテルは、不意にシェラの方に向き直る。


「シェラ、先に何か食うか?」

「はい、そうですね」

「何が食べたい?」

「簡単なものを」


 シェラはあまり考えず、本心をさらけ出す。


「早く食べて、早く買い物を済ませて早く帰りましょう」


 けれど、アルテルは念願の買い物に来られて上機嫌だった。


「まあ、そう言わずにさ」


 そして、きょろきょろと辺りを見回し、突然駆け出した。


「ちょっと待ってて」

「え?」


 いきなり置いて行かれてしまった。シェラが唖然としていると、アルテルはすぐそばの屋台の前で立ち止まっていた。そこで何かを買い求めている。

 戻って来た時には水の入ったビンを二本と、紙袋を抱えている。

 アルテルはシェラにベンチに座るよう促す。そして、紙袋から出した野菜と肉をサンドしたバンズに水を添えて手渡す。そして、自分もその隣に座り込んだ。


「これなら簡単だろ?」

「はぁ……」


 シェラは思わず、間の抜けた返事をしてしまった。

 すごく――らしくないのだ。

 今まで、薬の材料よりも食事を優先したことがあっただろうか。それとも、昔はこれが普通だったのか。


 シェラが考え込んでいると、アルテルがシェラを不思議そうに見ていた。シェラは慌てて、いただきますと断ってバンズにかじりつく。出来立てらしく、ふんわりと柔らかでとてもおいしい。


「おいしい?」

「はい、とても」


 正直に答えると、アルテルも笑う。


「それはよかった。シェラは安上がりだなぁ」


 そんなことを言う。そして、自分の分にかぶりついた。シェラの倍の量を、シェラよりも先に食べ終えた。


「食欲旺盛ですね。それだけ食べられたら、もう大丈夫でしょうか?」


 思わずつぶやくと、アルテルは不適に笑う。


「だって、俺、今は育ち盛りだから」

「そういえば、そうでしたね」


 シェラはクスクスと笑った。アルテルも満足そうだ。

 空になった袋をひねって脚を組むと、その上で頬杖をついて、食べ続けるシェラを観察するように眺めていた。


「な、なんですか?」


 あまりに凝視するので、食べづらい。


「ああ、気にしないで」


 しれっとそんなことを言うけれど、それは無理だ。

 シェラは仕方なく懸命に食べ終え、そこでアルテルの嫌がらせも終了した。


「シェラって、食べ方がきれいだな。食べにくいの選んで来たのに」


 やっぱり、嫌がらせだったのか。


「……マナーにはうるさい家だったので」

「うん、やっぱりそうじゃないとな」


 単なる昼食に疲れたシェラだったが、やっと本来の目的を達成できると気を取り直した。

 けれど、十八歳のアルテルの頭の中は、調薬が占める割合がとても低いようだ。


「そんなに急がなくても帰りに買えばいいんだよ。それより、もっと楽しもう」


 本気で息抜きに来たのだ。最初から宣告通りなのだが、アルテルの言葉とも思えない。

 ちょっと、ついて行けなかった。


「楽しむって……」

「まあ、いいから」


 アルテルは軽く言うと、シェラの手を引いて歩き出す。不慣れな町だというのに、アルテルは堂々としていた。

 何か目当てがあるのか、きょろきょろと辺りを見回し、しばらくして立ち止まる。


「よし、あった」


 シェラが言葉を発するよりも先に、アルテルはシェラをその店の中に押し込んだ。


「え? せ、先生?」


 そこは服屋だった。色とりどりの衣服が所狭しと吊るされ、たたんで積まれている。

 シェラには縁のない場所だったので、戸惑うばかりだった。


「この子に服を見立ててほしいんだけど」


 アルテルは勝手に店員を呼び、シェラをそちらに押し出した。


「な、なんでっ?」


 慌てて振り向くと、アルテルは妙にニコニコとしていた。


「いいから、いいから」

「ちっともよくないです! 私は結構ですから!」


 逃れようとしたシェラの肩を、店員のお姉さんががっちりとつかんだ。細身なのに、割りと力が強い。


「あなたに似合いそうな服、沢山あるわよ」


 なんだろう、妙な迫力に押しの弱いシェラは断り切れなかった。


「あ、あの、私……っ」


 引きずられて行くシェラに、アルテルは笑顔で手を振った。



 試着用の垂れ幕の裏で、シェラは服を剥ぎ取られた。悲鳴を上げる暇もなく、お姉さんはその服を垂れ幕の外に放る。あんなに素早い人の動きを初めて見た。

 そして、店員はくるりとシェラに向き直る。


「あたしの職業柄、あなたみたいなきれいなコがあんな適当な格好でいるなんて我慢できないわ」


 下着姿でおびえるシェラに対し、お姉さんは楽しそうだった。

 そうして、一度出て行くと、今度は山のような衣服を抱えて戻って来た。


「どれがいい? どれも似合うと思うけど、あなたはどれが着たいの?」


 もう、どうでもよかった。とにかく何か着たい。ここは無難にやり過ごそう。

 落ち着いた水色の服に手を伸ばした。けれど、それは広げてみて初めて全体が見える。


「それがいいの? うん、とっても似合うと思うわ。じゃあ、着てみて」


 声を弾ませるお姉さんに、シェラはその服をつき返した。


「ごめんなさい、やっぱり無理です!」


 それは、シンプルだけど上品でかわいらしいフリルの付いたワンピースだった。

 アルテルはシェラを、初対面の時から男だと信じている。こんな服を着て出て行ったら、実は女装癖があると思われるだけだ。


「あの、おかしなことを言うと思われるかも知れませんが、男性用の服をお願いできませんか?」


 その辺りの複雑な事情を知らないお姉さんは、スッと真顔になった。


「あんまりつべこべ言うと、これ、開けるわよ?」


 本当に垂れ幕を握り締めたので、シェラは涙ながらに袖を通すはめになった。

 スカートをはいたのは、四、五年振りだ。ずっとかわいい格好をしないでいると、今ではもう体に馴染まなかった。

 大きな鏡の前に立つ自分は、まったくもって女の子らしい格好が似合っていない。こんな服を着ると、かえって惨めだった。

 お姉さんは、うーんと一度うなると、すぐに手を動かした。


「これよ、これ。この適当に縛った髪がいけないの!」

「あっ」


 さっと髪を解かれ、伸ばしっぱなしの髪が背中に広がる。その髪をお姉さんは手ぐしで整え、無邪気にはしゃぎ出す。


「ほら、これでばっちり。すごく似合ってるわ」


 本当にそうだとは思えなかった。

 何の苦もなく、両親も健在で過ごせたなら、こうした服が似合う自分だったかも知れない。

 けれど、そうはならなかったし、仮に似合ったところで仕方がない。


「あの、この服はもういいので、できれば私の服を返して――」


 と言っている端から、視界が広がった。幕を開けたお姉さんは、嬉々として店内を物色する。


「その格好に似合う靴はどれかしら?」


 正面で待っていたアルテルと鏡の前のシェラだけの時が止まってしまったかのようだった。それくらい、お互いに立ち尽くしていた。

 シェラは顔を真っ赤にして涙を浮かべ、必死で言い訳を探した。


「あの、違うんです、これは、その……っ!」


 うまく言葉にならず、舌を噛んだだけだった。

 そこで、アルテルはようやく微笑んだ。


「予想よりずっと似合ってたから、びっくりした。すっごくかわいいよ」

「は?」


 思わずもれたのは、それだけだった。


「は? ってのは、何?」


 不思議そうなアルテルに、シェラの方が困惑してしまった。


「何って、私がこんな格好をしていたら変だと思われないんですか?」

「なんで? むしろ、さっきまでの格好の方が違和感あったけど。女の子なんだから、もっとそういう格好すればいいのに」


 その言葉に、シェラは息が止まりかけた。

 なんでもないことのように発したアルテルのひと言が、シェラには信じがたかった。


「あ、あの、今、なんて……?」

「え? もう一回言うの? まあ、いいけど」


 すると、アルテルはするりとシェラの方に歩み寄る。その耳元で、


「似合ってる。すごくかわいいよ」


 と、ささやく。

 シェラは思わず耳を押さえて赤面した。


「そこじゃありません!」


 絶対、わざとやっている。

 人の性別を間違えるような朴念仁が、昔はこうだったなんて、にわかには信じがたい。


「えっと、女の子なんだから、もっとそういう格好すればいいのにってやつ?」


 そうだ、今のアルテルとは最初に誤解される状況がなかった。手紙にもシェラの性別までは記していなかったのだろう。だから、見たままを信じたのだ。

 つまり、二十八歳のアルテルが気付いたわけではない。

 今だけだ。この十八歳のアルテルだけが知っている事実だ。

 またアルテルが元に戻ったら、元通り忘れてしまうのだろうか。


 複雑な心境のシェラに構わず、店員のお姉さんは白い花の付いた靴をシェラに履かせる。

 アルテルが会計を済ませている隙に、シェラは自前の服を何とか返してもらった。


 疲れ果てたシェラがため息をつきながら歩くと、アルテルはその背を撫でた。


「っ!」

「背中丸めないで、顔を上げて歩きなよ。せっかくきれいにしてるんだから」

「はぁ……」


 なんでもいいから、もう帰りたかった。けれど、アルテルは上機嫌だった。


「ほら、みんな振り返るよ。俺も、シェラみたいにかわいいコを連れて歩けて嬉しいし」


 そんなこと、今までのアルテルだったら言わなかった。そう思ったら、何か急につらくなる。

 思わずつぶやいた。


「あの、先生、お薬の効き目はいつ切れるんですか? いつ……元に戻られるんでしょう?」


 すると、アルテルは一瞬表情をなくした。それからゆっくりと笑うけれど、何故だかその笑顔を怖いと思った。


「さあ? 俺にはわからないよ」

「え?」

「もう戻らないかも知れないってこと。ずっとこのままかもね」


 たちの悪い冗談だ。きっと、またからかわれている。


「か、解毒剤のようなものを作られたら――」


 声がかすれた。のどの奥で言葉がちぎれて消えて行く。

 アルテルは静かにかぶりを振った。


「俺が調薬の勉強を始めるのは今後なんだろうな。今の俺にそんな知識はないよ」


 とどめのひと言に気が遠のく。それでも、口が勝手に開いた。


「で、でも、それでは先生も困りますよね? 何か方法を考えないと」


 頭がズキズキと痛み出した。体が冷えて、シェラは自分の両手を体に回していた。

 そんな様子を尻目に、アルテルははっきりと答える。


「困らないよ」

「え?」

「困らない。このままでいい」

「そ……」


 それは、シェラにとっての『アルテル=レッドファーン』が消えてしまうことを意味する。

 目の前の少年がたとえアルテルであったとしても、それはもう別人なのだ。

 短い期間だったけれど、同じ時を過ごし、沢山の温かな言葉をくれたあの人ではない。


 もう二度と、出会うことができない。

 その事実をどうしても受け入れられない。


 往来で歩みを止めたシェラは、周りの目も気にせずに無言のまま涙をこぼした。

 すべてのことが、もうどうでもよかった。

 今、こんな気持ちになる理由から目を背けても、なんの意味もない。


 気持ちを自覚しても振り向いてもらえる自信がなかったから、認めなかった。

 気のせいだとごまかした。


 けれど、認めなかったからこんなことになったのかも知れない。

 今、自分の中にあるのは、二度と会えない苦しみと沢山の後悔だ。

 本当は初めて会った日から惹かれていた。こんなにも優しい人がいるのだと驚き、仕事に対するひた向きさを尊敬した。

 アルテルはそっと手を伸ばし、シェラの涙を優しく拭う。


「俺がいるよ」


 その言葉に、シェラはうなずけなかった。止め処なく涙があふれる。


「いつもの先生に会いたい。一緒に過ごした時間を、忘れたままでいないで下さい……」


 アルテルは一瞬、困ったように顔を曇らせた。それから、周囲の人々の視線を気にして、シェラの手を引いて歩き出す。


「悪かったよ。泣かせたかったわけじゃないんだ」

「私も、泣くつもりではありませんでした」


 しゃくりあげて涙を拭う。アルテルは嘆息した。


「十年後の俺がうらやましいよ。ムカつくとも言うけど。ま、どうせシェラの気持ちなんて気付いてないんだろ?」


 ようやくシェラは肩の力を抜き、うなずいた。


「だって、いつもの先生は、私のことを男の子だと思ってますから。気付くわけないですよ」

「は? 嘘だろ? どうやって間違えるんだよ?」


 アルテルの感覚は、十年前の方が正常だったのかも知れない。


「もったいねぇなぁ……」


 ぽそりとつぶやくと、アルテルはシェラの顔をちらりと見る。


「泣き顔もかわいいって言ったら、怒る?」


 シェラはもう、ため息しか出なかった。いちいち軽い。


「先生は、十年のうちにどんな経験をして、あそこまで性格が変わられるんでしょうね……」

「え? まあ、色々あるんじゃないか?」


 それから、シェラの正面に回り込んで両手を握り締めると笑顔を振りまく。


「十年後の俺は不甲斐ないから、今ならサービスしてあげるよ。同じ顔だし」

「結構です!」

「怒った? お詫びにキスしてあげようか?」

「いりません!」


 そうして、本来の買い出しという目的に興味のないアルテルは、急に面倒になったようだった。シェラは雑貨の買い物を急いで済ませる。途中、恋人同士に間違われたりして、妙に嬉しくなかった。



 自宅に帰りついた頃にはすでに夕方だった。

 惜しむアルテルを無視して、シェラはいつもの格好に着替える。


 それから、シェラは夕食の支度に取りかかった。

 今のアルテルは勉強三昧の日々を過ごしているお坊ちゃんで、家事などできないのだろう。シェラの手元を興味深く眺めていて、それがすごくうっとうしかった。

 それでも、アルテルはニコニコと笑顔でまとわり付く。


「二人きりだな」

「そうですね」

「二人きりだな」

「いつもそうです」

「二人きり……」

「だから、なんですか?」


 段々と素っ気なくなるが、アルテルはまだニコニコしている。少し不気味だった。

 そこまでなら我慢もしたのだが、アルテルは突然、背後からシェラの腰に手を回した。

 声にならない悲鳴を短く上げ、シェラは芋を持ったままの手の肘でアルテルを押しのける。


「ふざけないで下さい! 手を切ります!」


 すると、アルテルは急に真剣な面持ちでささやいた。


「ふざけてないから、聴いてよ。今の俺ならシェラの気持ちに応えてやれるよ? それでも、今の俺よりも十年後の俺の方がいいの?」


 ごまかしても仕方がない。

 もし、アルテルが元に戻れないのだとしても、まるで別人のような今の彼を代わりにはできない。

 それだけは譲れない事実だから。


「ええ。もちろんです」


 その途端、耳元で大きなため息がした。するりと体が離れる。

 アルテルは少し低く落とした声でぼやく。


「あー、つまんねぇな」


 シェラはほっとして振り返った。横顔のアルテルは髪をくりくりと弄んでいた。

 その時、アルテルの左耳にピアスのようなほくろがあることに気付いた。

 あんなもの、あっただろうか。

 絶対になかったと断言することはできないけれど、妙な違和感を覚えた。


 少し考え込んでいると、ダンダンダンダン、と荒々しい靴音が階段を踏み鳴らして上がって来る。

 その人物が激しく怒っていると安易に想像できた。

 扉が開かれる瞬間、シェラは思わず身構えた。そして、ノックもなしにドアを開け放った人物を見て、シェラは血の一滴までもが凍り付くような感覚を味わう。


「悪戯も、度が過ぎるぞ」

「お早いお帰りで」


 アルテル――によく似た彼は、軽く舌を出してみせた。

 薄手の上着を羽織っていたアルテルは、それを脱ぎ捨てると、小さく(せき)をした。体調が万全ではないようで、紅潮した顔を彼に向ける。


「何が、親父が倒れて俺に会いたがってる、だ。ローテスターク行きの船から降りて来た人に尋ねてみたら、レッドファーンの当主が倒れたなんて話は聞かなかったって言ってたぞ」

「船に乗らなかったから帰りが早かったのか。つべこべ言ってないで、用がなくても一度は帰るべきなんじゃないのか? ほんとはみんな気にしてるんだ」

「気にしていたとしても、俺に会いたいなんて言う親父じゃなかったな。俺が馬鹿だったよ」

「そのくせ、コロッと騙されたのは、アルテルだって会いたかったからじゃないの?」


 アルテルは嘆息しただけで否定も肯定もしなかった。

 それから、声を落ち着けて言う。


「イーゼル、大体お前は何をしに来たんだ? 俺に悪戯するためにわざわざ来たのか?」


 彼はイーゼルというらしい。

 声もなく震えていたシェラに気付くと、イーゼルは彼女に向かってにっこりと微笑んだ。


「怒った?」


 そのふてぶてしさに愕然とし、シェラは爆発した。


「当たり前です!」


 顔を真っ赤にして怒鳴ったけれど、まだ気が治まらなかった。


「なんて悪質な嘘をつかれるんですか! やっていいことと悪いことがあります! そんなに私をからかうのが楽しかったんですか!」

「うん」


 あっさりとうなずく。反省はしていないらしい。


「俺、毎日勉強漬けだから息が詰まっちゃってさ。ちょっとした息抜きだよ」

「だからって、私をからかって息抜きしないで下さい!」

「まぁ、そうだなぁ。けどさ、本来なら一番の重責を負うべきアルテルが、その責務を全うせずに安穏と暮らしてるんだから、ちょっとくらい引っ掻き回してやりたくなるのも人情じゃない?」


 シェラが何か言い返す前に、アルテルからため息が漏れた。


「何をしたかは知らないけど、それじゃあシェラは完全なとばっちりじゃないか」


 それでも、イーゼルはけろりとしている。


「いいだろ。だって、アルテルのものなんだし」


 そのひと言で、アルテルは顔をしかめた。


「雇ってるだけだ。所有物みたいに言うな」

「そういう意味じゃないんだけど。駄目だね、アルテルは」


 頭の後ろで腕を組み、イーゼルはシェラに向かって口の端を持ち上げて不敵に笑う。


「ま、お互い様か。最初に勘違いしたのはシェラなんだよ? 俺はそれに乗っかっただけ。あれくらい見抜けてもよかったんじゃないか? ほんとにアルテルのことがす――」

「!!!!!!」


 シェラはのどが潰れるような大音量、力の限り振り絞って、その先を阻止した。こんな声が自分から出るなんて、自分でも驚いてしまうくらいの音量だった。

 息を切らして顔を上げると、二人はまだほうけていた。


「耳、いた……」

「あなたが変なことを仰るからです!」

「変って」


 言いかけて、シェラがまた身構えたので、イーゼルは諦めたようだった。けれど、悪戯っ子の笑顔を浮かべている。


「ふぅん。まだこんな状態を続けたいなんて、シェラは臆病だなぁ」

「大きなお世話です!」


 アルテルには意味がわからないだろうが、説明するわけには行かなかった。


「まあいいや。アルテルに愛想尽かしたら、俺のところにおいでよ」

「行きません!」

「うゎあ。嫌われたもんだなぁ」


 軽い仕草できびすを返すと、今度はアルテルの方に向かって行く。自分よりも高いその肩に手を載せると、イーゼルは耳元でささやく。


「俺はまだ、アルテルが出て行ったことを許せそうにないよ」


 アルテルの返答を待たず、イーゼルは体を離すと、


「じゃあな」


 と、外へ出て行った。

 追いかける気力もない。アルテルとシェラは顔を見合わせた。


「悪かったな。大分振り回されたんだろ?」

「ええ、まあ……」


 どのようにして振り回されたのかは、説明できそうもないけれど。

 アルテルは心底疲れた風で、椅子にどしりと座り込んだ。


「あいつ、俺とそっくりだろ? イーゼルは俺の一番上の姉の息子なんだ。つまり、甥ってやつだ」


 なるほど。顔だけはそっくりだった理由がようやくわかった。


「昔は兄弟みたいに仲良くしてたんだけど、あいつはまだ俺が出て行ったことを怒ってる。……まあ、仕方がないんだが。久しぶりに会ったから、俺も油断してた。迷惑かけたな」


 一番上の姉の子供だというのなら、もしかすると、アルテルが家を継がなかったことで、イーゼルの人生が一変したのかも知れない。自分もいつかは家を継ぐことになると名門ゆえの重みを感じ始めた時、不安にならなかったわけがない。

 そして、その原因となったアルテルを恨む気持ちも芽生えたのだろうか。


 アルテルにとって、家族も大切でなかったとは思わない。ただ、自分のやるべきことと並び立たず、そちらを選べなかったという気がした。


「……先生、お食事はまだですよね? すぐに用意しますから」

「え? ああ……」


 あまり、立ち入った話をしようとは思わない。シェラが口を挟める問題ではない。

 だからせめて、その疲れを癒せたら――。

 アルテルは、小さくつぶやく。


「ありがとう」


 その柔らかな微笑みに、どれだけ会いたかっただろうか。

 体の芯が、温かく満たされて行く。


 ずっと認めなかった気持ちを解き放つと、この人のそばにいる幸福をこんなにも深く感じる。

 それだけで涙があふれそうだったので、シェラは背を向けて芋の皮をむき始めた。



 【アルテル=レッドファーンの失敗 ―了―】


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