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アルテル=レッドファーンの日常  作者: 五十鈴 りく
番外編

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14/17

アルテル=レッドファーンと共に

本編は改稿しましたが、番外編までは今のところ手をつけておりません。

読みにくさがあるかとは思います。こちらの改稿はまたいずれ……(2022.3.25)

 とある森のそばに、大樹をくり抜いたような外観をした店があった。

 その店は、薬屋である。

 『アルテル薬剤店』。

 丸文字の看板にはそう書かれていた。

 ある冬の日、降りしきる雪が、その店先も森の木々をもわけ隔てなく白銀に染めて行く。いっそう冷え行く雪の晩、その薬屋の二階での出来事――。



 アルテル薬剤店の店主、アルテル=レッドファーンは、二十代後半の青年である。少し長めの、ところどころがはねた金髪、通った鼻筋に乗った丸眼鏡、その奥の琥珀色の眼が特徴的であった。

 彼は今、長身に見合った長い指で試験管を振るっている。その表情は真剣そのものだった。

 真っ黒な長いローブを身にまとった彼は、最寄の町へ向かえばちょっとした有名人である。

 優しく子供好きな薬師。死病の特効薬を作り出し、町の子供たちを救ったことは、すでに誰もが知るところである。


 ただ、今でこそ好意的な目で町の人々に受け入れられているアルテルだが、少し前の彼の評判は悲惨なものであった。

 その出で立ちから、悪魔的な研究をしている黒魔術師、子供を攫って生き血をすする悪鬼、などという、これ以上ないほどの悪評が轟き渡っていた。

 それを払拭し、アルテルを正当な評価へと導いたのは、たった一人の少女であった。


 名前はシェンティーナ。皆が彼女を親しみを込めてシェラと呼ぶ。

 アルテルのもとに住み込みで働く彼女は、恋心を抱く雇い主のため、健気に尽力したのである。

 亜麻色のまっすぐに伸びた髪に黒真珠のような瞳をした彼女は、誰もが振り返るような美少女であったけれど、そんな彼女のことを少年だと見誤るような朴念仁のアルテルであった。

 ただ、鈍いのはお互い様というような二人である。性別の誤解も解け、いつしかシェラに惹かれるようになっていたアルテルの気持ちに、シェラも気付いていなかったのだから。


 そんな二人が晴れて恋人同士になれたのは、周囲の人々のお節介やその他諸々の外的要因が重なっての結果と言えた。周囲の人々は、奇跡的だと微笑ましく見守っている。

 元お嬢様であるシェラの実家の事情がひと段落して、ひとつ季節が切り替わった。

 シェラは毎日を噛み締めるように、幸せに過ごしている。



「先生、お食事の支度が整いましたよ」


 ここへ来て、シェラも随分レパートリーが増えた。まだ、料理の腕はアルテルに敵わないかも知れないけれど。

 今日は寒いから、体があたたまるものがいいと思った。大きめに切った根野菜と豚肉のポトフ。ほろりと崩れるほど柔らかくよく煮込んだ。それと、チーズを乗せて焼いたパンの香ばしい匂いが食欲をそそる。


「ん、ありがとな」


 眼鏡の奥の瞳が優しく、甘く、微笑む。

 シェラは頬を染め、小さくうなずいた。

 アルテルは調薬に熱中すると食事など二の次三の次、というタイプであった。けれど、シェラが自分のために一生懸命用意してくれた食事だと思うからか、その食事が冷めないうちに食べるよう心がけてくれるようになった。これは大きな進歩のように思う。

 席に着き、二人は向かい合って食事を摂る。シェラは窓の外をちらりと見遣った。


「先生、雪がきれいですね。明日には少し積もっているかも知れませんよ」


 なんとなく、嬉しくなった。

 雪が好きかと問われるなら、シェラはうなずいたりしなかっただろう。寒いし、冷たい。一人暮らしの時、どれだけこの雪と冬に泣かされたかわからない。

 けれど、今はこのあたたかな場所で、アルテルと一緒にいられる。アルテルと眺める雪は初めてだった。だから、なんだって新鮮に映る。寒さなんて気にならなかった。

 そうしてはしゃいでいるシェラを、アルテルは穏やかな面持ちで眺めていた。


「そうだな。これから、きっと寒くなる」


 つぶやいて、食事を口に運ぶ。シェラも微笑んで、冷めないうちにと食事を続けた。

 

 そうして、すべて平らげてひと息ついた頃、アルテルは窓の外を、頬杖を付いてぼうっと眺めていた。いつもはすぐに動く人なので、シェラはそれを意外に思いながら、その横顔を見つめた。炉に火を入れて暖を取っているけれど、それでもこの冬の寒さはアルテルの動きを鈍らせるのかも知れない。


「先生は、寒いの苦手ですか?」


 ぽつりとシェラが訊ねると、アルテルはおもむろに顔をシェラに向けた。


「まあ、な。シェラは?」

「そうですね、寒いのは嫌いです」


 得意な人の方が少ないのかも知れない、なんてことも思う。

 不意に、シェラを見つめるアルテルの顔から微笑が消えていた。真剣な面持ちは、少し鋭さを感じる。

 急なことに、シェラはどきりとした。

 アルテルは口を開く。


「なあ、シェラ――」


 その声の響きも、どこか重い。


「は、はい」


 先ほどまでのふわふわとした気持ちはかき消えて、シェラは緊張を感じながらその先を待つ。そうして言われた言葉に、耳を疑った。



「お前の部屋――そろそろ物置に戻してもいいか?」



 シェラが今借りている三階の部屋はもともと物置であった。それを掃除して使わせてもらっているのだ。そこを物置に戻すと言う。

 つまり、出て行け、と――そういうことだ。


 あまりのことに、目の前が真っ暗になった。頭を鈍器で殴られたような衝撃が走り、とても返答なんてできなかった。

 何がいけなかったのか、それすらわからない。どうして急にという思いが強い。

 いつの間に、そんなにもアルテルの気分を害してしまっていたのか。

 毎日が幸せだと浮かれていた自分に、愛想が尽きたのだろうか。思った以上に役に立たないと気付いてしまったのか。そう考えたら、あんまりにも自分が情けなくて、恥ずかしくて、涙がにじんだ。


 やっぱり、永遠の幸せなんて存在しない。

 それにしたって早かったな、と悲しく思う。

 勘違いして浮かれていた自分が悪い。こんな時は泣いてはいけない。

 ちゃんと礼を言って、最後は笑って――。


 そう思えば思うほど、涙は止められなかった。

 一度知ってしまった幸せは、自分を弱くしてしまったのかも知れない。もう、一人で生きて行ける気がしなかった。


「シェラ?」


 小さく嗚咽をもらして泣くシェラの様子に、アルテルの声にも戸惑いが混ざる。ガタン、と席を立ってシェラのそばまで回り込むと、シェラが顔を隠すように広げていた手を引いた。シェラはとっさに顔を背けるけれど、アルテルの手がその顔をすくい上げた。シェラは観念して、声を絞り出す。


「わかりました。……今までお世話になりました」


 その途端に、アルテルの素っ頓狂な声がした。


「は?」


 その声が、シェラの中のたがを外す。ガタン、と椅子を倒して立ち上がった。


「明日には出て行きますから!」


 かんしゃくを起こした子供のように叫んでアルテルの手を振り払おうとした。そのことに、アルテルはひどく驚いた風だった。


「出て行くって、どういうことだ?」


 どういうことだと問う。そんなものはこっちが訊きたい。


「だって、出て行けって言ったじゃないですか!」

「はぁ?」


 噛み合わない会話。


「あの部屋を物置に戻すって! そしたら、私に行くところなんてないのに!」


 そう言ってボロボロと涙をこぼすシェラに、アルテルは苦笑した。何故このタイミングで笑ったのか。


「あるだろ」


 ふるふるとかぶりを振ると、アルテルは硬くまぶたを閉じたシェラの耳もとでそっとささやいた。


「俺の部屋」

「――え?」


 意味がわからず、呆然と動きを止めたシェラを抱き締めると、アルテルは柔らかな口調で言うのだった。


「つまり、結婚しないかって意味なんだけどな」


 あまりのことに、シェラは絶句してしまった。

 体中の力が抜け、立っていられなくなったシェラを、アルテルはそのまま支える。そうして、シェラの早とちりをクスクスと笑うのだった。


「お前も鈍いな」


 釈然としない。どう考えても、あの発言がプロポーズだと気付ける人間の方が少ない。なのに、アルテルはシェラが鈍いと言う。


「先生にだけは言われたくありませんよ……」


 せめてそんな憎まれ口を叩いてみる。けれど――。

 じわりじわりと、震えるような喜びが胸の奥を支配する。本当、だろうか。

 涙を拭きながらちらりとアルテルを見上げると、愛しげな瞳とぶつかった。


「返事は?」

「はい――」


 聞かなくてもわかっているくせに、と思う。それでも、そのひと言が確かな絆になる。

 これからの人生を共に歩んで行くための――。



          ※※※



 というわけで、二人は友人知人のもとへと結婚の報告に向かうのであった。

 まず、一番最初に報告すべき人は、フレセス=ブルック。シェラの実家で執事をしていた老人である。

 今は他家に仕えているのだが、ずっとシェラのことを誰よりも心配してくれていた。

 そんなフレセスの甥っ子フレイの家で、彼も交えて二人はフレセスへ報告をする。


 アルテルは不思議と落ち着き払っていたけれど、シェラはフレセスへの報告が何より緊張した。

 ほぼ口を挟まず、時折相槌を打つ。背筋のよいフレセスの、まぶたを閉じた厳しい面持ちを、シェラはチラチラと窺うのだが、その考えはよくわからなかった。

 話を終え、まぶたを開いたフレセスは大きくうなずいた。


「実を言いますと、先にアルテル殿にはそういった旨のお話をすでにされておりまして、心構えはできております」

「ええ!」


 シェラが驚いてアルテルを見上げると、アルテルは苦笑していた。そんな二人に、フレセスは優しく微笑む。


「おめでとうございます。どうか、お幸せに」


 寂しさと喜びをない交ぜにした、そんな微笑みだった。どれほどシェラのことを案じてくれていたのか、知っているつもりでいた。けれど、本当は、そんな理解の遥か上を行く気持ちを持って接してくれていたのだと、ようやく気付けた気がした。


「ありがとう、フレセス……」


 涙を浮かべるシェラに、フレセスはにこりと微笑みながら、急に厳しい声を出した。


「ただ――」

「え?」

「式はちゃんとお挙げ下さい」


 二人はそのひと言に身を引き締める。それくらい、有無を言わせぬ口調であった。


「どんなに小さくともよいのです。お嬢様が皆に祝福されながら嫁ぐ姿を、このじいに見せて下さりませ」


 小さな瞳を潤ませ、そう言われてしまっては、承諾するしかない。簡単に済ませようとしていた二人の心を完全に読まれていた。二人は顔を見合わせ、それからアルテルは言う。


「わかりました。では、また招待状をお持ちします」

「はい、お待ちしておりますよ」


 そんなフレセスのそばで終始ニヤニヤしていた甥っ子のフレイもようやく口を開く。


「おめでとさん。やっとだなぁ」


 この二人の遅々たる進展具合に周りがやきもきしていたことなど、当の本人たちは知らないのだ。


「雪が溶けた頃にするんだろ? 式の時の花は任せとけよ」 


 フレイは庭師見習いで花に詳しく、そうしたつてもあるのだろう。


「うん、ありがとう」


 にこにこと、シェラが幸せそうに笑うから、皆にとってはそれが何よりである。


 二人はその足で、お互いの友人のもとへと報告に向かった。同じ町の中にいるので楽なものだ。

 シェラは、雑貨屋で働くティケという少女のもとへ。

 アルテルは、役者をしている青年ジェサードの練習場へ。



 雑貨屋の扉を開くと、カランカラン、とドアベルの音が響く。


「こんにちは」

 そっとシェラが顔を覗かせると、ティケはぱっと瞳を輝かせた。このそばかすのあるかわいらしい顔立ちに出会えると、シェラも嬉しくなる。


「あ、シェラ。今日はどうしたの? アルテルさんは?」


 ティケはシェラにとって気兼ねなく話せる数少ない女友達である。彼女への報告が、シェラにとってはとても楽しみなことであった。

 耳打ちするようにささやくと、ティケは元気よく大声を上げた。それから、大きく見開いた眼をシェラに向けると、ティケは勢いを持て余してカウンター越しにシェラに抱き付いた。


「うわぁ、すごい! よかった……おめでとう!!」

「うん、ありがとう」


 いつも、たくさん相談に乗ってくれて、後押ししてくれた。

 あたたかなティケに、シェラはじわりと涙がにじんだ。そんな彼女に、ティケは微笑む。

「招待状に使うカードと封筒、色々あるからね。ちょっと見ていかない?」

「うん!」


 ああでもない、こうでもない、と封筒の柄を楽しく吟味する。雑貨屋の中が、そんな彼女たちの声で華やぐのだった。



 一方、ジェサードのもとへ向かったアルテルはというと――。


「結婚?」

「そう」


 背中まで伸びた銀髪をひとつに束ね、貴公子然とした風貌。木製のマグカップに入った、冷めた茶を飲む親友に、アルテルは壁にもたれながら短く簡潔な報告をした。

 雑然とした練習場の片隅。小さな舞台のためのそこは、人がひしめき合っていた。

 本来、ジェサードは人気もそこそこにあり、このような小さな舞台に出るような役者ではなかったのだが、これは本人が選んだことであり、他の誰かがとやかく言うことではない。

 ジェサードは、アルテルの隣でクスクスと声を出して笑った。


「そっか。やっとか。そりゃあめでたいな」


 彼にも色々と世話を焼いてもらった。傍目にじれったく思っていたらしい。


「簡単な式を挙げることになったから、また招待状を持って来る」


 淡々とそう告げるアルテルをジェサードは不意にじぃっと見つめる。


「ジェド?」


 アルテルが首をかしげると、ジェサードは青い目を細め、何故か意地悪く笑ってアルテルの肩に手を置いた。そして、ぼそりと言う。


「お前も律儀だよな」

「は?」

「まだ、シェラに手ぇ出してないんだろ?」


 思わず無言になったアルテルに、ジェサードは更にいたぶるような声で言った。


「健気に自分を慕ってくれている美少女と、一緒に住んでて常に二人っきり。なのに結婚するまで手を出さないなんて、お前の真面目さには頭が下がるよ。その保護者みたいなじいさんの手前か?」


 アルテルは苦虫を噛み潰したような顔で嘆息した。そして、ジェサードの腕を押しのける。


「それもあるが――」


 そうつぶやいて、更にひと際大きく息をつく。


「あの信頼しきった目を向けられるとな……」

「悪いことはできないって?」


 と、ジェサードは吹き出した。上品な外見に見合わず、ゲラゲラと笑う親友に、アルテルはムッとする。


「そういうお前はどうなんだ?」

「ん?」


 今度はジェサードがきょとんとして笑いを止めた。そんな彼に、アルテルは少し厳しい口調で言う。


「ラキアに会ったのか?」


 ジェサードは、そのひと言に失笑した。その反応は、アルテルの予測したものとは少し違った。だから、アルテルの方が困惑することとなる。


「会ってない。あいつはそう素直な女じゃないからな」


 どこか冷たい響きのある声だった。

 ラキアは、ジェサードの後輩に当たる女優であった。けれど、今は役者を辞めてしまい、とある屋敷でメイドとして働いていたのだが、そこも辞める形になった。アルテルは未だこのジェサードに想いを残すラキアに、彼に会いに行けと言ったのだが、当の彼女はまだ踏ん切りが付かないようだ。

 けれど、ジェサードは言う。


「ただ、居場所の見当は付く。お前らの結婚式の招待状も届けてやるよ」


 勝手に彼女が役者を辞めてしまったこと。それをやはりジェサードはひどく怒っているようだ。

 声に不穏なものがにじんでいるけれど、この際仕方がない。それでも、二人が顔を合わせるきっかけがあればと思う。


「ああ、頼む」


 と、アルテルは苦笑した。



 そうして、アルテルはシェラを迎えに雑貨屋へ向かう。そこでシェラは招待状に使う封筒とカードを選んでいた。


「先生、これなんかどうですか? 葉っぱの柄が先生のイメージに合うかなって」


 ウキウキと、嬉しそうに封筒を見せる。その手もとの淡い緑色をした封筒よりも、幸せそうに微笑むシェラの表情に目が行った。本当に幸せそうに感じられるから。


「ん、シェラがそれがいいと思うなら、そうしよう」


 柔らかくそう返すと、シェラの隣のティケがニコニコと笑顔でお辞儀をした。


「アルテルさん、おめでとうございます。シェラのこと、誰よりも幸せにしてあげて下さいね」


 ティケは優しい娘だ。そんな娘に、嘘なんてつけない。心から誓うつもりで答えた。


「ありがとう。約束するよ」


 シェラは頬を染めて、瞳を潤ませていた。

 そのまま封筒とカードを購入し、店に戻る。

 優しくあたたかな人たちに囲まれ、自分たちは恵まれている。二人はそう思えた。

 皆に祝福されながら結婚する。それが何よりのことだと。


 ただ、ほんの少し欲を出してしまった。

 祝福と許しを、望むすべての人から受け取ることができたなら、と。



          ※※※



「――ノイドとフォーレンとクーディにも来てほしいですよね。親御さんたちも一緒なら来てくれますよね?」


 シェラは招待状を出す先を書き出している。ぼんやりとつぶやく姿に、アルテルは愛おしさを感じて微笑んだ。


「そうだな。ご家族様一同で出しておけばいいんじゃないか? 後、診療所の面々にも出しておくか?」

「はい。診療所の先生方とギャレットさんとですね」


 参列者は、思った以上に増えそうだった。いつの間に、こんなにもたくさんの人と触れ合ったのかと思うほどに。その出会いのほとんどは、シェラが始まりであったように思う。

 サラサラと、紙の上に名前を連ねて行くシェラは、ふと手を止めた。


「ラメリアさん、お忙しいですか? 来て、下さいます?」


 ラメリアは、アルテルの姉である。都で診療所を営む女医であり、多忙な人だった。


「んー、絶対とは言えないけどな。呼ばないと後でうるさいから、招待状は出しておこう」


 苦笑しつつアルテルがそう言うと、シェラはどこかためらいがちに付け足す。


「あの、先生のご両親には……?」


 その言葉に、アルテルは一瞬、どう返すべきか迷った。

 薬師として生きると決めた時に、アルテルは跡を継ぐべき実家を出た。それ以来、戻っていない。特に父親とは喧嘩別れのような状態である。厳格な父を招待したところで、来るとは思えなかった。医師にならなかった自分は、父にとって価値のない人間だから。


「呼ばないおつもりでしたか?」


 気遣わしげな声でシェラが言う。

 アルテルは、実家のことにシェラを巻き込みたくないと思った。


「俺はもう、あの家とはかかわりがない。責任を放棄した時点で、決別は覚悟したから」


 すると、シェラはぽつりと言った。


「先生は贅沢ですね」

「へ?」


 シェラはペンを置いてアルテルのそばへ歩み寄る。そして、その手を取って言った。


「私の両親は、呼びたくても呼べません。先生は呼べるくせに呼ばないんですから、贅沢です」


 シェラの両親はすでに他界している。彼女は自分の花嫁姿を両親に見せることが叶わない。どんなに願っても。だからこその言葉だ。

 寂しげにうつむいたシェラの細い体を片手で抱き寄せると、シェラはアルテルの胸もとで小さくささやいた。


「一度、会いに行きませんか?」

「シェラ……」


 ギュ、とか細い指がアルテルの服を握り締める。


「招待以前に、ご挨拶に伺うのが筋ですよ。先生、私をご両親に紹介して下さらないのですか?」


 確執の残る実家にアルテルが帰るきっかけを、シェラは与えようとしてくれたのだろう。その気持ちが伝わるから、アルテルはその言葉に従うしかないのだった。


「……わかった。でも、あまり期待しない方がいいぞ。門前払いかも知れないからな」


 すると、シェラはクスクスと笑った。


「大丈夫ですよ。今までだってそんなことはありましたから」


 そう言われてみれば、そうだった。

 罵倒され、石を投げ付けられ、追い払われた。そんな時でさえ、シェラは退かなかったのだ。

 儚い容姿とは裏腹に、強い意志を持って想いを通した。だからこそ、今があるのだ。


「楽しみです」


 そんな一言に、アルテルは腕に少しだけ力を込めた。

 何よりも大切な、その想いは強まるばかりである。



          ※※※



 首都ローテスターク。

 アルテルの実家はそこにある。レッドファーン家は国の重鎮の主治医を何人も輩出しているという医療の名門であるらしい。そこの跡取り息子であったアルテルが違う道へ進んでしまったことは、やはり彼の父親にとっては業腹なのである。

 今はアルテルの一番上の姉の婿である義兄が跡継ぎという形で収まっているらしい。


 今更あの家にアルテルの居場所がないのだとしても、そう簡単に親子の縁が切れてしまうとは、シェラにはどうしても思えなかった。すぐ上の姉であるラメリアが、なんだかんだと理由を付けては忙しい合間を縫って足を運んでくれているのが何よりの証拠である。

 不安半分、期待半分。

 シェラはそんな気持ちでローテスターク行きの船に乗り込むのだった。


 出航してしばらく、雪の舞う冬の海を甲板で眺めると、風の冷たさが身に染みた。思わず身震いした瞬間に、アルテルが包み込むように寄り添ってくれた。そのあたたかさが心地よくて、シェラはそっとまぶたを閉じた。



 船室はひとつ。同じ部屋で眠ったことが、今までも何度かあった。

 だから、昔とは違い、シェラにとってはそれが特殊なことではない。毎日一緒に二人きりでいるのだから。

 アルテルは早々にシェラに背を向けて眠ってしまっていた。船の上では調薬もできない。つまり、退屈なのだろう。


 こんな時くらいはゆっくり休んでもらわないと、とシェラは微笑むとベッドに座って、眼鏡のないアルテルの寝顔にそっとキスを落とした。

 その途端、アルテルの琥珀色の瞳がうっすらと開く。起こしてしまったかと、シェラは慌てた。

 ただ、グイと肩に力がかかり、倒れ込んだシェラにアルテルの体が被さる。その首筋にアルテルの柔らかな髪が触れた。


「せ、先生?」


 シェラが声をかけても返答はなかった。


「寝ぼけてるんですか?」


 どうやらそうらしい。シェラはその髪を撫でて眠りに就いた。


「…………」


 だから、その後でシェラの規則正しい寝息を聞きながらアルテルがついたため息の数など、シェラは知らないのである。

 


          ※※※



 昼下がりになってローテスタークの港に降りたシェラは、その冷たい潮風を存分に吸った。ここがアルテルの故郷であると思うと、すべてが愛しかった。


「先生! ここで先生は生まれ育ったんですから、やっぱり懐かしいですか?」


 客船から波止場に降り、はしゃぐシェラを眩しそうに眺めるアルテルは、なんとなく疲れて見えた。よく眠っているように見えたけれど、もしかすると枕が変わって眠れなかったりしたのだろうか。そんな繊細なタイプだとは思えないので意外なことだが。


「ん、まあ懐かしくはあるけど」


 無頓着な様子だった。そういうところがアルテルらしいと言えなくはないけれど。


「ええと、まずはラメリアのところに行くか。実家はその後だ」

「はい!」


 ラメリアに会えることが、シェラの楽しみのひとつでもあった。彼女はずっと、二人の関係が深まるように応援してくれていたから。

 こちらの地方にまだ雪はないようだ。赤茶けたレンガの石畳の上を、アルテルは二人分の荷物を持って歩く。その隣を、シェラがウキウキと周囲を見回しながら寄り添うのだった。


「前見て歩かないと危ないぞ」


 思わずアルテルが苦笑してしまうほど、シェラは町並みのすべてを目に焼き付けていた。亜麻色の髪を揺らし、シェラは笑顔で振り向く。 


「大丈夫ですよ。先生って、意外と心配性ですよね」

「お前がそそっかしいからだろ」

「え! そんなことないですよ!」


 いかにも心外だといった風に反論する。前言を撤回してくれることはなかったけれど、クスクスと優しい笑い声が心地よかったのでごまかされてしまった。

 そんな風に二人で歩く道のりは、あっという間に感じられた。


 ラメリアの診療所は、下町と呼ばれる場所であった。名門のレッドファーン家の者なら、もっといい場所に開業できただろうけれど、あえてここを選んだことが何よりも彼女らしいと思えた。

 簡素な木の看板。三段しかない石段を上って覗き込むと、その診療所には思った以上に人がいた。お年寄りばかりではなく、小さな子供もいる。わんわんと声を上げて泣く子供をあやす母親の声や、その鳴き声にかき消されないように声を張り上げる診療所の係員の声がした。


 少し、小児熱死病セベトの騒動を思い出してシェラは不安げにアルテルの腕に触れた。そんな心情を汲み取ってくれたのか、アルテルはシェラの肩に手を置いて中へと進む。


「身内の者ですが、ラメリアは当分時間を取れそうにありませんか?」


 中にいた係員にそう訊ねると、その受付をしていた女性はアルテルの容姿から何かに気付いたようだった。あ、と小さく声を上げる。


「しょ、少々お待ち下さい」


 そう言ってそそくさと中へ入って行く。この時季、風邪をひく人も多いことだろう。忙しいのも仕方がない。悪い時に来てしまったな、とシェラは申し訳なく思った。

 診療所の雑然とした一室に通されると、白衣をまとったラメリアが足音を響かせながらやって来た。薄化粧に髪を束ねただけの姿だったけれど、もともとが美人なのでそれでも魅力的だった。

 ただ、表情はどう見ても怒っている。


「アルテル! あんた、やっと戻って来たかと思えば、どうしてこんな忙しい時に来るのよ! わざと? わざとでしょ!?」


 ヒステリックな叫びにおろおろしたのはシェラだけである。アルテルは小さく嘆息しただけだ。


「そう言われてもな。別に忙しいならいい。顔を出さないとうるさいかと思って来ただけだからな」


 すると、ローヒールのかかとがアルテルの足に振り下ろされた。ハイヒールではないので、アルテルは顔をしかめながらも耐えた。


「かわいくない!」


 この姉弟なりのスキンシップにシェラは戸惑いつつも、おずおずと挨拶をする。


「ラメリアさん、ご無沙汰してます」


 すると、ラメリアはアルテルに向ける何百倍もの好意的な笑顔をシェラに向けた。


「シェラちゃん、お久し振り! 今日はどうしたの? 二人でここまで来るなんて、よっぽどでしょ?」

「はい、実は――」


 言いかけたその言葉の先を、アルテルが強引に奪った。


「結婚することにした。だから、一応挨拶程度に顔を出しに来ただけだ」


 離れているラメリアには、二人の関係を逐一報告していたわけではない。あまりの急展開にラメリアは唖然としていた。


「え、と、おめでとう。あんた、いつの間に――」


 そう言ってアルテルを軽くにらむと、それからシェラに少しだけ不安げな目をした。


「今から実家に行くの? 私もついて行ってあげたいけど、しばらくは忙しくて難しいかも……」

「ああ。今だってあんまり患者を待たせると悪いし、俺たちはもう行く」


 アルテルにはラメリアの言いたいことがわかっていたのかも知れない。その不安を小さく笑った。


「何を言われたとしても仕方ない。それくらいは覚悟してる」


 跡を継がなかった彼には、きっとそのことが引け目になっている。シェラはせめてその心を支えて行きたいと願い、アルテルが背を向けたラメリアの方に向かって一度うなずいた。

 そうして二人は診療所を後にする。



「顔を出してほしいとは思っていたけど、よりによって今、なのね」


 そんなことをラメリアがつぶやいたことを、二人は知らない。



          ※※※



 アルテルの実家へはそこから辻馬車を使った。城下町の中でも一等地と呼ばれる場所にある。


「……ここだ」


 アルテルに誘われるままにシェラが向かった先は、うっすらとベージュに色付いた屋敷だった。どこか色あせた広い芝の上に立つ屋敷と、それを囲む塀は、あまり飾り気のある佇まいではない。医療に携わる人々の住む家だからか、生真面目なほどに固い印象を受けた。 

 シェラの実家も豪邸と呼ばれる部類であるため、それと比べれば立派だが大きいということもない。そんな印象だった。

 この中に住まう、アルテルの肉親に思いを馳せ、シェラは緊張を隠すようにしてつぶやいた。


「先生」

「ん?」

「もし、結婚のお許しがでなかったらどうなさいますか?」


 先にそれを訊ねてみたかった。不安を顔に出さないように努める。

 すると、アルテルは柔らかく微笑んだ。


「どうもしない。俺はどこまでも不良息子だからな。それでもお前を優先する」


 アルテルを関係のこじれた両親に会わせてあげたい。そのきっかけとなればいいと思ったのに、いざとなると怖くなった。シェラには、アルテルの両親を納得させられるようなものを持ち合わせていない。こんな娘では駄目だと言われてしまうのではないかと、そんな不安が頭をよぎった。

 もしかして、実家との関係は余計にこじれてしまうことになるのだろうか。そうは思うのに、シェラを優先すると言ってくれたひと言が、どうしようもなく嬉しかった。自分にとってアルテルがすべてであるように、アルテルにとっても自分の存在が大きくなってくれているのだと。



 鉄格子のアーチを抜け、アルテルは微かなためらいを指先に残しながら鈍色のドアノッカーに、触れた。カツンカツン、と音が響くと、ドアではなく外から声がかかった。


「ん? まさか、アルテル?」


 柵の向こうから敷地にやって来た人物は、アルテルをそのまま幼くしたような容姿をしていた。ひと目で肉親だと誰が見てもわかる。違いがあるとすれば、表情の作り方だろうか。どこか人をくっている。


「イ、イーゼルさん!」


 シェラは思わず顔を引きつらせてしまった。イーゼルはアルテルの一番上の姉の息子であり、甥に当たる。ただ、一日だけ共に過ごしたことのあるシェラにとって、あまりいい印象のない青年であった。

 イーゼルは意外そうに片方の眉を跳ね上げる。


「シェラまでいる。珍しいこともあるもんだな」


 アルテルがイーゼルに向かって口を開きかけた時、ようやく屋敷の重たい扉が開いた。


「――はい、どちら様で……」


 そう言って扉を開いた夫人は、アルテルが目に入るなり両手で口を覆った。段染め糸のショールが肩から滑り落ちる。夫人は、そのまま息がつけなくなってしまったのではないかと思うほどに長く硬直していた。

 年齢は六十をいくつか過ぎた頃だろうか。細身で上品な容姿は、アルテルとよく似ている。

 アルテルは母親似だったのだと、シェラは新たな発見をするのだった。


「長らく顔も見せずに申し訳ありませんでした」


 神妙な面持ちと声でそう告げる息子に、夫人は無言だった。ただ、その瞳が潤んで、細い手が震える。

 とっさに何も言えなかったのは、仕方のないことかも知れない。

 アルテルは自分の道を選び、家を出てしまったのだから。父親の手前、そんな息子に会いたかったと言ってはいけないと。

 そんな祖母の様子に、イーゼルは小さく嘆息した。


「おばあ様、とりあえず入ってもらえば? ほら、お客さんはもう一人いるだろ」


 イーゼルのひと言で夫人はようやくシェラの存在に気付いたようだ。ちらりと戸惑いがちにシェラに目を向け、それから小さくつぶやく。


「え、ええ……」


 お邪魔致します、とささやかに断ってシェラはアルテルの生家へと足を踏み入れるのだった。

 中に招き入れられたものの、張り詰めた空気は尋常ではなかった。使用人らしき人々が、顔を見合わせてささやき合う。イーゼルの数年後にしか見えないほどによく似たアルテルだ。勤めて日が浅い者でも、アルテルの容姿から彼が誰であるのかを推測することができただろう。

 通された先は応接間だ。アルテルの部屋などすでにないと思われる。イーゼルは面白半分に付いて来た。


「しばらく、そこでお待ちになって」


 夫人はそう言って席を外した。すると、イーゼルは馴れ馴れしく二人が座ったソファーの背もたれにのしかかる。


「で、今日はなんで来たんだ? 今、家の中がすんごいピリピリしてるだろ? タイミングとしては最悪だよアルテル?」

「……何があったんだ?」


 怪訝そうにアルテルが訊ねる。けれど、イーゼルはそれを一笑した。


「俺の質問にまだ答えてないよな?」


 甥っ子に渋面を作ると、アルテルは深く嘆息した。


「結婚の報告に来た」


 その途端に、素っ頓狂な声が室内に轟く。


「はぁああ?」


 それからイーゼルはシェラを不躾なほどに直視した。


「って、もちろん相手はシェラだよな? うわ、一生あのままかと思ったら、案外進展早かったな!」


 シェラは好奇心丸出しのイーゼルの様子に、何か急に恥ずかしくなって赤面してしまった。そんな彼女に、イーゼルは畳みかける。


「な、シェラ、アルテルはなんて言ってプロポーズしたんだ?」

「え、あの、その……」


 しどろもどろになるシェラを楽しげに眺めていたイーゼルは、急に表情を厳しくした。そして、もたれかかっていた体を起こす。そして、扉に顔を向けた。慌しい足音が、この部屋に近付いて来る。

 そして、ノックもなく荒々しく扉は開かれた。その乱暴さに、シェラは思わず体を竦める。

 アルテルは覚悟していたのか、落ち着いた様子だった。ただ静かに立ち上がる。シェラも慌てて立った。


「ご無沙汰しております」


 頭を下げたアルテルに、やって来た男性は顔を真っ赤に染め上げた。

 このレッドファーン家の当主なのだろう。白いものが混じった濃茶の髪を撫で付け、髭を蓄えている。つり上がった眉と眼から感情的になっているとわかるけれど、スーツを隙なく着こなせるだけの上背もあり、普段はもっとどっしりと構えているのではないだろうかと思わせる威厳がある。


「……何をしに来た?」


 努めて押し殺した声だった。アルテルの横顔にも苦り切った色が混ざる。


「今日はご報告があって参りました」


 シェラは、そんな双方をおろおろと見比べるしかできなかった。イーゼルは軽口も利かずに押し黙って成り行きを見守っている。

 アルテルの父親の顔から赤みが消えて行ったかと思えば、今度は凍て付くような視線と言葉が投げ付けられた。


「今更なんの報告だ? 私には必要のないこと。さっさと出て行くがいい」


 それでも、アルテルはその言葉を予期していたのか、落ち着いたものだった。冷淡なほどに表情ひとつ変えずに言う。


「そうですね。そう言われてしまっても仕方がありません。では、おいとま致します」


 シェラは何度も口を挟みたくなった。けれど、自分が口を挟めばアルテルの立場が余計に悪くなる。それがわかるから、容易に言葉を発することはできなかった。ただ、アルテルの隣で痛みを共有することだけがシェラの価値であった。

 そうしてここから去って、それで終わりなのだろうか。

 シェラがそんな風に思った時、ずっと黙っていたイーゼルが口を開いた。


「おじい様、アルテルは結婚するそうですよ」


 いつの間にやら、夫人も扉のそばにいた。その隣には、夫人によく似た女性の姿がある。金髪を結い上げた彼女は、アルテルの姉であり、イーゼルの母なのだろう。

 アルテルとシェラは弾かれたように振り返ったけれど、表情のないイーゼルの様子から、彼が何を思ってそう口にしたのかがわからなかった。


「結婚?」


 アルテルの父がそうつぶやいて、ようやくアルテルの隣のシェラに目を向けた。その厳しい瞳と歯を食いしばって震える頬に、シェラは極度の緊張を感じた。その値踏みする眼に、シェラは細々と声をもらす。


「お、お初にお目にかかります、シェンティーナ=トウエルと申します」


 すると、彼は何かに気付いたようだった。


「トウエル? シュードシータの貿易商の?」


 職業柄か、人脈が広いのだろう。シェラの実家のことまで知っているとは思わなかった。


「今は伯父が事業を引き継いで下さっていますので、私は家を出て生活しています」


 そう告げると、アルテルの父親はさして興味もない様子で、ああ、とだけつぶやいた。


「で、()()と結婚する、と? 責務も何もかもを捨てたやつが、自分たちのことを祝福してくれ、と?」


 アルテルは無言で立ち尽くしていた。そんな息子に、彼は言い放つ。


「こんな世間知らずな若い娘をたぶらかして、何が結婚だ。認めるはずがないだろう。……いや、認める以前に、お前などすでにこの家と関わりもない。私の知ったことか」


 ぐさりと、柔らかな心に突き刺さる。シェラでさえも痛い言葉なのだから、アルテルはこの何倍もの痛みを抱えたはずだ。そう思ったら、ただ悲しくて涙がにじむ。泣いていい場所ではないと思うからこそ、それを必死で押えるけれど、指先が痺れたように冷たかった。


 アルテルを傷付けるためにここへ来たわけではない。幸せにしたい、なりたいと思ったからこそやって来た。けれど、結局のところ、それは身勝手な思いでしかなかったのだろうか。

 シェラは無言のアルテルに代わって口を開こうとした。立場が悪くなるなんて心配は要らないくらい、もう十分に悪いのだから。

 ただ、それよりも先に口を開いたのはイーゼルだった。失笑交じりに言う。


「おじい様、そんな風に言ってしまったら、アルテルは二度と戻って来ませんよ」


 アルテルの父親は、イーゼルをキッと睨み付けた。


「だからなんだ? お前は口を挟むな」

「勉強でもしていろ、と?」


 そんな口を利くイーゼルを、戸口の方から彼の母親が咎める。


「イーゼル! 黙りなさい!」

「はいはい」


 イーゼルは頭の後ろで手を組むと、ぶらりぶらりと部屋を出て行こうとする。ただ、最期に一度だけ振り返った。


「親父のせいでしょう? でも、それとこれとは話が別だと思うけれど」

「イーゼル!!」


 母親の叱責を、イーゼルはうっとうしそうに振り払って去った。

 その場の誰もが重苦しい空気に滅入っていると、アルテルが静かに一礼した。


「では、失礼致します。――シェラ、行くぞ」

「は、はい」


 歩き出したアルテルの背を追い、シェラも微動だにしない彼の父親に会釈して部屋を後にする。

 扉のそばの二人にアルテルはあまり目を向けないように努めていたように思う。アルテルが通り抜けた後でシェラは二人に頭を下げた。顔を上げた時、二人にはそれぞれの思いが顔に表れていた。

 夫人は、ひたすらにアルテルのことを案じていた。姉は複雑な感情を秘めた目をしていて、シェラにそのすべてを読み解くことはできなかった。

 そうして、二人はアルテルの生家を離れるのだった。



          ※※※



 結果として、アルテルを重く苦しい気持ちにさせてしまった。

 自分が余計なことを言ったばかりに、とシェラはひどく責任を感じてしまう。

 アルテルが跡を継がずに家を出たのは、自分のやるべきことを見付けたから。

 医療の現場に立って良薬不足を感じ、その製造に携わることを決めた。アルテルの使命感と優しさ故であるけれど、家族たちにはそれが納得の行く理由ではなかったということだ。


 悲しくて、シェラはアルテルの生家から外に出た瞬間にぼろぼろと涙をこぼしてしまった。アルテルはそんなシェラの手を取り、路地の陰に入ると、言葉をかけずに強めに抱き締めてくれた。



 シェラが落ち着く頃には、アルテルも気持ちの整理が付いたのだろうか。シェラの頭を撫で、それから穏やかに微笑む。その表情が、どこか物悲しかった。


「なあ、せっかくここまで来たんだし、ついでってわけじゃないけど、指輪を買って帰ろうか」


 許しも祝福もないけれど、二人でいられる今があるのなら、欲張ってはいけない。二度とこうしていることはできないと覚悟して家を出た時を思えば、自分は贅沢になったのだと思う。

 シェラは赤くなった目をしてうなずいた。



 そこから向かった装飾品店のたたずまいは、小さな神殿のようだった。白い柱が何本も立ち並び、客を迎えている。足を踏み入れた先の店員たちはにこやかに二人を招き入れてくれた。キラキラと眩いばかりのケースに並ぶ宝石たち。金銀、光を放つ数多の指輪に、シェラは気が遠くなる思いだった。


「いっぱいありすぎて選べませんね」


 思わずそうこぼすと、アルテルも苦笑した。


「ああ。見立ててもらおうか」


 結局、そうした装飾品類に興味が薄く、詳しくない二人は店員の見立てに頼るのだった。


「そうですね、ご希望がございましたら、そちらを考慮して選ばせて頂きますよ」


 柔らかな雰囲気の女性店員がそう言ってくれたので、シェラはちらりとアルテルを見遣ってから言う。


「ええと、なるべく手作業の邪魔にならないようなものがいいです」


 アルテルの調薬の妨げとならないものが望ましい。店員はにっこりと微笑むと、いくつかの品を並べてくれた。


「こちらなどいかがでしょうか?」


 小さな石のはめ込まれたもの、きれいな彫り物のあるもの、シンプルで飾り気のまったくないものが並べられた。確かにどれも細身で、作業の邪魔にはならないと思われる。


「どれがいい?」


 アルテルはそうシェラに訊ねる。きっと、アルテルにこだわりがないので、シェラが選ぶものにしようと考えている。シェラは微笑むとその中のひとつを指さした。


「では、これにしましょう」


 飾り気のまったくない、一番安価なものを選んだ。ただ、それは値段の問題ではない。


「俺はいいけど、それだと少し寂しくないか?」


 若い娘には地味である。けれど、そんな心配をする方がおかしいのだ。


「私は先生に一番合うものを選びたいんです。石が付いていて、それが取れて薬に入ってしまったら大変でしょう? 彫り物の溝に汚れが貯まってしまうのもよくないと思うんです。だから、これが一番です」


 シェラだって、いつまでも若い娘ではない。年老いてからもずっとこの指輪をするのだ。皺だらけの手になっても、ずっと。だから、今似合うものを選ぶ方がおかしいと思った。


「そうか」


 と、微笑んだアルテルの表情に、シェラも胸があたたかくなる。



 サイズを見て、アルテルは向こうで会計をしていた。シェラは少し離れたソファーに座り、ぼんやりと窓の外を見る。

 このまま、帰ってしまってもいいのだろうか。本当に、このまま二度と会わないままになってしまっても。

 いいはずがないのに、どうしたらいいのかがわからない。ラメリアがいてくれたら、まだ少しは会話になっただろうか。

 そんな風に思ってかぶりを振る。彼女に頼ることではない。自分たちが認められるために会いに来たのだ。

 そう考えたら、シェラはまだ自分は何もしていないような気がした。



 シェラのところへ戻ったアルテルは、頭をかきながら苦笑した。シェラが首をかしげると、すぐにその理由がわかる。


「指輪、内側に文字を彫れるって言うんだけど、仕上がりは明日だって。ひと晩こっちに泊まらないといけないな。まあ、文字なんて入れなくてもいいならすぐに受け取れるけど、どうする?」

「入れて下さい!」


 間髪入れずにシェラは答えた。その勢いに、アルテルは少し驚きつつも再び笑った。


「そうだな。一生ものだし、一日くらい待つか」

「はい」


 どくんどくんと胸が鳴る。シェラはそんな自分を落ち着けるようにまぶたを閉じた。

 シェラは、もう少しこの町に留まる理由がほしかっただけなのだ。やはり、このまま離れてしまってはいけないと思う。


「じゃあ、ラメリアのところに泊めてもらおうか?」

「ラメリアさんはご実家でお暮らしではないのですか?」

「ああ、一人の方が気楽だって。忙しいし、家政婦は雇ってるみたいだけど。……よし、どこかで食事を摂ってから行こう。診療所のすぐそばだから」

「はい、わかりました」


 シェラはうなずいて立ち上がる。

 二人はその装飾品店からすぐそばにあった食堂で簡単な食事を済ませる。アルテルと共にいれば、豪華な食事などではなくてもなんでもよかった。ただ、シェラはアルテルの実家のことで頭がいっぱいである。考えすぎて会話の返事が遅れてしまうこともあった。

 そんなシェラのことに、きっとアルテルは気付いていたからこそ、少し困ったように笑っていた。



 辺りが薄暗く色付いた中、二人は馬車に乗ってラメリアの診療所へ向かった。診察時間を終えた診療所は、昼間の騒がしさが嘘のように静まり返り、どこか物悲しささえ漂って見える。

 アルテルが扉を開くと、中にいた従業員が振り返る。


「ごめんなさい、今日の診察は――」


 そう言いかけて、相手がラメリアの身内であると気付き、納得したのか一礼して去って行った。消灯した廊下から足音がする。少し疲れた顔をしたラメリアが、白衣を脱ぎながらやって来た。そうして二人に目を止めると、驚いて駆け寄って来る。


「二人共、どうだったの!?」


 そんな姉の問いに、アルテルは苦笑する。


「どうもこうも、まあ上手くは行かなかったな。仕方がないけど」


 ラメリアは言葉を飲み込んだ風だった。それでも、アルテルは至って軽い口調で続ける。


「で、実は指輪を注文して来たら、受け取りが明日になるって言うし、今晩泊めてくれ」

「それはいいけれど……」


 シェラはとっさに前に出てラメリアの腕に触れる。


「あの、ラメリアさん」


 その瞳を見上げると、それだけでラメリアはシェラの思いを察してくれたようだった。小さく微笑むと、シェラから視線を外し、アルテルに向けて言う。


「ねえ、アルテル。私、シェラちゃんとちょっと話したいから、先に家に行ってなさい」

「……わかった」


 アルテルはあっさりとうなずく。それはラメリアがシェラの話を聞いて気持ちを落ち着けてくれると思ったからだろう。

 アルテルが去った後の薄暗い診療所の中で、ラメリアは悲しげに微笑んだ。


「ごめんね、シェラちゃん。びっくりしたでしょう?」

「い……はい、少し」


 ごまかしても仕方がないので、やはりここは正直に言った。

 ラメリアは、束ねていた髪をさらりと解く。そんな仕草がとても女性的だった。仕事を終えたせいか、表情も柔らかく感じられる。


「詳しくは言えないのだけれど、実は今、あの家は少しややこしいことになっているの。お父様もお母様も、思うところは別にあっても、出て行ったアルテルを認めるようなことは言えないはず。本当は、ずっと口には出さないけれどアルテルのことを気にしていたのに、皮肉な話よね。家の事情であなたのことまで傷付けてしまって申し訳ないけれど、いつか時が経てば解決するかも知れないから……」


 そう語るラメリアは悲しげだった。シェラにまで、その痛みが伝わる。

 けれど、だからこそ言わなければならなかった。


「かも知れない、ですか?」

「え?」

「ラメリアさん、私をもう一度ご実家へ連れて行って下さいませんか? 持ち合わせがなくて馬車に乗れないもので、すみません」

「シェラちゃん、もう一度って……?」


 驚いた様子で目を見開くラメリアに、シェラははっきりとした口調で言った。


「人はいつ別れなくちゃいけなくなるかわかりません。その不確かな時が来るのを待てるとは限らないんです。いつかなんて、そんなことを言っていたら永遠に叶わなくなる。……私の両親が亡くなったのは、今の先生とそう変わらない歳頃でしたから」


 すると、ラメリアは深く嘆息した。そうして、柳眉を寄せて微笑む。


「そう、ね。医療に携わる私たちがそれを誰よりもよく知っていたはずなのに、目の前の問題にばかり目を向けて、大事なことを直視できていなかったわね」


 ラメリアはそう言うと、ひとつ伸びをした。


「じゃあ、私も行くけれど、まずはアルテルを呼んで来ましょう」


 そんな言葉に、シェラはかぶりを振る。


「いえ、先生はいいんです。今は私一人で行きます」

「え?」


 シェラは不思議と微笑んでいた。


「私、先生と結婚するんです。だから、私の問題でもあるんですよ。あの家の問題なら、それも含めて先生と共にあるってことを覚悟してますから」


 ラメリアは唖然としてつぶやく。


「シェラちゃんって、見た目と違って頑固なところがあるのね」

「そう、ですか?」


 きょとんと首をかしげるシェラに、ラメリアは苦笑する。


「わかったわ。でも、無理はしちゃ駄目よ?」


 苦笑しつつも許可をしてくれたのは、シェラの中になんらかの可能性を感じてくれたからなのだと、シェラは解釈した。そして、その期待に応えたい、とも。


「はい」


 精一杯、誠意を持って話す。自分にできるのは、いつだってそれだけだ。



 シェラはラメリアの助けを借り、レッドファーン家の屋敷に再び舞い戻る。雇い馬車が到着した時には、すでに明かりが窓から漏れているような時刻だった。

 シェラは馬車から降りると、胸の前でキュッと拳を握り締め、それを心臓に押し付けるようにして心を落ち着けた。トクトクと脈打つ音を感じながら、シェラは玄関の扉の前まで歩む。言い付けられているのか、馬車の御者はシェラのことを待っていてくれるようだ。


 指先が寒さと緊張でかじかむ。その手で、シェラはドアノッカーをつかんで控えめな音を鳴らした。それでも、静かな晩の冷たさの中で、その音はしっかりと通る。

 しばらくして足音が近付き、それから扉を開いてくれたのは、アルテルの姉であった。ラメリアよりもずっとアルテルによく似た彼女は、シェラの姿を認めると、ハッと息を飲んだ。


「あなたは……」

「もう一度だけご当主様に会わせて頂きたくて参りました」


 アルテルの姉である女性は、リイリアと名乗り返してくれた。けれど、シェラを招き入れることに抵抗があったのか、ちらりと屋敷の中に視線を這わせる。


「……アルテルはどうしたの?」

「アルテル先生はラメリアさんのところです。私だけ内緒で来ましたから」


 アルテルがいない。そのひと言にリイリアはホッとした様子だった。


「そう。父が会うかどうかは別として、このまま立たせておくわけにも行かないから、とりあえず入りなさい」

「ありがとうございます」


 シェラが勢いよく頭を下げると、リイリアは苦い面持ちのままで背を向けた。そうして歩き出す。ついて来いということだろう。シェラは慌てて後に続いた。

 通された先は、昼と同じ部屋だった。座るように促され、素直にそれに従って待つしかない。そうしてリイリアは部屋を出た。

 会ってくれるかどうかはわからない。会ってくれないかも知れない。

 それでも、絶対ではないのなら、その僅かな可能性を信じたい。アルテルの父にもアルテルを気にかける気持ちがあると思うから。


 カタリ、と扉の方で音がした。だからシェラは慌てて立ち上がった。

 開かれた扉の先には、当主とその奥方がいた。ただ、当主の様子は昼間見た激しい気性が嘘のようで、別人かと思うほどであった。彼はシェラに歩み寄ると、落ち着いた口調で言った。


「何故、一人で来たのだ?」


 シェラは緊張で震える脚に気付かれないように力込めた。そして、言う。


「どうしても、このままではいけないと思えたからです。ただ、先生は私を気遣って一人では行かせて下さらないと思ったので、黙って来ました」

「ほう」


 当主の眼がギロリとシェラを見下ろす。人の上に立つことに慣れた、力のある目だ。シェラのような小娘に、太刀打ちできるものではない。アルテルでさえも、今は直視することなどできないだろう。


「それで、君がどうすると? あれを許し、結婚を祝福してほしい、と?」


 願いはその言葉通りだけれど、そうですと答えることをさせない威圧感がある。シェラは一瞬言葉に詰まってしまった。そんなシェラに、当主は小さな者を哀れむような目を向けた。夫人は、そんな二人をハラハラと見守っている。


「先生は、お薬を作ることでたくさんの命を救っています。それはいけないことですか? お医者様にはなられませんでしたけれど、命を救うという点では同じではありませんか? どうしてそんなにも――」


 そう訴えかけたシェラの言葉を、当主は眼力だけで遮った。シェラはその視線に先を飲み込んでしまう。


「実家を出ていると言ったな?」

「え……は、はい」

「それならば、君に家のしがらみはわからぬだろう。家の者でもない君がそう易々と口を挟めると勘違いしてもらっては困る」

「っ……」


 言い返せもしない。この当主とシェラとでは背負うものがまるで違うのだ。

 あまりにちっぽけな自分の存在に、シェラは愕然としてしまった。

 ただ、アルテルの心を守りたい。願いはそれだけなのに、それさえ自分には力が及ばない。

 そのことが、ひどく悲しかった。


 そんな時、屋敷の中が少し騒がしくなった。慌しく廊下を早足で進む音がして、扉が叩かれる。当主はシェラに背を向けると、扉に近付いてそこから顔を出した使用人の一人に何か報告を受けていた。当主はうなずくと、シェラに振り返る。


「では、こうしよう」

「え?」

「私がいいと言うまで、君はここで口を開かないでいること。それが守れたならば、私も考えを変えよう」


 何を試そうというのか。わからないけれど、シェラにはその条件を飲むしかないのだ。

 こくりとうなずくシェラに、当主は満足げに背を向けた。部屋を出て、扉を閉める。シェラの隣に、不安げな夫人だけが取り残されていた。

 しばらく、その空間には切り離された外の音がもれ聞こえるだけだった。どこか落ち着きのないいくつかの足音がある。そうして、シェラが他の誰よりも聞き慣れた声が扉越しに響いた。


「再び足を向けて申し訳ありませんが、こちらに彼女が来ているでしょう? 連れて帰りますので」


 なかなか戻らないシェラの居所を問い詰められて、ラメリアが話してしまったのだろう。シェラは申し訳なく思いながらも、何も言えなかった。許可が出るまで口を利いてはいけないと言われたことを思い出してハッとする。

 夫人も無言でそんなシェラの様子を窺っていた。


「あの娘ならばすでに出て行った。ここにはいない」


 当主はそんなことを言う。その真意が、シェラにはわからなかった。

 どうやらそばにはラメリアがいるらしく、彼女の凛とした声がした。


「それは本当ですか?」

「ああ。結婚は諦めるそうだ。少しばかり金を渡して、それでもう関わるなと言っておいた。それだけだ」

「お父様!」


 ラメリアの声に憤りが混ざる。シェラは呆然とその言葉の意味を考えた。

 けれど、頭がすぐには付いて行けなかった。


「もう、お前の前にも姿を現さぬだろう。私の言葉をお前が信じないのは勝手だが、これが事実だ」


 冷たい声がする。シェラは世界から突き放されたような気がした。心臓がキュッと収縮する痛みと、全身が冷えて行くような恐ろしさがある。まるで水の中を漂っているようで、どうやって立っているのかもわからない。


「彼女はそんな人間ではありません!」


 ラメリアが懸命に庇ってくれる。そのことが嬉しかったけれど、今のシェラには何も言えない。

 ぼんやりとしたシェラの頭に、アルテルの落ち着いた声が届く。


「そう、ですか……」


 ひと言、短くそうつぶやいた。


「アルテル!」


 ラメリアがひと際甲高く叫ぶと、当主の嘲るような色を含んだ声がした。


「よくこの程度で結婚などと考えたものだ。お前たちは所詮、都合のいいように幻を見ていた。互いを知らぬままに。それがはっきりとした、それだけのことだ。……さあ、もういいだろう。お前も出て行くがいい」


 違う。

 自分はここにいる、とシェラは叫びたかった。


 約束も条件も捨てて、今声を発さないとアルテルの心を永遠に失ってしまうかも知れない。

 そうは思うのに、声を出せなかった。

 自分たちのことだけを考えるのなら、それでいい。けれど、今、シェラがアルテルにすべてを告げれば、更にあの親子の確執は深まるばかりだ。シェラに対する仕打ちを知れば、アルテルは怒りに任せて激しい言葉をぶつけるかも知れない。


 こうして試されているのだ、自分たちは。

 これに堪えれば、当主は本当に認めてくれるつもりなのかも知れない。一縷の望みにシェラはすがるしかなかった。

 感情の波を抑えるため、シェラは自分の手の甲に爪を立てた。そうして、必死で涙をこらえる。

 そんなシェラを見る夫人の目は気遣わしげであった。


 穏やかな響きをしたアルテルの声が、シェラには怖かった。次に聞こえる言葉は、もしかすると決別を意味するのだろうか、と。

 信じている。けれど、アルテルはシェラが決めたことなら、と言ってしまいそうな予感もある。

 執着を、どこまで持ってくれるのだろう――。

 不安が、ないはずがない。


「彼女がもし、結婚を諦めて去ったのだとしたら、それはきっと俺のせいです」


 ギリ、と心臓が痛んだ。うめき声がもれてしまわないように、シェラは両手を口に添える。

 やはり――あっさりと見送るのだ。

 いつかとは違う、自分の意思で去ったのなら、と。

 そんなわけがない、というひと言が聞きたかった、とシェラは心のどこかで期待していた。そんな自分に気付いて、ただ苦しかった。

 けれど、アルテルの言葉には続きがあった。


「俺のせい――いや、俺のため、ですね」

「……どういう意味だ?」


 当主の訝しげな声にも、アルテルは落ち着いていた。優しい響きが、そこにはある。


「あいつはいつだって俺を優先してしまう。だから、もし俺の前から去ったというのなら、それは俺のためを思ってのことでしょう。辛い思いをさせてしまいました。……ただ、去ったというのなら、どこまでも迎えに行きますよ」


 堪えていたはずの涙がこぼれ、口もとに添えた指の隙間に染みて行く。それでも、涙は止まらなかった。頭の奥や目が、痛いくらいに熱くて、感情にのどが押し潰されてしまいそうだった。

 アルテルへの気持ちが一方通行ではなくなった。こんな自分を求めてくれる、その想いを感じて、シェラはこんな状況だというのに痛いくらいの喜びも同時に感じていた。


 声を殺して泣くシェラの肩に、そっと手が乗る。それは、夫人の手であった。

 シェラが顔を向けると、夫人は困ったように、それでも確かに微笑んだ。

 そうして、扉に歩み寄ると、それを大きく開く。中の様子が見えるように。


「シェラ!」


 涙でくちゃくちゃになった顔をしたシェラを見たアルテルは、ほっとしたように目を細めた。当主は額に手を当てると、深く嘆息した。


「もういい」


 その一言は、シェラに対して発せられた。つまり、もう口を開いていいと言うことだろう。

 けれど、今は感情が昂って、何を言えばいいのかもわからなかった。

 そんな時、その場に新たな人物が現れた。


義父とうさん」


 低く通るその声の主が現れた瞬間に、当主は苦い顔をした。


「ルーシス……」


 シェラからも、その人物が見えた。そのそばにはイーゼルとリイリアの姿もある。年齢的に見て、彼はイーゼルの父であり、リイリアの夫なのだろう。

 どちらかと言えばがっしりとした体格の紳士で、不思議な安心感を回りに与える。


「やあ、アルテル。何年振りかな? 元気そうで何よりだ」


 そんな義兄に、アルテルも控えめな微笑を向ける。


「ご無沙汰しております、義兄にいさん」


 アルテルの義兄、ルーシスは当主に向けて苦笑する。


「話はリイリアとイーゼルから聞きましたよ。けれど――」


 と、彼は一度言葉を切る。


「お気遣いは無用です。お気持ちはありがたいのですが、僕に気兼ねをされずとも、僕は自分なりに矜持を持っております。ですから、大丈夫です」


 疎外感を覚えてしまうほど話に付いて行けないシェラに、イーゼルが説明してくれた。


「親父はアルテルが出て行ったから、この家の跡取りになったんだ。それで落ち着いてるのに、今更アルテルが出て来たら話がややこしくなる。……いや、普段なら別に構わなかったんだ。今更跡取りうんぬんって話を蒸し返したりしなきゃいいんだし、アルテルのこと、気になってなかったわけじゃないんだから」


 その先を、当事者のルーシスが笑顔で受け取った。


「先に僕が診た患者の容態が急変してね、僕の診立てが間違っていたんだ。普段から、名門レッドファーン家の婿、跡取りとして常に注目されているからね。僕は所詮レッドファーン家の血筋ではないからだとささやく声も確かにあるんだよ。だから、義父さんは突然戻ったアルテルを突き放すようなことをされた。アルテルを受け入れてしまえば、周囲の人間は口さがなく婿ではなくやはり息子を跡にすえるつもりだろうと噂するから」


 そんな義兄に、ラメリアもいつになく弱々しくかぶりを振る。


「あれは……あのケースは、お義兄さん以外にだって見抜けなかったはずよ。私だってもちろん無理だわ」

「けれど、それを言ってはいけない。私たちには、患者を生かすことがすべてだから」


 堂々と、自分の落ち度を語る。失敗だと受け入れる、そんな姿が眩しいくらいに感じられた。

 この高潔な人物だからこそ、皆が心配したのだ。気を揉み、大切に扱った。心から、失いたくないのだ。

 当主は無言で眉間に深い皺を刻んでいた。そんな夫を一瞥すると、夫人はシェラに言う。


「ごめんなさいね、シェンティーナさん。あなたにつらい思いをさせてしまったことをお詫びします」

「い、いえ……」


 シェラがかぶりを振ると、夫人は少し寂しげな目をした。


「でもね、夫があなたたちを試すようなことをしたのは、せめてもの親心なのですよ」

「おい!」


 当主が婦人を叱るように声を上げた。それでも、夫人は続ける。


「あなたはまだお若いから、一時の感情で簡単に結婚を決めてしまったのかも知れない。私たちにはそう思えてしまったの。少し反対されて諦めるくらいなら、一生寄り添うことは難しいのだから」


 アルテルは、無言でその言葉を聞いていた。

 受け入れることができない息子だからこそ、その伴侶には彼を真剣に想う相手であってほしい。遠く離れた地で、孤独な彼の一番の味方であってくれるように、と。


「僕のことなら気にしなくていいと言うんです。アルテルがここへ来ることがいけないなんて、そんな馬鹿なことはない。噂したい人間にはさせておけばいいのです」


 豪放なルーシスの物言いに、当主は少しばかり角が取れたかのように感じられた。


「そう言ってくれるのはありがたいが、そうも行かぬ」


 けれど、ルーシスはアルテルに向けて微笑む。


「聞いたよ。小児熱死病セベトの特効薬を作り出したそうじゃないか。君は進むべくして今の道を選んだ。何も恥ずべきことはない。後悔もしていないはずだ」

「……はい」

「だったら、堂々としていなさい。ここは君の家でもあるのだから」


 その言葉に、アルテルも救われたのだろう。表情が柔らかい。


「ありがとう、ございます」


 それから、アルテルはシェラに顔を向けた。そして、その名を呼ぶ。


「シェラ、おいで」


 シェラが当主の様子を窺うと、当主は嘆息してうなずいた。それが、許しであった。

 胸の奥が、じわりとあたたかく、再び涙があふれそうになる。それを隠すようにうつむきながら、シェラはアルテルの方へと足早に近付いた。

 手が届く距離になると、アルテルはシェラの肩を抱く。そして、父親にまっすぐな視線を向けた。ここへ来て、それは初めてのことであったかも知れない。


「義兄さんの言葉は嬉しいのですが、俺としても義兄さんの立場が悪くなるのは本意ではありません。だから、やっぱり頻繁にここへ戻ることはないでしょう」


 そうして、ふと笑みを見せる。何かから解放されたような、そんな笑顔だった。シェラはそんなアルテルを黙って見上げていた。


「ですから――」


 一度言葉を切ると、意を決したように父親に向けてその先を口にする。


「今度は会いに来て下さい。結婚式にはぜひ」


 当主は、とっさに言葉が返せなかったようだ。ルーシスだけが、軽快な声で笑う。


「それはいいな。アルテル、これからも精進するようにな」

「はい、もちろんです」


 それからルーシスはシェラに視線を落とすと、長身を屈めて言った。


「シェラさん、だったね? どうか、弟をよろしく」

「は、はい!」


 シェラは慌てて返答するのだった。すると、肩に添えられているアルテルの手に力がこもった。


「では、失礼致します」


 ぺこりと頭を下げ、アルテルは挨拶もそこそこにシェラを連れて屋敷を出るのだった。ラメリアが用意してくれた馬車を、何故かアルテルは通り過ぎる。ラメリアのことも残して来てしまったけれど、どうせラメリアの家に戻れば会えるだろうか。


 シェラはすっかり暗くなってしまった夜の街の通りを、アルテルに肩を抱かれる形で密着しながら歩いた。そして、その顔を見上げるけれど、アルテルの顔はシェラに向くことなく正面を見据えていた。


「素敵なご家族ですね」


 当主も、夫人も、姉夫婦も、もちろんラメリアも、イーゼルでさえも結局のところはアルテルを案じていた。それを素直に出せないだけで、家族は皆、お互いを気遣っていた。正直、少し羨ましいと思う。


 ただ、それに対するアルテルの返答がなかった。

 とにかく無言だった。どこか、顔が強張っている。

 シェラはこの時になってようやく、黙って勝手なことをした自分にアルテルが怒っているのだと気付いた。また、先走ってしまった。たくさん、心配させてしまったはずだ。


「あの、先生、ごめんなさい……」


 しょんぼりとシェラが謝ると、アルテルの手がぴくりと動いた。そして、人通りのない、僅かな街灯の明かりさえも届かない場所で、アルテルはシェラをレンガの壁に押し付けるようにして向き合った。背中に壁の冷たさが染みる。

 シェラの薄い肩が押し潰される前にアルテルは手を放し、それからシェラの顔をすくうようにして上に向けると、被さるようにして唇を押し付ける。


「っ……」


 逃れられないように込められた力と気持ちが、息が詰まるほどに迫る。今までのような労わるような、慈しむような触れ方ではなく、どこか乱暴に感じられて、シェラはただ困惑していた。

 唇が離れた直後のアルテルの眼鏡を通さない双眸が、鋭くシェラを捉えた。お互いの間に白い息が上がる。息を切らせて呆然とするシェラに、アルテルはようやく言った。


「シェラ、約束は守れ」

「先、生……?」

「俺と結婚するとお前が返事をした時から、俺はお前を約束で縛ったつもりだ。たとえお前が俺のためだと判断したとしても、勝手に目の前から消えるようなことはするな」


 怒っているのは確かなことだけれど、それ以上にアルテルは怖かったのだろうか。

 シェラを失うことを恐れてくれた。

 シェラはこれから夫となる彼の背に腕を回す。そうして寄り添うと、そっとつぶやいた。


「ごめんなさい」


 交わした約束は束縛だと言う。その束縛を愛しく思う。


「ん。わかってくれればいい」


 そう言って、シェラのまぶたにキスをして微笑んだアルテルは、いつものアルテルだった。

 寒さと照れとで赤く染まった頬が、暗がりで見えなくてよかったと思いながら笑顔を返した。



          ※※※



 そうして、二人は少しだけ来た道を戻って、待っていてくれたラメリアと共に彼女の家に戻った。

 その翌朝、指輪を受け取ると、森のそばの家に戻るため、最寄のジーファの町行きの船に乗り込むのだった。風の冷たい甲板に、粉雪がちら付く。鉛色の空を眺めながら、シェラは風になびく髪を押える。そうして、隣のアルテルに顔を向けた。


「やっぱり、来てよかったです」


 アルテルと家族との関係は、以前よりも改善されたのだから。


「そうだな」


 渋々だけれど、アルテルはそれを認めるしかなかった。シェラの無茶を手放しで褒めることはできない分、複雑である。

 けれど、シェラが言うのはそれだけではない。どこか艶やかに、微笑む。


「先生が私を想って下さる気持ちを強く感じることができましたから」


 その瞬間、アルテルはシェラに見とれてしまっていた。ぼうっと、言葉を返すことも忘れた。

 少女から少しずつ幼さが薄れて、これからよりいっそう美しくなって行くのだろう。


「せ、先生?」


 あまりにアルテルの沈黙が長かったせいで、シェラは不安になったのだろう。またいつものおどおどとした調子に戻り、調子に乗ってしまったのかも知れないと慌てている。

 アルテルは思わずくすりと笑った。


「だったら、よく心に刻んでおいてくれるか?」

「はい」


 シェラは頬を朱に染めてうなずいた。そして、ささやく。

 いつまでも、と――。


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