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アルテル=レッドファーンの日常  作者: 五十鈴 りく
本編

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12/17

アルテル=レッドファーンの試練

 薬師アルテル=レッドファーンと、その下働きの少女シェラは旅に出ていた。

 なんの旅かというと、アルテルの師匠に会いに来たのである。



 アルテルは近年の製法としては珍しい、トーリエル式という技法で薬を作る。一時期は周囲の理解もなく、心ない噂に苦しんだが、今は町の人々との交流も増えて薬を(おろ)すまでになった。


 アルテルはもともと医師となるべく医術を学んでいたのだが、とあるきっかけで薬師へと転身した。

 ただし、難解なトーリエル式を独学で学べるはずがなく、五年の歳月を師匠に付いて調薬を学んだそうだ。それをシェラが知ったのはつい最近のことだったりする。


 その師匠がいるというのがまた、交通の便の悪いところだった。

 二人が暮らすジーファの町の付近から、馬車を使って北へ一日半。シェラが初めて名前を知ったほどの小さな山村である。


 師匠いわく、水がよいのだそうだ。清流を使うことにアルテルの師匠はこだわる。

 アルテルは薬草がよく育つ肥沃な土壌にこだわり、森の方へと移った。その辺り、意見が合わないらしい。

 といっても喧嘩別れなどではなく、しっかりと及第点をもらって独り立ちした。

 今回は、これまでの報告に行くのだという。


 シェラは段々と道が悪くなったせいで、揺れる馬車の中で転がっていた。

 道中、山に登ると言われていたので、スカートは止めてキュロットにしておいてよかったとここでも思う。


 すでに随分と蛇行していた。そろそろ、馬車で進むのは限界のようだ。

 アルテルは天井から下がった紐を右手でつかみ、左手で転がるシェラを受け止めた。


「大丈夫か?」

「は、はい、なんとか」

「そろそろ降りるぞ」

「はい」


 御者を止め、アルテルは代金を支払う。それなりの出費だが、このところ実入りはよいので家計を圧迫することもないだろう。

 馬車を降りると、空気が濃いというのか、とにかく思い切り吸い込みたくなるほど清々しい。

 シェラが深呼吸をしていると、アルテルは手招きをした。秋になり、コーデュロイ生地のパンツに厚手のコットンシャツといった格好である。


 シェラは正面の山を見上げる。

 頂上まで登ろうと思えばかなり険しい道のりである。体力に自信のないシェラとって幸運だったのは、村は山頂ではなく、(ふもと)寄りだということ。

 この色付き始めた木々に覆われた山は、アルテルの師匠にとって宝なのだろう。


「よし、行くぞ」

「はい!」


 麓の立て札には、『この先、ロカイ村』とある。

 荷物を背負うアルテルの隣で、シェラは彼を見上げる。


「先生の先生って、どんな方なんですか?」


 すると、アルテルは言葉に詰まった――ように見えた。


「……もうすぐ会えるから、自分で確かめたらいい」

「はぁ……」


 変わり者のアルテルの先生だ。変わってないわけがない。

 せめて会話が通じますように、とシェラは思った。

 報告なら、アルテル一人でことが足りる。それでも、アルテルはついて来てくれと言った。


 留守を任せるのが不安だと、それだけの理由だったのかも知れない。それでも、師匠に会わせてくれるのは嬉しかった。

 アルテルの親友のジェサードも、姉のラメリアも、誰も師匠には会わせたことがないらしい。

 少しくらい変わった人でもいい。気に入られたい。シェラはそう思った。



 ロカイ村はアルテルにとって、五年の歳月を過ごした地ということになる。

 さぞ懐かしいだろうと思ったが、故郷のローテスタークでさえ懐かしむような発言をしたことがない。特別な感慨はないのだろうか。

 そんなことを考えつつ、道のわからないシェラはアルテルの後ろをついて歩く。


 シェラはもともとお嬢様育ちで、出かける時は馬車に揺られてばかりだった。その後、一人で暮らすようになってからは、ほぼジーファの町を出ることがなかった。つまり、山歩きなどしたことがないのである。

 黄色くなった落ち葉がはらはらと降る様を、うっとりと眺めながら歩く。その落ち葉が土の上で腐ると滑りやすいなどとは、もちろん知らない。


「ひゃっ!」


 変な声を上げて滑ると、振り返ったアルテルがすかさず抱き寄せた。こういうことを予測していたかのような機敏さだった。


「山道は足を取られやすいから、前を見て歩けよ」

「先に仰って頂けたらよかったのに」

「そうだな」


 腕の中で恨めしげに言うシェラに、アルテルは苦笑する。

 そんな口を利きながら、シェラは離れがたい気持ちを振り払った。早く離れないと、不審に思われる。


 そして、二人は再び歩き出した。小川のせせらぎが近くなった頃、アルテルが前方を指差す。


「見えて来た。あそこだ」


 赤い枝の先に見える畑の奥に、ぽつりぽつりと家がある。くたびれた木造がほとんどで、よく言えばのどかだ。

 村の外側は木の柵で囲んである。その柵の唯一の切れ目、開かれた村の門の前で、二人はふくよかな老婆に出会った。

 彼女はアルテルを覚えていた。


「あらまあ、アルテルちゃん。お久し振りねぇ。何年振りかしら?」


 ちゃん付けで呼ばれているアルテルがおかしかった。シェラは新鮮な気持ちでそれを眺めている。


「去年、来ましたよ」

「あらやだ、そうだったかしら?」


 あはは、とアルテルものん気に笑っていたが、彼女はアルテルに連れがいるのを発見した途端、少女のように目をキラキラと輝かせた。


「あらあら、まあまあ、かわいらしいお嬢さんだこと」

「初めまして、シェラと申します」


 礼儀正しく挨拶をしたシェラに、老婆は優しく微笑む。


「アルテルちゃん、お嫁さんをもらったのね。それで、お師匠さんに会わせに来たのね?」


 そのひと言で、シェラはおもしろいくらいに取り乱した。


「ええ!」


 耳まで真っ赤になり、ぶるぶるとかぶりを振る。


「あ、あの、それは、誤解で……」


 そんなシェラの様子を、アルテルはじっと見て、それから笑った。

 アルテルは少しも取り乱していないし、むきになって否定もしない。あっさりと流してしまえる大人のアルテルに、今、顔を見られるのが何よりも恥ずかしかった。


 老婆はシェラの言葉をすでに聴いていない。よりおもしろい方へ話を転がして納得したようだ。


「うん、エルジナさんは家にいるよ。早く会わせておあげよ」

「はい。それでは失礼します」


 穏やかな微笑で、アルテルは老婆をやり過ごす。


「シェラ、師匠の家は一番奥だから。この村の長老なんだ」


 普段と変わりない様子で言う。シェラは深く息を吸って、顔のほてりを冷ました。


「そうなんですか。緊張します……」


 これでは本当に嫁のようだ。自分の発言の滑稽さに疲れながら、シェラはアルテルの後に続いた。



 その家は、確かに他よりも幾分大きかった。それに、軒先には壁を埋め尽くすほどの薬草が干されている。やはり、間違いない。

 家の横の柵の中に、二羽の茶色い鶏と、一匹の山羊がいる。家畜たちも、二人を不思議そうに観察しているように思えた。


「さて、行くか」


 そこでアルテルは一度気を引き締めたようだった。厳しい方なのかも知れない、とシェラもいっそう緊張を強くする。


「はい」


 シェラがうなずくと、アルテルは扉を叩いた。


「師匠、ご無沙汰してます。アルテルです」


 しばらく、シンと静かなものだった。けれど、アルテルは落ち着いて待っていた。

 どれくらいかそうしていると、ようやく扉が開く。そこから現れた人物は、シェラの想像していた通りではなかった。


 まず意外だったのは、女性だったということ。そして、年齢は八十を越えているのではないかと思う。深いしわに覆われた顔、細く乾いた指、丸まった背中。小さなか弱い老婆だった。真っ黒な黒いローブが、唯一アルテルの師匠らしいところだ。


「なんだ、去年と続けて来るなんて、珍しいね」

「去年見てもらった小児熱死病(セベト)の薬の効果も報告しようと思いまして」


 そこで、アルテルの師匠はようやくシェラに目を留めた。小さな老婆のしわに埋もれた目がシェラに向けられ、シェラは緊張しながらお辞儀をした。


「私はシェラと申します。アルテル先生のところで下働きをさせて頂いております。どうか、お見知りおき下さい」


 さっきのように、誤解される前に言った。むしろ誤解されていたいけれど、アルテルを困らせたくない。

 すると、アルテルの師匠は柔らかく微笑んだ。優しくかわいらしい笑みに、シェラはほっとする。


「そうかいそうかい。よく来たね。アタシはエルジナ、一応これの師匠だ。さあ、中へお入り」


 エルジナは、アルテルには目もくれず、何故かシェラの背に手を回して優しく中へ(いざな)う。シェラは一度アルテルを振り返ったが、アルテルは苦笑していた。

 中は少し暗く、薬草の苦い匂いに満ちていたが、シェラはすでに慣れっこである。所狭しと吊るされている薬草も、今となっては半分以上を見知っていた。


 エルジナはシェラを敷物の上に座らせると、茶をいれ始めた。年の割に動きは滑らかだ。

 アルテルも勝手にシェラの正面に座った。そして、盆に茶を載せて戻って来たエルジナに、アルテルはセベトの薬の話をした。


「これから、もっとトーリエル式の薬師が増えて、この薬が普及すればいいんですけど。作り手が増えれば、助かる子供も増えます」

「作り手が増えれば、最初は感謝した人間も、アンタのことなど忘れるだろうよ」


 口調は穏やかだし笑顔を浮かべているのに、ひと言がきつい。シェラは少し驚いたけれど、アルテルは慣れているようで動じなかった。


「だからといって、俺が世界中の子供たちの分を用意できるわけじゃありません。それは仕方のないことです」


 そう言ってから、アルテルは何故か少しだけ口ごもった。


「あの、それで、師匠、試験の件なんですが……」


 試験。シェラはきょとんとした。

 エルジナはにっこりと微笑む。


「もちろん、わかっているよ。それが本題だものね」


 そうして、エルジナは何故かアルテルではなく、シェラに向き直った。そして、カップに両手を添えていたシェラの右手を取る。シェラは左手にカップを持ったまま、エルジナに握られた手を眺めた。何かを握らされたのがわかった。手を開いてそれを確認しようとすると、エルジナの両手がそれをもう一度閉じさせる。

 そしてひと言、エルジナはささやいた。


「これをお飲み」


 シェラはアルテルの師匠の言葉を、まるで疑わなかった。


「あ、はい」


 と、返事をすると、手の中のものを口に放り、反対側に持った茶で流し込んだ。


「駄目だ!」


 アルテルの鋭い声がした。手首をつかまれ、茶の入ったカップが吹き飛んだけれど、その頃にはシェラの意識は遠のいていた。



     ※※※



 倒れたシェラの体をアルテルはとっさに抱き留めた。その頬を二度三度叩いたが、反応はない。呼吸音は落ち着いていて、眠っているようだ。

 エルジナは冷めた目をそんな二人に向ける。


「馬鹿なんじゃないかい、その娘? 薬師の家で、差し出されたものを疑いもせずに飲むヤツがあるかい」


 先ほどの笑顔は消え、エルジナは吐き捨てるように言った。

 アルテルは嘆息する。


「だからって、悪戯は止めて下さい。師匠が連れて来いって言うから連れて来たんです」


 すると、エルジナはクク、と邪悪に笑った。


「アタシはね、結婚したいくらい愛しい娘ができたら連れて来いって言ったんだよ。そうしたら、最終試験をしてやるってね」

「…………」

「お前、何年待たせるつもりだったんだい? アタシが死ぬまでに間に合わないかと思ったよ」


 この薬師エルジナは、見た目こそおとなしそうな老婆だが、村をまとめ上げ、毒も薬も同じように扱う油断のならない老人である。損得もはっきりとしており、嫌なこと、無駄なことはしない。


 セベトの薬も、アルテルが一人で研究するよりも、エルジナの助けがあればもっと早くに良質なものができただろう。セベトの薬を作りたいと言ったアルテルに、エルジナが放った言葉は、この村に子供はいないから必要ない、だった。やりたければ一人でやれと。


 アルテルを弟子にしたのも、ただでこき使える人間として手元に置いたに過ぎない。若い男だから、力仕事をさせるには持って来いだったということだ。

 尋ねたことをしぶしぶ教えてはくれたが、そんなこともわからないのかという顔をする。とにかく、厳しい師匠だった。


 その師匠が、もうそろそろ出て行けと、一応お墨付きのような言葉をくれた。けれど、その後に続いた言葉の意味がわからなかった。

 最終試験は、今のお前には無理だ。もし試験を受けたいのであれば、愛しい娘を連れてここに来い。そうしたら、試験をしてやる、と。


 エルジナの言う最終試験がなんなのか、アルテルにはわからなかったし、しばらくそんなものの存在は忘れていた。最近になって思い出したのは、その愛しい娘ができたからだ。

 けれど、エルジナは意識のない彼女の顔を眺め、それから失笑した。


「しかし、アンタがこういう、見た目だけの空っぽ娘を選ぶとは、意外だったね。少なくとも、もう少しマシなのを連れて来ると思ったよ」


 相変わらずの口の悪さに、アルテルはどっと疲れを感じた。


「空っぽじゃありません。上辺しか見ていないのは、師匠の方です」


 珍しく噛み付くような弟子の答えに、エルジナは顔をこれ以上ないほどに歪めてみせた。


「この馬鹿弟子。馬鹿には馬鹿が丁度いいってことだね。……まあいいさ。試験は始まったんだからね」

「え?」

「アタシがわざわざ悪戯で睡眠薬なんて盛ると思ってるのかい?」


 アルテルの背に、ぞくりと冷たいものが走る。シェラの顔を覗き込むと、その寝顔は穏やかなものだった。

 エルジナは立ち上がり、アルテルを上から見下ろす。


「その娘が飲んだ薬の解毒。それが最終試験だ」

「な!」


 そのために連れて来させたとは――。

 その事実に、アルテルは憤然とする。


「それじゃあ、こいつはとばっちりじゃないですか!」


 すやすやと眠るその首筋に、アルテルは手を当てて脈を診る。今のところ、正常な鼓動と温もりがある。

 けれど、ほっとしたのも束の間だった。


「一層目は即効性の睡眠薬。それは見ればわかるだろ。本題は二層目からだ。ほら、これ」


 ローブのポケットから、エルジナは白い丸薬を取り出し、アルテルの手の上に落とした。


「娘が飲んだものと同じ薬だよ。それを解析してみせな」


 アルテルはそれを握り締めると、どうしても訊かなければならないことを口に出した。


「……まさか、命に別状はありませんよね?」


 すると、エルジナは鼻で笑った。


「あるよ。だから、アンタも命賭けて取り組むんだね」


 一瞬、息ができなかった。体が、指先が、自分のものではないような感覚がする。


「じゃあ、試験なんてもういいです。こいつを巻き込んでまで受けたくないです。解毒して下さい」


 そう、うめく。けれど、エルジナはそんな弟子に冷たい言葉で答える。


「甘ったれたことを。アンタには覚悟が足りないんだよ。最愛の者だからこそ、冷静にはなれない。けれど、それなら(うしな)うだけだ」


 最愛の者の命も、薬師としての矜持も、すべて失う。

 大事なものをすべて賭けて立ち向かえと、師は言う。


「どんな局面だろうと、薬師は冷静に状態を把握しなければならない。それができるようになってこその一人前だ。わかったら、さっさと始めるんだね」


それでも、納得しないアルテルに、エルジナは軽蔑するような視線を向けた。


「アタシも師から同じ試練を受けた。アタシは逃げなかったよ。アンタがそこで腑抜けてれば、それだけその娘が助かる確率は下がって行く」


 シェラの体の温もりを感じながら、アルテルは自分の方が少しずつ冷えていくような感覚だった。

 慣れない山にはしゃいでみたり、照れて焦ってみたり、緊張してこわばってみたり、さっきまで見せていた色々な表情が、目まぐるしく思い出される。


 こうなってしまった以上、覚悟を決めるしかないのか。

 アルテルはシェラを抱きかかえて立ち上がった。


「……寝台をお借りします。それから、もちろん材料は師匠のところから頂きますけど」


 ようやく、少しましな表情をしたアルテルに、エルジナは嘆息する。


「ああ。好きに使いな」



 アルテルが昔使っていた部屋はそのままになっていた。もともと、一人分のベッドとテーブルと椅子しかない小さな部屋だ。たたんであったシーツを簡単に広げると、アルテルはその上にシェラをそっと下ろす。その背後には、エルジナがいる。


「次の症状が表れたら呼んでやるから、行きな」


 その言葉を信用し切れないアルテルだったが、逆らってはろくなことにならないだろう。


「……お願いします」


 そうして、部屋を出た。


 エルジナの調薬部屋は、アルテルのように適当ではなく、はっきりと区切られている。棚の上のビンは随分上にまであるが、自力で取れなくなったら、通りかかりの誰か人に取らせるのだから、あまり不便でもないのだろう。すり鉢などの機材も分けて積まれ、使いやすさは見習うべきだといつも思う。

 それから、常時用意されている成分の多さは、アルテルの店の三倍の量に及ぶ。

 アルテルが必要としないものも多くあるが、ここまで精力的だからこそ、ボケないのだろうか。


 アルテルはまず、あの白い丸薬をテーブルの上で半分に割った。すると、断面は四層に分かれていた。表面が白、二層目は茶色、三層目が紫、そして、ごく微量だが、中心が赤だ。

 白は、睡眠薬だという。その言葉に嘘はないだろう。


 では、二層目は何か。

 アルテルは二層目の茶色をナイフで慎重に削り、薄いガラスの板の上に伸ばした。においを嗅ぐと、妙に香ばしくて、甘いにおいがする。ほんの少量を水に溶き、一滴をガラスの板で挟んで伸ばし、拡大鏡を使って観察する。茶色の粒の間に、白と黒の粒も少量混じっている。


「黒は(すす)だな。炒ってある。それに、この甘い香り――」


 アルテルは薄く水で延ばしたものに小指を付け、ほんの微量だけなめた。ぴリ、と舌の先に刺激がある。


「ククラスか」


 主成分はククラスという木の実から成っている。熱を加えると、体を麻痺させる効果がある。体を切開するような手術の時などに用いられる。意識はそのまま残るので、睡眠薬と併用させる場合が多いが、量を間違えるとそのまま目覚めなくなる。


 けれど、あのエルジナがそんなに単純なことをするはずがない。見落としはないか、アルテルはもう一度拡大鏡を覗き込む。そうして、納得した。

 第二層目の解毒に挑む。



     ※※※



 アルテルが二層目の解毒薬を調合し終えた頃、エルジナが調合部屋にやって来た。


「あの娘が起きたよ。二層の効力が出始めたところだ」

「……そうですか」


 すでにアルテルは落ち着いていた。白い深皿に少量の橙色をした液体を手にしている。


「それは? 何を合わせた?」

「ククラスの実の痺れを取る、シレスタの根が(おも)です。それから、微量のセテギアも」


 その一言に、エルジナは薄い眉を跳ね上げた。セテギアは毒草である。


「何故、セテギアを入れる?」

「ククラスと一緒に、ラサの種も入れたでしょう? セテギアで体温を下げるんです。そうすれば、薬の進行が遅れます」

「それを判断したということは、お前は四層すべてを解析したと?」

「はい」


 短く答えるアルテルに、エルジナは鼻で笑った。


「その判断が誤りでなければよいがな」



 そして、アルテルが部屋に入ると、シェラは体を横たえていた。けれど、まだ完全に体の自由が利かないということもなく、なんとか起き上がろうとした。アルテルはシェラの背に手を滑らせ、体を起こすのを手伝った。


「……悪かったな、こんなことになって」


 知っていたら連れて来なかったなどと言っても、今更どうしようもない。

 シェラは笑顔で小さくかぶりを振る。


「大丈夫ですよ、先生。そんな顔をなさらないで下さい」


 どんな顔だろう。今、自分がどんな顔で彼女に接しているのか、まるでわからない。

 舌が痺れてきたのか、喋り方が少しおかしくて、それが痛々しかった。


「これ、飲んでくれるか?」


 シェラはこくりとうなずく。

 深皿にシェラは手を添えるが、アルテルが直接深皿をシェラの口に持って行く。こぼされると、次の調薬に差し障る。

 いつもならまずいと吐き出すシェラだが、今は味覚も怪しいのか、無理をしているのか、あっさりと飲み下した。

 アルテルはシェラを寝かせると、脈を計る。


「……体温を下げるから、少し寒くなるぞ」

「はい」


 シェラは素直に笑う。顔色が徐々に白くなった気がする。

 心臓をつかまれるような痛みがあり、繋がった手が縫い付けられたように離れがたかった。けれど、こうして無為に過ごしてはいけない。

 アルテルは意思を強く持ち、立ち上がった。


「俺もがんばるから、がんばってくれ」

「はい」


 これが今生の別れにならないよう、後は自分の培ったものを信じるしかない。



     ※※※



 シェラは、ふわふわと宙に浮いているような感覚を味わっていた。温かく、心地よい。

 けれど、そんな眠りは額をぺしぺしと叩く乾いた手によって遮られた。


「いつまで寝てるんだ、この空っぽ娘は」


 うっすら目を開けると、自分を覗き込む見慣れない老婆の顔があった。シェラは驚き、慌てて起きたが、そのせいで老婆に頭突きしてしまった。頭と頭がぶつかったので、お互いに痛い。

 老婆は額を両手で押さえると、苛立(いらだ)った声を出した。


「この馬鹿娘!」

「あ、ああ、ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


 シェラも額をさすりながら謝った。その間に色々なことを思い出す。

 この老婆はアルテルの師匠のエルジナで、シェラは確か広間でお茶を飲んでいたはずだ。

 周囲を見渡してもアルテルの姿はなく、シェラはベッドに寝かされていた。


「……あの、アルテル先生は?」


 すると、エルジナはハッと吐き捨てる。


「アンタが飲んだ薬の解毒薬を調合中だよ」

「かいどく?」

「アタシからの最終試験だ。あれが正解の解毒薬を調合できなかった場合、アンタは助からないからね」


 けろりと普通に、とんでもないことを言われた。


「ええ!!」

「薬師なんてものと関わった、アンタが悪い」


 あっさりと言うから、シェラはそうか、自分が悪かったのかという気になった。


「そうですか……。ごめんなさい」

「何故そこで謝る?」

「アンタが悪いと仰られたので」


 命の危機にぼんやりとした受け答えをするシェラに、エルジナは更に苛立ったように見えた。

 けれど、それをなんとか落ち着けてくれた。そして、切り出す。


「まあ、関わったのはアンタだが、命を失うのはさすがに嫌だろう。アンタにも断る権利くらいはあってもいい」

「はあ」


 それなら、飲ませる前に言ってほしかった。


「あれが解毒薬を完成させると信じ切れないのなら、アタシが代わって作ってやってもいい。あれとの縁は切れるだろうが、死ぬよりはマシだろう」


 ああ、なんだ、そんなに答えがはっきりとしたことを神妙な表情で訊いて来るのだな、とシェラは微笑ましさを感じた。にこりと微笑む。


「大丈夫ですよ。私、ちゃんと先生を待てますから。心配して頂いて、ありがとうございます」


 シェラの微笑を前に、エルジナは顔をしかめた。


「心配なんぞしとらんわ。その強がりがいつまで持つのか」

「信じてますから、いつまでもです」

「信じて死ねたら幸せか?」


 そんなエルジナの皮肉に、シェラは、はいと答える。


「助かると思っているから言えることかも知れませんが、もし万が一にも私が助からずに死んでしまったとするじゃないですか? 先生は優しいから、とても気に病まれると思います。でも――」


 と、シェラは一度言葉を切った。

 自分の中にある、これは醜い感情だと思う。けれど、それは確かな本音だった。


「でも、そうしたら、先生は私をずっと覚えていて下さいますよね。生きていても離れてしまうより、その方がずっと幸せです」


 すると、何故かエルジナは大きく吹き出した。ひぃひぃと笑っている。

 シェラが困っていると、エルジナは笑いすぎてにじんだ涙を拭き、それからシェラを改めて見た。


「そろそろ痺れて来たんじゃないか?」

「え?」


 言われてみると、体中に足が痺れたような感覚が微かにある。


「ええ、そのようですね。少し」

「そこから進行は早いからね。あれを呼んで来るよ。話せるのはこれが最後だろう」


 最後ではない。すべて終われば、いくらだって話せる。



     ※※※



 アルテルが二層目の解毒薬を調合し終えた頃、エルジナが調合部屋にやって来た。


「あの娘が起きたよ。二層の効力が出始めたところだ」

「……そうですか」


 すでにアルテルは落ち着いていた。橙色をした少量の液体を白い深皿に流し入れている。


「それは何を合わせた?」

「ククラスの実の痺れを取る、シレスタの根が(おも)です。それから、微量のセテギアも」


 そのひと言に、エルジナは薄い眉を跳ね上げた。セテギアは毒草である。


「何故、セテギアを入れる?」

「ククラスと一緒に、ラサの種も入れたでしょう? セテギアで体温を下げるんです。そうすれば、薬の進行が遅れます」

「それを判断したということは、お前は四層すべてを解析したと?」

「はい」


 短く答えるアルテルに、エルジナは鼻で笑った。


「その判断が誤りでなければよいがな」



 そして、アルテルが部屋に入ると、シェラは体を横たえていた。まだ完全に体の自由が利かないということもなく、なんとか起き上がろうとした。アルテルはシェラの背に手を滑らせ、体を起こすのを手伝う。


「……悪かったな、こんなことになって」


 知っていたら連れて来なかったなどと言っても、今更どうしようもない。

 シェラは笑顔で小さくかぶりを振る。


「大丈夫ですよ、先生。そんな顔をなさらないで下さい」


 どんな顔だろう。今、自分がどんな顔で彼女に接しているのか、まるでわからない。

 舌が痺れてきたのか喋り方が少しおかしくて、それが痛々しかった。


「これ、飲んでくれるか?」


 シェラはこくりとうなずく。

 深皿にシェラは手を添えるが、アルテルが直接深皿をシェラの口に持って行く。こぼされると、次の調薬に差し障る。

 いつもならまずいと吐き出すシェラだが、今は味覚も怪しいのか、無理をしているのか、あっさりと飲み下した。アルテルはシェラを再び寝かせ、その手を取った。今飲んだ薬の効果はまだ出ないが、脈を計る。


「……少し、寒くなるぞ」

「はい」


 シェラは素直に笑う。顔色が徐々に白くなった気がする。

 心臓をつかまれるような痛みがあり、繋がった手が、縫い付けられたように離れがたかった。

 アルテルは気持ちを強く持ち、立ち上がる。


「俺もがんばるから、がんばってくれ」

「はい」


 これが今生の別れにならないよう、後は自分の培ったものを信じるしかない。



 丸薬の三層目が一番厄介だと言えた。

 エルジナは、膨大な量のビンの中からひとつを探し出そうとするアルテルに声をかける。


「三層の成分はわかってるんだろうね? 間違えてても教えてやるつもりはないが、まあ言ってみな」


 時間が惜しいのであまり口を開きたくないアルテルだったが、手を止めずに言う。


「あれ、カドレオ茸ですよね」

「ん?」


 エルジナは腕を組み、アルテルをせせら笑う。


「カドレオ茸は食用になるキノコだ。それが入っているなら、むしろ体にいいくらいだ」


 けれど、アルテルは脚立の上から真剣な目を師匠に向ける。


「とぼけても駄目ですよ。俺は五年前に調べましたから」

「何?」

「師匠がやたらとこの村、この山に執着するのは、水質がよいからだと言っていましたよね。けど、本当はそれだけじゃない」

「……じゃあ、何だと言うんだ?」

「このカドレオ茸、確かに食用のキノコです。珍味ですが、町の市場に出回ることもあります。粉末にして強壮剤にという使い方もしますね。でも、それは一般的なものの場合ですよね?」


 エルジナは黙ってアルテルの言葉を待った。


「この山の特定の場所で育ったカドレオ茸は、一般的なものとは別ものと考えた方がいい。気候風土、土壌、水質、周辺に植えた植物、そんな環境で効能が変質してしまうことがあります。なんでもかんでも俺を雑用に使った師匠が、これには触らせなかった。何かあると思って、五年前にこっそりかけらをもらって解析したんですよ」


 持ち帰ったのは、ほんの小さなかけらだった。だから、今まで気づかれなかったのだろう。

 エルジナは珍しく唖然と口を開けていた。アルテルはまだ続ける。


「この三層目が一番の難関です。でも、大抵は三層目よりも、四層目の方が難しいという先入観があります。だから、師匠はわざわざ毒素のない四層目を中に埋め込んだ。どんなに解析しても、ないのだから毒素は解析できない。自分の知識にないものが使われていると力不足を思わせ、焦りを煽るためですか? 師匠の性格の悪さがよく表れている薬ですよね」


 最後のひと言が気に入らなかったらしく、エルジナは近くにあったほうきの柄でアルテルを突いた。


「うるさい! 口よりも手を動かせ!」

「わかってます」


 この山でエルジナが栽培しているカドレオ茸は、平たく言うと毒キノコだ。毒もさっきのセテギアのように、使い方ひとつで役に立つこともあるから、本当に使い手次第なのだが、今回の場合は排除すべき成分だ。中毒症状が進むと、後遺症が残る恐れがある。


 これは、まず脳を蝕む。初期で記憶障害。中期で脳が麻痺し、後期まで進めば、機能停止。

 つまり、少しでも対処が遅れれば、記憶のかけらも残らない。

 命が助かるのなら、それでもいい。自分のことを忘れられたとしても。

 アルテルは、(おびただ)しい量の薬のビンを、これまでの思い出と共に並べた。



 三層目の調薬に入り、神経をそこに集中させていたが、時間だけは常に気にしていた。

 焦りがないはずがない。どうして、自分の手は、こんなにもたもたとした動きしかできないのだと、何度も苛立ちを感じてしまう。


 それでも、日が沈む前にでき上がった。それをすぐに飲ませるのではなく、間違いはないか、何度も計算式を繰り返す。ひとつでも違えば、完全な解毒はできない。


「――できたのかい?」


 エルジナがいつの間にか背後に立っていた。一瞬顔をしかめたのは、アルテルが使用して汚した調合部屋の惨状のせいだろう。

 けれど、そんなことはこの際どうだっていい。


「できました」

「多分?」

「多分、です」


 正直に答えた。エルジナはクク、と笑う。


「それじゃあ、アンタのことをあの娘が覚えていてくれるかわからないね」


 薬の原料を今更隠すつもりはないのだろう。けれど、その言葉で、自分の見立てに間違いはなかったと、少し安心した。


「覚えていなくても、そばにいますよ」


 微笑むと、エルジナはケッと吐き捨てた。それから、ぽつりと零す。


「あの娘、確かに空っぽではなかったよ」

「ああ、何か話したんですか?」

「少しね。ただ、空っぽではないが、甘ったるいものしか詰まってなかったけどね」


 ふわりとした笑顔で、師匠を苛付かせたのだろうな、とアルテルはこんな場合なのにおかしくなった。


「――じゃあ、行きます」


 エルジナは何も言わなかった。アルテルはシェラのもとへ、小さな薬ビンひとつを慎重に持って向かった。


 

 体を横たえているシェラに、意識はなかった。顔色も指先も、まるで死人のように見えて、アルテルの心は激しく動揺する。セテギアのせいで体温が下がっているからだとわかっているのに、心がついて行けない。

 そっとその手に触れると、氷のように冷たかった。頬も同じだ。


 アルテルは寝台の手前にひざを突く。

 それから、薬ビンのふたを開けた。開いたもう片方の手で、シェラのうなじに手を添える。

 くたりと横を向きそうになる頭を押さえ、アルテルは一度深呼吸すると、薬ビンから薬を煽った。なんとも言えない、ぼんやりとした味が口に広がる。


 そして、シェラの閉じた唇をこじ開け、薬を移した。彼女の冷たい唇に、アルテルの熱もすべて奪われて行く。

 与えられるものは、なんだって与える。熱だろうと、命だろうと、必要なら分けるから。

 小さく、のどが動いた音がした。アルテルはようやく唇を離す。


 これで、でき得る限りのことはやった。後、できることがあるとするなら祈るくらいだ。

 華奢な手を握り、アルテルはその時を待った。



     ※※※



 眠りたいわけではない。起き上がりたい。

 けれど、体は意識に反して動こうとしない。

 シェラは薄ぼんやりと、夢なのか現実なのかわからないような境界にいることだけを自覚している。


 動くことはできないけれど、自分に触れる手があるのがわかった。

 額にかかった髪に触れ、そのまま指が頬を伝う。最後に唇をなぞり、その手は離れた。


 それから、シェラの手が温もりに包まれる。大きな、さっきと同じ手だ。

 顔が見たい。強くそう思った。


 目を開くのに、こんなにも苦労したのは初めてだ。頭で、まぶたに持ち上がれと命令し続ける。

 どれくらいそうしていたか、正確にはわからない。

 やっと願いが叶って、シェラはうっすらと目を開いた。その途端に繋がっている手がびくりと動く。


「シェラ!」


 それが自分の名前だと認識してからは、シェラを覗き込む青年の顔を眺めていた。


「先……生……」


 言葉が漏れた。その途端に、アルテルは顔を歪めた。

 それは安堵なのか、罪悪感からなのか。とにかく感情の沢山入り混じった表情だと思った。


「俺がわかるか?」


 おかしなことを言う。

 そういえば、試験の結果はどうなったのだろう。この意味のわからない問いかけは、薬の作用と何か関係があるのだろうか。


「もちろんです。……先生、どうしたんですか?」


 少しふら付く頭を押さえながら、シェラは上半身を起こした。すると、完全に起き上がる前に、アルテルの両腕に支えられた。

 支えられたのだと思った。

 けれど、その腕はシェラの体を抱きすくめた。シェラの頬をアルテルの金髪が撫でる。


「え? せ、先生?」


 顔はまるで見えない。

 ただ、いつもなら壊れ物を扱うように優しく触れるアルテルが、この時は違っていた。強い腕の力に息が詰まる。


「あの……先生?」


 声をかけても、アルテルはひとつも答えなかった。

 次第にその、腕の強さに慣れ、締め付けられる感覚を受け入れた。

 アルテルの背に腕を伸ばし、子供をあやすようにトントンと叩く。


 この時、シェラはこれまでで一番、この人の心に近付けた気がした。



  【アルテル=レッドファーンの試練 ―了―】

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