アルテル=レッドファーンの誤解
そこは、下町と呼ばれる、いつ壊れてもおかしくない建物ばかりが並ぶ居住区。
ジーファと呼ばれる町の第三地区の端の端。
行けば行くほどに、箱の形をしただけの建物しかない。他のありとあらゆる空間に洗濯物が翻り、空を隠しているせいか、妙に薄暗かった。
そのおんぼろ長屋の一角で、青年と少女は足を止めた。
「先生、ここです」
先生と呼ばれた青年は、ところどころがはねた金髪を肩口で揺らし、丸い眼鏡を押し上げた。
「ここ?」
家賃が格安であることだけがとりえの、ひどい建物である。外観からして、吹けば飛ぶようなみすぼらしさだった。雨漏りや隙間風など、当然のようにあったはずだ。
こんなところで、この少女は何年も生活してきたのである。
黒真珠のようなつやのある瞳と、亜麻色の長い髪をした美しい少女だが、男性用の古着に身を包み、髪をぞんざいに束ねてしまえば、この下町で浮くこともなかった。
少なくとも、彼女――シェラは、自分では馴染んでいたと思っている。
「はいはい、仰りたいことはわかりますよ。私は貧乏ですから」
自虐的な物言いをするシェラに、青年――アルテルは、クスクスと笑って言った。
「残念ながら、俺のところで働いても、貧乏からは脱却できないぞ」
アルテルは、町外れで薬屋を営む薬師である。シェラはその店で住み込みで働き始めたので、ここは先日引き払った。
荷物はもともと少なく、引越しは簡単に終えたのだが、少々忘れ物をしてしまったのだった。今日はそれを取りに戻っただけである。
「貧乏にはもう慣れました。私には住む場所と食事があれば十分です。……では、少しだけ待っていて下さい」
シェラはその後、大家の老婆に何度も頭を下げた。老婆は迷惑そうに顔をしかめる。
いつもこうなのだ。世間知らずなシェラを大家は一人前と扱ってくれない。
おどおどしてしまって、そのせいで相手を苛付かせてしまっているとわかっていても強気にはなれない。
「だから、アタシが調べた時は何にもなかったって言ってるだろ! おかしなこと言ってないで、とっとと行っちまいな!」
「あの、ですから、もう一度だけ調べさせて頂けたら――」
待っていても収束しそうもない様子に痺れを切らしたらしく、アルテルがシェラと老婆に近付いた。
老婆はアルテルを睨み付けると、それからまたシェラに視線を戻して口の端から息を吐き出した。
「ハン。あんた、どれだけ迷惑だったか、わかってんのかい? 家賃の支払いは滞るわ、押しかけてくるジジイはうるさいわ」
「ご、ごめんなさい」
「謝るくらいなら、滞納してる家賃を一日でも早く返しな。ああ、逃げたらジジイに請求するからね」
聞こえてしまった以上はほうってもおけないと思うのか、アルテルが口を挟んだ。
「滞納って、いくらだ?」
「二十六ヘンス。月末までに払えなければ、三十だ」
「ふぅん。安いな、ここ」
と、アルテルは何気なく言ったけれど、シェラは顔を赤くしてうつむいた。その頭をぽん、とアルテルが軽く叩く。
「安いさ。こんな良心的な金額すら、その子には無理なんだよ」
延々と続く大家の言葉に辟易したらしいアルテルは、大家の手をつかんだ。大家はヒッと悲鳴を上げる。
その手に、アルテルはポケットから取り出した紙幣を握らせた。
「じゃあ、三十あればいいな? よし、こっちか? 入るぞ」
ほうけている大家を放置し、アルテルはシェラの首根っこを引っ張って顔を上げさせると、長屋の一室に入って行った。
「ほら、さっさと探せ」
シェラはようやく我に返った。
「は、はい」
ベッドの方へ駆け寄った。
その下に手を滑り込ませ、小さな袋を取り出す。それを見付けた時、シェラは心からの笑顔をそれに向けた。大事に胸に抱く。
「よかった……」
すると、ようやく立ち直った大家が、入り口で叫んでいた。
「ちょっとアンタ! 勝手なマネすんじゃないよ!」
アルテルは不思議そうに大家を見やる。
「勝手? 滞納分払っただろ?」
老婆は口角泡を飛ばして怒鳴った。
「それとこれとは話が別だよ!」
けれど、紙幣はしわになるほどにしっかりと握り締めている。アルテルは若干の面倒臭さを顔に出していた。
「大体、アンタ、なんなのさ?」
「アルテル=レッドファーン。薬師だ」
大家は怒鳴り付けた相手の正体を知った途端、目に見えて顔色が変わった。即座に自宅に飛び込むと、物音ひとつ立てなくなった。きっと、ベッドの中で震えているに違いない。
アルテル=レッドファーンという名は、この辺りでは少しばかり有名である。
悪魔的な研究を繰り返す黒魔術師とも、子供をさらって生き血をすする悪鬼とも噂され、評判はこれ以上ないほどに最悪だった。
そう誤解されてしまうのは、アルテルが作業用の真っ黒なローブといういでたちで町をうろつくからだ。それがいけないのだと、シェラは最近では着替えさせてから外出するようにしている。そうすると、町の人は大抵気付かない。名乗りさえしなければ。
「さ、帰るぞ」
アルテルは相手のそういった態度にはすでに慣れっこで、あっさりしている。
「はい」
二人は長屋を後にした。もうここに戻ることはないだろう。
そのまま買い物を済ませようと、商店通りの方へ向かって歩く。長身のアルテルに、シェラは早足になりながら続いた。
「先生、余計なお手間を取らせてごめんなさい。……お金は働いてお返しします。お給料から差し引いて下さい」
「ん。あんまり気にするなよ」
アルテルはそう言って微笑む。
シェラは、さっきまでの息苦しさや恥ずかしさを忘れている自分がおかしかった。
この人のそばは、どうしてこんなにも居心地がいいのだろう。
「ありがとうございます」
ふわふわした気持ちに浸っていると、アルテルが不意に尋ねる。
「シェラのじいさんって、近くに住んでるのか?」
さっきの大家がジジイジジイと連呼していたのを思い出したのだろう。そのジジイには、フレセス=ブルックという名前がある。
「私の祖父はすでに亡くなりました。あの方が言っていたのは、古い知り合いのことなんです。身寄りのない私を気遣って、時々様子を見に来てくれる唯一の人です」
シェラの本名は、シェンティーナ=トウエルという。
豪商の令嬢として十二歳まで育ったのだが、祖父と両親の死を境に生活は一転した。
身ひとつで家を出され、日々の糧にも困る貧乏生活を強いられることになる。何不自由ない生活をしていたお嬢様が労働に慣れるまでには、人一倍の苦労があった。
フレセスはトウエル家に仕えていた執事なのだが、シェラの祖父や父に仕えていた彼は、新たな主にしてみれば、扱いにくいことこの上なかったのだろう。今は解雇されて他家の執事をしている。
そんなフレセスは、主従関係のなくなった今でも、過度なくらいの心配をしてくれている。ただ、朝から不憫だ不憫だと騒ぐので、近所迷惑だったのだが、本人に悪気はない。
アルテルはふぅん、と小さく言った。
彼は、そんな事情は一切知らない。シェラは自分の過去のことを、アルテルに何ひとつ話していない。
話すほどのことでもないと思った。過去に色々あったとしても、生きていればあって当然だ。
諦めのよい彼女は、過去を懐かしむでもなく、シェンティーナという長い名前と一緒にほうって、こざっぱりした格好と簡素な愛称で今を生きている。
ただ、過去の暮らしに執着はなくとも、他界した家族は別だった。
手にしている袋の中身は懐中時計で、シェラの持ち物の中では一番高価なものだ。ふたの内側には家族がそろって描かれた肖像画がある。生活が苦しくても、これだけは手放さなかった。
大切に大切に隠しておいて、あわただしい引越しの際に忘れてしまったというから、天国の家族はあきれていたかも知れないが。
「それで、そのじいさんには俺のところに行くことをちゃんと伝えたのか?」
アルテルが少し気まずげにつぶやく。
正直なシェラは、言葉で取り繕うよりも先に、表情で答えてしまう時がある。
「えっと、軽くは……ですね。詳しくはまた追々……」
あはははと、とりあえずは笑ってごまかすことにした。
「そうだな。腰抜かさないといいな」
アルテルもあはははと、笑う。
――そんな二人の背中を、通りがかりの少年が眺めていた。少年は、半信半疑で背後から近付くと、ようやく確信した。
長身の青年に笑いかけている少女の横顔は、紛れもなく見知った顔だった。
「やっぱり、シェラだ」
※※※
少年はその日、家に帰るなり、母親が何事か尋ねるのも聴かずに荷物を置いて家を飛び出そうとした。
けれど、その首根っこを枯れ枝のような指がしっかりと捕らえる。
「こら、フレイ。挨拶もせずにどこへ行く?」
「じ、じいちゃん!」
少年フレイは、会いに行こうとしていた人物がすぐそばで茶をすすっていたことにも気付かなかった。それだけ慌てていたのだ。
ほっそりとした品のよい老人が、方眉を吊り上げてフレイを直視している。
この老人、フレセス=ブルックは、フレイにとって伯父に当たる。じいちゃんという呼び名は正しくないのだが、そう呼んだ方がしっくり来るくらいの年齢差なので、そう呼んでいる。自分の名前もこの伯父にちなんでて付けられた。
「俺、見たんだ!」
フレセスは、孫のような甥に短く問いかける。
「何を?」
「シェラだよ!」
フレイは十五という年齢よりは大人びているものの、まだまだ落ち着きが足りない仕草で訴えた。
そのひと言で、フレセスの指がピクリと動く。そして、甥の頭をそのまま殴った。
「この痴れ者が! 馴れ馴れしい呼び方をするでない! シェンティーナお嬢様とお呼びしろ!」
殴られた頭をさすりながら、フレイは恨みがましい目付きでぼやく。
「いってぇなぁ。だって、そのオジョウサマがそう呼んでほしいって言ったんだぞ?」
同じ町に住んでいるし、ある程度の面識はある。昔はお嬢様でも今はただの町娘なのだから、それでいいはずなのだ。
「やかましい! 本当に呼ぶやつがあるか!」
もう一度殴ってやろうというのか、フレセスはこぶしを振り上げたが、話がそれたことに気付いたようで腕を戻した。
「それで、どこで見かけたと?」
「町中」
ムスッとして答える。
フレセスはそれから独り言をつぶやき始めた。
「先日手紙が届いて、本格的にお勤め先が決まったと書かれていた。それで詳細をお尋ねしようとしたところ、なかなかお会いできず今日もお留守だった。町中で出くわしたとは、お勤め先がその付近なのだろうか」
フレイはこの伯父の、シェラに対する心配性にあきれ果てていた。いつものことだけれど。
ついこの心配性が移ってしまって、自分まで大騒ぎしてしまったけれど、冷静になって考えると騒ぐようなことは何もなかったように思う。
「……ちょっと、そっとしておいてやれば? そんなに困ってる風でもなかったぞ。むしろ、楽しそうだったな」
すると、フレセスの顔面に不可解そうな色が浮かんだ。
「楽しそう? お一人ではなかったのか?」
「うん。連れがいたな。後姿しか見てないけど、背の高い男だった」
言ってから、自分の口にしたことが予想以上の効果をもたらしたことに愕然とする。
フレセスの震える声がびしびしと突き刺さる。
「男だと? そのようなものをお近付けになるとは……」
そこでフレセスは懐から懐中時計を取り出し、慣れた手付きで時刻を確認する。
「くっ……もう時間だ。屋敷に戻らねば。……無念だ。時間さえ許せば連れ戻して差し上げるものを!」
仕事の合間に抜け出して来たのだろう。執事という職業柄、自由もない。だから、フレセスは独身のままだったりする。
仕方がないが、本当に無念なのだろう。フレセスは横でため息をついた甥の肩をつかむ。
「フレイ」
「い、嫌だ」
何も言わずとも、伝わるものがある。
甥からの拒絶に、フレセスは目玉をひん剥いた。
「嫌ではない! お嬢様の勤め先を調べ上げ、おかしなところであれば、有無を言わさずに連れ戻して差し上げるのだ」
いつだって逆らえなくなるような何かがある。それは血の繋がりのせいばかりではないような。
「なぁに、手伝ってくれるというのなら、悪いようにはせん。だが、断るというのなら……」
こんな身内を持ってしまったことがそもそもの不幸だと、この時フレイは確信した。
※※※
翌朝、フレイはとぼとぼと町を歩く。仕方なく、シェラの住まいに向かっていた。
庭師見習いのフレイにとって、今日は貴重な休日だった。
休日をつぶしてまでやらなければならないことだとは思わないけれど、逆らうと後が怖い。
「ま、連れ戻さなくても、勤め先だけ聞き出しておけば、それで満足するだろ」
キャスケット帽の頭は一人で納得してうなずく。そして、教えられた通り長屋の右から三番目の扉を叩く。
「シェラ、起きてるか? 俺だ、フレイだ」
けれど、シンと静かなものだった。叩き方が甘いのかと、今度は少し強めに叩く。
ダンダンダンダンッ。
途端、扉が吹き飛びそうな勢いで開いたけれど、それは目当ての部屋ではなかった。二つ右隣の部屋だった。
「また来やがったね、このクソジジイ!」
目の下にくまを作った老婆が飛び出して来る。あまりの剣幕に、フレイはヒッと後ずさった。
けれど、相手がジジイではなく少年だと知ると、拍子抜けしたような顔になった。それをすぐにしかめ直す。
「なんだい、ジジイじゃないのか。紛らわしい叩き方すんじゃないよ」
「……ごめんなさい」
素直に謝ったフレイだったが、老婆は目をいっそう細くした。
「あんた、その部屋にいた小娘に用があるのかい?」
そうだと返事をしようとして、フレイはすぐに気付いた。
「いた……って、過去形?」
老婆は面倒臭いというよりも、あまりその件について話したくなさそうだった。
「出てったよ。未納分の家賃ももらったし、もううちは関わりないんだ」
ぶつぶつとつぶやく。
「未納分の家賃? そんな金があったようには見えなかったけど。それに、出て行ったって――」
ひやりと嫌なものがフレイの体を占める。悪い予感しかなかった。
「あの子は払ってないよ。払ったのは、あの男……」
言いかけて、老婆はぶるりと身震いした。春先だが、老人には冷えるのだろうか。
「あの男って? もしかして、背の高い金髪の?」
昨日の背中を思い起こす。多分、間違いない。
そこまで言えば話に乗って来てくれるかと思いきや、老婆は口を真横一直線に結んでいた。
けれど、話してもらわなくては困る。手がかりはここだけだ。
「なあ、あの男のこと……いや、彼女の勤め先か住まいでいい。知ってることがあったら教えてくれないか?」
老婆はそれでも口を開きたがらない。ぷいと顔を背ける。この様子は尋常ではない。
フレイはこの段階になって初めて、あのほんわかとした少女のことが心配になった。
「頼むから、教えてくれよ」
両手を合わせて頼み込む。けれど、老婆は険しい顔のまま吐き捨てた。
「も、もう関係ないんだ。知らないね。とっとと帰りな」
それでも、フレイはすかさず食い付いた。
「大丈夫。誰から聞いたかなんて、絶対に言わないから。それに俺、ここでうるさくしてるジジイの知り合いだから、教えてくれたらもうここには来ないように言っておくよ」
やっぱり迷惑だったのだろう。老婆はしぶしぶ口を開く。
「あの男はね、あの噂に名高いアルテル=レッドファーンだ。……それだけ言えば十分だろ」
フレイは思わず、ゲッと声をもらした。思っていた以上に事態は深刻だった。
「な、なんでそんなやつがシェラの家賃なんか払うんだよ!」
「知らないよ。まあ、若い娘だし、どうとでも使い道はあるだろ」
ムジナのような老婆は、素早く身をひねってねぐらに戻る。フレイはしばらく呆然としていた。
「嘘だろ? 冗談だって言ってくれ……」
老人は心配性だとあきれていたけれど、向こうの方が正しかったなんて。
さすがに知ってしまった以上はほうっておけない。
けれど、あんな悪の巣窟に単身で乗り込むなんて無理だ。かといって、迷っているうちに手遅れになんてことに。
「誰か、助けて……」
ぼやいても、助けてくれる親切な人は現れなかった。
そうして、たった数分で三万回転ほどしたフレイの葛藤の渦は、ひとつの結論に達した。
「て、偵察してから考えよ」
まさか、近付いただけで毒気にやられるなんてことはないと思うが。
自分を奮い立たせるために、フレイはシェラのことを思い出してみる。
初めて会った時、ふんわりとふくらんだ高そうななドレスを着ていて、見とれるくらいにきれいでかわいかった。けれど同時に、儚げで人間味がなかったのを覚えている。
そして、それから数ヵ月後、次に会った時には最初の上品なきれいさはなくなっていた。適当な服を着ていたし、表情には哀切なんてものもなく、天真爛漫な笑顔が広がっていて、その変貌に驚いたものだ。
元お嬢様といっても気位は高くなく、おっとりとした少女だった。
一時期はよくうちに来ていたけれど、最近ではあまり会う機会もなくなっていた。
それでも、きっと相変わらずなんだろうなと思う。だから、多分騙されている。
フレイは、はぁとため息をついた。
当の薬剤店は町外れ。遠いと思っていたのに、いざ向かってみればすぐだ。
到着したくないという思いと、余計なことを考えたくないからひたすらに足を動かすという矛盾。
そうこうしているうちに見えて来た。
大樹をくり抜いたような住まいの煙突から、エメラルドグリーンの煙が上がっている。
「どうやったら、あんな色の煙が出るんだよ……」
落とした肩が重くて持ち上がらなかった。情けない格好のまま、徐々に距離を詰めて行く。
呼吸はできる。あの煙も毒ではないようだ。
とりあえず、馬鹿正直にドアを開くつもりはなかった。
そろりそろりと横歩きで移動し、覚悟を決めて窓の一角からそっと中を覗き込んだ。
そうして、全身が凍り付くような恐怖を味わう。
「!!!」
思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。けれど実際は、恐怖のあまり声が出なかった。
店の中はこぎれいに整頓され、ビンが規則正しく並べられていたけれど、そのビンの中にはゲテモノというゲテモノが詰まってこちらを見ていたのだ。
フレイはすかさず窓から手を放し、背を向けて一気に走った。適当な木にぶち当たると、その木にしがみ付いてぜぇぜぇと荒く息をする。
「噂そのままじゃねぇかよ……」
その場にへたり込むと、にじんでいた涙を袖口で拭いた。
フレイが庭師という職種を選んだのは、単純に花が好きだからだ。
きれいでかわいらしいものは好きだけれど、それに付きまとう害虫は大嫌いで、毛虫やミミズに遭遇しては悲鳴を上げ、師匠に殴られるのが日課だった。
そんな彼に、アルテルの店はまさしく鬼門だった。
「どうすりゃいいんだ……」
弱音を吐いて、罪のない木をバシバシと叩く。
フレイは乙女の心臓だが、頭の回転は悪くない。だから、今の状況をよく理解していた。
ここは薬剤店で、しかもろくな噂のない悪魔的な商品が並ぶ店だ。
フレセスは執事で、その職業上、そういった場所に私用では絶対に近付けない。執事が出入りしたとあれば、仕える屋敷におかしな噂が立つ。
薬を必要とする病状の者がいるという噂さえ、好ましくない。
ましてや、アルテル=レッドファーンの店ともなれば、毒物を疑われても仕方がないだろう。
つまり、どんなに心配しても、フレセスはここには近付けない。
昨日のようにうるさく詰め寄ってくるより、本当に老人らしくぐったりとして、さめざめと泣かれる方がよっぽど嫌だ。
フレイは、嫌がる足で店の方ににじり寄る。
ほとんど進まなかったけれど、がんばっているのは事実だ。汗がだらだらと滴って落ちた。
そんな時、店の裏側から人影が現れた。
バケツを手にしたほっそりとした姿に、フレイは涙が出るほどの喜びを感じた。
この機を逃しては大変だ。慌てて駆け寄る。
彼女もその足音に気付いたらしく、顔を上げた。
ふわりとした笑顔を向け、それから首をかしげる。
「あれ?」
「あれ? じゃない!」
そののん気さに、思わず怒鳴ってしまった。
「ごめん。お客さんかと思ったの。フレイ、久し振りね」
「久し振りとか、そんな普通の挨拶とかしてる場合か! つーか、客なんか来るか、こんなとこ!」
フレイがわめいても、シェラは目を瞬いたくらいだった。
「失礼ね。たまには来るのよ?」
話しているとイライラする。やっぱりシェラはなんにもわかっていない。
「シェラ、お前、あの長屋引き払っただろ? 新しい勤め先って、ここなのか? ここで住み込みで働いてるのか?」
否定してほしい気持ちで尋ねる。けれど、シェラは感心した様子ででうなずいた。
「すごい早耳。まだじいやにもそこまで話してないのに」
「その心配性のじいやが、俺にお前を探させてるんだよ!」
「そうなの? 手紙は出したし、詳しくはまた改めてって思ったんだけど」
その笑顔には危機感がまるでない。
フレイが思うに、この世間知らずの元お嬢様は噂なんてあてにならないと思っているのだろう。自分の感じたことを信じているのだろうが、この天真爛漫な少女に人を見る目が備わっているとは思えない。
大体、あんなビン詰めを作る人間がマトモなはずがないというのに。
フレイは、シェラの腕をがっしりとつかんで自分の方に引き寄せる。
「あ、ちょっと、お水がこぼれる」
シェラの持つバケツの中の水がひと塊こぼれたけれど、そんなことを気にするシェラにフレイは腹が立った。
「若い娘が男と一つ屋根の下とか……それで心配するななんて、無理だろ? しかも、あの悪名高いアルテル=レッドファーンだ。……まったく、世間知らずにもほどがあるぞ」
そう吐き捨ててから周囲を見回す。本人に聞こえていないことに安堵し、そして短く息を吐くとそのまま歩き出した。
「今のうちに逃げるぞ」
「え? 逃げるって……フレイ、ちょっと話を聴いて」
「歩きながら聴く」
すると、シェラは細い指でフレイの背を押して抵抗した。
「変な噂は多いけど、先生って本当はいい方なの」
あきれた。何を言い出すのかと思えば。
フレイは足を止め、シェラと向き合う。
「シェラ、家賃を肩代わりしてくれたり善人ぶってたとしても、そりゃあ下心があるからだ。そんなのにいちいち引っかかるな」
顔を突き合わせると、こんなに飾り気のない格好をしていてさえシェラはきれいだった。困った表情も儚い花のようで、本来ならあの程度のはした金でそばに置ける娘ではないはずだ。
「……ううん、先生にそんなつもりは絶対にないから」
小さいけれど、はっきりとした口調でシェラは否定する。そう言い切ってしまえるのは、シェラが自分の価値を知らないからだ。
フレイは言い返そうとした。けれどその時、頭上から声が降る。
「シェラ、水は――」
窓から身を乗り出した男と、フレイは運悪く目を合わせてしまった。すぐさま目をそらしたけれど、手遅れかもしれない。呪われたかも。
ガチガチに固まったフレイにアルテル=レッドファーンは視線を落としながら、すぐに合点が行ったようだった。
「もしかして、シェラの友達か?」
「そうです。ごめんなさい。お水、すぐに持って行きますから」
「そうだな、水は急いでほしいけど、せっかく友達が来てくれたんだし、上がってもらえばいいぞ」
とんでもないとばかりにかぶりを振り通した。しかし、今度はシェラがフレイの腕をつかんだ。
「はい、そうさせていただきます」
「な、な、ななな」
アルテルが窓を閉めるのを待って、シェラはフレイを正面から見据えた。
「フレイ、ちゃんと先生とお話してみない? そうしたら私の言うこともわかってもらえると思うの。それで感じたままのことをじいやに伝えて」
その真剣なまなざしを前に、ゲテモノが怖いから入りたくないとは言えず、精一杯平気な振りをするしかなかった。
「わ、わかった」
でも、泣きたい気分だった。
そうして、店の中に踏み込むと、ゲテモノたちの白濁した目がじっとりと来客を見下ろしている。顔面蒼白で歩みの進まないフレイに、シェラは苦笑した。
「あんなに目立つところにゲテモノを並べるから、店の雰囲気が悪くなるのよね。今度、並べ替えようかな?」
平静を保とうとがんばっているフレイは、口に出して尋ねたくなった。
どうしてお前は平気なんだ、と。
シェラが先を進む。フレイはシェラが背を向けた途端、目を瞑って歩いたので、結果としてカウンターにぶつかった。
「どうしたの?」
不思議そうにしているシェラに、足の指をぶつけた痛みに耐えながら、フレイは必死で虚勢を張る。
「な、なんでもない」
そうして、下向き加減で店を通過することに成功した。けれど、向かう先はそのゲテモノをビンに詰める現場だ。部屋の中をガサガサとゲテモノが這っているかも知れない。
そう考えると、滝のような汗が背中を伝って行った。
この螺旋階段が終わらなければいい。そう願って止まなかったけれど、あっさりと終わる。
シェラはその部屋の中に滑り込んだ。フレイはまだ、心構えができずに外にいる。
「先生、遅くなりました。お水です」
そう言って、シェラが水の入ったバケツを置く音がした。
「ああ。……あれ? 友達は?」
こうして喋っている声は普通だ。適度に低い、大人の男の声。
フレイはおずおずと扉の奥を覗き込む。その拍子にまた目が合った。
くせのある、少し長めの淡い金髪。丸い眼鏡。白いシャツに茶色のパンツ。皮のショートブーツ。ごく普通のいでたちをしたこの人物が、あのアルテル=レッドファーンなのか。
こう改めて眺めると、確かに噂とは結び付かない。若いし、すらりと爽やかな青年だ。
ただ、手には何か奇妙な色の草を持っているから、やっぱり本人なのだろう。
部屋の中は思っていたような恐ろしいものはなく、きちんと整頓されていた。変な色の液体が煮えたぎり、変なにおいを発していることを除けば。
アルテルは、緊張と警戒を全面に出しているフレイに向かって微笑んだ。
「いらっしゃい」
そんな普通のことを言われるとは思わなかった。逆にびっくりして声が出ない。
「あ、あの……」
何かを言わないとと思いながらも、口が言うことを利かない。そんなフレイを見かね、シェラは彼を部屋の中に引きずり込んだ。
「フレイ=ブルック。確か、私の二つ下です。ほら、私のことを気にかけてくれている知り合いがいるって話したでしょう? フレイはその甥っ子なんです」
フレイはその間もただ固まっていた。アルテルはうなずく。
「なるほど。それで、評判のすこぶる悪い俺のところに働きに行ったシェラのことが心配で、様子を見に来たんだ?」
「い、や、そっ……」
図星だが、本人を目の前にしてそんなことは言えない。けれど、アルテルは気を悪くした風でもなかった。
「いいって。シェラも最初はそんな感じだったし」
それなら、どうしてここで働こうと思ったのだろう。ちらりと横目でシェラを見やると、彼女は少しむくれていた。
「いつまでも言わないで下さい」
アルテルはまたクスクスと笑っている。
「それにしても、そうやって並んでると、シェラの方が年上には見えないな」
「……どういう意味ですか?」
「どうって、身長も低いし、肩幅も腕の太さも、全部負けてるし。お前は食が細いから、栄養が行き渡らないんだ。もっと食え」
変なことを言うなと思った。
シェラがフレイよりも背が低くて華奢なのは当たり前だ。女なのだから。
フレイがシェラに怪訝そうな視線を送ると、シェラは目で何かを訴えていた。それが何かはわからなかったけれど。
「ほんとに先生は……」
そう言いかけ、シェラはああっ、と声を上げた。
「先生! シャツの袖! 緑色に染まってます!」
言われてようやく気付いたらしく、アルテルは右袖に視線を落とす。
「ああ、ほんとだ」
とは言うものの、実はどうでもいいのだろうな、と見て取れた。
シェラは長い髪をひるがえし、アルテルのそばへ駆け寄る。そして、さっき汲んで来た水の中に浮かんでいたビンを引き上げると、そこでアルテルの袖を引っ張って洗い始めた。
「それ、冷やしてるんだけど?」
「もう冷えました」
しばらく、ジャブジャブと洗っていたが、取れないらしい。
「ああ、もう、落ちない! どうしてこんな白い服を着て汚れ物を触るんですか」
「いや、だって、お前が黒い服はおどろおどろしいから止めろって」
「時と場合によります!」
アルテルは必死で汚れを落とそうとするシェラの後頭部に視線を落としてから、フレイに向かって苦笑してみせる。口うるさくて困るよ、とでも言うような顔だった。
けれど、本気で困っていないことくらいすぐにわかる。そんな空気があった。
フレイは、シェラのアルテルに対する態度に少し驚いた。
世間知らずでぼうっとした元お嬢様が、他人に小言を言うようになるなんて、思ってもみなかった。
そんな姿は、儚げで折れてしまいそうだった初対面の印象とも、その後のふわふわと頼りなく、人を不安にさせた感じとも違う。
これはこれで悪くはない。
怒ったり笑ったり、喜怒哀楽が激しくなり、生き生きとしたその表情が、毎日を楽しんでいると語っていた。
そういえば、町中で見かけた時の横顔も嬉しそうだった。
見たこと感じたことをありのままにフレセスに伝えてほしいというのなら、これで十分だ。
「……俺、そろそろ戻るよ。寄るところがあるし」
そう切り出すと、二人は同時にフレイを見た。
「そうか。何もないところだけど、また来いよ」
親切なそのひと言に、フレイは深く頭を下げてきびすを返した。本当に何もなければいいのに、と考えながら。
アルテル=レッドファーン。
どうにもつかみどころがない。噂のような印象こそなかったものの、ビンにゲテモノを詰める一面も持ち合わせている。
シェラが言うように、きっと悪人ではない。
それに、シェラに対して、最初に心配したようないかがわしい空気を微塵も発していない。歳が離れているせいか、子供扱いだ。そのことにかなりほっとした。
「私、そこまで送って来ます」
シェラは落ちない汚れに見切りを付け、フレイの後を追って来た。
店を離れ、木々の中を歩きながらシェラは問う。
「どうだった? 先生は?」
「……なんていうか、変な人だな」
「うん。そうかも」
ふふ、とシェラは笑う。フレイも苦笑した。
「まあ、じいちゃんが納得するかはわかんねぇけど、一応伝えておくよ。囲われたわけじゃなくて、ほんとにただの下働きなんだな」
すると、シェラはなんとも言いがたい複雑な表情をした。軽く首を左右に揺らしながら口を開く。
「だから、絶対にないって言ったじゃない。先生は私のことを男の子だと思ってるから」
「は?」
「最初に勘違いされてから、訂正する機会がなくって……」
「……ありえねぇ」
唖然とするよりない。
どこからどう見ても間違いようがない。けれど、そう聞かされてみると、背が低いだの言われていた意味がわかった。
「本気で?」
シェラはこくりとうなずく。
馬鹿なんじゃないかと言いたくなる。
それでも、その勘違いが続けば続くほどにシェラは安全なわけで、誤解は解かない方がいい。そういう結論で収まった。
ただ、そこでふと尋ねてみたいことがあった。
「向こうが勘違いしてるのはわかった。けど、シェラはどうなんだよ?」
「え?」
「あの先生のこと、どう思ってるんだ? ただの雇い主だって言い切れるのか?」
年頃の娘だが、今まで日々の生活で精一杯だった。
そこに、自分に優しく接してくれる大人の男性が現れたとしたら、淡い恋心くらい抱いても不思議はない。
シェラはその言葉の意味を真顔で考えている。
けれどもし、自覚がないのだとしたら、その自覚を呼び覚ますことになってしまう。それに気付き、フレイは慌ててその思考をさえぎった。
「や、やっぱいいや。忘れて。じゃあな!」
「あ、フレイ、気を付けてね」
大きく手を振ると、後は振り向かずに去った。
とりあえず、報告する時には、もちろんそうだと即答しなかったシェラの微妙な心境を、うまく隠しながら伝えなくては。
もし、彼女が恋心を抱くようなことがあれば、フレセスが次に自分に何を命じてくるのか、それが怖かった。
とりあえず今は、幸せそうだったとだけ伝えよう。
【アルテル=レッドファーンの誤解 ―了―】