アルテル=レッドファーンの花嫁
あたたかな春が、もうすぐやって来る。
春は出会いの季節。出会った季節――。
とある緑豊かな森の手前に大樹をくり抜いたような外観をした建物があった。その建物は、町で評判の薬剤店である。優しく子供好きな店主と、その婚約者である美しい少女が営んでいる。
よく効くと評判の薬だけでなく、この二人もまた噂の的なのであった。当人たちはまるであずかり知らぬことではあるけれど。
それはそれは鈍い二人の恋路が、周囲にとってはやきもきするけれど楽しい話の種であった。そんな二人がようやく婚約まで漕ぎつけたのだから、皆にしてみても感慨はひとしおであったのだ。
結婚式は花咲く春。
あたたかくなったその頃に挙げられるのだという。
噂の薬師アルテル=レッドファーンの婚約者であるシェンティーナは、長くまっすぐな亜麻色の髪に大粒の黒真珠のような瞳をした美少女だった。彼女の花嫁姿は眩いばかりに美しいだろう、と皆がその姿をひと目見たいと楽しみにしている。
とにかく、結婚を間近に控えた幸せな二人である。
※※※
雪も解けた初春。
夕刻というにはまだ少しだけ早い時間。
「先生」
鈴が鳴るような声でシェンティーナことシェラはアルテルを呼ぶ。可憐なフリルのブラウスと若草色のフレアスカートが女性らしさを強調していた。
当のアルテルはうつむいて、少し長めの癖のある金髪が彼の顔を隠すように落ちている。鼻先に乗った丸眼鏡を通して見るのは、調合中の薬の状態である。スポイトで一滴一滴慎重にビーカーの中へと落として行く。軽く振っては陽に透かすように眺めてみたり、その繰り返しであった。
つまり、集中するあまりシェラの声など聞こえていなかった。
シェラはいれたハーブティーが冷めてしまうと嘆息したものの、邪魔をしてはいけないということも理解して待つことにした。コトリ、とアルテルがビーカーを作業台の上に置き、スポイトを手放した時を見計らって、シェラはもう一度声をかけた。
「先生っ」
アルテルは今初めて呼ばれたかのような顔をして――実際に、アルテルにしてみればそうなのだろう。シェラに向かって柔らかく微笑む。
「うん? どうした?」
シェラはその熱心さに尊敬と呆れを感じつつ苦笑した。
「お茶が冷めました」
結論だけを告げると、アルテルは小さく吹き出した。
「ああ、もらうよ」
シェラは笑顔でうなずくと、トレイにティーカップを乗せてアルテルのもとへと運んだ。机の上に乗せられたカップ。アルテルは立ったままでそのカップに手を伸ばした。シェラはとっさにカップとアルテルの手との間にトレイを差し込んで隔たりを作った。そして、少し拗ねたような難しい顔を向ける。
「ちゃんと座って飲んで下さい」
アルテルはシェラの小言に笑って従う。シェラなりに、休息を取らずに根を詰めるアルテルを休ませようとしている。アルテルはそれに気付いたからこそなるべくゆっくりと味わうようにしてぬるめのハーブティーを飲むのだった。一気飲みなどした日には怒られる。
アルテルは自分としてはゆっくりとしたつもりだった。
「ごちそうさま」
そう言って立ち上がろうとしたアルテルの両肩を、シェラが慌てて押し留める。
「駄目です駄目です」
すでにアルテルのトレードマークと化した作業着である真っ黒なローブを握り締める。
「先生は無理をしすぎます。ちゃんと休憩も取らないと駄目です」
「今、十分休んだぞ」
「一瞬じゃないですか」
「そうかぁ?」
軽く首をかしげ、アルテルは肩に乗っているシェラの手に自分の手を添えた。そっと引き剥がそうとしたことを読まれてしまったらしく、シェラは先手を打った。
「だから、駄目ですって!」
あろうことか、座っているアルテルの膝の上に横向きの体勢で乗ったのだった。アルテルの膝の上で、シェラはかわいらしく無邪気に笑ってみせる。
「これで立ち上がれないですよね? 先生、もうちょっとゆっくりして下さい。先生の体調は私が管理しなくちゃ駄目なんだってよくわかりましたから、十分休息が取れたと思ったら退いて差し上げます」
アルテルは深く深く嘆息し、今にも頭痛がして来そうな額に手を添えた。そうして、呆れながら低い声を出すのである。
「シェラ」
「はい?」
きょとんとして至近距離からアルテルを覗き込むシェラに、アルテルはぼそりと言ったのである。
「襲うぞ」
「はぃい?」
シェラは目を丸くした。
婚約者同士ではあるけれど、二人の関係は清い。シェラは元お嬢様という特殊な環境で育ったせいか、純粋でものを知らない。そんなシェラを大切に扱っているアルテルは、人一倍辛抱強い方ではあるのだ。
が――。
計算も何もなくこうしたことを平然と仕掛けて来ると、さすがに教えてやりたくなる。
そういうことは誘っている時だけにしろ、と。
力を込めて抱き締めると、腕の中でシェラが慌てていた。
「え!? あ、あの……」
脚をパタパタと動かして焦っているけれど、放してやらなかった。首筋に唇を当てると、肩が大きく跳ねた。きっと、今、耳まで赤くなっているのだと思う。
そうして――。
バタン、と扉が開く音がした。今度は、アルテルが肩を跳ね上げる番であった。
「…………」
「…………」
アルテルの琥珀色の瞳と、大きく見開かれた青い瞳との視線が合った。扉を開いたアルテルの親友、ジェサード=ブルーネスは思わずぽつりと言うのだった。
「あのアルテルが、真っ昼間から女の子襲うようになるなんてな」
涙をいっぱいに浮かべたシェラが羞恥から悲鳴を上げたのも無理はなかったのかも知れない。
その耳を劈く悲鳴は、至近距離で浴びたアルテルの頭の中にこだまする。ぐったりとしたアルテルに、ジェサードは再び言うのだった。
「悪い、ついいつもの癖で。邪魔して悪かった」
シェラはもう真っ赤な顔をして言葉もなく口をぱくぱくと動かすだけだった。急いでアルテルの膝の上から降りるのだが、慌てすぎてこけそうになる。それをアルテルが支えてやるという構図は、ジェサードにとってはいちゃ付いているようにしか見えなかったことだろう。
ジェサードはクスクスと笑った。アルテルもさすがにばつが悪いけれど、それをごまかすようにして言った。
「ああ、そうか、昨日で公演が終わりだったな」
長く伸ばした銀髪に貴公子然とした風貌。アルテルとは違い、常に身だしなみに気を付けている青年である。それもそのはずで、彼は役者であった。主役を張ることが多いのは、やはりその存在感に他が圧倒されてしまうからだ。
ジェサードは銀髪を揺らしてうなずく。
「そうだ。だから『例のやつ』を受け取りに来たんだ。届けてやるって言っただろ?」
「あ!」
シェラは口もとを押えて声をもらす。
「ちょっと待って下さいね!」
と、棚の上に置かれた箱に駆け寄って、その中から封書を取り出す。淡い緑のきれいな封筒の上にシェラの整った字がある。二通の封筒。ひとつはジェサード宛。そして、もうひとつは――。
ラキア。
本名はメリルというらしいが、ラキアと呼んだ方がしっくり来る。
その名は芸名なのだ。彼女はジェサードの後輩の役者であった。すでに過去形で話さなければならないのは、彼女が役者を辞めてしまったからである。
美しかった黒の巻き毛をばっさりと切り、潔いまでに夢を捨ててしまった彼女。
一見、美しさに見合った強い目をした女性なのだが、その心は細やかである。シェラはとある一件でそんな彼女に助けられた。シェラだけではなく、アルテルもそう感じている。
彼女がいなければ、シェラの心は折れていたかも知れない。それを守ってくれたのは彼女だった。
ただ、彼女は自分が犯した小さな罪をいつまでも引きずっている。
そんな彼女の心を救えるのは、このジェサードだけなのだと思うからこそ、シェラは期待を込めた瞳を彼に向けるのだった。
「よろしくお願いしますね」
すがるように言ったシェラの言葉には、その結婚式の招待状を渡す以上のものが求められている。それに気付かないほどジェサードは鈍くもない。シェラが安心するように、にこりと微笑んでみせる。
その柔和な笑顔は、シェラが相手だからこそである。本来の彼は、もう少し意地が悪いとアルテルは思う。ジェサードはそうしていくつもの顔を使い分けるが、それが癖になってしまっているのではないだろうか。
「ああ、確かに預かったよ。じゃあ、行って来る」
「はい、お気を付けて!」
ジェサードは招待状を上着の内ポケットにしまうと、爽やかな笑顔を振り撒いた。けれど――。
「続きはごゆっくり」
「っ!!」
優雅に手を振り、ジェサードは颯爽と去るのだが、二人はお互いに目を向けることができなかった。シェラはうつむき、アルテルは天井を見上げる。
気まずい時間が二人に流れると、先に動いたのはアルテルだった。大きな手をシェラの頭の上にそっと乗せる。
「ごめんな、びっくりさせて」
本当のことを言うのなら、謝りたくなどない。それでも、怯えさせてしまったのは事実だから、とアルテルは思うのだった。
シェラはそのままかぶりを振った。
「す、すみません、確かにちょっと驚きましたけど、その……」
顔は見えないけれど、やっぱり耳が赤かった。アルテルは苦笑すると、その耳もとでささやいた。
「続きはそのうち。だから、心構えはしておけ」
ひゃっと耳を押えて恥ずかしそうに涙ぐむシェラを、アルテルは抱き締めたいような苛めたいような、そんな心境だった。
※※※
港町シュードシータ。
それは王都に次ぐ賑わいを見せる町である。人々も華々しく、田舎に埋もれてしまうよりはいいかと思えた。
だからこそ、メリルは劇団を退団して第二の生活の拠点としてこの町を選んだ。正直なところ、役者を辞めてしまった自分は、他にしたいことが見付けられなかった。特に選ばず、紹介されたままに貿易商の邸宅でメイドの仕事を始めた。
要領は悪い方ではない。そうした仕事も人並みにはこなして行けた。
このままいい人を見付けて結婚して、平凡な人生を歩んで行くのかな、とそんな風にぼんやり思った。
それが嫌で、この美貌を武器に役者になって脚光を浴びる夢を追いかけた。そのために、田舎を飛び出した。あそこに埋もれてしまうのが我慢ならなかった。
けれど。
気付けば、この手には何もなかった。
その仕事も、結局は辞めてしまった。
クビを宣告されたわけではないけれど、居づらくなってしまった。後悔はしていないけれど。
屋敷の仕事を辞めた時は、晴れ晴れとした気持ちだった。あの娘、シェラとアルテルの幸せを願って。
それでも、女一人で生きて行くのは難しい。黙っていれば寄って来る男はいくらでもいたけれど、頼ることはしなかった。
目を閉じれば、いつだってまぶたの裏に浮かぶのは一人の姿。
ただ、彼は自分を破滅させる。
あの想いに溺れる自分には、二度と戻りたくない。
だから、二度と会わない。
彼を忘れて、他の誰かに想いを寄せる日が早く来ればいい。
そう考えながらも、メリルはふと鉛色の空を見上げた。
会わせる顔もないから、会おうとは思わないけれど、それでも、彼の――ジェサードの成功だけは風の便りにでもいい。聞きたいと願った。
結局、あんなに嫌がっていた田舎に戻るしかなかった。
小さな頃に父を亡くし、若かった母は再婚して別の家庭を持った。小さい頃に面倒を見てくれていた五歳離れた兄はすでに妻子ある身で、メリルが戻ったところで扱いに困るだけだろう。気にしなくていいから、と小さな家を借りて住み始めた妹に、兄は何も聞けないままそっとしておいてくれた。義姉は優しくて、料理をたくさん作ったからと呼んでくれるけれど、田舎の小さな村では噂などひと晩で駆け巡るのだ。
夢を追いかけて村を出た少女が、挫折して戻って来た。垢抜けて美しくなったメリルは、都会かぶれと陰口を叩かれる。嫉妬と侮蔑が入り乱れる。
それがわからないほどに鈍くはないメリルは、あまり兄夫婦のところにばかり行けなくなった。
そうして見付けたのは、給仕の仕事。昼は食堂、夜は酒場。小さな村にはそれくらいしかない。
メリルは演じることが身に付いていた。だから、接客も笑顔を絶やさずに『演じた』。
男性客は喜ぶけれど、女性客は嫌な顔をした。けれど、厄介なのは男性客の方だった。
粘着質な視線、下卑た安っぽい言葉。
誘いに乗らなければ、お高く止まっていると唾棄する。わざとカップを持つメリルの手に自分の手を当てて、酒をかけられたと騒ぎ立てたりする。そんな時、庇ってくれる人はいなかった。
疲れ果てて家に戻ると、そのままベッドに倒れ込む。窓から差し込む月の光を眺めながら、ぽろりと涙がこぼれた。
そうして、乾いた唇でつぶやく。
「『――このまま離れてしまうよりも、どんな形であれ、あなたと共にありたい』」
愛を語る二人の一幕。
自分に向けられた、銀髪の青年の愛しげな微笑。
それは演技に他ならず、幕が下りれば消えてしまう泡沫の夢。
けれど、その瞬間、間違いなく自分は幸福だった。たくさんの歓声と拍手に迎えられ、充実感で胸をいっぱいにした。
あの頃の輝いていた自分と、今の自分はなんて違うのだろう。
人知れず泣くことしかできない自分になんの価値があるのだろう。
けれど、それを壊したのは自分だから、責められるものも自分だけ――。
※※※
そんな日々がいつまで続くのかと膿み疲れた。
それでも、仕事は仕事と休むことはしなかった。昼の慌しい時を乗り越えて、メリル自身もようやく遅めの昼食を摂った。経営者である夫妻は住まいである二階で休んでいる。
そのしばらくの休憩時間の最中に、それを見計らったかのように現れた人物がいた。
この田舎の村にメリル以上に馴染めていない。
風になびく長い銀髪の先までも計算しているのかと思われるような仕草で、彼は畦道を歩いていた。ツイードの仕立てのよい上着を小粋に着こなしている。食堂の窓からそれを目ざとく見付けてしまったメリルは、慌てて立ち上がると裏手から逃げ出した。
何故、彼がこんなところにいるのかはわからない。偶然とも思えないけれど、幻でもない。
とにかく、見付かってはいけないと先手を打ったつもりが、あっさりと裏手で待たれていたという状況だった。
「な、なん、で……」
引きつった顔で辛うじてそれだけを言うと、彼――ジェサードはきれいな作り笑いを浮かべた。
「なんで? ここはお前の故郷だろ? 用があったから来た。それだけだ」
ぞっと、寒気がするような笑顔だった。表情と口調は優しげなのに、それ以外の何かが流れ出す。
ジェサードは、やはりひどく怒っている。そのことがメリルには何よりも恐ろしかった。
思わず後ろに下がろうとすると、素早く手首をつかまれた。
「どこか、落ち着いて話せるところがいいんだが」
痣になりそうなほどに痛い。締め付けられるのは、ジェサードの感情の昂りからだろうか。
「……わかったわ」
メリルは観念した。今更怯えても仕方がない。
今の心のよりどころ、輝かしい時の思い出さえ砕けてしまうかも知れないけれど。
結局、自分の家に案内するしなかった。メリルとしても目立つジェサードと外で話したくはない。更におかしな噂が立てられる。――もう手遅れな気がするけれど。
酒場の支度をするのは夕方からで、少しだけ時間はある。
けれど、できるなら時間がないと言ってしまいたかった。余分なものなどない小さく粗末な家の中を、ジェサードは物珍しげに眺めていた。恐ろしくて茶を出すことも忘れていた。
テーブルを挟んで座ると、ジェサードは何か懐から一通の封書を取り出した。
「今日はこれを届けに来た」
ジェサードはよく通る声でそう言って、優しく淡い緑色をした封筒をテーブルの中央に置いた。そこには『親愛なるラキアさんへ』と書かれている。
メリルは思わず顔を上げた。開く前から差出人がわかってしまった。
ジェサードは、その瞬間だけ柔らかく微笑む。
「やっと結婚するんだよ、あの二人。これは招待状だ」
あの二人。
シェラとアルテルの二人だ。
ラキアは心底ほっとした。あの時の悲しみに暮れるシェラを知るからこそ、彼女には幸せになってもらいたい。
「そう、よかった……」
「ああ。お前に感謝してたよ」
感謝されるような大したことをできたのかはわからない。でも、少しでも支えになれていたのならよかった。
「彼女の花嫁姿は、きっとすごくきれいでしょうね。幸せそうな姿が目に浮かぶわ」
ジェサードもそうだな、と優しく言った。
けれど、そんなあたたかな空気は長く続かなかった。
「ところで、ラキア――」
捨てた名前を未だに呼ぶ。
メリルは胸がどきりと高鳴った。体温が急速に下がって行くような、そんな感覚がする。
「あの、あたし――」
その言葉を、ジェサードが冷たい声で遮る。
「役者を辞めたから、もう『ラキア』じゃないって? じゃあ、『メリル』って呼べばいいのか?」
青い瞳の鋭さに、メリルは二の句が告げなかった。ジェサードは、そんなメリルに失笑する。
「断るよ。俺が会いに来たのは『ラキア』だ。間違っても『メリル』じゃない」
たくさん、目をかけてくれた。共演もたくさんあった。恋人同士の演技もたくさん。
それでも、今ほどに鋭い声と表情をされたのは初めてだった。あまりのことにメリルは愕然とする。
ジェサードは、更に言った。
「それほど簡単に辞めてしまうとは、正直がっかりした」
胸の奥を抉る言葉。
何も簡単ではなかった。プライドがあったからこそ、自分で自分が許せなかった。
悩んだ挙句の選択だった。それを、ジェサードは簡単だと言う。
「それがお前のけじめなのか? それで俺が納得すると思うのか?」
高みへと登り続けるジェサード。素直に口には出せなかったけれど、その熱意を尊敬していた。その尊敬がいつの間にか恋に変わって、独り占めできない存在であることを心で嘆いていた。
そんな時、手の届く場所にジェサードの台本があった。それを隠してしまった。ジェサードが失敗することをほんの少し願ってしまった。
置いて行かれたくない気持ちと、他の女たちの目にさらしたくない気持ちが湧いてしまった。
その時点で、自分で自分の価値に傷を付けた。そのせいでジェサードが劇団を辞めてしまった。名もない小さな劇場にいるというけれど、そんなところにくすぶらせたのは自分だ。
そんな自分に、どうしてジェサードは役者であり続けろと言うのか。
「そうよ。これがあたしのけじめ」
そうとしか言えなかった。一瞬だけジェサードの瞳が切なく揺れた。
「……なあ、お前が全部やったわけじゃなかったんだろ? なんであの時、全部自分がやったなんて言ったんだ?」
「そんなの……外は知らないなんて言えないわよ。言ったって信じてもらえると思わなかった」
言い訳なんて、余計に惨めになるだけで言えなかった。
けれど、ジェサードはそれを責めているかのようだった。
目を大きく見開いていないと涙がこぼれてしまいそうになる。目をそらせば、ジェサードには通用しないから、結果としてまるでにらんでいるようなものだ。
ジェサードはやはり冷え冷えとした面持ちで、テーブルに手を付くと立ち上がった。
ああ、これで終わったんだな、と思えた。けれど、ジェサードが歩み寄ったのは扉ではなくメリルの方であった。座ったままのメリルを見下ろしながら、ジェサードはつぶやく。
「そうか。けじめだ罪だといつまでも縛られ続けるなら、一度清算してやるよ」
「え?」
何か心がざわめき、椅子を引いて距離を置こうと立ち上がった。
すると、ジェサードの長い指がメリルの頬に食い込む。次の瞬間には、机の上に覆いかぶさるようにして押し付けられた。思わず蹴飛ばしてしまった椅子が倒れる。
唇を塞ぐのは、彼の唇だった。痛いほどに、深く長く口付ける。
何度か、芝居のワンシーンで唇を交わしたことはある。けれど、そうした時の、そっと触れるようなものとはまるで違う。乱暴で、感情をぶつけるようで――。
わざとそうしているのだと、どこか冷静な一部分で思った。
ようやく離れた唇からは、吐息と冷めた言葉がこぼれる。
「演技だったらもっと優しくしてやるけどな、生憎とそうじゃない」
テーブルの上から見上げると、その目は青い炎のようだ。ふと、そのこめかみの傷に目が行く。
髪に隠れてしまう程度だけれど、確かに以前はなかったもの。傷付いても、それをものともしない強さが彼にはある。
眩しすぎて、手を伸ばせない。
心が痛くて、メリルは顔を歪めた。すると、ジェサードはメリルを解放する。
「これで相殺した。これ以上、いつまでも同じことを口にするな」
「あ、あたしは……っ」
テーブルの上に座るような形のまま、メリルは顔を両手で覆った。そんな彼女の耳もとで、ジェサードは言う。
「お前はそうやって罪を理由にして逃げてる。お前は意地っ張りなくせに臆病だ」
知っている。
臆病な自分を。
そんなことはわかっている。
ジェサードは、それでも言った。
「なあ、ラキア、俺は出会った時の向上心の塊だったお前の方が好きだ。ギラギラする目をして、貪欲に人の演技のよいところを吸収しようとするお前は、きっといい役者になると思った」
駆け出しの頃は、他のことなんて考えられなかった。上へ昇ることばかりを考えていればよかった。
あの頃は、大変だったように思われつつも充実していたのかも知れない。
人気も出始め、ヒロインに抜擢された時は嬉しかった。あの時、右も左もわからない自分をリードしてくれたのもジェサードだった。
演じるうちに芽生える恋心は、役になり切ったせいだと思った。けれど、いつになっても冷めることがない。
違う女優がジェサードの相手役を演じる時、胸が痛くてしかたがなかった。これではいけないと思うのに、苦しさは増すばかりで。
「私はもう、きっと前のようには戻れない」
感情に揺れる声でそれだけを絞り出すと、ジェサードのため息が聞こえた。
「始める前から決め付けてしまうのなら、戻れないだろう。お前が心から戻りたいと思わなければ、それは無理だ」
戻れないと、できないと嘆いているのは自分自身。
臆病な自分の心だと言う。
ジェサードは、再び射るような視線をメリルに向けた。メリルは指の間からそれを垣間見る。
「戻りたいと思うなら、俺のところに来い。初舞台の時のように臆するお前を引っ張ってやる」
この恋心が消せないままでいるのに、むごいことを言う。
けれど、ジェサードはふと柔らかな目をした。
「……まあ、そういう事情は抜きにしてあいつらの結婚式にだけは出席してやれよ。特にシェラががっかりするからな」
それだけを言い残し、ジェサードは去った。
パタン、と虚しく響いたドアの閉まる音が、メリルの胸を締め付ける。
ハラハラと涙をこぼしながら、メリルは手が当たったテーブルの上の招待状に目を向ける。
そうして、震える手でその封を開けた。
二つ折りの便箋に、丁寧な時で日時や場所を書いてある。これを書いたのはシェラだろう。
幸せいっぱいの心で書いていただろうから、数がどれだけあっても少しも苦ではなかったと思える。
ふと、その便箋には続きがあった。メリルは小首をかしげながらその便箋をめくる。
そこにつづられていたのは、シェラの想いだった。
“親愛なるラキアさん
いかがお過ごしですか?
お体は健やかでしょうか?
招待状にあるように、
私はアルテル先生ともうすぐ結婚することとなりました。
あの時、孤独だった私の心にラキアさんが寄り添ってくれましたね。
ラキアさんの存在に、私にはたくさん励まされました。
私の幸せな今があるのは、ラキアさんのお陰です。
ラキアさんの優しさ、あたたかな気持ちを私は生涯忘れません。
だからこそ、ラキアさんにも幸せになって頂きたいと、
心から願わずにはいられないのです。”
シェラらしい、優しい内容の手紙だ。
けれど、自分はしたいように動いただけで、シェラが恩を感じる必要などない。
そんなことは気にせず、あの鈍い薬師のもとで幸せになればいい。
“ラキアさん。
ラキアさんは今、幸せですか?”
胸を張って、そうだと言えない。
そんな惨めさがのどの奥を締め付ける。
シェラは、そんなことを見越していたかのようなことを書いていた。
“もしかすると、そうではないのかも知れないと思ってしまいます。
ラキアさんは今、幸せではないのではないかな、と。
だって――”
もどかしく思いながらも、便箋を更にめくる。
そうして。
“ラキアさんの幸せは、ジェサードさんのそばにあると思うのです。
だから、離れていてはいけません。
この手紙をラキアさんが読まれているなら、
ジェサードさんと再会されたということ。
正直に、心を開いて下さい。
気持ちを残しているご自分を認めて下さい。
その恋心を抱いたままで、
ジェサードさんのそばで幸せをつかんで下さい。
差し出がましいことをつらつらと書いてしまって、
偉そうだと怒られてしまいそうですが、
私は私たちを助けてくれた大事なお二人だからこそ、
心からそう思うのです。
結婚式に参列して頂けると信じていますから、
どうか私たちに元気なお顔を見せて下さいね。
心より、お待ち申し上げております。
――シェンティーナ ”
読み終わった便箋をカサリと閉じる。
苦笑と共に声がこぼれた。
「あのコは……」
お節介だけれど、それはお互い様だとでも言われそうだ。
シェラは本当に、心からメリルの幸せを祈ってくれている。
自分が心底幸せだからこそ、余計にそう思うのだろう。
「会いたいな」
ぽつりともらした。
彼女の幸せな花嫁姿を見たい。輝くような笑顔を見たい。
そうしたなら、何か少しは救われるような気がした。
メリルは手紙に込められたシェラの想いに背中を押された、そんな気分だった。
※※※
シェラは物置に戻される予定の三階の部屋で、小さな明かりを灯してぼんやりとしていた。
もう就寝するだけの状態で、マットレスの上の毛布に潜っている。そんな状態で手にしているのは、家族の肖像画の入った懐中時計である。
貧しい生活のつらかった時、この小さな肖像画を眺めて乗り越えて来た。若いままで逝った両親に、あなたたちの娘はつらくてもあなたたちの分まで生きます、と。
けれど今は――。
「ねえ、お父様、お母様、私、明日結婚するんですよ?」
思わずそう語りかけた。
そんな自分に、何か笑いが込み上げて来る。
本当なら、最後の夜は家族と過ごすものだけれど、すでにいないのだから仕方がない。こうして思い出に浸るだけだ。
何か、とても不思議な心境だった。これは、幸せの中に混ざる不安だろうか。
本当に、このまま結婚式を迎えられるのだろうか。
ずっと、末永く添い遂げることができるのだろうか。
アルテルが他の人を好きになったりしないだろうか。
子供を産んで、しっかりと育ててあげることができるだろうか。
考え出すときりがない。こうした不安は、一人で悩むことではないとアルテルなら言ってくれそうなきがする。そう、信じてついて行こう。
シェラはそっと微笑む。
「頼りない私ですから、ハラハラするかも知れませんが、どうか見守っていて下さいね」
カチリ、と時を刻み続ける懐中時計を閉じ、シェラは眠りについた。
昂る感情から、なかなか寝付けなかったけれど。
寝付いた時に見た夢の中には、親しい人々の姿があった。もちろん、ラキアも。
来てくれたんですね、とシェラは笑顔で彼女を迎えるのだった。
※※※
そうして、ついに当日。
結婚式は店の前で執り行うことにしていた。早朝からやって来たシェラの友人のフレイが結婚式の花々を仕事仲間たちときれいにディスプレイしてくれた。白をメインに、クリームイエロー、サーモンピンク、暖色系の花々がリボンと共に飾られている。
二階の部屋で先に着替えを済ませたアルテルが先に外へ出た。シェラは一階の店の中で着付けをしている。
ドレス姿は、試着の時でさえ見せてくれなかった。ウェディングドレスは、彼女をずっと見守って来た彼女の家の元執事であるフレセスがプレゼントしてくれたのだという。高価なものなので断ろうとしたら泣きそうな顔をするので、断り切れなかったとシェラは言う。老人に泣かれるほど後味の悪いものはないので仕方がない。厚意として受け取ればいいとアルテルも言ったのだった。
アルテルと、その背後にいるジェサードの姿に真っ先に気付いたのは、シェラの親友であるティケという少女だった。ライトグリーンのワンピースに、大きなリボン。髪を編み込み、大人っぽく見えるものの元気に手を振った。
「あ! アルテルさんだ!」
一応主役ではあるので、皆が注目する。
普段が真っ黒なだけに、白いタキシードという真逆の格好はひどく気恥ずかしかったけれど、そんなことを言っている場合でもない。着替えてそのまま行こうとしたら、やって来たジェサードに髪をいじられた。手馴れた様子でセットすると、ジェサードは妙に感慨深いといった目をしたのだった。
お前に先を越されるなんてな、とでも思ったのだろう。
そうして駆け寄って来たティケに、フレイもくっついて来る。けれど、アルテルの背後ビロードのスーツを着こなし、洒落たカフスやピアスを煌かせるジェサードに気後れした様子だった。
「おめでとうございます!」
満面の笑顔で言うティケはやっぱりいい娘だ。
「今日は来てくれてありがとう」
アルテルも笑って返すと、ティケは得意げに言った。
「ディスプレイのリボンはあたしが結んだんですよ。きれいでしょ?」
「ああ。シェラもきっと喜ぶよ」
ティケは大きくうなずく。
「シェラ、すごくきれいだと思いますよ。アルテルさんも背が高いからタキシード似合ってますし、お似合いですよ。見る前からわかります」
にこにこと笑っているティケを、フレイも眩しそうに眺めていた。ジェサードがアルテルの背を叩く。
「ほら、花嫁はまだなんだし、お前がちゃんとみんなに挨拶して来い」
「ん、そうだな」
そうしてアルテルを送り出すと、ジェサードはするりとその場を離れた。
誰かを探すようにして――。
※※※
ついに、来てしまった。
船から波止場に降り立った瞬間に、メリルは盛大にため息をついていた。
黒いシックなワンピースに控えめなコサージュ。結い上げるほどの長さのない髪には真珠を模したカチューシャをして、派手な装いではないけれど、すれ違う男性たちはそんな彼女を何度も振り返った。
このジーファの町にいい思い出はない。
もう一度、ジェサードと顔を合わさなければならない。
そう考えると気が滅入るのだ。
ジェサードに会ったら、今後のことを訊ねられるだろう。けれど、メリルの中に答えはまだない。そんな自分に、ジェサードは更なる失望を向けるのかと思うと、気が滅入る。
けれど、どうしてもシェラの花嫁姿が見たかった。おめでとう、とそのひと言が言いたかった。
その想いが凌駕した結果なのだ。
だからもう、くよくよしていても仕方がない。腹をくくって、前を向いて行く。
招待状に、アルテルの営む薬剤店の場所が書かれていた。歩けない距離ではないので、メリルは歩くことにした。春の日差しは優しくて、若々しい木々の立ち並ぶ道を行くだけで何か心が落ち着いた。
近付けば近付くほどに、さんざめく音が聞こえて来た。賑やかに、二人を祝福する人々。
メリルには知り合いなどいないけれど、皆がそれぞれに二人を大切に想ってくれているのだと見て取れた。あの二人の人柄なら、それもそのはずかも知れない。
その輪の中に溶け込めず、端の方で気後れしていたラキアに、鮮烈な視線が刺さった。
「来たな」
大声を出しているわけではないのに、よく通る声。発声がそもそも違う。
隙なく身だしなみを整え、参列した娘たちの視線をすべてさらうような姿にメリルは身震いした。
「あ、えっと……」
なんとなく後退したメリルに、ジェサードは歩み寄る。それは恐怖だった。
このまま逃げようかという誘惑に負けそうになった時、ひと際大きな歓声が響き渡った。思わずジェサードも振り返る。そのジェサードのずっと向こうに純白の裾が見えた。
メリルの方へ顔を戻したジェサードは、ふいに柔らかく微笑んだ。
「主役のお出ましだ。ほら、行くぞ」
ジェサードはメリルの手首を引く。
「う、うん」
人々の間をすり抜けて、白に包まれた二人に近付く。おめでとうという言葉の渦の中に二人はいた。
純白のウェディングドレスは、光沢のあるドレープを描いて花嫁を包んでいる。その大きなフリルや小花のモチーフが、彼女の若さを少しも損なわずに清楚に飾り立てていた。上品な縁飾りのあるベールが被さる髪は、一部に花を挿して編み上げただけで、他は背中に流すというスタイルだ。
手にしたブーケには、白くまっすぐな花弁をした大輪の花が、花婿にとっての花嫁が唯一無二の存在であるのと同じように一輪、その存在を際立たせていた。それを囲む小さな花は、幸せの数ほどに連なっている。
メリルは舞台の上で数え切れないほどのドレスに身を包み、宝石で飾り立てた。それらはシェラのウェディングドレスよりも高価で華々しかったけれど、それを着た自分が今の彼女ほどに輝けていたとは思えない。
それは、あまりにも美しい姿だった。
薄いベールをまとった彼女の瞳がそっと微笑む。
「どうですか、先生?」
花嫁姿のシェラと対面したアルテルは、口もとを押えて照れたように言う。
「ああ、うん」
ぼそ、とつぶやいた。その途端に小さな男の子の甲高い声が響いた。
「え!? それだけ?」
「アルテル、ダメダメだな!」
「そうだよ、ちゃんと言わなきゃ」
男の子たちは口々に野次を飛ばす。シェラはクスクスと笑っていた。
アルテルは観念したのか、不意に言った。
「よく似合ってる。きれいだ」
おお、と周囲が騒いだ瞬間に、シェラは目を丸くした。
「せ、先生の口からそんな言葉が出るなんて……」
「お前なぁ」
そこで、すらりと背の高い美人が言った。淡いブルーのスーツを着こなす、知的な印象だ。
「ところでシェラちゃん、いつまで『先生』って呼ぶの? あ、私のことはもう『ラメリアさん』じゃなくて、『お義姉さん』だからね?」
どうやら、アルテルの姉であるらしい。
シェラは照れながら言った。
「はい、お義姉さん。……えっと、先生は、な、なんとお呼びすれば?」
「一般的には、あなたとか旦那様とか」
ラメリアの言葉に、新郎新婦はそろって黙り込んだ。
「……」
「……」
そう呼ぶのも、そう呼ばれるのも想像が付かないのだろう。
「当分、そのままでいい」
「そう、ですね」
そんなかわいらしい新郎新婦の姿に、気付けばメリルの顔も綻んでいた。そんな彼女に気付いたシェラが、甲高く声を上げた。
「ラキアさん!」
ドレスの裾を踏みそうになりながら、それを焦れったそうに持ち上げてメリルの方へ駆けて来る。
その危なっかしさにメリルは気が気ではなく、ハラハラとしてこちらからも近付いた。すると、シェラはふわりと微笑み、それから何か泣き出しそうになった。
「ラキアさぁん……」
「え、ちょっと、お化粧が崩れるから止めなさい。せっかくきれいにしてるんだから」
慌てるメリルに、シェラは大きくうなずいて涙を堪えた。
「来てくれてありがとうございます。お会いしたかったです」
なんて素直な言葉だろう。彼女のそうしたこところが、メリルには羨ましい。だから、メリルもこの時は素直な気分になれた。
「あたしもね。おめでとう」
「ラキアさんのお陰です。でも、よかった……」
「え?」
感極まったように言うシェラの言葉の意味がわからなかった。小首を傾げると、シェラは言う。
「やっぱり、ラキアさんはジェサードさんといなきゃ」
「……」
幸せな花嫁に負の感情を見せてはいけない。だからメリルは『演じた』。
にっこりと微笑む。
「心配かけたわね。あたしなら大丈夫だから」
「はい!」
輝く笑顔。その後ろで待つアルテルの、包み込むような空気。祝福する人々。
今日はいい日だな、とメリルは蒼い空を見上げて思った。
そうして、式は始まった。
父親のいないシェラに付き添うのは、背筋のよい老人だった。シェラとの関係はよくわからないけれど、今にも泣き出しそうに見える様子から、彼女のことを本当に大切にして来たのだと見て取れる。
神父の前で待つアルテルに、シェラの白手袋を委ねて何度もうなずく。アルテルも微笑んで、背を向けた老人を見送った。
向き合った二人は誓いの言葉を述べる。アルテルは凛と力強く。シェラは震える声で頼りなく。
二人を見守る瞳たちはあたたかであった。
指輪を交換する時も、シェラは緊張のあまりもがいていたけれど、そんな姿も微笑ましかった。
そして、アルテルの大きな手が、花嫁のベールに触れる。シェラが大粒の黒真珠のような瞳に涙をいっぱいに浮かべたさまは美しかった。
アルテルは神父の言葉に従って、ためらいながらも身をかがめ、自らの花嫁に誓いの口付けをする。
それは、シェラの苦悩や想いを知るだけに、メリルが演じて来たどんな一幕よりも人の心を震わせる瞬間であった。
自覚もしないままにはらりとこぼれたメリルの涙に、ジェサードがハンカチを差し出す。ハンカチくらい持っているけれど、恥をかかせてしまうので受け取らないわけにもいかない。
麗らかな光の中。
大きな歓声と、飛び交う花のシャワー。
キラキラと、シェラのドレスが煌く。
彼女の手を取る花婿の手がそばにある。
純白の大輪の花でできたブーケ。幸せは、次へと繋がれる。
未婚女性たちが集められる中、それをぼうっと眺めていたメリルの背をジェサードが無言で押した。行って来いと言うのだろう。現段階で結婚に興味があるとは言いがたいけれど、ものの数としてあそこに立っているくらいならばいいかと思った。そろそろと歩み寄るメリルに気付いたシェラが、じっとメリルのいる位置を確認するかのように眺める。そして、笑って背を向けた。
シェラの細い腕から離れたブーケは、思った以上に高く上がった。眩い太陽の光の中、その影が落ちる。見上げていると目が眩んだ。
何か、その瞬間はとても緩やかに感じられた。
メリルはブーケを目で追いながら、ぼんやりと思った。
自分は、何を望むのか。
シェラのような幸せな結婚か。平凡な家庭を持って、慎ましやかな幸せで満足するのか。
――違う。
強く願うのは、光に溢れた舞台の上に再び立つこと。
どんなに終わったと自分に言い聞かせても、心の奥底ではそれを願っている。そんな自分を騙して毎日を過ごして来た。
ジェサードに焦がれた想いと同じほどに、それ以上に、本当は演じることに恋焦がれている。
シェラのように、自分に素直に、好きなものを好きと言えたなら――。
あのブーケをつかみ取れば、運命は自分に味方してくれるような気がした。結婚ということではなく、自分が求める幸せのかたちが手に入るような、そんな気がしたのだ。
メリルに向かって放物線を描いて降下するブーケ。手を伸ばし、夢を追う。
パシ、と正面で音がした。
呆然と、メリルは立ち尽くす。
「やった!!」
受け取ったブーケを高らかに持ち上げ、屈託のない笑顔を振り撒くそばかすの女の子。
「シェラ、次はあたしの番だからね!」
朗らかで、場が明るくなる。シェラはびっくりしながらも笑った。
そんなかわいらしい彼女に、何人かの男たちが好意的な視線を向けていた。きっと、本当に次は彼女の番になるのではないかと思う。
絶対にブーケを取ると挑んだのだろう。落ちて来るのをただ待ったメリルとは違う。誰にも譲るつもりはなく、横からかっさらうことに躊躇はなかった。
そんな彼女に、昔の自分を思い出した。
夢に向かって貪欲に、それだけを見据えていることができた自分。待っているだけではつかめない役をもらうために、必死で稽古して、恨みを買ってでも譲らなかった。
そんな自分が、あっさりと目の前の獲物をかっさらわれるなんて情けない。そう、メリルは苦笑した。
最初から、気持ちで負けていた。闘争心が足らなかった。
ジェサードが言うように、始める前に縁がないと決め付けた。この結果は、その時に決まっていたのだ。
おかしな話だが、何か晴れやかな気持ちになった。
一度でもほしいと思ったものが手に入らなかった時の悔しさを思い出した。諦めることに慣れたと思い込んでいた自分の本質が、そこにある。
勝者の彼女に皆と一緒に拍手を送ると、その場を離れた。一部始終を見ていたジェサードが、笑いを堪えている。
「なんだ、嫁に行きそびれたな」
軽くにらむけれど、ジェサードにそんなものは通用しなかった。
「お前はまだ家庭に収まるべきじゃないってことか」
その意見にはうなずけてしまう。
「……ジェサード、少し向こうへ来てくれる?」
メリルはようやく覚悟を決めて口を開いた。
この祝いの場であまりにも厳しい顔で話し込むのは二人に申し訳がなかったから、少し席を外すことにした。店の奥には鬱蒼と茂る木々があり、その木陰に来た。
そこでメリルはジェサードと向き合う。
「あたし、もう一度ゼロからやり直すわ」
ジェサードの顔から笑みが消えた。真剣な瞳が鋭く、メリルの言葉の真意を探ろうとする。
嘘など見透かすその瞳に、メリルは誓うのだった。
「もう言い訳はしない。あたしは役者として、自分の願いのために貪欲に生きるから」
でもね、と言葉を切る。
「公私を分けられない自分は嫌だから、ジェサードのことは頼らない。お互い、連絡を取り合わなくても評判を噂に聞けるような役者でいましょう」
夢はひとつ。
だから、そのためにはこの選択が正しいのだと思う。
けれど、ジェサードはどこか寒気のする笑い声を立てた。
「公私が分けられない? お前はそんなにも俺のことが好きなのか?」
言葉に詰まるメリルをいたぶるように、ジェサードは更に突き詰める。
「それにしては、言葉にしたことなんて一度もないじゃないか。決別するつもりなら、はっきりと言ってみろよ」
同じ劇団の先輩でいる時は、面倒見がよくて紳士で、時に厳しくても概ね優しい人だった。
こうした鋭さを見せるのは、苛立ちからか、それとも本性なのか。いくつもの顔の中の真実は、どれなのか。どれであったとしても、彼であることに変わりはないのだ。
メリルはスッと息を整え、まっすぐにジェサードの青い瞳を見据えた。
そうして、挑むようににらみ付ける。
「自惚れないでよ。いつまでも引きずっていたのは、あなたへの想いじゃないわ。自分がしたことの愚かしさよ」
さすがにジェサードも面食らったようだった。そうした言葉が飛んで来るとは思わなかったのだろう。
そんな顔を見られて清々した。
気持ちは、一生抱えて行く。きっと、忘れることはできない。心に秘めて、演技の糧にする。
それでいい。そんな気持ちだった。
想いを告げて満足するなんて、自分らしくない。
けれど、ジェサードはそれから心底楽しそうに笑った。クスクスと、しつこいくらいに。
ムッとしてメリルがにらむと、ジェサードはきれいに微笑んだ。
「そうか。それは残念だ」
「は?」
飛び出した声を押し込めるようにメリルは口もとを押えたけれど、今更だった。
ジェサードはそんなメリルに近付くと、その耳にささやく。
「俺は、お前が好きだったよ」
メリルはきゅっと瞳を閉じた。
自分はきっと、試されている。
決意を、覚悟を。
揺らぐ心を見せてはいけない。
ざわざわと賑わいでいる周囲から切り離されたように感じられた。
せめてもの抵抗に、言葉を絞り出す。
「嘘つき」
本心なんてわからない。
たくさんの嘘を真実のようにして演じ続ける。
自分たちはそうした人間だから。
ジェサードは、それでも更に言った。
「俺はこれから、劇団を旗揚げするつもりでいる」
その言葉にメリルは耳を疑い、何度も目を瞬かせた。そんな様子に、ジェサードは思わず苦笑する。
「口で言うほど簡単なことじゃない。馬鹿だって思うだろ? でもな、もう決めたんだ」
資金も役者も、公演する場所も不安定だ。客が付いてくれるのかもわからない。
無謀だと皆が言うだろう。
けれど、大志がなければこんな仕事は向かない。堅実にこなしていたのでは、観客に伝わるものなどなにもない。ジェサードはそう思うのかも知れない。
「それ、まさかあたしについて来いって言ってるの?」
すると、ジェサードは柔らかく微笑んだ。
「そう聞こえなかったか?」
不安ばかりのその渦へ巻き込もうとする。
きっと、断れないと思っている。ジェサードのそういう狡さが嫌だ。
なのに。
「なあ、ラキア」
「何よ」
素っ気なく答えるけれど、ジェサードは動じない。平然と言うのだ。
「公私を分けるためにはどうしたらいいのか教えてやろうか?」
「え?」
狙いを定められた獲物のように、メリルはその瞳に射すくめられた。距離が、近付く。
「演技ではなく、現実に俺を手に入れたなら、お前の心も充実して演技に打ち込めるんじゃないか?」
「な、何言って――っ」
下がろうとしたメリルを、ジェサードが抱き締める。息苦しさを感じるほどの力だった。
「公私両方のパートナーとして俺はお前を選ぶから、お前も俺を選べ」
優しげな顔の下は、強引で強欲な似非紳士だ。メリルは苦し紛れにそんなことを思う。
なのに、その鮮烈な存在感に何度目を背けても引き寄せられてしまう。それはきっと、メリルだけではなくて他にもそうした女性たちはいる。そばにいると苦しいことがたくさん待ってる。
そう思うのに、シェラはメリルの幸せは彼のそばだと言う。
真剣に演技に打ち込む姿勢を尊敬した。
落ち込めばさりげなく手を差し伸べてくれる優しさに想いを寄せた。
そして、力強く引き寄せる強引さに反発しようとするのに、気付けば心は屈してしまっている。触れた体から、毒気が抜ける。
「……あたしはジェサードの邪魔になるかも知れないのに?」
悔し紛れに服にしわが付くように背中の辺りを握り締めてやった。けれど、腕の力はまるで緩まない。
「それはそれで退屈しないな」
どうあってもジェサードは、自らの力を頼りに納得の行く演技を追及し、生きて行くのだろう。
それを一番近くで支え、共に夢を見る。自分も、そうした生き方を選んでもいいのだろうか。
惨めに自分の家で一人涙するくらいならば、その困難を共に歩んでみよう。ようやく、そう思えた。
「そう。じゃあ、覚悟しなさい」
メリルはようやく、心から笑えた気がした――。
※※※
式も無事に終わり、参列客を主役の二人が見送る。人もまばらになった頃、シェラはふと気付いた。
「先生、ジェサードさんとラキアさんが見当たりません」
シェラはおろおろとベールごと首を振って二人の姿を捜した。アルテルはそんなシェラに小さく首をかしげる。
「さっきまでいたんだし、その辺にいるんじゃないか? まあ、二人そろっていないなら、どこかで話し込んでるのかもな」
「そうですね」
と、シェラは嬉しそうにふわりと笑う。
「嬉しそうだな」
アルテルが言うと、シェラは大きくうなずく。
「はい。ラキアさんには幸せになって頂きたいですから」
「大丈夫だろ、きっと」
そんな楽観的なセリフには、ちゃんとした根拠があるのだった。
それがわかるから、シェラも微笑んでいた。
「ブーケはティケが取りましたけど、ラキアさんの方が早いかも知れませんね」
「一番取らなきゃいけないのはラメリアなのに不参加だったからな」
「ラメリアさんはご自分が結婚しようと思ったなら自発的に動かれますから、そんなに心配は要らないと思います。ラキアさんは意地を張るから、ラキアさんの方が心配でした」
アルテルはくすりと笑った。そんな時、二人の正面にアルテルの両親と噂をしていたラメリア、アルテルの甥のイーゼルがやって来た。本来、イーゼルの両親もいるのだが、レッドファーン家は医療の名門であり、全員が留守にもできなかったのだ。もう一人いるというアルテルの姉も、子供が小さいのでここまで行くのは難しい、と丁寧な手紙をくれた。
「アルテルそっくりだって、やたらとガキどもにまとわり付かれて疲れた」
イーゼルはアルテルをそのまま若くしたような容姿であるため、ひと目で血縁と知れる。シェラは思わず笑ってしまった。
「それはお疲れ様でした」
それから、と顔をアルテルの両親に向ける。
「本日はおいで頂き、ありがとうございました。ふつつか者ですが、どうか、末永くよろしくお願いします」
アルテルが上手く言葉を選べないでいる中、シェラがそう言って頭を下げた。厳しい父親も、それに付き従う母親も、ここへ来た時点で反対する気持ちなどないのだ。そんなに硬くなる必要はない。
「先は長い。楽しいことばかりではないだろう。それでも、寄り添って行くことを選んだのなら、それを貫きなさい」
「はい」
アルテルもようやく笑顔を見せてうなずいた。
そうして、一人、また一人、と参列者は去って行く。華やかな式は終わり、これからは現実が待っている。それでも、シェラは厳しい現実の中にも幸せを見出せる自信があった。
誰もいない店の前で、シェラは隣に立つアルテルの腕に寄り添った。
「先生」
「ん?」
シェラはアルテルを見上げ、幸せな花嫁の象徴である笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます」
「どうした?」
突然の言葉に、アルテルが苦笑する。シェラはクスクスと笑った。
「なんでしょう、急にそう言いたくなって。きっと、幸せだからですね。これを感じることができるのは、先生のおかげですから、ありがとう、なんです」
そっと、愛しむように目を細めると、アルテルはドレスのおかげで嵩増しされたシェラの体を横抱きに抱き上げる。
「ひゃ!」
あまりに唐突だったので、シェラはアルテルの首に腕を回してしがみ付いた。
「な、なんですか!?」
「いや、なんとなく」
アルテルは悪びれた様子もなく、しれっと答えた。シェラはそっと腕を緩めると、アルテルの顔を見た。そうして、その頬にそっと手を添え、軽くキスをする。
「なあ、シェラ」
「はい」
「心構えはできたか?」
「はいぃ?」
見る見るうちに赤くなった顔を、シェラはアルテルの肩に隠すように伏せる。そうして、ぼそりとささやいた。アルテルは腕の中の花嫁に優しく言葉を重ねる。
幸せなのはきっと、お互い様だと。
こちらの挿絵は蒼山様にお願いして描いて頂きました。
体調が優れない中、本当にありがとうございます!
今回、イラストを頂いてから私がシェラの花嫁姿を描写するという試みでした。なので、イラストが文章より先なんです。うん、思った以上に難しいものですね(汗)
そんなわけで、ドレス等のデザインはすべて蒼山様によるものです。
いつもながらの素敵なセンスですね~♪
※イラストの無断転載等はお控え下さいますようお願い申し上げます。




