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アルテル=レッドファーンの日常  作者: 五十鈴 りく
本編

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13/17

アルテル=レッドファーンに捧ぐ

 ここは薬師アルテル=レッドファーンが営む薬剤店である。


 季節は秋。

 店主のアルテルは、出来上がった薬を棚に並べていた。いつもなら従業員の少女、シェラが並べてくれるのだが、今は昼食の支度をしている。


 アルテルたちが彼の師匠に会いに行き、とんでもない試験を受けさせられてから、十日が過ぎていた。

 師匠のエルジナに毒を盛られたシェラは、アルテルの作った解毒薬で事なきを得た。それでも、大事を取って二人は二日ほど師匠のもとに滞在した。


 その間、アルテルは免許皆伝の証として、エルジナの秘薬の製法を伝授された。エルジナにしては気前がよいと思う。

 ただ、素直に喜べなかったのは、試験のやり方のせいだ。


 けれど、わだかまりは残らなかった。それは、シェラのおかげだろう。

 毒を盛られたのに、まるで気にしていない。師匠のことが怖くないのかと問うと、怖くないとはっきりと答えられた。


「エルジナ先生は、先生のことを信じていたはずです。でなければ、あんなやり方はなさいません。先生ならできると信じていたから、試験を始めたのだと思いますよ」


 そうだろうか、と思う。師匠に、甘ったるいものしか詰まっていないと言われたシェラだから、そういう風に思うだけかも知れない。

 けれど、シェラがそう言うのなら、そう思ってもいいかという気にはなった。


 実際、万が一アルテルが薬を作れなくとも、解毒薬はエルジナによってあらかじめ常備されていた。

 あの家には夥しい数の薬があるのだから。口では厳しいことを言っていたが、いざとなれば薬をくれたのだろう。


 別れ際にもおっとりとしたシェラの言動に、短気なエルジナは苛立(いらだ)っていた。

 あの師匠のペースを乱すなんてすごいな、とアルテルは可笑しかった。



「また来ますね」

「来なくていいよ」

「また来ますね」

「来るな」

「また来ま――」


 最後にはうっとうしいとキレられたが、シェラは笑ってエルジナに手を振った。



 そして、あれから二人の距離が少しずつ変わって来たのだと、少なくともアルテルはそう感じていた。

 ただそばにいる。それだけのことが、やっぱり奇跡なのだと思う。

 この時間が、少しでも長く続くにはどうしたらよいのか、アルテルはそれを考えるようになった。


 ――そんな時、その男は現れた。



「あんたがここの店主か?」


 ドアベルの音と共に放った第一声がそれだった。

 年齢は二十代前半くらいだろう。紺地のベルベットのコートで細い体を包み、銀の指輪が光る手でドアを閉めた。形のよい頭を強調する、淡いベージュの短髪が、整った顔によく似合っていた。

 見覚えはないが、この辺りの者ではないとすぐにわかる。どうしたわけか、妙に心がざわつく。

 アルテルはそれを顔に出さないように努めた。


「はい。何かご所望ですか?」


 青年はアルテルの方に向かって来ると、カウンターの上に両手を突いた。

 そして、アルテルに向かって顔を突き出し、笑みを浮かべたままで言った。


「ああ。毒を」

「は?」

「毒薬を作ってもらいたい。自然死に見えるような、質のよいものを」


 不吉な予感はやはり的中してしまう。

 この青年が何者なのかは知りたくもなかった。

 関わらない方がいい。ここをやり過ごすことだけを考えよう。


 アルテルは、青年を逆撫でしないように言葉を選んだ。


「あいにくですが、当店では扱いかねます。諦めて頂くしかありませんね」


 けれど、青年は尚も言った。


「報酬は弾む。わざわざこんな辺鄙なところまで来たんだ。手ぶらで帰るつもりはない」

「金銭の問題ではありません。どんなに望まれようと、それを作ることはできません」


 すると、その青年は底冷えするような視線をアルテルに向けた。淡い色の瞳が氷のようだった。


「拒めばどうなるか、わかっているのか?」

「……拒まなければ、誰かが毒によって亡くなるのでしょう? だったら、拒みます」


 自分の技術は、人の命を奪うためのものではない。それだけはどうしても譲れないことだ。

 ただ、この青年が手段を選ばない人間だとするなら、アルテルに毒を作らせるために、まず何をするだろうと考えた。

 今のアルテルには、抗い切れない弱点があることも自覚していた。


 最初に店にいたのが自分でよかったと思う。もし、先にシェラが出ていたらと考えてぞっとした。

 アルテルは、シェラが来ないうちに早く話を切り上げたかった。


「どう仰られようとも、作ることはできません。お引取り願えますか」


 青年はうっすらと笑う。


「俺も、覚悟を決めて来た。そういうわけには行かないな」


 じりじりと焦りがあった。今にシェラが下りて来てしまうのではないかと、気が気ではない。

 そんなアルテルの心情を知ってか知らずか、青年はアルテルに手を伸ばし、胸倉をつかんだ。


「……放して下さい」


 アルテルは冷ややかに言う。振り払うのは簡単だが、できれば言葉で解決したかった。


「俺が手段を選ばなくなる前に、おとなしく作った方がいい」


 凄んでいるつもりだろうが、あいにくとガラの悪い人間には慣れている。金持ちの子息の脅しなど、どうということもない。


 ただ、タンタン、と軽やかに階段を下りて来る音に、アルテルは微かに動揺した。店と階段をつなぐ扉を閉めたいと思ったが、胸倉をつかまれているせいでとっさに動けなかった。


「誰だ?」


 青年が足音に気付く。アルテルはそれでも平静を装った。

 胸倉にかかった手を振り解くと、厳しい口調で言う。


「あなたには関係ありません。お引取り下さい」


 けれど、振り返った時、そこには大きな襟とボタンの付いたワンピースを着たシェラが立っていた。

 ただならぬ空気を感じたようで、シェラは青年に顔を向ける。その時、シェラは言葉を発する前に、口元を押さえて固まってしまった。

 青年もまた、驚いた様子でシェラを見ていた。先に口を開いたのは青年だった。


「シェンティーナ?」


 アルテルにとって聞き慣れない名前が、青年の口からこぼれる。シェラは固まったまま、ぽつりと声をもらした。


「……ファルーズ……兄様?」


 すると、ファルーズと呼ばれた青年は微笑んだ。それは、再会を喜ぶ笑顔ではなく、もっと利己的なものに思えた。


「久し振りだな。こんなところにいたのか」

「は、はい」


 シェラの反応は、どう対応するべきか迷っている風だった。そんな彼女に、ファルーズは低く言った。


「どうりで、探しても見付からないわけだ」

「え?」


 ただ困惑するシェラに、ファルーズはカウンターを越えて近付こうとした。けれど、それをアルテルが遮る。


「上に戻ってろ」


 短くシェラに言った。シェラは戸惑いながらも、階段を駆け上る。

 ファルーズはアルテルをにらみ付け、それから力が抜けるようなやる気のない声で言った。


「やっぱり、毒はいらない」

「それが賢明です」


 けれど、その後に続く言葉に愕然とした。


「シェンティーナがいれば、毒なんていらない。そんな危ない橋を渡るより、あいつは最高の切り札だ」


 その言葉を受け入れるわけには行かなかった。

 アルテルは、いっそう冷えた声でファルーズに言う。


「毒を求めるような相手に、連れて行かせるつもりはありません」


 シェラに対するアルテルの執着を、ファルーズは受け取っただろう。嫌な笑みを見せた。

 あっさりと引き下がるとは思えないが、この場はファルーズもアルテルに背を向ける。


「あんたの許可がなくても、あいつのことは近いうちにもらい受ける」


 おぞましい言葉を残し、ファルーズは去った。

 アルテルは、しばらくその場を動けなかった。



「――シェンティーナ」


 自分の名前なのに、アルテルにそう呼ばれるとひどく他人行儀に聞こえる。


「正式には、シェンティーナっていうんだな」


 シェラはうなずく。


「はい。でも、先生にはシェラって呼んでもらいたいです。親しい人はみんなそう呼ぶから」

「そうだな」


 アルテルは後ろ手で二階のドアを閉めた。それから、そっと言う。


「あのファルーズってやつは、とりあえず帰った」

「そう……ですか……」


 あまりに懐かしいその名前に、シェラは落ち着かない気分になった。


「兄様って呼んだよな? 兄なんていたのか?」

「いません。あの人は、いとこなんです」

「いとこ……」


 シェラの亡くなった祖父は貿易商だった。手広く商売を軌道に乗せ、一財産を築いた。

 けれど、その祖父が亡くなり、続いて両親が馬車の転落事故に遭い、他界した。


 その時、たった十二歳だったシェラにできることはなく、実家を離れることになった。行き場のないシェラは執事だったフレセスに連れられ、この地にやって来た。

 家業は、母の兄夫婦が切り盛りしている。シェラは家にとって必要のない人間で、身内とはいっても、彼らとはすでに切れたも同然だった。


 その伯父夫婦の息子、ファルーズが、どうしてここに来たというのだろう。ここにシェラがいると知らない風だった。

 シェラは、知りたくはないけれど、知らなければいけないと思った。


「先生、ファルーズ兄様は何故ここにいたのですか?」


 すると、アルテルは目に見えて顔を曇らせた。二人の間の不穏な空気を感じなかったわけではない。きっと、訊かなければよかったと思う答えだろう。

 それでも、シェラは言った。


「教えて下さい。お願いします」


 アルテルは一度深く息を吐いた。それから、ぽつりと言う。


「毒を作れって」

「っ!」

「もちろん断った」


 人を救う薬を作るアルテルが、そんなものを作るはずがない。作らせられるはずがない。

 けれど、何故、ファルーズは毒を所望したのだろう。あの家で、今、何が起こっているのか。


「……大丈夫か?」


 アルテルは心配そうにシェラを見下ろす。その優しい琥珀色の瞳が、シェラは大好きだった。


「はい。諦めてくれたならいいんですけど……」

「そう、だな」


 うなずいたアルテルも、シェラには不安げに見えた。



          ※※※



 それから翌日になって、町の診療所の青年ギャレットが、薬を受け取りにやって来た。

 昨日のことがあったので、アルテルとシェラはドアベルの音に過敏になっていたが、彼の明るい笑顔を見てほっと胸を撫で下ろした。


「ん? どうかしました?」


 ギャレットは首をかしげる。


「いえ、なんでもありません。ええと、今日の分は――」


 シェラは用意したバスケットのふたを開ける。アルテルは手元の伝票を確認した。そこでふと思い出す。


「そうだ、クリトフ助手の質問の答え、まとめておいたんだけど、机の上だな。ちょっと取って来る」


 クリトフというのは、診療所の医師、ルーダの助手である。アルテルの薬に一番興味を持ち、時折こうしてギャレットに質問を託すのだった。

 アルテルが去ると、ギャレットは何故か声を潜めた。


「シェラさん、これ」

「え?」


 差し出されたのは、一通の手紙だった。白く、封のされた特徴のないものだ。


「私に? 誰からですか?」

「うん、さっきそこで、ここにいる女の子に渡してほしいって頼まれたんだ」


 ギャレットは、おもしろがるような口調で言った。


「シェラさんには迷惑なことだと思うけど、読むだけ読んであげたら?」


 中も見ないで恋文だと決め付けているようだ。


「えっと……」


 返答に困ると、アルテルが戻って来る音がした。シェラはその手紙をポケットにねじ込む。


「これ、頼むな」


 アルテルはギャレットに紙の束を渡す。ギャレットも焦ってそれを受け取った。


「はい、確かに。それじゃあ」


 そそくさと帰って行く。いつもはお喋りな彼なので、アルテルは少し不思議そうだった。


「じゃあ、私、洗濯を済ませてしまいますね!」


 妙に言葉に力が入った。変だと思われただろうか。


 そして、三階、二階と回って、洗濯物をかごに集める。

 これからは冬が近付いて、もっと水が冷たくなるから、洗濯も大変だ。今はまだましな方だろう。


 井戸の横にたらいを置き、シェラはそこに水を張る。けれど、洗濯を始める前に、シェラはさっきの手紙をポケットから取り出した。

 急いでねじ込んだので、よれている。その口を、慎重に切った。


 この時、開ける前から、ギャレットが言うような手紙でないことを感じていた。

 送り主さえ、なんとなく想像が付く。


 カサ、と乾いた音を立てて開いた紙の上には、角張った字が並んでいる。

 それに目を通した時、シェラはこの幸せな日常が終わったことを知った。



     ※※※



 翌朝、シェラはかばんだけを持って、二階のアルテルの作業机の前にいた。その机の上に、一通の手紙と懐中時計を置く。

 この手紙の文面は一晩考え抜いたけれど、伝えたい言葉がありすぎてうまくまとまらなかった。


 二度と伝えることはできないのに、アルテルに対するこの気持ちを正直に書くことはできなかった。

 最後だからこそ伝えたいと思う気持ちと、最後なら伝えるべきでないという気持ちの葛藤の末、書かないと決めた。

 いなくなった人間に想いを伝えられても、困るだけだ。

 だから、沢山の感謝を込めた。


 そのくせ、手紙に添えた懐中時計は未練の表れだ。一番の宝物を残して行くのは、心をここに置いて行くからだ。

 そして、アルテルに、少しでもいいから自分のことを覚えていてほしいと願っている。

 ふとした時に、たまにでいい。思い出してほしい。


 シェラは、朝日を浴びて輝く銀色の懐中時計を眺め、それからアルテルの眠る寝室のドアに歩み寄る。そちらに向かって頭を下げた。

 この別れは、自分が決めたことだ。


 泣かないつもりだったのに、下を向いた拍子に、ぽつりと床に涙がこぼれる。

 それを最後に、シェラはアルテルのもとを去った。



「来たか」


 シェラがジーファの町の高級ホテルの前にたどり着いた時、ファルーズは腕を組んで待っていた。

 うっすらと笑みを浮かべたその顔を、シェラは思い切りにらみ付ける。

 それでも、ファルーズはクスクスと笑った。


「随分、怒ってるんだな」

「当たり前です」


 スカートのポケットから、シェラは折りたたまれた手紙を取り出す。それをファルーズに突き返した。


「これで、先生に危害を加えないと約束して下さい」

「わかってる」


 手紙には、こう書かれていた。

 毒作りを拒否した、あの薬師を痛め付けて毒を作らせてもいい。ただ、その後、あの男を消すことになるだろう。

 それが嫌なら、俺と共に家に戻れ。明日の明朝、ジーファの町の第一地区のホテル『ぺリドット』の前で待つ、と。


「ファルーズ兄様。毒だのなんだの、一体何を企んでいるのですか?」


 シェラの中には、憤りしかなかった。ファルーズが何を企んでいたとしても、アルテルまで巻き込むことは許せない。

 にらみ続けるシェラを、ファルーズは嘲る。


「あんなに大人しかったお前が、そんな目をするようになるなんてな。貧乏暮らしはつらかったか? 歳月は残酷だな」

「変わったのはあなたの方です。昔のあなたは、もっと優しい方でした。少なくとも、こんな卑怯なことをされるようには見えませんでした」


 すると、ファルーズは笑った。

 よく笑うけれど、ひとつも楽しそうではない。すべてが馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの笑いだった。


「何を企んでいるのかというのなら、答えてやる。俺はいずれ当主の座を手に入れるつもりだ」

「!」


 底光りする眼がシェラを捕らえる。そして、腕が伸び、手首を強くつかんだ。


「俺たちは所詮、あの家にとって外戚だ。血の一滴すら混ざっていない。だから、お前が切り札だ。トウエル家最後の一人のお前がな」


 触れられたくない。シェラは振り払おうとしたが、その手は痛いくらいに食い込んだ。


「当主の座? そんなものがほしければ、ご自分の才覚でどうにかなさって下さい! 私はただ、静かに暮らしていたかったのに!」


 ファルーズはもがくシェラの手を引き、耳元でささやいた。


「あの男とか?」


 ぞくりと背筋が寒くなる。どうしてこの人は、こんなにも憎しみのこもった目を向けて来るのだろう。

 シェラは答えなかった。けれど、ファルーズは微笑む。


「お前にわかりやすい弱みがあって助かったよ」


 この時、シェラは気配を感じて振り返った。

 落ち着いた色のジャケットを羽織り、帽子を深くかぶった男がいた。彼はその帽子を軽く持ち上げて挨拶する。


「こいつをあの薬師の監視に付ける。お前がおかしなことをしなければ手は出さないが、もしもの時にはわかっているな?」

「っ……」


 振り払うのを諦め、おとなしくなったシェラの肩にファルーズの手が伸びる。


「それでいい。これからのお前の人生は、俺に捧げろ」


 その言葉に、シェラはもう一度強くファルーズをにらんだ。


「あなたに捧げるつもりなんかありません。私は、私の人生を先生に捧げたから、ここに来たんです」


 アルテルが平穏に暮らして行くために。

 そう思うからこそ、離れた。


「どっちでもいい。行くぞ」


 この人は、利用する以外の目的でシェラのことを必要としていない。

 わかっているから、心なんてもういらない。



     ※※※



 シェラの実家、トウエル家の屋敷があるのは、首都ローテスタークに次ぐ規模である、港町シュードシータだ。

 そこに向かうには、まずジーファの町を出て、港のあるルーメルという町まで行かなくてはならない。それから、船に乗る。陸続きで、船に乗らずとも行けないこともないが、それでは時間がかかりすぎる。


 馬車にカタカタと揺られている間、シェラはひと言も口を利かなかった。ファルーズもそんなシェラを無言で眺めていた。

 重苦しい空気が車内を満たしているけれど、先に口を開いた方が負けるような気がしたのかも知れない。

 今はいとこでもなんでもなく、ただの敵だと思う。


 そうして、ルーメルの町に馬車が到着した。

 座席から伝わる車輪の振動が変わり、賑やかな音が漏れ聞こえる。


 馬車はルーメルの町の一角で停止した。ファルーズが先に馬車を降り、シェラに向かって手を差し出すけれど、シェラはその手を無視して降りた。

 同じことをアルテルがしてくれた覚えがある。だから、嫌だった。


「シェンティーナ、屋敷に戻ってからその態度は許さないからな」

「…………」

「懐かない子猫にはお仕置きが必要か?」


 その言葉で、シェラはびくりと身を震わせる。自分に何かされるのなら、このまま意地も張り通せた。

 けれど、ファルーズはシェラがもっと嫌がることをするだろう。


「……わかってます。屋敷に着いたら逆らいません」


 この人に涙なんか見せない。そう決めたから。


「それでいい。昼食を先に取って、それから船に乗る。そうすれば夜には着けるだろう」


 着けなくてもいい。船なんて沈めばいい、とすさんだ気持ちでいっぱいだった。

 そんなシェラに、ファルーズは言う。


「それと、もう少しまともな服を。そんなに安っぽい服では、連れて帰っても馬鹿にされるな」


 実際に安い服なのだから、安っぽいのは当たり前だ。それでも、ドレスや宝石で着飾るよりも、ずっと今の自分には馴染んでいる。

 もう、逆らう気も起きなかった。好きにすればいい。


 ファルーズに連れられ、洋服店で着替えさせられる。店員が選ぶドレスに文句は付けなかった。

 淡いグリーンの細身のドレス。フリルと真珠がが沢山付いている。けれど、それがどうしたと思う。


 コルセットを付け、されるがままに任せていた。手袋にイヤリングにネックレス。肩に白い毛皮がかけられた。

 店員の賞賛も、すべて受け流す。ファルーズも興味はないようだ。

 シェラの着ていた服も捨てられてしまった。代わりに何着か購入して、家に届けるようにとファルーズが手配している。


 昼食も、まるで食欲なんてわかなかった。目の前に出された魚介類のオードブルの匂いに、むしろ吐き気がする。

 けれど、食べなければ、食べずに死のうなんて考えるなと言われるのだろう。

 シェラは、味など感じられない口で、美しく作られた食物をのどに押し流した。



 そうして、船に乗ることになる。海の上に浮かぶ、中型の客船。

 波に揺れる、その不安定な乗り物を目にすると、さっきまでとは比べ物にならない恐怖が押し寄せて来た。


 少しずつ、遠ざかる。

 この期に及んで、誰かに助けてもらいたいと思う自分が情けない。

 強い気持ちを持ってここに来たはずなのに、気持ちが揺らいでしまう。


 船と波止場をつなぐ橋の上で立ち止まったシェラの肩を、ファルーズが後ろから抱いて歩く。嫌悪感で体が強張った。

 そんなシェラの耳元で、ファルーズは冷淡にささやく。


「わかっているとは思うが、お前は俺が当主になるための道具だ。帰ったら、俺はお前を婚約者として紹介することになる。これくらいで動じるな」


 わかっていた。

 それでも、口に出されると、どうしようもなく逃げ出したい気持ちが強くなる。


 お互いに、少しも愛情なんてない。むしろ嫌悪の対象ですらある。

 けれど、これは仕方のないことなのだ。


「……わかっています」


 アルテルのもとで大事にされ、ふわふわと幸せな日々を送った。心から愛しいと思う人に出会った。

 想いは伝えられなかったけれど、それでも。

 だから、その思い出を胸に、これから生きて行くしかないのだろう。



 船がシュードシータの港に入った頃、すでに辺りは暗くなっていた。

 シェラは五年振りにこの町に帰ってきたことになるけれど、船から馬車に乗り換えただけで、まるで特別な感情がわかなかった。


 カラカラと規則正しい馬車の車輪の音を聞きながら、シェラはぼんやりと宵闇の町を眺めた。

 正確には、正面のファルーズの顔を見ていたくなかっただけで、目には何も映していないのだ。


 屋敷は港から近い。馬車は門を抜け、敷地の中へ入って行く。

 祖父の趣味で建てた屋敷だ。異国の珍しい彫像などを取り入れ、豪胆な祖父の内面を表したようなこの屋敷は少しだけ懐かしかった。


 シェラが知る屋敷と変わったところは、外観にはない。中の人間が変わっただけのことだ。

 馬車が止まり、今度は差し出されたファルーズの手を取る。彼の労働を知らない滑らかな手は、アルテルの傷だらけの手とは似ても似付かなかった。


「笑えよ」


 そう言われても、顔の筋肉がまるで動かない。



 屋敷の中は大騒ぎになった。

 ファルーズが急に連れを伴って帰って来たのだから。


 使用人の半分は古参の者だった。だから、シェラの風貌を見てすぐに思い当たったようだ。

 ここを出て行った少女が、五年の(のち)に成長した姿なのだと。


「旦那様、奥様、ファルーズ様がお戻りです!」


 あまりの驚きからか、奥へ引っ込んだ使用人たちの声がエントランスまで突き抜ける。

 残された使用人たちは、二人を遠巻きに見ていた。どうしたものかと困り果てている。


 そして、すぐさま伯父夫婦がここまで急ぎ足でやって来た。

 トウエル貿易商会の理事であり、このテスロット家の当主であるセルヴァン=テスロットと、その妻グレッセ。


 セルヴァンは五十一歳という年齢よりも若く見える引き締まった体躯と、きりりと鋭い眼に貫禄がある。

 着任してまだ五年だが、商会を背負って立つ人間である。それも不思議ではない。

 別れて五年ではそこまで様変わりするでもなく、シェラの中の面影がそのままと言ってもいいくらいだった。ファルーズの軽薄さが父母どちら譲りなのかとぼんやり考える。


「――シェンティーナなのか?」


 セルヴァンが驚愕に目を見張りながら問いかけて来る。

 シェラはなんの表情も浮かべずに言った。

 今更何をしに来たと思われただろう。厄介者でしかないのは自分でもよくわかっている。


「ご無沙汰しております、伯父様」

「今までどこにいた? どこを捜しても、お前は見付からなかった。……すまない」


 そのひと言で、シェラはようやく感情を表した。


「え? それは、どういうことでしょうか?」


 伯父夫婦に追い出されたとばかり思っていたシェラだったが、違ったというのか。捜していたというのは一体――。

 その問いに、グレッセが答える。


「故人の遺言だからと言って、フレセスがあなたを連れ去ってしまったの。どれだけ捜しても行方知れずで……」


 すると、ファルーズはクスクスと笑う。


「あのじいさん、抜け目がないからな。お前の居場所も、ガセネタばっかりばら撒いて行ったよ」


 初耳だった。フレセスは一体、何を知っているのだろう。個人の遺言とは。


「そうだったのですか。けれど、フレセスがそうしたのなら、それが私のためになると思ってのことでしょう」


 しかし、セルヴァンたちはシェラに対し、今になって何故戻ったのかと目で問いかけている。

 連れ戻したいと思って捜したというけれど、それは五年前の話だろう。今更ここにシェラの居場所はなかったはずだ。


 ここでファルーズはシェラの肩を抱くように手を伸ばし、それから両親に向けて言った。


「おわかりだとは思いますが、シェンティーナは俺の婚約者として連れ帰りました。シェンティーナはトウエルの名と血を持つ唯一の人間。……こうなると、当主として相応しいのは誰でしょうね?」

「ファルーズ!!」


 父親の怒号に、ファルーズは高らかな笑いで答えた。それから急にメイド頭に言った。


「シェンティーナの部屋を整えろ。それから、部屋に付けるメイドは新参者にしろ。見知っている者では、昔のことを思い出してつらいからな」

「は、はい。かしこまりました」


 メイド頭の老婆は、頭を垂れる。

 そうして、シェラはメイド頭に案内され、二階の客間に通されることとなった。もともと実家でもあるのだから、案内されるずとも知っているけれど。



     ※※※



 青と茶色の紋様が入った絨毯、藍色の天蓋付きベッド、白いソファー、螺鈿が散りばめられた円卓と椅子。

 客間にシェラが懐かしいと思うようなものは何もなく、調度品はすべて新しい。


 ファルーズは部屋へ入ろうとしたシェラの耳元で、ひっそりとつぶやく。


「逃げようなんて思うなよ」

「……わかってます」


 パタン、と扉が閉まった。シェラは思わず、ベッドに駆け寄って倒れ込む。

 強張った体の疲れが少しだけ解けた。


 ただし、こうしていると泣き出してしまいそうになる。

 まだ、始まったばかりなのに。これからが、大変だというのに。


 まぶたを閉じて顔を伏せると、扉をノックする音がした。シェラは慌てて飛び起きる。ファルーズが戻って来たのかと思ったのだ。

 ノックの音は再び、控えめに繰り返された。

 どうも、違うらしい。ファルーズはこんなに丁寧ではない。


「シェンティーナ様、よろしいでしょうか? このたびお世話を申し付かりました、メリルと申します」


 ファルーズが注文した新参者のメイドだ。はきはきとした口調である。

 シェラをよく知る古参の者だと、事情を知れば哀れんで逃がす可能性があるから、新参者がいいというだけのこと。

 指名されたメイドに罪はない。シェラは返事をして立ち上がった。


 ドアを開くと、そこにはメイド服を着た女性が立っていた。

 短い黒髪に意志の強そうな眼差し。メイドにしておくには惜しいくらいの美女だ。

 彼女は、メリルというらしい。


 けれど、これは、どう見ても――。

 シェラは思わず言った。


「ラキアさんですよね?」


 彼女は笑顔のまま、額に青筋を立てた。

 笑顔を貼り付けたまま室内に入ると、扉を閉める。そして、表情を一変させた。


「どうして、よりによって、あなたがいるのよ!!」


 その剣幕に、思わずシェラの方が謝ってしまった。


「ご、ごめんなさい」

「メイドなんて閉鎖的な空間で働く仕事を選んだ意味がないじゃない! 誰にも会いたくなかったのに!」


 彼女は女優である。正しくは、だったと言った方がいいのかも知れない。

 アルテルの親友である役者、ジェサード=ブルーネスに対する恋心により、彼に多少の嫌がらせをしてしまった。それがもとで、ジェサードは劇団を抜けて決別した。

 その後、劇団に残っていると思っていたのに、どうやら役者の道を捨ててしまったらしい。


「本名は、メリルさんと仰るんですか?」

「そうよ。似合わないって言いたいの?」


 ぎろりとにらまれた。


「ち、違います。でも、役者を辞められていたなんて……。それに、きれいだったのに、髪もばっさりと」


 すると、ラキアは嘆息した。


「続けられるわけがないでしょう。ジェサードはレイザス団長のもとにいれば、もっと上に上がれた。それを、あたしが邪魔してしまったんだから」

「そうでしょうか? ジェサードさんはどんな形でも、お芝居ができたら楽しそうですよ」

「そう。でも、もうあたしが関わることではないから、詳しくは言わないで」


 あのまっすぐな瞳が、視線をそらす。シェラは少し、腹が立った。

 行きたいと願えば、いつだって会いに行けるくせに、と。


「ジェサードさん、けがをされました。頭をビンで殴られたんです。六針くらい縫いましたよ」

「え!」


 思わず声を上げてしまったラキアは、口を押さえる。


「どうして……」

「アルテル先生を庇ってくれたんです。傷は薄くなりましたし、普段は髪に隠れていてわかりませんから、本人はあまり気にしていませんけど」


 シェラがそう言うと、ラキアは無言で息を吐いた。彼への気持ちはまだ残っているのだと思う。


「ラキアさん。あの時、本当にラキアさんが全部やったんですか? 舞台の道具に嫌がらせなんて、ラキアさんみたいな人がしたとは思えないのですが」


 すると、ラキアはゆっくりと首をシェラに向けた。化粧のせいか、髪型のせいか、あの舞台で輝いていた時よりも幼く見える。


「あたしは台本しか知らないわよ」

「……やっぱり。それをちゃんとジェサードさんに伝えましたか?」

「言ってないわ。ひとつやったんだから、そんなこと言ったら言い訳にしかならないじゃない。ひとつも全部も一緒よ」


 その潔さが、かえって悲しい。


「言い訳でよかったんですよ。ラキアさんに言い訳をしてもらえた方が、ジェサードさんは楽だったかも知れません」

「今更遅いわ」

「遅くありません。気持ちを残しているなら、ちゃんとお会いするべきだと思います」


 そこで、ラキアはシェラをじっと見据えた。そうしていると、瞳の中に吸い込まれそうだ。

 ラキアはぽつりと言った。


「ところで、あなたはどうしてここにいるの? その先生のところには、もう戻らないの?」


 今度はシェラが答えに詰まる。詳しい事情は、話してしまうとラキアに迷惑がかかるだろう。

 だから、これだけを言った。


「詳しい事情は話せませんが、戻りたくても、もう戻れないんです」


 ラキアは気性の激しい女性なので、そんなことを言えば叱られそうな気がした。けれど、彼女は驚くほどに優しい声で言った。


「そう。……でも、そんなに泣きそうな顔で言うのなら、どんなに戻りたいのか、わかるから」


 泣いてなんかない。もう泣かない。

 そう思っていたのに、その優しい声音に、気付けば涙があふれていた。


 すると、ラキアはそっとシェラを抱き締めてくれた。シェラはラキアの肩を濡らしながら、声を殺して泣いた。

 大声を張り上げて泣ければ、もっと吹っ切れただろうが、ファルーズにだけは絶対に聞かれたくなかった。



     ※※※



 男は、報酬の半分をすでに受け取っていた。

 とある薬師の監視と報告。簡単な仕事だ。


 もし、あの少女が何らかの抵抗を試みた場合、あの薬師に危害を加えると言う。けれどそれは、あの少女に対する脅し文句だろう。

 それから、薬師が少女を取り戻そうと動き出した場合も妨害しろと。


 実際、こんな人気のないところに一人で住んでいる青年だ。目撃者もおらず、葬り去るのも不可能ではないが、そこまでするには報酬がまったくもって足りない。

 しかし、そんな心配は要らないように思う。


 あの薬師は少女がいなくなってから丸一日、ほとんど外に出て来なかった。ずっと二階の部屋の窓辺にいた。どうやら、あそこで調薬をしている。

 落ち着いたものだった。


 あの少女が自分を犠牲にするほど、薬師は彼女に執着していない。残念な事実が判明しただけだ。

 健気な少女だっただけに、ひどい男だと思う。

 その事実をありのまま、あのいけ好かない雇い主に報告する。



 そうして、その翌日になった。

 男はまた、木の陰から薬剤店を覗いていた。

 今日も、あの薬師は仕事漬けの生活を送るのだろう。監視している方が飽きるような、つまらない日常だ。


 けれど、今日は違った。薬師は黒いローブを脱ぎ、薄手のコートに身を包んでいる。肩には大きめのかばんがかけられていた。

 買い出しか薬の納品だろう。とりあえず、跡をつける。


 薬師は紅葉した並木道を歩くが、何故か急に立ち止まった。こちらも慌てて立ち止まり、木の陰に隠れた。薬師は来た道を引き返す。忘れ物かもしれない。

 男が隠れた木の正面を通り過ぎるのを、息を殺してやり過ごす。けれど、気付いた時には薬師の腕が目の端にあった。



     ※※※



「こんにちは」


 アルテルはにこやかに、木の陰に隠れた男の肩をつかむ。

 男はぎょっとして体を強張らせた。目立たない色のジャケットに、目深にかぶった帽子。その格好は昨日と同じだ。


「昨日からずっと、うちの周りをうろうろしていましたよね。何かご用ですか?」

「え? いや、そんなことはないよ。何を言ってるんだい?」


 男は、つかまれた肩を振り解こうと身をよじる。


「……そうですか。とぼけるんですね」


 じゃあ、仕方がないな、とアルテルはこぼした。その次の瞬間に、男の腹を殴り付ける。

 それはあまりに唐突に思えたのか、男はまるで構えていなかった。げぇ、と男がうめきながらひざを突くと、アルテルは男を仰向けに転がした。

 そして、口の中に冷たい液体を流し込む。


「っ!」


 吐き出させないために、アルテルは男の口と頭を押さえた。もがきながらも、耐え切れずに男がそれを飲み下したのを待って、アルテルは手を放した。

 男の目が、とろりととろけるように怪しくなる。アルテルはその曖昧な意識に問いかけた。


「で、あなたは何をしていたんですか?」

「お前の監視」

「誰に頼まれて?」

「ファルーズって小僧だ。金持ちの」

「俺を監視した理由は?」

「逆らったらお前に危害を加えると、あの娘を脅すために。お前の様子を報告していた」

「……なるほど。よくわかりました」


 アルテルは感情を殺した声で言った。


「ファルーズの居所は?」

「シュードシータの一番街、テスロット家」


 訊き出したい情報はそろった。もう、十分だとアルテルはうなずく。

 昨日作った、自白と催眠の効果のある薬。この男にはよく効いてくれて助かった。


「じゃあ、もう忘れて下さい。俺のこともファルーズのことも。さようなら」


 アルテルはひっくり返ったままの男を放置して去った。

 あの曖昧な意識がはっきりとした時、もうこのやり取りも覚えていないはずだ。



 “勝手ながら、お暇を頂くことになりました。

  急なことで、申し訳ありません。

  今まで、本当にお世話になりました。

  先生には、どれだけ感謝してもし足りません。

  この店に来て先生と過ごした日々が、私の人生の中で特別に幸せな時間でした。

  もうお会いすることは叶わないかも知れませんが、私はいつでも先生の幸せを祈っています。

  どうか、くれぐれもお体にはお気を付け下さいますように”



 手紙と共に置かれた懐中時計の中には、家族の肖像があった。

 優しそうな若い父親と、美しく強気に満ちた女性が母親だろう。

 その膝元に、店先に並べられている人形のような少女がいる。面立ちもそのままだ。変わっていない。


 死に別れた家族との思い出の品なんて置いていくくらい未練があるのなら、最初から行かなければいい。

 あんな手紙ひとつで納得できるわけがない。

 ふざけるなと言いたい。


 馬鹿だと思うけれど、彼女なりに悩んで出した答えなのだとわかっている。アルテルを守るために選んだ。

 けれど、幸せを祈ってくれるのなら、こんなやり方では駄目なことをわからせたい。



 アルテルは、それでもこの時はまだ冷静でいられた。それは、シェラの命の危険は少ないと思うからだ。

 離れていしまったのなら、迎えに行くだけだ。

 

 ただ、ジーファの町にたどり着いた時、アルテルはすぐに馬車には乗らなかった。

 まず先に、寄るべきところがある。



     ※※※



 ここはジーファの町のとある民家。

 朝の慌しい時間、ファーマが夫と子供たちのための朝食を盛り付けていると、玄関の扉をノックする音がした。

 朝っぱらから誰だ、とイライラしながら扉を少し乱暴に開ける。


「はいはい!」


 すると、そこに立っていたのは、見覚えがない金髪の青年だった。

 清々しい笑顔を浮かべる長身の青年に、ファーマは態度を改める。


「あら、どちらさまで?」

「朝早くに申し訳ありません。自分はアルテル=レッドファーンという者ですが、フレイ君はご在宅ですか?」

「あ! お嬢様の――」


 ファーマが思わず言うと、彼の眉が僅かに反応した。ファーマはとりあえず、寝起きの悪い息子を叩き起こすことにした。



 フレイは寝ぐせの付いた髪もそのままに、アルテルが通されたリビングへやって来た。


「アルテルさん!」

「ああ、おはよう」


 アルテルは穏やかにそんなことを言う。

 けれど、早朝から家にまで来るくらいなのだから、ただごとではない。しかも、大抵の場合、問題を起こすやつは決まっている。


「前に連絡先を聞いておいてよかったよ」

「あの、またシェラが何か……」


 尋ねると、アルテルは苦笑した。


「うん、家出したというのかな?」

「ええ!!」

「それで、フレイの伯父さんに会わせてほしいんだ。ちょっと話があって」


 シェラが家出なんて、そんなの、知ったら卒倒する。すごい剣幕で怒鳴られそうだ。言いたくない。

 フレイはぐるぐると考えたけれど、そんなことを言っている場合ではない。

 アルテルは落ち着いて見えても、多分、とても心配しているはずだ。


「……わかりました。呼んで来ます」


 そうは言うものの、あの過保護なフレセスが、大切なシェラと一緒に暮らすアルテルにいい顔をするはずがない。

 恐ろしいことにならないといいのだが。



 フレセスの勤める屋敷は、フレイの足で行けばここから片道十五分だ。そこを十分で走り、用件を手短に伝えたフレイは、おずおずと伯父の顔を見やる。

 表情はまるでなかったが、こういう時が一番怖い。フレイは背筋に冷たいものを感じた。


「フレイ、行くぞ」


 いつもなら公私混同を避けるフレセスが、お屋敷の御者に頼み、馬車を出してもらった。だから、帰り道は早かったのだ。

 けれど、ここから恐ろしい時間が始まる。

 そう思うと、フレイはさっさと仕事に行きたかったのだが、フレセスによって職場に遅刻の断りを入れられてしまった。



      ※※※



 アルテルが待つ間、フレイの母親であるファーマと妹は、気を使ってあれこれと話しかけてくれた。けれど、申し訳ないことに、アルテルは上の空だった。

 そうして、フレイが戻って来てくれた。思っていたよりもずっと早かったのは、急いでくれたからだろう。


「アルテルさん、連れて来ましたよ」


 何故か、フレイは青ざめていたように思う。


「ありがとう」


 礼を言うと、フレイの背後の扉から人影が現れた。アルテルはとっさに立ち上がる。

 カッカッ、と靴音を鳴らして室内に現れた人物は、想像通りの人だった。

 どちらかといえば小柄なのに、背筋がよいので大きく見える。しわのない燕尾服に、整えられた頭髪。隙のない仕草が、いかにも執事という風だった。


「お初にお目にかかります。アルテル=レッドファーンと申します」


 アルテルはそう言って頭を下げた。


「……すでにお聞きのようですが、フレセス=ブルックです。どうぞ、お座り下さい」


 言葉は丁寧だが、かなり冷ややかでもある。

 アルテルは促されるままに腰を下ろした。その向かい側にフレセスも座る。フレイたちはハラハラと壁際で見守っていた。


「それで?」


 その第一声に、アルテルは思わず苦笑した。気に入らないんだな、とすぐにわかるが、それも無理のないことだろう。


「はい。まず、ことの発端は、ファルーズという青年が現れたことです。彼のことをご存知ですよね?」


 何ごとにも動じない風に見えたフレセスは、その名を耳にした途端にあっさりと落ち着きを失った。


「ファ、ファルーズ様が! あのロクデナシが!」


 しかも、口が悪い。


「ええ。彼女は自発的に出て行くというような手紙を残して行ったんですが、店の周囲をうろついていた男を捕まえて問いただしたところ、どうも脅されてついて行ったようなんです」

「なんだそれ! 最悪の事態じゃないですか! ああ、もう、何やってんだよ……」


 壁際でフレイもパニックを起こしていた。フレセスも、口をあんぐりと開けている。似た二人だな、とアルテルはなんとなく思う。


「それで、迎えに行って来ようと思います。だから今日、あなたに会いに来ました。今回のことがなくとも、近いうちにはお会いするつもりでしたが。彼女にとっての家族は、あなただと思うので」


 迎えに行く。

 それは、彼女の今後をもらい受けるということ。そのつもりで言った。

 すると、フレセスはさっきまでの顔を改め、痛いほどに真剣な目をアルテルに向けた。


「……迎えに行かれると。それが簡単なことではなかったとしたら、どうされるのでしょう?」

「え?」

「あなたは、お嬢様を得るために、何を差し出すのですか?」


 覚悟を見せろと言うのだろう。アルテルは微笑んだ。


「必要とされるもののすべてを」


 その言葉を、フレセスが鵜呑みにしたわけではない。猜疑の目が光る。

 だから、アルテルは重ねた。


「彼女は自分に、常にそう接してくれていました。それなのに、自分が出し惜しみをするわけには行きませんから」

「……その言葉に偽りはございますまいな?」

「そんな嘘がつけるゆとりがあればよかったですけど」


 フレセスはようやく、組んでいた手を解いて目を伏せた。


「わかりました。では、お話いたしましょう。わたくしがお嬢様につき続けていた嘘のわけを」

「嘘?」


 意味がわからずにいるアルテルに、フレセスはうなずいた。


「はい。五年前にこちらにお連れしてから、わたくしはずっと、お嬢様は身ひとつで放り出されたと申して参りましたが、実は違うのです。むしろ、奥様の兄上であるテスロットのご当主は、お嬢様をご子息の婚約者に望まれました。ですから、それを阻止するために、わたくしはお嬢様を連れ出したのです」


 フレイたちも初耳だったらしく、言葉もなくそれに聴き入っていた。


「それが、奥様の遺言でした。即死だった旦那様とは違い、奥様は虫の息ながら、わたくしに遺言を残されたのです。あの子が、自分で選び取れる未来を与えてほしい、と。けれど、お嬢様は、わたくしの世話にはなりたくないと、生活の援助を一切受けようとせず、未来どころか、わたくしは毎日が気が気ではありませんでしたが……」


 微かに白濁した眼には、うっすらと涙がにじんでいた。この老人は、どれくらい心配して、どれくらい願ったのだろう。


「貧しくても自由に、お嬢様が愛する男性を選べることだけを願っていた奥様に、わたくしはこれで報いることができたのでしょうか……」


 フレセスは椅子から立ち上がった。反射的にアルテルも立ち上がる。


「どうか、お嬢様をよろしくお願いいたします」


 そう言って頭を下げたフレセスに困惑しながら、アルテルははっきりとした声で答える。


「はい。必ず守ります」



     ※※※



 その翌朝、ラキアはシェラに紅茶を運んでくれた。水分補給をしろということらしい。

 そんなに泣くつもりはなかったのに、一度気が緩んだら止められなかった。

 けれど、彼女がいてくれたことが唯一の救いと言える。ほんの少し、体が軽くなったような気がした。


 それから、穏やかといえば穏やかな日だった。

 伯父のセルヴァンとその妻も、シェラに対しては腫れ物を扱うかのような対応なので、特に干渉して来ない。ファルーズも、シェラがおとなしくしている限りは顔を見せることもなかった。見たくもないけれど。


 部屋でぼんやりとしていると、考えるのはいつもアルテルのことだった。

 今頃、どうしているだろう。雑用をする人間がいないのだから、きっと忙しいだろう。

 洗濯物もたまってしまって、部屋もきっと汚れている。

 気にしても仕方がないのに、一日中そればかりを考えていた。



 そして、ファルーズがシェラのもとに顔を出したのは、夕食を終えて部屋に戻った頃だった。

 冬の近いこの時季、暗くなるのが早い。

 そろそろラキアがやって来てカーテンを引き、就寝の支度を手伝ってくれる――そう思っていたのに、顔を出したのがファルーズだったせいで、シェラは扉を開けたことをひどく後悔した。


「……何かご用ですか?」


 つい、冷ややかな声になる。

 けれど、そんなシェラの様子さえも楽しむように、ファルーズは言った。


「婚約者に対して冷たいやつだな。お前が知りたがっていることをわざわざ伝えに来てやったのに」


 いちいち、言葉に腹が立つ。

 シェラが無言でいると、ファルーズは勝手に室内に入り、ソファーに腰かけた。


「あの薬師がどうしているか、知りたいだろう?」

「え……」

「途端に顔付きが変わったな」

「先生に何かしたんじゃないでしょうね?」


 精一杯、虚勢を張ってにらむ。

 どこまで通用したかはわからない。いや、多分少しもしていない。


「何もしてない。お前次第だと言っているだろう。ただ、監視しているやつからの報告だ。あの薬師は家から出ずに調薬を続けている、と報告はそれだけだ」


 からかうような、嫌な笑みだった。


「お前が想うほど、あいつはお前のことなんてなんとも感じてなかった。滑稽だな」

「……私が勝手に慕っているだけです。だから、いいんです」


 強がりのつもりはない。

 アルテルは色々なことに淡白で、去る者を追うような人ではない。


 手紙を置いて来たし、以前から、他に行くあてができたら引き止めないと言われていた。

 だから、これは自然なことだ。


 すると、何故かファルーズは笑みを消し、まっすぐにシェラの方に歩み寄った。

 シェラは思わず壁際まで引いた。目の奥にある感情が暗く、シェラの心を塗り潰す。


「お前の覚悟なんて、中途半端なんだよ。偉そうに」


 間近に迫ったファルーズから顔を背けると、その手が壁を叩くようにシェラの両側に下ろされた。逃げ場を失ったシェラの耳元で、ファルーズは低い声を出した。


「あの男のために、別の男に抱かれる覚悟はあるのか?」


 息が耳にかかり、シェラは思わず声にならない悲鳴をもらした。目の前のファルーズの薄い体を突き飛ばそうとしたけれど、それを片手で遮られる。


「そうすれば、もう戻りたいなんて考えなくなるかもな」

「っ!」


 顔を背けたシェラの首筋に、唇が触れるか触れないかというところで、ファルーズは狂ったように笑い出した。シェラを縛り付けていた腕の力が消え、シェラはその場に崩れ落ちる。ぼろぼろと涙を流すシェラを満足そうに眺め、ファルーズは言った。


「俺は、お前みたいな馬鹿は嫌いだし、興味もない。……いいざまだな」


 本当に、この人はどうしてしまったのだろう。昔は、穏やかで優しい人だったのに、何が彼をこんなにも変えてしまったのだろう。


 シェラが立ち上がれずにいると、扉がノックされた。ラキアだった。

 相手がシェラなので、挨拶の口上もなく、鍵のかかっていない扉を開く。


 そこに立っていたファルーズと、壁際で泣いているシェラに、彼女は顔を引きつらせた。

 ファルーズは、ラキアをじろじろと値踏みする。ラキアは三ヶ月前からここにいるのだが、初めて会ったとでもいう風だった。ふぅん、と小さく言う。


「こんな女がいたんだな。ただのメイドにしておくには惜しいくらいだ」


 賛辞には慣れているラキアは、嫣然と微笑んだ。そして、言う。


「ありがとうございます、ファルーズ様」


 でも、と言葉を切り、一度うつむいた。それから、顔を上げた時には、射すくめるような鋭い眼光を向けている。


「女の子を苛めて喜んでいるようなゲスにほめられても、ちっとも嬉しくありませんわ」


 さすがのファルーズも眼を丸くした。けれど、ここで怒れば狭量をさらすようなものだと思ったのか、無理に笑って無言で立ち去った。

 ラキアは腰に手を当てて深くため息をつく。


「ああ、もう、やっちゃった。これで職をなくしちゃうわけだけど、まあいいわ」


 それから、シェラに手を差し伸べて立たせた。


「あたしはクビでもいいんだけど、あなたのことが心配だわ」

「ラキアさん……」


 甘えてはいけない。わかってはいるのに、ラキアがいないとどうしようもなく心細い。

 そんなシェラに、ラキアは優しく言った。


「少し、座って落ち着きなさい。今、お茶をいれて来てあげるから」

「また、水分補給ですか?」

「そうよ」


 涙を拭いて、ほんの少しシェラは笑った。



     ※※※



 アルテルは、シェラがいなくなってから一日かけて色々な薬を用意した。

 今、シュードシータの町まで辿り着き、その中のどれを使おうか迷っている。


 その屋敷は立派な門構えで、門番まで雇っている。フレイから、シェラはもともとお嬢様だったと聞いたが、この屋敷を見る限り、思った以上に裕福だった。

 普通に名前を出して訪ねて行っても門前払いだろう。


 少々手荒な訪問をしなくてはならないとして、それでも立っているだけの門番に罪はないので、後々苦しむような劇薬は使いたくない。

 やはりここは睡眠薬だろうか。噴射式にしておいたので、自分で吸い込んでしまわないように注意が必要だ。


 意を決して歩き出すと、門番はアルテルに気付いた。アルテルはコートのポケットの中で薬ビンを握り締める。

 けれど、誰何(すいか)される前に、ものすごい勢いで中からメイドが走って来た。

 ぜえぜえと息を切らしながら顔を上げる。


「だ、大丈夫か?」


 あまりに必死なので、門番が心配そうに問う。メイドはうなずくと、顔を上げた。

 そこからは、凛としたものだった。夜空のような短い黒髪が、美しい顔にかかっている。


「その方は旦那様の大事なお客人なのです。お迎えが遅くなって申しわけございません」


 アルテルはきょとんと首を傾げたが、メイドはアルテルを無視して門番と話をつけた。


「そうなのか? 俺は何も聞いてないけど……」

「それも含めて私の落ち度です。ごめんなさい」


 これほどの美女に微笑みながら謝られたら、誰でも許してしまうだろう。

 門番は嬉しそうだった。

 しかし、メイドはさっさと切り替えてアルテルに向き直った。


「さあ、こちらです」


 優雅な所作でアルテルを(いざな)う。

 よくわからないが、通してくれるというのなら遠慮なく入る。


 アルテルはそのメイドの後に続いた。

 しばらく中庭の方に向かって歩くと、人気(ひとけ)がなくなったところで彼女は振り返り、アルテルをにらみ付ける。


「来るのが遅い!」

「え……と……」


 いきなり叱られた。そういえば、この意志の強い瞳は、どこかで見た気がする。

 それから、ようやく思い出した。


「あ、君は確か……」


 ジェサードの後輩だった。でも、名前が出て来ない。


「ラキア! いい加減に覚えなさいよ!」

「悪い。……ところで、なんでメイドなんだ?」


 大して悪びれもせず、アルテルは言った。ラキアは少し口ごもる。


「役者を辞めたから」


 ラキアの答えに、アルテルは嘆息した。親友の代わりに。


「それを知ったら、ジェドは怒るぞ」

「怒られたって、仕方ないわよ。続けられるわけないじゃない!」

「君が辞めないで済むように、ジェドはあの劇団を去ったんじゃないのか? 俺はそう思ってたけど」

「そんなわけ、ない……」


 急に弱気になった。うつむきかけたラキアに、アルテルはそっと言う。


「あいつ、時々嘘つきだからな。本心はあいつにしかわからないから、今度訊いてみたら?」

「簡単に言わないでよね。……大体、あなたたち、今はそれどころじゃないでしょ」

「まあ、そうだな」

「あのコ、泣いてばっかりよ? どうして手を放したりしたのよ」


 やっぱりか、とアルテルは思う。

 手を放したかったのではなく、すり抜けて行ってしまった。だからこそ迎えに来たのだ。


「そこのテラスの横の階段を上がると、二階の廊下に出るから。突き当りの部屋よ。そこにいるから」


 労わるような声。これが本来の彼女なのだろう。

 恩着せがましいことは言わない。何も求めていない。ただ、泣いてばかりのシェラを助けようとしてくれている。

 アルテルはそんな彼女にひとつだけ訊いてみたかった。


「俺が余計なことをしなかったら、君はジェドと離れずに済んだかも知れない。俺のこと、恨んでないのか?」


 すると、彼女は舞台の上で飾り立てていた時よりもずっと魅力的な笑顔で答える。


「恨んでないわ。あの時、止めてくれてありがとう――」



     ※※※



 扉をノックする音が再び響き、シェラは振り返った。

 紅茶をいれに行ったラキアが戻って来てくれた。本当は心細くて、紅茶なんていいからそばにいてほしかった。

 ラキアを頼ってばかりではいけないと思うけれど、まだまだ強い自分にはなれない。

 シェラは勢いよく立ち上がると、ろくに確認もせず扉を開けた。


「ラ――」


 ラキアさんじゃなかった。

 あまりの衝撃に、シェラは言葉もなく固まってしまった。幻影にしては機嫌が悪い。

 一瞬、ファルーズの罠かと思い、慌てて室内に逃げ込んでしまった。こんなところにいるはずがない人だから。

 すると、アルテルは心底あきれたように嘆息した。


「なんだ、その反応は?」


 シェラはそのままソファーの裏に逃げ込む。仏頂面のアルテルは、ゆっくりとにじり寄った。

 こんなところにいるはずがない。けれど、別人のはずもない。シェラは段々とパニックに陥った。


「ど、ど、どうしてここに? だって、行き先は知らせて来なかったんですよ? 来られるはずがないじゃないですか! 幻ですよね?」

「こんなに堂々と、入り口から入ってくる幻があるのか?」

「だって……」


 本物だというのなら、会いに来てくれたことになる。

 嬉しくないはずがないのに、だからといってすがってはいけない。そんなことをしたら、またファルーズが何をするかわからない。

 だから、どんなに本心とは違っても、これを言わなければいけなかった。


「帰って下さい!」


 血を吐く思いで言ったそのひと言を、アルテルあっさりと否定する。


「一人で帰れって意味なら、嫌だ」

「じいやか、フレイか、誰かに頼まれて迎えに来て下さったんですよね? でも、私は帰れないんです。だから、もう――」


 これ以上、言わせないでほしい。

 強情なシェラに、アルテルは苛立ったようなため息をついた。


「わかった。もういい」


 ずきりと胸が痛む。

 ナイフで刺されたとしても、こんなには痛まないのではないかと思えるほど痛い。


「勘違いしてるお前の意見は、もう聞かない」


 目の前が真っ白になった。

 わざわざこんなところまで来てくれたアルテルに、ひどいことを言った。嫌われて当然だ。


 こんなことなら、会いたくなかった。

 会わずに、幸せだった時間を思い出にしていられればよかった。


 もしかすると、少しは寂しいと感じてくれただろうかと夢見ていたかった。

 こんなに残酷な言葉を最後にしないでほしかった。


 シェラはそれ以上の言葉に耐えられそうもなかった。両手で耳を塞いでかぶりを振る。

 自分で選んだのだから、この人に涙を見せてはいけないと、唇をかみ締める。


 けれど、アルテルはシェラが目を閉じた隙に近づき、ソファーの正面からシェラの両手首をつかんだ。

 顔を背けたシェラに、アルテルは抑揚のない声で言った。


「誰かに頼まれたから迎えに来たわけじゃない。俺は、自分のためにお前を迎えに来た。だから、お前の意見なんて聞かないで連れて帰る」


 言葉の意味を理解するよりも先に、強い力に引き寄せられた。

 懐かしい匂いがする。あの店で過ごした日常が鮮やかに、シェラの脳裏に蘇った。

 本当に、いろんなことがあった。苦楽を共にした。あの日常はすべて、シェラの宝物だ。


 そして、それはアルテルにとっても同じなのかも知れない。

 すべては、一人では見ることのできない景色だった。

 ソファーをはさんだままの状態で抱き締められ、ようやく、自分がこの人を必要としているように、この人も自分を必要としてくれているのだと気付かされた。


 どれだけそれを望んだかわからない。本当に一緒にいられたら、どんなに幸せだろう。

 けれど、そんなにも幸せすぎる現実なんて、きっとあり得ない。


「駄目です! それじゃあ、私は先生のことを守れません」


 アルテルの腕の中で抵抗するシェラに、アルテルはきっぱりと言う。


「こういうのは、守ってるって言わない」

「ええ!」

「そんなこと、してもらわなくて結構だ」


 シェラの決意を否定する。独りよがりだと責め立てる。


「守りたいと思うなら、離れるな」


 ――そうなのかも知れない。

 離れて、互いは幸せではなかった。どんなことがあっても、離れずに済む道を探すべきだった。


 ぼろぼろと涙があふれる。頬を伝う涙が、とても熱く感じられた。アルテルと離れてから我慢していた感情が、すべてそこに詰まっているかのようだ。

 アルテルは、シェラの顔を両手で包み込み、指で涙を拭う。


「なあ、シェラ」

「……はい」

「今回のことは、お前が思うほど深刻な問題じゃないんだ」

「は?」

「単なる、わがまま息子の反抗期だ。そんなものに付き合う必要はない」


 あんなにも悩んだのに、なんて簡単に片付けるのだろう。もう、頭がくらくらして来た。


「でも、ファルーズ兄様は本気です。私が逆らえば、何をするかわからないから……。先生に何かあったら、私はどうしていいのかわかりません」

「そんなこと、お前は気にしなくていい。帰れないとか、もう言うなよ。それとも、お前はそんなにも俺を誘拐犯にしたいのか?」

「ええ!」


 本当に、大丈夫なのだろうか。不安がないわけではないけれど、こうしてアルテルの腕の中にいると、もう一度離れるという決断は二度とできそうになかった。

 けれど、ファルーズの言う通りだ。シェラの覚悟は中途半端だった。こんなにも、この場所を求めていた。

 シェラはアルテルの琥珀色の瞳を見つめた。


「先生が本当に無事でいて下さると言うのなら、帰ります。帰りたいです」


 ようやく、本音が言えた。アルテルも笑顔を向ける。


「うん、じゃあ帰るか」


 黙って逃げ出すしかないと思った。けれど、アルテルは事もなげに言う。


「挨拶して帰らないとな」

「だ、大丈夫でしょうか?」

「黙って帰ったら、つきまとわれるだろ」

「それはそうですけど……」

「行くぞ」


 アルテルはシェラの手を引いた。シェラはそれに逆らわず、握り返す。


「はい」



 部屋の外に出ると、見張りのつもりなのか、ラキアがいた。にこりと微笑んでくれる。


「もう大丈夫みたいね」

「はい。ラキアさんのおかげです」

「早く行きなさい。見付かるとややこしいし」

「それが、挨拶してから帰るって、先生が……」


 ラキアは眉根を寄せてアルテルを見上げたが、アルテルは平然としていた。


「本気で?」

「ああ」

「また一段とややこしいことになるんじゃないの?」

「その時はその時だ。……じゃあな、ありがとう。それから、ちゃんとジェドに会いに行くんだぞ」


 その言葉に、ラキアはうるさいと言って背を向けた。そして、手を振って去る。

 シェラは彼女の幸せも願わずにいられなかった。



 ホールに続く階段を下りる。そこは、シェラがここへ来た時と同じような状態だった。

 使用人たちが集まっており、セルヴァンとグレッセもいる。いないのはファルーズくらいだ。

 シェラとアルテルが下りて来ても、屋敷の者たちは顔を向けなかった。正面玄関の方に頭を下げている。シェラがびくびくしながら近付くと、使用人たちの間から、二、三歳くらいの小さな女の子が抜け出して来た。

 フリルとリボンだらけの女の子は、シェラを見て目を輝かせた。


「あー! おひめさまがいる!」


 一瞬、何のことかと思ったが、シェラはドレスを着ているから、そのせいだろう。

 そんな無邪気な子供の声に、男性の笑い声がかぶさる。


「そんなの、うちにいるわけないだろ。寝ぼけてるのか? 早く寝ないと駄目だな」


 そう言って女の子を抱き上げた男性と、シェラの目が合う。彼は唖然とした様子だったが、それはシェラも同じだった。


「シェンティーナ?」 

「ファリド兄様!」


 ファルーズと同じ髪の色だが、印象はまるで違う。健康的で明るく逞しい青年。このテスロット家の嫡男であるファリドだ。

 そういえば、ここへ戻ってから一度も顔を合わせていなかった。部屋に閉じこもっていたから、他のことに関心が向かなかったのだ。

 彼は女の子を抱いたまま、懐かしそうに微笑んだ。


「久し振りだなぁ。すごくきれいになってて、びっくりしたよ」

「……ご無沙汰しています」


 警戒を解かずにシェラは挨拶した。今度はアルテルとファリドの目が合う。


「こちらは?」


 すると、アルテルはにこりと微笑んだ。


「どうぞ、お気になさらず」

「はぁ……」


 ファリドはアルテルをどう扱っていいのか迷ったらしく、とりあえずシェラに向き直る。


「君がここにいるということは、もしかして、ファルーズが連れて来たのかな?」

「わかるんですか?」

「うん。あいつは、俺に対する恨みで凝り固まってるから。俺を追い落とすために、利用できるものはなんだってする」


 悲しそうな目だ。弟に恨まれているとあってはそれも無理からぬことだろうか。

 シェラが知る昔の二人は、とても仲がよかったのに。


「……ごめんな。君を巻き込んで。静かに、幸せに暮らしていたんだって、見たらわかるよ」

「ファリド兄様……」


 そこで、ホールに慌しい足音が響いた。その落ち着きのなさが、らしくない。

 ファルーズは息を弾ませながらファリドを見て顔をしかめ、アルテルを見て、更に顔をしかめた。

 ファリドは女の子を下ろし、後ろにいた女性に託す。多分、夫人だろう。


「仕事が早く片付いて、今日中に戻れたんだ。なあ、ファルーズ。関係のない人にまで迷惑をかけるのは、いい加減に止めるんだ」


 そのひと言に、ファルーズはシェラに見せる何倍もの憎しみを込めて兄をにらんだ。けれど、ファリドはそれを正面から受け止める。


「迷惑をかけるな? あんたがそれを言うのか? 自分の都合で他人を振り回しているのはどっちだよ!」


 憤る弟とは対照的に、ファリドは静かに嘆息する。


「お前が言うのは、サリのことか?」

「他に誰がいるんだよ!」


 その怒声が女の子を怯えさせた。ファリドの夫人は女の子を連れてその場を去る。

 兄弟の諍いを見せたくないのは当たり前だ。それでも、ファルーズは止まらなかった。


「彼女は貧しく育ったけど、いつも一生懸命で逞しく生きてた。俺にとっては誰よりも大事だったんだ。それを、あんたが……!」


 シェラはおろおろと二人を見比べていたけれど、アルテルはあからさまに興味のない顔をしていた。

 そんな彼女たちに構わず、兄弟げんかは続く。


「俺が彼女を辞めさせて、お前から隠したっていうんだろ? それは事実だ。けどな、それをいつまでも恨んで、親やシェンティーナにまで迷惑をかけるなって言ってるんだ」

「開き直るな! 自分の結婚が決まったから、彼女が邪魔になったんだろ!」

「俺は、彼女と関係を持ったことなんてない」

「じゃあ、なんでだよ!」


 すると、ファリドは大きくため息をついた。


「確かに、彼女は貧しい生活を逞しく生き抜いて来た女性だったよ。だからこそ、貪欲だった。彼女の逞しさは、お前が言うようなものとは違う」

「なんだと?」

「彼女は、二度と貧しい暮らしには戻りたくなかったんだろう。お前に何を言ったのかは知らないけど、想像は付く。俺が彼女を寄せ付けないようにしたから、彼女はお前っていう保険をかけた。彼女みたいな人間にとって、お前を落とすくらい簡単だったんだよ。危なっかしくて見てられなかった」


 ――痛々しい。

 嫌いな人間とはいえ、はたで聴いているシェラの方が苦しくなって来た。


「そんなこと、信じるか!」


 頭に血が上ってる当人は、兄が事実を捻じ曲げ、でっち上げを口にしているとしか思っていないらしい。

 激昂するファルーズに、ファリドは不意に厳しい目をした。


「ちゃんと目を向けて真実を知ろうとしなかったのは誰だ? そんなに想うなら、一生賭けて捜して迎えに行けばいいだろ。それもできずに人を恨んでばかりだ。そんなお前だから、俺は事実を伝えられなかった。受け止められるお前じゃなかったから」

「うるさい!」


 甲高く怒鳴って、ファルーズは耳を塞いだ。

 そんな光景を目の当たりに、アルテルはぽつりと言った。


「だから言っただろ。そんなに深刻な問題じゃないって」

「え、え……と……」

「ほら、挨拶」


 アルテルは場違いなくらい普通の声で言い、息子たちの口論を青くなって聞いている伯父夫婦にシェラを突き出した。セルヴァンとグレッセは呆然としている。


「あ、あの、私、迎えが来たので帰りますね。では、ご機嫌よう……」

「え、ああ、元気で」


 あっさりと、終わった。

 こんなことでいいのかと思うくらいだ。


「お前が絡むから、話が大きくなったんだ。相談せずに勝手に突っ走ったお前が悪い」

「ご、ごめんなさい……」


 シェラとアルテルの存在など忘れて、ファリドとファルーズはまだ怒鳴り合っている。

 けれど、あれでいいのかも知れない。

 遠慮もなく怒鳴り合って、それで初めてわかり合えることだってあるだろう。

 シェラは難しく考えすぎてしまって、色々なものが見えなくなっていたようだ。



 そうして、二人は翌日には戻ることができた。

 あの家へ――。



     ※※※



 それは、たった数日間の出来事だった。

 けれどシェラにとっては、アルテルと何年も離れていてやっと再会できたような気分だった。

 薬剤店に戻った時、シェラはこれが現実なのか自信がなかった。


 もう二度と戻って来られないと覚悟を決めたのに、今、ここにいる。

 そして、大好きな人が自分に愛情を向けてくれる。

 この幸せが現実だと受け入れてもいいのだろうか。

 シェラは荷物を下ろしたアルテルの隣に立ち、少しうつむいて言った。


「あの、先生、先に謝らせて下さい」

「は?」

「ごめんなさい。本当に、少しでいいんです」

「……今度はなんだ?」


 身構えるアルテルに、シェラは横から両腕を伸ばした。腰にしがみ付くようにして顔をうずめる。


「少しでいいんです。このままでいて下さい……」


 あふれる気持ちを自分で持て余した。

 ここにいる。誰よりも愛しいアルテルのそばに。

 それを感じていたかった。


 すると、アルテルが深く長いため息をついた。

 うっとうしかったのかと、シェラが離れようとすると、二の腕をつかまれた。


「お前は、そんなに長い前置きがないと甘えられないのか?」

「す、すみません」

「謝るな。これくらいでいちいち謝られてたら、俺はお前に土下座しなきゃならなくなる」

「ええ!」


 体が一度離された。その次の瞬間には、口が塞がれる。

 一瞬、何が起こったのかがわからなかった。


 けれど、息がかかるほどの距離に、眼鏡のないアルテルの微笑がある。

 ぽつりと口からこぼれた言葉は、胸の中でどれだけ繰り返したものだっただろうか。


「先生、大好きです」



          ※※※



 春の花咲く窓辺で、僕はぼんやりと外を眺めていた。

 そろそろ、勉強をしないと、うるさいのが来るのだけれど。


 僕の家の執事、フレセス=ブルックは、主と死に別れたかわいそうな老人なんだと、僕の両親は言う。

 けれど、どこががかわいそうなのかよくわからないくらい、フレセスはぴんぴんしている。


 小言はうるさいし、僕が勉強をサボると冷ややかな眼を向けて来る。執事のくせに、僕を何だと思ってるんだと言いたくなる。

 でも、曲がったことが嫌いで、公平な人だ。それに、僕が本当に努力してもできなかったことを責めたりはしない。だから、僕はフレセスが嫌いじゃない。


 そのフレセスは、前に仕えていた家のお嬢様のことを常に気にしていた。

 なんでも、一人暮らしをしているらしい。それはそれは優しく、美しい女性なのだと、僕をほめる何千倍もの勢いでほめちぎる。

 ちょっと、うさんくさい。


 ただ、心配なのは本当のようで、時々断って抜け出して、会いに行っている。

 それが、いつ頃からか急に会いに行かなくなった。彼女の名を口に出すことさえ、あまりない。

 僕たちに気を遣っているのだと思う。

 だから、僕はフレセスに言ってやった。


「なあ、フレセス。お前の言う『お嬢様』は、優しくて美しい、素敵な女性(レディ)なんだろう? だったら、僕が結婚してあげてもいいよ。そうしたら、フレセスはいつだって『お嬢様』に会えるから」


 そんな僕の思いやりを、フレセスは、ハッと鼻で笑った。


「い、今、鼻で笑っただろ! お前なんかもう知らないからな!」


 僕の純粋な気持ちを馬鹿にしている。あんまりだ。

 すると、フレセスはおもしろそうに笑った。僕をからかって遊んでいるに違いない。


「申し訳ございません。坊ちゃまがあまりにもかわいらしいことを仰るものですから、つい」

「何がつい、だ!」


 ぎゃあぎゃあと僕がわめいていると、フレセスは急に遠い目をした。


「お気持ちはありがたいのですが、それは無理なのですよ」

「十歳の僕じゃ釣り合わないとか言いたいんだろ!」

「いえいえ、そうではございません。お嬢様はつい先だって、かねてより想いを寄せていた男性のもとに嫁がれたのですよ」

「え!」


 知らなかった。どうりでフレセスが行かなくなったわけだ。


「そうだったのか……」

「はい。友人知人を集めただけの簡単な式でしたが、わたくしはこれまで、あれほどに美しく、幸せな花嫁を目にしたことはございません」


 そう語るフレセスの目には、じんわりと涙がにじんでいた。きっと、本当に嬉しかったんだろう。

 そんな様子を微笑ましく感じていた僕に、フレセスは急に視線を戻した。そして、にやりと笑う。


「でき得るなら、生きている間にもう一度、幸せな花嫁を見せて頂きたいものです」

「ん?」

「すばらしい女性が来て下さるように、わたくしはこれからの人生を賭けて、坊ちゃまをどこへ出しても恥ずかしくない紳士に仕立て上げねばなりません。ですから、お覚悟なさいませ」

「なんだよ、それ……」

「さあさあ、まず、昨日の続きから始めましょう」


 僕は諦めてため息をついた。

 そして、フレセスのために、会ったこともない二人の幸せを願ったのだ――。



    【FIN】


 なんとか終わりました。

 長らくお付き合い頂いてありがとうございます。


 蛇足かも知れませんが、後日談を少し。


 結婚という形で落ち着いた二人ですが、アルテルはとてもわかりにくいプロポーズをして、シェラがその意味を理解するのには時間がかかったことでしょう。アルテルの実家へも、挨拶には行ったようです。


 ジェサードとラキアはその後、再会を果たしますが、やっぱり役者を辞めたことをこっぴどく叱られました。その数年後、二人は小さな劇団を旗揚げします。公私共に、お互いを高め合うような言い合いは絶えませんでしたが、落ち着くところに落ち着いたということで。

 ちなみに、過去にジェサードに嫌がらせをしかけた相手は複数いました。衣装や小道具に悪戯していたのは、衣装係の女性です。徹夜で作り直しをすると、付き合って一緒に残ってくれたので。


 ティケを一目見て気に入ったフレイは、振り向いてもらおうとがんばりますが、相手にされませんでした。その後、ティケは診療所の青年ギャレットと出会い、明るい家庭を築きます。

 失恋したフレイは、花に話しかける回数が増え、周囲を不安にさせますが、どれくらいか経ったら、花のようにかわいらしい彼女ができるかと思います。


 少年三人組は、アルテルたちに子供が産まれたら、競い合うようにして面倒をみてくれたことでしょう。


 ラメリアは、あの才媛が何故と思うような、平凡な男性と結婚します。くせのある人間に囲まれていた彼女にとって、平凡は何よりの美点だったのでしょう。


 イーゼルは、そもそも大好きなアルテルが出て行ってすねていただけなので、歳を重ねたら落ち着きます。


 ルシノーラは琥珀色の眼をした人に身請けされましたし、ストーカーの青年はあの後から引きこもりです。それから、エルジナは、百まで生きます。


 ファルーズはファリドとけんかしつつも、仕事を手伝い始めます。少しずつ、関係は改善されるのでしょうが、女性にフラれたら、また荒れるかも知れません。


 フレセスは、ラストの通り、坊ちゃんの教育に力を注ぎます。坊ちゃんも、それにがんばって応えようと努力しました。


 では、そういうことで。

 本当にありがとうございました。

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