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アルテル=レッドファーンの日常  作者: 五十鈴 りく
本編

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11/17

アルテル=レッドファーンの憤慨

 ジーファの町で小児熱死病(セベト)という、その名の通り子供しか(かか)らない病が流行ったのは、三月ほど前のことだった。

 抵抗力の弱い子供は強い薬に耐え切れず、この病を治す特効薬はないとされていた。

 ところが、とある一人の薬師により、それは作られた。


 ただし、その薬師は黒魔術師とささやかれる、誰からも忌避(きひ)される存在だった。

 もちろん、特効薬だという彼の言葉を信じ、子供に与える親はいなかった。

 そのはずが、セベトに罹った子供たちは彼の薬によって回復し、病は収束して行く。


 セベトが跡形もなく落ち着いて行った頃、噂の薬師、アルテル=レッドファーンの噂もまた変わって行ったのだった。

 誤解が解けたというべきかも知れない。



 一時期は子供たちであふれ返っていた診療所も、今では空室が目立つ。

 夏に差しかかったこの時季には、子供たちが町を走り回る光景が見られるようになった。

 そんな子供たちの姿を眺め、親たちは幸せを噛み締めている。あの病により、平凡な日常がかけがえがないものだと気付かされた。


 この時、公園のベンチで息子たちの姿を眺めていた父親に、突然後ろから声がかかった。

 見覚えのない青年だった。身なりはよいが、趣味が悪い。

 青年は、唐突におかしなことを尋ねる。


「この辺りで一番美しい娘は誰だ?」

「は?」


 ほうけた彼に、青年は無言で視線だけを向ける。彼は仕方なく言った。


「ええと……リルダの食堂のウエイトレスの娘、かな」

「髪の色は?」

「え? 赤褐色だな」


 それを聞くと、彼はぶつぶつとつぶやいて歩き出す。ひとつだけ拾えた言葉は、違う、だった。

 薄気味の悪い。彼は青年が子供たちに近付かないように子供たちのそばに駆け寄ったが、青年はさっさと行ってしまった。


 その途中で、青年はまた人を捕まえて何か尋ねている。先ほどと同じ質問をしているのだろう。

 誰を探しているのかは知らないが、見付からなければいい。そう思った。



          ※※※



 セベトの一件から二月(ふたつき)の間は、セベトの特効薬の調合にアルテルは大忙しだった。

 子供たちの病が癒えて行くと、今度は診療所などからの注文が大量に来た。信用を勝ち得た結果であり、慌しくも充実した月日だったと言える。


 セベトの特効薬に関して、金銭を要求することを考えていなかったアルテルだが、患者の家族一同から支払われ、受け取らないことには収拾がつかなくなった。対価を受け取ることが、薬師としての役割だと診療所のルーダ医師に叱られたのだった。本当は価格も考えていなかったし、報酬のことなどすっかり頭になかったのだが。

 この日も、診療所の下っ走りの青年ギャレットが、発注した薬を受け取りに来ていた。


「アルテルさんの獣よけの薬、日用雑貨の店に置き出したじゃないですか? あれ、評判らしいですよ」

「あれは遊び半分で作ったのにな」

「でも、どうしても夜に出歩かなきゃいけない時、持ってると安心ですから」


 ギャレットが代金を渡すと、この薬剤店の下働きの少女、シェラが薬を詰めたかごを手渡す。


「では、お気を付けて。みなさんによろしくお伝え下さい」


 ぺこり、とシェラは礼儀正しく挨拶する。亜麻色の長い髪がさらりと揺れた。

 シェラとアルテルのを交互に見て、何故かギャレットは嘆息する。


「なんだ、そのため息は?」

「いえ、またみんなに色々尋ねられるけど、また、特に何も……としか答えられないのかなって」

「うん?」

「今、診療所では最大の関心ごとなんですが、いいんです。多分、みんなもわかってますから」


 いまいち理解できていないアルテルに、ギャレットは笑顔で別れを告げ、店を後にする。


「どういう意味だったんだろうな?」


 と、シェラに振ると、シェラは明らかに様子がおかしかった。


「ま、まあ、いいじゃないですか。次回の分も仕上げてしまいましょう」


 どもりながらそう言って、シェラがアルテルの隣をすり抜ける。アルテルは、ふわりと香った微かな花の匂いに気付いた。


「――シェラ、その匂い、ロサの花弁か?」

「あ、わかりますか?」


 シェラは照れたようにして笑う。


「乾燥させてポプリにしてみたんです。昨日の晩、サシェに詰めていたので、匂いが移ったのかも」

「へぇ」


 前にアルテルが渡した図鑑に、ポプリの作り方が載っていた。それを見ているうちに一度試してみたいと思ったらしく、仕事の合間に作っていた。少量なら手間はさほどかからない。匂袋(サシェ)も縫っていて、おかげで手が傷だらけになっている。


「私に薬は作れませんけど、これくらいならできるかなって。お店や部屋がいい香りになったら、素敵じゃないですか」

「そうだな、いいんじゃないか」


 赤く幾重にも巻いた豪奢な花は香りが高く、女性に好まれる。シェラも例に漏れず好きなようだ。

 アルテルが言うと、シェラは頬を染めて微笑んだ。それから、何かを思い出したようだった。


「あ、私、お水を汲んでから行きますね」

「ん? ああ」


 くるりとアルテルに背を向ける。長い髪が肩で揺れ、スカートの裾が(ひるがえ)った。段々と暑くなる気候に合わせ、半袖のブラウスから白い腕が伸びている。


 セベトの一件からこれまで、あまりの慌しさに余計なことを考える時間がなかった。

 けれど、こんなふとした瞬間に、アルテルは自分の中の変化を感じていた。


 それは多分、あまりほめられたことではない。



     ※※※



「は? なんだって?」


 町の中、家の修繕をしていた二人の男性は、見ず知らずの青年からの突然の問いかけに怪訝な顔をした。

 青年は、苛々(いらいら)と青筋を浮かべて繰り返す。


「この辺りで一番美しい娘は誰だと訊いている」


 男性たちは顔を見合わせた。そのうちの一人が言う。


「そんなの、好みは人それぞれだからなぁ。俺は、うちの女房が一番だと思ってるし」

「普通だっての。のろけんなよ」


 あははは、とのん気に笑う二人。青年は尚も苛立つ。


「あ、あれは? ほら、花屋のヘレン。見事な金髪に青い目が魅力的だし」

「ああ、そうだな」


 真面目に答えたのに、青年ははっきり『違う』と言い放った。その様子に、男たちも困惑する。


「違うって言われてもなぁ……」

「他に思い当たらないし」


 すると、青年はぼそぼそと言った。


「長い亜麻色の髪をした娘だ」


 男たちはもう一度顔を見合わせる。そして、思い付きと同時に手を叩いた。


「長い亜麻色の髪の、美しい娘って、もしかして、アルテルさんとこの?」

「あ、そうだ、確かに美少女だったな。でも、この辺りじゃないだろ。町の外だし」

「アルテル? 黒魔術師のアルテル=レッドファーンじゃないだろうな?」


 青年は、微かに怯えの色を見せた。男たちはその様子を懐かしく思う。


「はは、あんた、まだあんな噂を信じてるんだな。セベトの時に大騒ぎしたのに、知らないのか?」


 その言葉に、青年は顔をしかめた。馬鹿にされた気がしたのだろう。


「アルテルさんは、セベトに罹った子供たちを救う薬を作ってくれた。噂とは違って、実際は穏やかな人だよ。あんな噂、どうして信じてたんだろうな」


 すると、青年はそのひと言を鼻で笑った。


「いいほど(けな)しておいて、自分たちが困ったら手の平を返す。確かに、レッドファーンよりも醜いのはお前たちかもな」


 途端に、男たちの表情が強張った。青年の口調に腹は立っても、それを否定できない。

 青年はさっさと背を向け、その場を後にする。男たちも追うようなことはしなかった。



「……レッドファーンの店、か」


 青年はつぶやく。

 これだけ町の中を探しても見付からないのなら、そこまで足を伸ばしみるべきかも知れない、と。



     ※※※



 その時、シェラは外から店の窓ガラスを拭いていた。丁寧に二度拭きし、仕上がりを離れて眺める。曇りはなく、納得の出来だ。

 ふきんを持ったまま、その場で大きく伸びをする。さんさんと輝く太陽の日差しが、これから更に強まって行くことを予感させた。


 最近では、あまりの暑さに窓を開けて寝る。けれど、そうすると虫が入って来るので、アルテルの作った虫よけの薬をカーテンに噴射しておく。それだけで、随分と違うのだ。

 獣よけの薬と同じように、これからの季節は虫よけが売れるかも知れない。

 珍しく商売っ気を出して、そんなことを考えていた。


 すると、何故だか一瞬、夏だというのに、シェラは寒気を覚えた。背筋が凍るような、言い様のない不快感が体を駆け抜ける。

 シェラはとっさに後ろを振り返った。けれど、人の影はない。それでも、あれは視線だったように思う。


 どうしてそう感じたのかはわからない。なのに、ねっとりと付きまとう不快感は消えなかった。

 いつまでも、粘着質な視線にさらされているようなおぞましさに、シェラは慌てて店の中に駆け込んだ。

 きっと、気のせいだと、自分に言い聞かせながら。



 ――ミツケタ。


 そんなつぶやきは、シェラの耳に届かなかった。

 けれど、青年は破顔した。



     ※※※



 その日から、シェラの様子が目に見えておかしくなったとアルテルは感じていた。

 最初にそのことに気が付いたのは、乱雑に物を詰めすぎて開かなくなった引き出しを、アルテルが力任せに引き抜いた時だった。

 ガン、と大きな音がした時、シェラは盆に乗せていたグラスを床に落とした。


「!」


 ガラスの破片と琥珀色の液体が床に飛び散る。そこまで驚かれると思わなかったので、アルテルも逆に慌ててしまった。


「ああ、悪い! 大丈夫か?」


 引き出しを放り、アルテルはシェラに駆け寄った。


「ご、ごめんなさい。割れちゃいました……」


 シェラは涙声で謝りながら、グラスの破片を拾う。


「そんなのはいい。けがはしてないか?」

「はい、大丈夫です」


 けれど、シェラのことだから、片付けながらけがをしそうだ。

 アルテルは代わりに片付けようと、割れたグラスの破片に視線を落とす。すると、破片を拾い集めるシェラの指先が尋常ではない震え方をしていた。


「……シェラ?」

「え?」


 名前を呼ばれ、シェラはようやく顔を上げた。涙を浮かべた顔には(かげ)がある。

 この程度の失敗は、正直に言うと数え切れない。ここまで落ち込むのもおかしい。


「どうした? 何かあったのか?」


 アルテルは率直に尋ねた。けれど、シェラはかぶりを振るばかりだ。

 泣き出しそうに見えた顔で、無理をして笑う。


「いえ、なんでもないんです。すみません……」


 明らかに嘘だ。そう感じても、アルテルには原因がまるで思い当たらない。

 ただ、シェラは本当の限界が来るまで甘えるつもりはないのだろう。その姿勢が、今は歯がゆい。

 アルテルは、破片をシェラよりも先に拾い集め、彼女に触れさせないようにした。

 そして、そっと口に出す。


「俺が力になれることはないのか?」


 シェラはその言葉に微笑む。それは、さっきよりもいくらかましな笑顔だった。


「ありがとうございます。ただ、私にもよくわからなくて、うまく説明できないんです」

「少し休んだらどうだ?」

「いえ、大丈夫ですから」


 すぐにそれを口にする。そのひと言を、アルテルはまるで信じていない。

 それでもこの時、これからシェラが徐々に追い詰められて行くと、アルテルには予測できなかった。



     ※※※



 その晩、シェラは着替えを持って離れに建つ風呂場へ向かった。すでにアルテルが水を汲んで火を入れてくれてある。シェラは風呂場に入り、鍵をかけた。

 たったそれだけのことなのに、薄暗い中で一人になることがひどく恐ろしかった。

 こんな窓もない暗がりの中でまで視線を感じるなんて、どうかしている。

 けれど、鍵をかけたのだから安心かと思い直す。この密閉空間が落ち着く。


 それからしばらくして、のんびりと湯船に浸かって一日の疲れを落としている時だった。

 ザ、ザ、と草を踏みしめる足音が聞こえた。

 見たわけではないのに、シェラはそれがアルテルではないと、はっきりと確信を持った。


 カタ、と風呂小屋の壁が鳴る。その途端に、シェラは恐怖で凍り付いた。

 もう一度、カタ、カタ、とどこかが音を立てる。風の音だと思いたかった。けれど、さっきまでは風なんて吹いていなかった。


 悲鳴にならない声が漏れる。

 シェラは湯船から上がると、ろくに体も拭かずに服を着込む。

 そして、脱衣所で頭を抱えて座り込んだ。


 どれくらい、その音が続いただろう。途切れてからも、シェラはそこから動けなかった。

 再び、ザ、ザ、と草の上を歩く音がする。そして、扉が叩かれた。


「シェラ? 大丈夫か?」


 あまりに遅いので、湯あたりでもして倒れていると思われたのだろう。

 控えめなアルテルの声がする。その声を聞き、シェラはようやく生きた心地がした。


 鍵を、震える手で苦戦しながら外した。そして、そっと隙間を開いた。まさか、罠ではないとは思うけれど。

 眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、心配そうに自分を見下ろしている。


「全然戻ってこないから、さすがに心配になってな……」


 アルテルの顔を見たら、安心して全身の力が抜けた。

 誰かが近くにいたなんて、言うだけ馬鹿なことだろう。自分でも気のせいだと思うくらいだから。


 こんな時間帯に、誰かがいるはずがない。いたとたら、それは獣だ。

 なんらかの理由で獣が近くにいた。そう考えるのと、誰か人間がここにいたと思うのと、どちらが非現実的なのだろう。


「すみません……」


 また、うまく話せなかった。

 けれど、助かった。迎えに来てもらえなければ、シェラは朝までここから出られなかった。



     ※※※



 その夜、シェラはアルテルが風呂に入るのと同時に自室にこもった。

 窓を閉めて、シーツにもぐる。もちろん、鍵がちゃんとかかっているのを何度も確認した。

 丸くなってぶるぶる震えていると、そのうちにアルテルの立てる物音が聞こえた。下の階から聞こえるその音に、シェラは安堵のため息をもらす。


 過敏になりすぎていると自分でも思う。なのに、どうにもならない。

 理屈ではない恐ろしさに支配される。どうして、急にこんなことになったのだろう。


 そうして、体中の筋肉が強張ったまま、シェラは寝付くこともできずに体を丸めていた。

 アルテルがカタリと立ち上がり、自室に向かって歩く音がする。そろそろ眠るのだろう。


 それから、シェラはやっぱり目がさえて眠れなかった。

 体は疲れているのに、神経は昂ぶっている。それでも、眠らなくてはと目を閉じていると、壁の方から音がした。

 カツン、と硬質な音だ。何かがぶつかったような――。


 シェラは体を震わせ、シーツに包まった。それでも、その音は定期的に続いて行く。

 それが、自分の弱った精神が聞かせる幻聴でないとは言い切れないけれど、シェラは震えながら歯を食いしばり、一晩を過ごした。



 一睡もできなかったということは、今までに何度かあった。けれど、これまでの比ではないくらいに、シェラは疲れ果てていた。ぼんやりと、階段を下りる。

 アルテルはまだ起き出していない。今のうちに、食事の支度を済ましてしまおうと思う。


 その時、シェラは階段の途中から、何気に下を見た。店の側面の壁のそばに、何故か小石が小山になって積まれている。昨日は、あんなものはなかった。

 昨日の晩に続いたあの音は、この石によるものではないのか。

 そう思った途端、シェラは悲鳴を上げていた。階段を駆け下りて部屋の中へ逃げ込むと、視界が歪み、足がもつれた。

 倒れ込んだシェラの体が、何かにぶつかる。


「シェラ!」


 悲鳴で飛び起きたのか、アルテルの声がした。それも、ほとんど耳元で。


「せん……せい……」


 倒れかかったシェラをアルテルの腕が支えていた。起き抜けらしく、寝衣のままだった。

 シェラは体中の力が抜けてしまい、その場にへたり込むしかなかった。アルテルは蒼白なシェラの顔を覗き込む。


「どうした? 顔が真っ青だ」

「な、なんでも、ない、です」


 頭が冷えて、思考力が皆無だ。自分の置かれている状況が、シェラにはまるで理解できなかった。一体、何が起こっているのだろうか。

 すると、アルテルは少し怒った顔付きで、シェラの顔をすくい上げた。


「これが、なんでもないって顔か?」


 多分、ひどい顔をしていると思う。アルテルがこういう風に怒るのは、シェラが無理をしすぎた時だ。そんな風に言われると泣きたくなる。


「でも、私の気のせいかも知れないんです。私にもよくわからないから……」


 アルテルは、はらはらと泣き出したシェラに困惑した顔を向けつつも、穏やかな声で言った。


「気のせいなんかじゃない」

「え?」

「お前がこんなにもつらそうなんだから、気のせいなんかじゃない。だから、話してくれないか? 俺にできることがあるかも知れない」


 どんなに恐ろしくても、口に出せなかった。気のせいだと、自分でも思わなくはなかった。

 だから、相談して気のせいだといわれてしまったら、もう逃げ場がなくなる気がして言えなかった。

 それをアルテルは受け止めるつもりでいてくれる。それだけで十分嬉しかった。

 シェラはしゃくりあげながら、ポツリと切り出す。


「視線を感じるんです」

「視線?」

「こんな人通りのないところで、どうしてそんな風に思い始めたのか、全然わからないんです。でも、変な物音がしたりして、急に怖くなってしまって……」


 アルテルは、自分のあごに指を添えて思案している。


「そうか。ここ数日、ずっとそうなんだな?」


 こくりとうなずく。アルテルは、うつむいたシェラの頭にそっと手を添えた。


「そうだ、ジェドに相談してみるか? あいつも昔はよくそんなことを言ってたからな」


 ジェドとは、ジェサード=ブルーネスというアルテルの親友である。

 彼は長い銀髪の貴公子然とした風貌をした役者であり、常に特に女性の視線にさらされ続けている。


「あ、そ、そう、ですね。ぜひ」


 ほんの少しだけれど、シェラには光明が見えた気がした。


「ただ、今日は仕上げなきゃいけない仕事があるから、明日にならないと連れて行ってやれないけど、がんばれるか?」


 今の状態でシェラは一人、人ごみの中を歩くことはできない。アルテルは申しわけなさそうに言った。

 アルテルが悪いわけではないのだから、そんな顔をしないでほしい。シェラは心苦しく感じながらうなずいた。



     ※※※



 夜になって、アルテルは風呂小屋の前に座り込んでいた。中からは水音がする。

 怖いからそこにいてほしいとシェラに懇願されたせいである。


 余計なことは考えないよう、アルテルはシェラの症状のことだけを考えてみた。

 ジェサードが視線を感じると言っていた時、追っかけの女性が入り込んでいたというオチがあった。ジェサードは、人に見られるのが仕事だからと平静を装ってはいたが、実は結構参っていたのだと思う。


 シェラは整った容姿をしている。そういった意味で、人の視線を受けやすい。

 けれど、ただの女の子だ。役者で男のジェサードが参っていたくらいなのだから、相当に怖い思いをしているはずだ。

 ここまで来ると気のせいではなく、何かがあるはずなのだ。


 常に人の視線を感じ続けるという気塞ぎの病はあるけれど、もしそうだとしたら、シェラがそうなる理由がわからなかった。

 その辺りはアルテルも専門ではない。他の原因がわからなければ、診療所で尋ねてみるべきかも知れない。



 その後、アルテルはシェラを三階の部屋まで送った。


「――戸締りはちゃんとするんだぞ。明日の朝になったら町に行くから」

「はい」

「お休み」

「お休みなさい」


 アルテルが扉を閉める瞬間、シェラがすがるような目をした気がした。




 アルテルは自室で、夏夜の蒸し暑さが寝苦しくなって寝返りを打った。

 寒い冬よりも、暑い夏の方が夜中に起きることが多い。窓を開けていても、夜気に涼しさはない。

 締め切って眠っているシェラが、熱中症にならないだろうかと少し心配になる。


 ようやくうとうとと、意識の半分は眠りに落ちかけた。そんな時、寝室のドアがノックされる。

 アルテルは驚き、跳ねるようにして飛び起きると、反射的に眼鏡をかけた。


「先生、先生!」


 切羽詰ったシェラの声がする。心臓がひやりとした。急いで扉を開く。


「どうした?」


 すると、そこにはシェラがいた。薄いシーツを頭からすっぽりとかぶり、顔だけをこちらに向けている。

 夏だというのに、まるで肌寒さを感じているかのように見える。

 シェラは見る見るうちに涙ぐんだ。


「眠れません。お部屋に置いて下さい」

「へ?」

「お部屋の隅でいいんです。置いて下さい」


 さすがに、アルテルは狼狽した。一気に目が覚める。


「えっと、あのな、それは……」


 けれど、シェラは引かなかった。涙を目にいっぱい浮かべながら、かすれた声で続ける。


「力になれることはないかって、仰ってくれましたよね?」

「言ったけど……」


 アルテルの抵抗を前に、シェラは必死だった。


「わかってます! でも、こんなに怖い思いをしながら一人でいるくらいなら、非常識でもはしたなくても、この際何だっていいんです!」


 零れた涙に、アルテルは胸をかきむしられる。突き放したら、シェラは壊れてしまいそうだった。


「……わかった。ベッド、使えばいいぞ。俺は床でいいから」


 すると、シェラは首がもげるほどにかぶりを振った。ただ、それは遠慮からではなかった。


「結構です。先生のベッドは窓際だから、嫌です」

「あ、そう……」

「先生はいつも通りにしていて下さい。同じ部屋にいられれば、それで十分ですから」


 シェラはそう言うと、アルテルを追い越して部屋の中に入った。その時、すれ違いざまに、最近こっているというポプリの甘い香りがふわりと漂う。

 アルテルは、一瞬、意識して心を落ち着けた。


 そして振り返ると、シェラはすっぽりと頭からシーツをかぶり、髪の先ひとつ出さずに座っている。

 宣告通り、部屋の隅の本棚の前で、微動だにしなかった。

 ああしていると、気配がない。ただの布の塊だ。


 あれで眠れているのかはわからないが、気が済むようにさせておこう、とアルテルは嘆息した。

 そして、ベッドに戻る。様子のおかしなシェラが目の届くところにいると思うと安心できるのも事実である。

 ただ、少しでもシェラの姿が見えたなら、こんな風に眠ることはできなかったかも知れないけれど。



     ※※※



 シェラは抱えたひざに頭を預け、浅い眠りに落ちていた。体の緊張は少しほぐれた気がする。

 けれど、ギシ、と小さな物音がすると、シェラは慌てて飛び起きた。


 眠る前にシーツを頭からかぶったことなどすっかり忘れ、シェラは自分の視界が遮断されていることにパニックを起こした。

 シーツの中でもがき、ようやくすり抜ける。その時には疲労が頂点に達していた。


 視界がぐにゃりと歪んでいる。その中で、シェラは安らかな寝息を立てて眠っているアルテルを見付けた。

 判断力のない、疲れた頭で思う。

 どうして、あんなに遠いのだろう、と。


 ずるずると、体を引きずるようにしてベッドのそばへ近付く。

 シェラは倒れ込むようにして、アルテルの隣へ体を沈めた。



     ※※※



 最初に気付いたのは、鼻腔をくすぐる甘い香りだった。

 身じろぎすると、寝衣が引きつって首が軽く絞まる。何かに裾が挟まれているような。


「ん……」


 アルテルは寝ぼけ(まなこ)をこすり、上半身を起こそうとしたが、起きられなかった。

 何が引っかかっているのかと思えば、自分の胸元に白い腕が二本つながっている。


「っ!」


 アルテルの寝衣の胸元を両手で握り締め、シェラはすやすやと安定した寝息を立てていた。かぶっていたシーツは本棚の前に置き去りにし、夏物の薄い衣でそこにいる。むき出しの白い肩が、アルテルに寄りかかっていた。


 この時、シェラに意識があれば、とんでもなく珍しいものが見られただろう。

 普段は落ち着き払ったアルテルの、赤面して困惑するという姿が。


 シェラが寝ぼけてのことだとしても、これはまずい。

 叩き起こしてやろうとしたが、ようやく寝付けたのかと思うと、やっぱりできなかった。

 アルテルは、シェラの伏せた長いまつげを眺めながら、小さく息を飲む。

 こんな真似ができるのは、自分がどんな目で見られているのかを自覚していないからだ。


 少し前のアルテルなら、仕方のないやつだとあきれることはあっても、うろたえたりはしなかった。

 ――つまり、そういうことなのだ。


 セベトの一件から、シェラの存在がアルテルの中で大きく変わった。

 少年から少女へ変わった時よりも、正直に言ってしまえば受け入れがたい。

 シェラを一人の女性として見てしまうことを。


 いつからか、そばで背中を向けられると、落ち着かなくなった。

 その背に手を伸ばしたくなる。

 手を伸ばしてこのまま抱き締めたら、シェラはどうするだろうと考えている自分に愕然とした。


 最近の忙しさは救いだった。この気持ちと向き合う時間が、このままずっとなければよかった。

 今も、触れたいと思っている。


 認めるしかないのだろうか。

 この娘を愛しく感じてしまう自分を。


 すっかり目が覚めてしまったアルテルの耳に、ガン、ガリ、ガリ、と奇妙な音が届いた。それは、次第に大きくなり、近付いてくる気配がある。

 シェラは久し振りの深い眠りにより、まるで気付く様子はない。完全に熟睡していた。


 アルテルは、近付いて来るその音を立てるものを確かめようとした。

 けれど、シェラが寝衣を硬く握り締めているので、立ち上がることすらできない。そんな間も、その音は近付いていた。


 間近に近付いた今、はっきりとわかる。何かが壁をよじ登って来る音なのだと。

 アルテルは仕方なく、前合わせの寝衣の紐を解いた。脱皮するようにそれを脱ぎ捨てると、月明かりの落ちる窓辺に立つ。


 そうして下を見下ろすと、すぐそこに見たこともない青年がいた。窓の縁にフックが引っかけられ、それから続くロープを頼りに壁を登っている。目の下にはくまがあり、蚊に刺され、まるで幽鬼のようだった。

 さすがのアルテルも、これには驚いた。


「……お前、誰だ?」


 ようやく、それだけを言った。当然の問いかけである。

 けれど、青年はアルテルの姿を認めると、一瞬驚きを見せ、それから激しい憎悪を込めてにらみ返して来る。その目の陰湿さに、アルテルも薄ら寒くなった。

 青年は、ねっとりとした口調で言う。


「貴様、彼女に何をしたっ」

「は?」


 彼女というのは、シェラのことだろう。

 だとするなら、シェラが感じていた視線の正体は、間違いなくこの青年のものだ。

 目の下のくまも、寝不足気味なのがわかる。寝ずに張り付いていたのだろう。

 この蛇のように絡み付く眼差しを向けられ続けていたのなら、病んで当然だ。気味が悪すぎる。


 そこでようやく、アルテルは青年の憎悪の意味を理解した。シェラがこの部屋に向かったのを目撃していたのなら、二人の仲を誤解するなという方が無理だ。

 けれど、誤解させたままの方がいいのかも知れない。アルテルは、青年に対して低く笑った。


「――そういうことだから」


 何が『そういうこと』だと、自分でも思うけれど。

 すると、青年は窓際に下ろしていたアルテルの手の甲に爪を立てた。そして、焦点の合わない目をしながら、口角泡を飛ばす。


「それは、僕のだ! 僕が先に見付けたんだ!」

「……何を言ってる?」


 アルテルは爪を立てる青年の手を振り払おうとしたが、それをするとバランスを崩して下へ転落しそうなので、そのまま痛みに耐えた。青年は更に続ける。


「あの時、邪魔さえ入らなければっ」


 あの時。

 そのひと言で、アルテルは青年が何故シェラに執着するのかを理解した。

 その途端、自分の血がどろりとうごめくのを感じた。爪を立てられている反対側の手を伸ばし、青年のベストの胸倉をつかむ。青年はバランスを崩すが、アルテルがそれを両手で吊るすような形になる。


「ひっ」


 青年は慌てて窓の縁にしがみ付き、アルテルはその体をもう一度強く揺さぶった。そして、底冷えするような低い声で言う。


「探す手間が省けたな」

「は……」

「あの時」


 セベトの事件の少し前のことだ。

 独りで暗闇の中を走り、怯えて苦しみながら涙を流していた。あの細い首や腕に、翌日まで残る跡を付けた相手にもし出会えたら、どうしてやろうかと思っていた。

 後にも先にも、シェラがあんなにも泣いて苦しんでいたことはない。


「もし見付けたら、八つ裂きにしてやろうと思ってたんだ」

「や、やつ……っ。ふざけるな! そんな脅しに乗るか!」


 けれど、アルテルは薄く笑う。


「脅し? なあ、こんな夜中に町外れで何が起こってるのかなんて、誰にもわからないだろ。一人くらい、森の中に埋めても、どうってことないと思わないか?」


 青年の狂気が恐怖に変わるまで、そう時間はかからなかった。アルテルの眼の奥に、自分と同じ執着を感じたからだろう。


「それくらいしないと、お前はずっとこいつに付きまとう。だったら、そうするしかない」


 ぶるぶるとかぶりを振り、青年は身をよじる。


「や、止めろっ。止めてくれっ」


 青年はぼろぼろと涙をこぼす。意外に(もろ)い。


「止めたら、諦めるのか?」

「あ、あきらめ、るっ」

「嘘だな」


 アルテルは片手を離した。青年の体ががくりと傾く。

 こんな危ない真似をしても、憤りで冷えた感情が、このまま落としたとしてもいいかと思わせる。そんな気持ちが一握りあったのは事実だ。

 人の命に関わる仕事をする者として最低だと思いながらも、それでも守りたい気持ちが凌駕していた。


「ほ、ほんとにっ」


 両腕で必死に窓の縁にしがみ付いている。その姿は、まるで小さな子供のようだった。

 アルテルは嘆息すると、放した手を伸ばし、青年の体をもう一度支える。


「次に来たら、わかってるな?」


 声もなく、青年はうなずく。


「ロープをつかめ。手を放すからな」


 青年の手が壁をまさぐり、一度放したロープを探り当てる。アルテルはそれを確認すると、手を放した。青年は恐怖から、クモのようにするりとロープを滑り落りる。あの下り方では、手の皮が破れただろうが、そこまで心配はしてやらない。


 アルテルは青年の足が地面に付いたのを確認すると、ロープのフックを外してほうった。青年はそれを回収せず、そのまま逃げ去って行く。


「……今回は、俺のせいでもあるのかな」


 アルテルは、ふぅ、と小さく嘆息する。

 青年が放っていたあの臭気は、自分の作った獣よけの薬のものだった。あれがなければ、少なくとも夜間は付きまとわれなかったかも知れない。


 だから、この状況も、アルテルが招いたと言えなくはないだろうか。

 あれだけ騒いだのに、シェラは一度も目を覚まさなかった。幸せそうに、柔らかい表情で眠っている。

 手にはまだ、アルテルの寝衣を握っていた。それを胸に抱き込むようにしているから、取り返せない。


 アルテルは頭をかいた。

 この信頼に付け入ったら、やっぱり駄目だろうか。


 部屋の隅に行って、あそこでシーツをかぶって夜が明けるのを待てばいい。多分、そうするのがましな判断というものだ。

 けれど、シェラの寝顔があまりにも平和的だったので、少し苛めてやりたいような気分になった。

 寝ぼけたお前が悪いのだと。


 アルテルはベッドに戻ると、シェラの寝息を耳元で聴きながら夜を過ごす。朝、目が覚めた時のシェラの反応が見たかった。

 言うまでもなく、朝は悲鳴から始まるのだけれど。



  【アルテル=レッドファーンの憤慨 ―了―】

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