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アルテル=レッドファーンの日常  作者: 五十鈴 りく
本編

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10/17

アルテル=レッドファーンの孤独

 朝、目を覚ました。

 けれど、それは心地のよい目覚めではなかった。野生の動物のような敏感さで、体が硬直して起きた。悪夢の後のようだ。


 何か、ひどく疲れていた。そして、それが何故だか考えてはいけないような気がした。

 ふと、見上げている天井がいつもと違う。そのせいで瞬時に頭が冷えた。

 慌てて飛び起きると、そこは知らない場所だった。

 今、寝かされていたベッドも、部屋そのものに見覚えがない。


 シェラは昨日の出来事を断片的に思い出した。

 にやけた男の顔。浴びせられた汚い言葉。ぞっとするような、不快で乱暴な手。


「っ……」


 発狂しそうだった。悪夢が再来する。

 けれど、その苦しみを止めてくれた存在が、そこにいた。

 シェラは陽が差す窓際の椅子で器用に眠る人を見付け、途端に何十年も会えなかった相手との邂逅(かいこう)のように、感情があふれた。

 昨日、必死で逃げ出した後のことも夢ではなかったのだ。


 涙がにじみ、それを拭いながら、シェラはアルテルに近付いた。アルテルは右肩に頭を乗せるような形で眠っていた。

 昨日、迎えに来てくれて、本当はすごく嬉しかった。すがり付いて泣けたら、どんなにか楽だっただろう。

 でも、色々な考えが頭の中を巡り、錯乱していた。心配してくれたアルテルを困らせただけだった。


 シェラを逃がしてくれた後、ルシノーラやあの店がどうなったのか、気にならないわけではない。けれど、恐ろしくて二度とあそこへは踏み込めない。

 自分だけが安全な場所へ逃げた罪悪感がある。アルテルの優しさに触れ、それは強まるばかりだった。


 それでも昨日、あの瞬間、どんなに身勝手と罵られようと、もうアルテルがいないと生きて行けないのだと感じた。だったらもう、吹っ切るしかないのだろうか。

 開き直って、罵声も甘んじて受ければ、この人の隣にいることを許してもらえるだろうか。


 シェラはアルテルの寝顔をじっと見た。淡い金色の髪が、光を受けてきれいに透けている。

 昨日、取り乱した自分を抱き締めてくれた。この人は、誰が相手でもきっとそうしたと思う。特別な意味はない。


 それでも、その温かさに癒された部分は大きい。

 大きな手は、本当は力が強いのに、壊れ物を扱うようにそっと触れた。アルテルがそれを忘れても、シェラはずっと覚えているだろう。


 規則正しい呼吸音がする。

 シェラは、アルテルの顔を覗き込むように身を乗り出した。起きてからではこんなに近付けないから、せめて今だけはと。寝顔にキスをするような度胸はないが。

 

 アルテルはシェラが顔を近付けると、その途端に目を開いた。普段は寝起きが悪いのに、こんな時だけしっかりとしている。この距離だと眼鏡がなくともはっきりと見えただろう。


「!!!」


 シェラは瞬時に飛びずさった。後ろの机に足をぶつけ、そこに座ってしまった。けれど、アルテルは驚きもせずに、窓際に置いていた丸眼鏡をかける。そして、普通に言った。


「おはよう、シェラ」

「おは、おはよう……ございます」


 動揺してろれつが回らないシェラに、アルテルはそっと微笑んだ。


「気分は?」


 その微笑で、シェラは少しだけ落ち着いた。


「平気です」


 そう答えられる程度には。

 アルテルは大きく伸びをして、首を左右に動かす。


「昨日、家まで戻れそうもなかったから、宿をとったんだ。行けそうなら、そろそろ帰るか?」

「はい」


 帰りたい。二人で。

 だから、うなずいた。



     ※※※



 アルテルは椅子から立ち上がると、もう一度伸びをした。体が固まって、節々が痛いと――実は、それほどでもなかったのだが。

 昨日、気を失ったシェラを宿に運び、目を放すのは不安だったので、同じ部屋にいることにした。そうしていても、うなされている彼女の涙を拭ってやるくらいしかできなかったけれど。


 朝、シェラが目を覚ました時、なんとなく寝た振りをしてしまった。実は、一睡もしていないのに。

 さっきは不意に眼前で気配がして、つい目を開けてしまった。寝た振りをしているのがばれていて、それで覗き込んでいたのだろうか。そう考えると妙に恥ずかしかった。

 シェラの方が目に見えてうろたえていたから、平静を装うのは難しくなかったが。



 宿を出る時、宿の女将がシェラを見て、心配そうに声をかけて来た。昨日のぐったりとした様子を見ているからだろう。シェラは、大丈夫ですと答えて笑った。

 本当に大丈夫ならいい――。


 しかし、案の定、シェラは宿の外に出た途端に表情を強張らせた。

 朝のこの時間、仕事へ向かう人々で往来は埋め尽くされている。その中へ踏み出せないのは、昨日の出来事のせいだろう。

 この人混みの中にその相手がいたら、と怖くなったのではないだろうか。


「行くぞ」


 ためらいはなかった。アルテルはシェラの華奢な手を取る。

 水仕事で少し荒れ、それでも柔らかく小さな手の体温がじわりと伝わった。

 シェラはかなり驚いたようだ。怯えから一転して慌てている。

 恐怖心が和らいだと受け取ってもいいだろうか。アルテルはシェラの手を放さずに踏み出す。

 そちらを向かずに、アルテルはささやいた。


「俺は、自分がしたいようにしている。誰に優しくしようと、それは俺の勝手だ。お前が気にすることじゃない。迷惑なら考えるけど」


 すると、シェラは急にアルテルの手を両手で包むと、強く引いた。前を歩くアルテルが振り返ると、シェラは必死の形相だった。


「違います! 迷惑だなんて、思ったこともありません。嬉しいから、申し訳なかったんです。……ごめんなさい。私、ちょっと錯乱してたんです。昨日言ったことは忘れて下さい」


 その細い手首も、白い首筋も、よく見るとまだ薄く跡が残っている。アルテルはなんとなく、視線を下げて、そらした。


「わかった。じゃあ、お前も昨日のことは忘れろ。それでいいな?」

「えっと――」


 シェラは何故か少し口ごもると、ほんのりと頬を染めてアルテルを見上げて来る。


「でも、先生が私にかけて下さった言葉は覚えていたいです」


 あの時の自分が口走った言葉なんて、思い出すのも恥ずかしいし、ろくなものではなかった。面と向かってそう言われるのは、照れくさいというよりもばつが悪い。ごまかすように、ん、と曖昧な返事をして歩き出した。


 手をつないだままでいる。この状況を、周囲の人間はどう見るのだろう。

 そんなことを今更気にしても仕方がないと思うのに、正直なところは落ち着かなかった。

 さっきのように、頬を染めて見上げられると、複雑な心境だった。

 あれでは、他の男だったら誤解するだろう。ああいう顔は、あんまりしない方がいいと思う。


 アルテルの中で、シェラは少年だと思っていた頃と何も変わっていない。若い娘だと自覚してからも、今のように自然に触れてしまう。そんなアルテルだから、シェラも全幅の信頼を向けている。

 シェラのそうした無防備さが、今はとても危うく思えた。


 色々と考え、手を放すタイミングが計れなかった。どこまで来れば安心なのか、どこで手を放すのが自然なのか。結局、町の外れまでそうしていた。

 幸い、見知った顔には出会わなかった。



     ※※※



 あの日から二日が経過した。


 その間は穏やかなものだった。二人だけで過ごし、そんな当たり前の日常がシェラには何より愛しかった。

 シェラは掃除を終え、一段落着いたとろこで、何か計算式を書き連ねているアルテルにハーブティーをいれた。


「先生、お茶です」

「ああ、ありがとう」


 短く言い、アルテルは再び机の上に視線を落とす。手元の深緑色のペンを眺め、シェラはトレイを抱えながら幸せな気持ちに浸っていた。

 そんな時、乱暴というよりも慌てた足音が階段を一気に駆け上がって来た。さすがのアルテルも顔を上げる。ノックも適当、返事を待たずにドアを開け放った人物は、その場で一度、呼吸を整えながら立ち止まる。


「ジェサードさん?」


 ジェサード=ブルーネス。

 アルテルの親友で、役者をしている。最近、ジーファの町の小劇場に移り、稽古に明け暮れているはずだった。

 眉目秀麗で、艶やかな長い銀髪を後ろで束ねている彼は、勢いよく顔を上げた。

 いつもは物腰も優雅で、貴公子然としている彼がここまで慌てるのを、シェラは初めて見た。アルテルの反応を見ても珍しいことなのだとわかる。


「どうした、ジェド?」


 ジェサードは渇いたのどで無理やりつばを飲む。シェラは、さっきいれたハーブティーの自分のための一杯を差し出す。ジェサードはそれを一気に飲み干したかっただろうが、あいにくとまだ熱かったので、数口すすって盆に戻した。


「ありがとう。ちょっと走りすぎた」


 汗が光っている。けれど、微笑む余裕が出たようだ。それから、アルテルの方に歩み寄る。その真剣さがアルテルにも伝わったのか、表情を引き締め直していた。


「アルテル、町で伝染病が発病してたんだ」

「伝染病……」


 そのひと言に、シェラもぞくりと身を縮めた。

 ジェサードは発声で鍛えた聞き取りやすい声で続ける。


「最初はただの風邪だって思われてて、悪化するまでわからなかったらしいんだ。大人には(かか)らない、子供だけにうつる病だ。もう、わかるだろ?」


 アルテルは更に表情を厳しくした。それから、小さくつぶやく。


小児熱死病( セ ベ ト)だな」

「ああ」


 セベト。

 シェラも聞いたことがある。直面したことはないけれど、まだ体のできていない子供だけがうつる病気だという。最初は風邪のように始まり、気付いた時には手の施しようもないという事態が少なくない。名の通り、高熱が続いたままで死に至る、死亡率の高い病だ。


「お前がずっと、セベトの研究をしてたのを思い出したんだ。耐性の強い菌を殺せるような強い薬は、体の弱っている子供には毒になる。解熱剤なんて気休めで、ほとんど効いてないらしいし。だから、セベトに特効薬はないけど、お前はそれを作るために副作用の少ないトーリエル式の薬学を学び出したんだって言ってたよな?」


 アルテルが薬師を志したきっかけがセベトだったとは、初めて聞く。薬が効かないとあっては医師にだって治せない。だからこそ、アルテルは医療の名門である実家を離れ、薬師に転身したのだろうか。

 ジェサードは、アルテルから目をそらさずに言った。


「年端も行かない子供が死ぬのは嫌だ。ぐったりとした子供が診療所に担ぎ込まれて行く。……そんな光景が見てられなかった」


 アルテルは立ち上がった。そして、強張った顔でジェサードに言った。


「俺も、子供が死ぬのは見たくない。ジェド、知らせてくれてありがとう」


 その言葉に、ジェサードはほっとしたように緊張を解く。それとは反対に、今度はアルテルの表情が厳しいものへと転じて行った。


「あの研究の成果は、師にも認めてもらった。改良点はまだあるが、効果はあるはずだ。ただ、手順が多い。今日中にできるとしたら、せいぜいが一人分だ」

「――そうだ、町での発生源だって言われている男の子がいて、かなり衰弱が激しいらしい。その子の分でも届けられれば……」

「わかった。どれだけの人数が罹患(りかん)したか、進行具合も知らないといけないけど、まずはそれからだ」


 病状の深刻な子供が多かった場合、アルテルの手だけでは足らないだろう。複数の人の協力があれば、それだけ救える命が増える。ただ、少量であろうと、長年研究し続けた薬というくらいで、アルテルにとっても調薬は難しいものなのだろう。表情がそれを語っている。


「わ、私にできることがあれば、仰って下さい」


 シェラは思わず声を張り上げ、ジェサードもそれに続く。


「俺も手伝うよ」


 アルテルは二人を見てうなずく。


「頼む。――シェラは畑から薬草を取って来てくれ。必要なものと量は今書いて渡すから。ジェドは……そうだな、乾燥させたシャーロの実を粉末状にしてくれ」


 テキパキと指示を出し、アルテルは引き出しからぼろぼろの帳面を引っ張り出して広げる。ものすごい速さでそれを読み進め、ぶつぶつと口の端から式をこぼすが、シェラたちにはまるで理解できない。

 こういう場合のアルテルの集中力はすさまじいものがある。今はもう、誰の声も耳に届かないだろう。


 アルテルは、今も苦しんでいる子供たちのことを思い、早く救ってあげたいと強く願っているはずだ。

 だから、シェラはどんなことでもしようと決めた。早く薬を届けるために、シェラは薬草を取りに走った。



     ※※※



 シェラやジェサードが手伝えることは、作業が進むにつれてなくなって行った。薬学の専門知識がないことを、シェラはこの時ほど苦しく思ったことはなかった。

 せめて、簡単に食べられるような食事をと、パンに野菜や卵を挟んだものを用意する。茶をいれると、遠慮がちに声をかけた。


「先生、少し休まれませんか? 今日で終わりではないのですから、休息もはさまないとお体が持ちませんよ」


 アルテルはかろうじて返事をする。けれど、顔は上げなかった。


「お前たちは先に食べてろ。俺も一段落ついたら食べる」

「……わかりました」


 自分はともかく、ジェサードにまで付き合わせるのは申し訳なかったので、二人で食事を取ることにした。ジェサードはシェラの向かいに座り、苦笑している。


「悲しいかな、俺たちにできることはもうないみたいだ。それなら、アルテルの気を散らさないように、望み通りにしてやるのが一番だ」

「……はい」


 そうして取った食事は、まるで味がわからなかった。嫌がるのどで無理やり飲み込む。

 その後のジェサードは、アルテルの『先に休め』という言葉を素直に受け入れられるだけ大人だった。実際に眠れているかはわからないが、仮眠を取って来ると言って、アルテルの寝室へ消えた。

 そうした方が、アルテルが集中できるのはわかっている。


 シェラもジェサードに(なら)い、そうするべきなのだと思うけれど、夜が深まるにつれ、(こん)を詰めるアルテルが心配でたまらなかった。

 もちろん、子供たちも心配だけれど、アルテルが倒れたらどうにもならない。

 気遣わしげに自分を見守っているシェラの視線に、アルテルが気付いている風ではなかった。痛いくらいに真剣な面持ちで、何十種類にもわたる成分と向き合っている。


 シェラは、ここにいてはいけないとようやく思えた。この張りつめた空気の中、呼吸をしているだけで集中の妨げとなるような気がした。視界の端で動いても同じことだ。

 シェラは声をかけず、そっと部屋を出た。


 その後も、シェラは上の階の自室から、アルテルの様子を気にしていた。シェラが知る限り、二階の部屋の明かりが落ちることはなかった。



     ※※※



 翌朝、ほんの少しだけ眠ったシェラは、浅い眠りから目覚めた。それでも身支度を整えると、下の階に向かう。

 そっと中が覗けるだけの隙間を開くと、アルテルは椅子に深く腰を下ろしていた。首を背もたれに預けながら、天井を仰いでいる。

 最初、眠っているのかと思ったけれど、手が緩慢に動いて目頭を押さえたので、起きているのだと知れた。


「先生、昨晩はお休みになっていないんですか?」


 おずおずと声をかけると、アルテルは丸眼鏡を外した顔で苦笑した。当たり前だが、疲れ切った顔だった。


「さっきできたところなんだ」


 しきりに瞬きを繰り返す。目が疲れているのだろう。

 そんな姿が、見ていて痛々しい。


「今、温かいお茶をいれますね。疲労に効くハーブティーにしますから」

「ありがとう」

「お食事も用意しますから、それが終わったら、お薬を届けに行きましょう」

「うん……」


 アルテルがこれだけ必死に作った薬なのだから、その努力は報われると、疑いもなく思っていた。

 シェラにはいつも、人の心の暗部を見透かす力がない。人がどれだけ頑なな生き物なのかを。


 少なくとも、ジェサードはそれを予期していたのかも知れない。

 顔こそ微笑んでいたけれど、目だけは真剣そのものだった。



 ほとんど眠っていないアルテルには陽光が目を差すように感じられるのか、手をかざしながらしきりに顔をしかめていた。

 もう片方の手にはバスケットを持っている。布で幾重にも包み、大事に収められた薬ビンがそこに収められているのだ。バスケットの大きさに対し、薬ビンは人の指ほどの大きさである。大げさに思えるかも知れないが、それだけ慎重にならざるを得なかった。


 服装は黒いローブを脱ぎ、正反対の白いシャツに着替えてもらった。やはり、印象は大事だと思う。

 疲れから、やや不機嫌そうに見えるアルテルの両端に、シェラとジェサードが付き添っている。二人もまた、緊張の面持ちだった。会話という会話はなく、三人は町にたどり着く。


 診療所は第一地区だった。シェラは、整備された第一地区の石畳の上を歩きながらアルテルを見上げた。青白く強張ったその顔に一抹の不安を感じる。

 薬は完成したというのに、何故そんなにも表情が晴れないのだろう。

 薬に自信がないのだとしたら、アルテルは最初から持って行かないはずだ。だから、わからない。

 そのわけは、診療所の前にたどり着いても知れなかった。

 けれど、その直後に、うっすらと(もや)がかかり、不鮮明だったものが(あらわ)になる。それはまるで悪夢だった。



 玉砂利と、芝のきれいに整った玄関先。その奥の白く冷たい建物は、窓という窓のすべてにカーテンが引かれている。怒声にも似た声が響いているのは、指示を飛ばす医師の声だろうか。


「……あんたたち、見舞いに来たのか? 悪いけど、そういうのは断らせてもらってる。それどころじゃないんだ」


 その声は背後からした。買出しの帰りなのだろう。両手に紙袋を抱えた青年が、額に汗を浮かべながら立っていた。急いでいるのか、苛立(いらだ)っているのがわかった。

 アルテルは、その青年にはっきりとした口調で言った。


「セベトの治療薬を用意して来た。一人分しかないが、一番深刻な病状の子供に飲ませてほしい。他の子の分は、これから作るから」


 青年は驚きを隠せなかった。セベトに特効薬はないはずだと、顔が語っている。

 もし、それが本当であれば、どんなに幸運なことか。

 ただし、その言葉を鵜呑みにして飛び付くほど青年は短慮ではなかった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 先生を呼んで来る!」


 青年は大慌てで建物の中に消えた。

 アルテルもジェサードも息を飲む。シェラは祈るように手を組んだ。

 そうして、すぐに前合わせの青い衣に身を包んだ中年の男性がやって来た。白いものが混じった髪と、疲労し切って血走った眼。その眼球だけを動かし、ぎろりとこちらをにらむ。雰囲気からして、彼が責任者だろう。


「治療薬を持って来たと聞いたが?」


 診療所の扉から、続々と人が集まって来る。子供たちの家族だろう。期待に満ちたその目が、三人に突き刺さった。

 身震いするシェラの横で、アルテルは短く答える。


「はい」


 医師は、土気色の顔をひくつかせた。


「あの病に薬は効かん。患者の体力が生死を分かつ。もし、お前の言う薬が本物だとするなら、そのような神薬をどこで手に入れた?」

「俺が作りました。俺はセベトの研究をずっと続けていて、これがその集大成です」


 アルテルはバスケットを差し出す。患者の家族が生唾を飲む音が聞こえるようだった。医者はそれに視線を落とすと、アルテルに問う。


在野(ざいや)の研究者か。それで、これをいくらで売る? もし、金のためにでっち上げているのだとしたら、あまりに悪辣(あくらつ)だ。地獄へ落ちるぞ」

「金銭を要求するつもりはありません。それに、これは誓って本物の治療薬です」


 アルテルの言葉の真意を、医師は間違いなく見抜かなくてはならない。だから、疑り深いのも仕方がない。

 けれど、藁にもすがりたい心境だったのは、彼も同じだった。

 アルテルの眼鏡の奥の目は、少なくとも嘘をついている人間のものには見えなかったはずだ。

 ただ、当たり前のことをひとつだけ尋ねた。


「お前の名は?」


 そこで、正直に答えることが最良ではなかった。偽りがすべてを救う時だってある。

 けれど、アルテルにとって名を偽らないこと。それこそが誠意であり、覚悟だった。それによって起こることのすべてを、今まで受け止めて来たのだから。


「アルテル=レッドファーンです」


 ジェサードは、その告白を遮らなかった。


「アル……テル……レッド――」


 医師はそこまで呆然と口にして、続きを吐くことはなかった。険しい、鷹のような目をアルテルに向けると、後ろに下がった。


「この、悪魔が」

「え?」

「薬? それを与えれば、苦痛からは開放されるかも知れないが、命はどうだ? 金銭は要らない? だとするなら、目的は亡骸か? 危うく、子供たちを悪魔の餌食にしてしまうところだった」


 アルテルの顔が更に蒼白になる。シェラは耳を疑うばかりだった。


「そんな……っ」


 思わず叫んだ。そして見上げたアルテルの傷付き様に、シェラも斬り付けられたような痛みを伴う。悲しくて、涙がにじんだ。

 アルテルの心境を思えば、痛くて痛くてたまらなかった。

 アルテルが作ったという理由で、効果も見ずに真っ向から否定された。噂こそが真実だと、世間は言うのか。

 その時、ジェサードは初めて口を開いた。


「悪意があるのなら、正直に名乗ったりするとお思いですか? ちゃんと目を向けて下さい。真実がどこにあるのかを。手遅れになる前に、目を覚まして下さい」


 ジェサードの声は、どんな喧騒の中にいても人に耳を傾けさせる力がある。感情を抑えた、それでいて凛とした響きだった。

 澄んだ青い目が医師に訴える。けれど、その整いすぎた容姿は、かえって相手に畏怖の念を与える。


 膨れ上がった恐怖と、看病による疲れ。患者の家族たちにはすでに冷静な判断力がなかった。

 最初に、一人の男性の罵声が轟いた。言葉とは思えないほどに崩れた音は、周囲の人々の荒れた心を更にかき乱した。


 石が投げ付けられた。

 それは低く飛び、アルテルの脚をかすって地面で砕ける。ダメージはないが、それに気を取られた時、医師はアルテルからバスケットをもぎ取り、高く掲げた。それが地面に叩き付けられる寸前に、シェラは自分でも驚くような俊敏さで、それをしっかりと抱き止めていた。

 安堵から地べたに座り込み、死守した薬を腕に大きくため息をつく。けれど、そんな場合ではなかった。


 また、石が飛ぶ。今度、それはアルテルの肩に当たった。怪我をするほどではなかったとしても、アルテルの表情は痛ましく歪んだ。


「消えろ!」


 高らかに声が響く。投石は止まない。

 アルテルに対する恐怖心よりも、子供を守ろうとする意識が働いた結果だろうか。そして、数で圧倒的に勝っているということもある。人々は半円になり、さざ波のように迫る。


「薬なんて言って、お前が病を撒いたんじゃないのか! 誰が騙されるか!」

「そうだ! 子供たちをお前の好きにさせるもんか!」

「失せろ! この死神!」


 非難の声と(つぶて)

 かろうじて、少女のシェラを狙わずにいるだけの理性はあった。ジェサードに対しても積極的ではない。やはり、標的はアルテルだ。


 シェラは立ち上がって、アルテルの前に立とうとしたが、それをジェサードに(はば)まれる。ジェサードは背にシェラを庇った。

 アルテルは腕で頭を庇いながら、それでも冷静に言葉を探す。


「俺をどう思おうと、それは勝手だ。でも、他に子供たちを助ける(すべ)があるのか? こうしている間にも子供たちは弱ってる。今だけでいいから、話を聴いてくれ! 薬を飲ませないと、助けられないんだ!」


 叫びも、苦悶(くもん)の表情も、他からすれば、何を抜け抜けとというところだったのだろう。火に油を注ぐようなものだった。昂った感情の(たが)が外れる。

 数人が一度その場を離れたかと思うと、戻った時には各々(おのおの)が武器を携えていた。

 武器とはいっても、角材、飲料水の空ビン、レンガ、そういったものだ。それでも、殺傷能力はある。それらを手に、叫び声を上げながら迫って来る彼らを止める者もなかった。


「止めて下さい!」


 シェラは声を振り絞って叫んだが、誰の耳にも届かなかった。


「アルテル、一度引くんだ!」


 ジェサードが、アルテルを振り返る。けれど、その瞬間にはすでに、アルテル目がけて角材が振り下ろされていた。


「危ない!」

「!」


 すばやく反応し、アルテルはその一撃を手で受け止めた。両手で押さえ込むと、もがく男よりも力ではアルテルが勝っていた。

 すぐに振り払ってしまえばよかったのに、振り払って、のどもとに角材を付き付けて返すしか、ここを収める方法がないなどは思いたくなかったのかも知れない。話し合って解決したいというアルテルの優しさは伝わらない。


「先生!」


 シェラの呼び声に、アルテルはようやく我に返った。しかし、その時にはすでにビンがアルテルに向けて振り下ろされるところで、それをかわす間もない。

 ただ、ほんの少し、もうどうなってもいいかという投げやりな諦観が、アルテルに回避させなかった気がした。


 こんな時に、アルテルが悔いているのだとシェラにはわかったのだ。

 噂を否定せずに放置していた自分の怠惰が、子供たちを死に追いやるのだと。 

 罰せられたい衝動が、心のどこかにあったのか――。


 その刹那、ガシャン、とガラスが割れる音が耳元に届いた。

 アルテルの頬をガラスの破片が霞め、かすり傷を作ったけれど、逆に言うならばその程度だった。


 あれだけ騒ぎ立てた人々も、一瞬で静まり返った。角材が、ガランと音を立てて地面に落ちる。

 状況がまだ飲み込めずに呆然とするアルテル。

 シェラは言葉にならない悲鳴を上げていた。


 割れたガラスの破片に鮮血が散り、その臭いに体が震えた。ずるりと滑るジェサードの背中を、アルテルはとっさに抱き止める。


「ジェド!」


 銀色の髪はあふれる緋色に染まり、整った顔の左半分も血に染まっていた。意識はなく、四肢をだらりと投げ出している。


「ジェサードさん!」


 とっさにシェラはジェサードの服をつかんだが、出血の量を見て頭が真っ白になった。

 アルテルはジェサードの状態を確認した。傷は左のこめかみにある。すんなりと切った傷とは違い、破れたような傷が広がっている。それから、眼球に破片が入っていないかを見ていた。

 役者なのだから、顔に傷痕を残しては、彼の将来に影を落とすことになるかも知れない。


「手当てを……しないと……」


 誰にも届かない、小さく暗い声でアルテルはつぶやいた。その時、診療所の中から医師の助手と思われる女性が飛び出して来た。


「先生、早く戻って下さい! あなた方もです! 子供たちが待ってます!」


 危害を加える側に回った彼らにとって、この場から逃れる口実ができた。誰もが救われた気持ちだっただろう。


「あ、ああ」


 医師はちらりとジェサードを見やったけれど、そのままきびすを返した。あれは、悪魔の見せている幻で、惑わされてはいけないのだと自分に言い聞かせるかのように。

 他の人々も医師に続く。その助手の女性は、血まみれで倒れているジェサードの姿を見付け、悲鳴を上げた。


「け、けが人が! な、何? 何があったの? どうしてみんな、ほうって……!」


 彼女は混乱している。看病に必死で、外の出来事に気付いていなかったのだろうか。そんな彼女に何人かが耳打ちし、半ば強引に説き伏せ、背を押して中に押し込めた。

 彼らの去り際のひと言が、更にアルテルたちを地獄の縁に落とす。


「それで、うちのフォーレンの容体は? クーディほどじゃなくても、悪化してるんだろう? 一体、どうしたら……」


 ノイド、フォーレン、クーディ。

 三人の少年たちの顔が脳裏に浮かぶ。


 悪名高いアルテルのもとへも平気でやって来て、アルテルを友達だと言い張った。アルテルにとって、どんなに彼ら小さな友人が愛しかったか。あの賑やかな時間に、どれだけ癒されていたか。

 彼らが病床にあると知って、ここに来たわけではない。その可能性を考えるゆとりもなくここへ来た。

 今ここで、その事実に愕然とするだけだった。

 助ける術はここにあるのに、届かない。そんなことがあっていいのか、と。


 アルテルは今、目の前の友人のことも救わなくてはならない。

 かぶりを振って気を引き締めていた。


 アルテルは自分のシャツの袖を裂き、それで止血すると、ジェサードを負ぶった。無言で歩くその後に、シェラも涙を拭って続く。

 荒廃した野のように、救いのない殺伐としたものが心に広がる。こんな仕打ちがあるのかと、シェラは何かを恨みたくなった。

 けれど、一番つらい人が泣かないうちは、これ以上泣くのを止そうと、自分の腕に爪を立てた。



     ※※※



 負傷したジェサードをどこへ運ぶべきか考えたが、治療道具はやはり家まで戻らないとそろわない。馬車を雇い、少しでも早く着けるように手配した。好奇の目を向けて来る御者を、アルテルは無言で威圧して黙らせる。店に続く並木道で降り、シェラは一人で先に走って戻った。湯を沸かしたり、少しでも早く準備をするためだ。

 アルテルはようやくたどり着いた自宅のベッドにジェサードを下ろす。そして、湯を沸かしているシェラに器具を手渡し、煮沸消毒を頼んだ。


「先生、支度が済みました」


 シェラなりに気丈に振舞ってみせるが、本当は息をするのも苦しいくらいに感情の整理が付かなかった。アルテルも病人のように顔が青白い。

 それでも、アルテルはジェサードの固まりかけた血を拭い、傷口を消毒する。湾曲した針をピンセットでつかみ、するすると縫合した。昔は医師を目指していたから、その時にかじった技術だろう。

 傷が残らないように祈りながら、丁寧にひと針ひと針縫っているように見えた。

 傷口に薬を塗った薄布を貼り付け、包帯を巻く。拭い切れていない毛先の血が、硬くこびり付いている。

 アルテルは汗を流しながら、天井を仰いでため息を深く長く吐いた。疲れの色が濃い。


「シェラ、ジェドが気が付いたら教えてくれ」


 そう言って立ち上がったアルテルは、不意に眩暈(めまい)に襲われたらしく、長身を傾けた。


「先生!」


 とっさにシェラは手を伸ばすが、支えられるはずもなく、ぶつかっただけだった。アルテルは自力で寝台の縁に手を突き、転倒を(まぬが)れる。


「昨日はほとんどお休みにならなかったんですから、疲れが出て当然です!」


 シェラがアルテルの肩に触れる。その時、ベッドに衝撃があったせいか、ジェサードの青い両目がうっすらと開いた。


「ジェサードさん!」


 包帯を巻き、乾いた血で汚れていても、ジェサードの微笑は穏やかだった。


「ああ、生きてたな。頭は痛いけど、まあ、これで済んだなら上等だよな」


 その軽い口調に、アルテルの方が顔を歪めた。けれど、ジェサードは彼が口を開くより先に言葉を重ねる。


「俺はこういう結果を予測した上でお前について行った。もう少しくらいは俺にもできることがあるんじゃないかと思ったんだが、そう簡単でもなかったな。まあ、まだ機会はあるさ」


 その言葉に、アルテルは耳を疑った。


「機会? まだあそこに行くってのか? 役者が傷だらけになって、仕事もできなくなるぞ」


 アルテルの顔に、今になって恐怖がありありと浮かぶ。

 身近な人間が傷付く、これほどの恐怖はない。

 けれど、ジェサードは失笑した。


「俺を顔だけの役者だと思ってるのか? それは侮辱だぞ」


 あくまで強気のジェサードは、アルテルのために虚勢を張っているのだろうか。こんな目に遭って、平気なはずがない。


「もういい。頼むから止めてくれ」


 うめくように言ったアルテルに、ジェサードはこの時初めて鋭い視線を向けた。


「じゃあ、子供たちのことは見捨てるのか? お前は、それで生きて行けるのか?」


 ずたずたの心に、更なる杭が打ち込まれる。けれど、シェラが止めなかったのは、同じことを危惧していたからだ。

 優しいアルテルが、子供たちを見殺しにして平気でいられるわけがない。


「それは……」


 ジェサードはそっと微笑む。何もかもわかっていると、その表情から伝わった。


「お前は何も考えず、ただ薬を作り続けろ。きっと届くから、信じろ」


 アルテルは無言で部屋を出た。

 その背中に背負わされているものの重みをシェラが肩代わりすることはできない。それが身を切られるほどに苦しかった。


 ――アルテルが去った後、シェラとジェサードは少しだけ言葉を交わす。


「今が一番つらい時だ。俺のことはいいから、あいつを支えてやってくれ」

「はい」



 シェラがアルテルの寝室を出ると、アルテルは仕事机のところでぐったりとしていた。目元を腕で隠し、表情は見えない。シェラはアルテルの正面に回り込むと、床にひざを突いた。


「先生……」


 返事はないけれど、眠ってはいない。だから、続けた。


「私もジェサードさんと同じ意見です。先生は子供たちを見捨てられる方じゃありません。ここで諦めたら、つらくてつらくて生きて行くのが嫌になってしまう気がします」


 すると、アルテルの口が僅かに動いた。それから、言葉がこぼれ落ちる。


「俺は、自分の評判を正確に理解できていなかった。――そのせいで子供たちを助けられないなんて、思わなかった!」


 語尾を荒らげたかと思うと、アルテルは体を勢いよく起こした。今までにシェラが目にしたことのない荒れ様に、ただ驚いた。アルテルは呆然としているシェラにたたみかける。


「薬なんて、作ってどうする? 飲ませることのできない薬なんて、なんの価値もない! そんなものが作れても、俺は無力だ! 俺の無力さが……あいつらを殺すんだ!」


 いつもはそっと触れるアルテルの手が、今日は痛いほどにシェラの肩に食い込んだ。シェラにはとっさに声が出せなかった。

 普段、穏やかで冷静なアルテルが、こんな風に取り乱すほど弱り果てている。その事実に、シェラは焼け付くような痛みを感じた。この状態の彼に諦めるなと説くのは、ひどく残酷なことなのだ。


 顔も知らない子供から、身近な幼い友人の顔になった。誰よりも、助けたい気持ちは強いはずなのに。

 もういいと言ってあげるのは易しいけれど、それではこの人は救えない。

 だから、シェラはそれでもアルテルの手を取って言った。


「先生の苦労も苦痛も、きっと報われる日が来ます。どうか、それを信じて下さい」


 アルテルの表情は一度強張り、それからシェラの手を振り払った。そして、顔をそらす。


「少し……黙っててくれ……」


 顔を背けたアルテルに、シェラの表情は見えない。シェラは立ち上がり、一礼すると部屋から出た。



     ※※※



 その夜、眠れないだろうと思っていたアルテルだったが、極度の疲労と現実逃避したがる精神のおかげで、深い眠りに落ちていた。机に突っ伏した体勢だろうと、十分だった。

 翌朝になって、ジェサードに肩を揺すられる。


「ひどい(つら)だなぁ」


 そんな感想を述べられても、反論する気になれなかった。ジェサードは、風呂を借りると言ってさっさと下に行き、アルテルはそれを見送った後もしばらく動く気力がなかった。

 ただ、ぼんやりとしている。

 どれくらいそうしていただろう。ジェサードが髪を拭きつつ戻って来た音で我に返った。


「アルテル、シェラはどこだ?」

「え……」


 そう問われても、わからない。


「いないのか?」

「部屋をノックしたんだけど、返事がないし、中にいる気配もなかった気がする」


 けれど、アルテルにはそれが不思議でもなんでもなかった。とても自然に受け入れられた。

 ああ、いなくなったんだ、と。


「昨日、八つ当たりしたから、愛想尽かされたんだろうな」


 醜態をさらして、シェラを困らせた。やり場のない感情を、そこにぶつけてしまった。そんなもの、シェラに受け止め切れるはずがないのに。

 けれど、自分の狭量を責めるより安堵があった。

 これでもう、巻き込む心配はないのだと。どこかで幸せになってくれたらいい。

 そんな勝手な願望を、ジェサードの怒声が遮る。


「バカか、お前は! あのコがそれくらいで愛想尽かすわけないだろ!」


 怒鳴って傷に響いたのだろう。ジェサードは顔をしかめてから、何かに思い当たったようだった。


「――アルテル、あの薬はどこに置いた?」

「あの薬?」

「昨日のセベトの薬だ!」

「店のカウンターに置いたままだが?」


 それを聞くと、ジェサードは傷が痛むはずなのに、階段を一気に駆け下りた。ただならぬものを感じ、アルテルもそれに続く。

 暗く静かな店内。アルテルはカウンターをぼんやりと眺める。

 それから店内をぐるりと見渡すけれど、薬の入ったバスケットは見当たらなかった。


「ないんだな?」


 ジェサードの声が低く、アルテルに響く。アルテルはうなずいた。

 それが意味することを考えまいと、脳が拒絶する。それでも、ジェサードは明言した。


「間違いない。シェラは薬を持って診療所に向かったんだ」


 昨日の出来事が、脳裏で目まぐるしく蘇る。

 あの痛みに、たった一人でもう一度立ち向かったなんて、そんなことがあるのだろうか。

 あの繊細な微笑が、ジェサードの時のように血に染まる。そんなことが起こるのか。

 呆然として、目の前が暗くなった。呼吸を忘れ、冷たい汗が落ちる。

 こんなことになるのなら、どうしてもっと早くに手を放してしまわなかったのか――。


「アルテル、腑抜けてる場合じゃない。まだ間に合うかもしれないだろ。追いかけるぞ」


 ジェサードの叱責にうなずくよりも先に、アルテルは駆け出していた。



     ※※※



 シェラはその時、不思議と怖いとは思わなかった。

 昨日、あれだけのことがあった後なのに、気持ちは落ち着いている。迷いがないからだろう。


 アルテルは今、誰の声も届かない孤独の中にいる。

 どんなに支えたいと思っても、代わってあげることはできない。

 あの絶望に触れた瞬間、この人は救いを求めていないのかも知れないと思った。孤独に朽ち果ててしまうことを望み始めたのではないかと。

 そんなのは嫌だから。アルテルが孤独を感じるのなら、それは違うのだと、闇を照らす明かりを示さなくてはならない。


 自分に、それができる力があるとは思わない。人を説得できるほどに弁が立つわけでもない。

 唯一シェラができることといえば、信念を曲げずにぶつかるだけだ。


 シェラは診療所の扉の前に立ち、バスケットの持ち手を強く握り締めた。そして、扉を叩く。


「ごめん下さい!」


 返事はなかった。もう一度叩こうとすると、その時扉はゆっくりと開く。

 シェラは半歩下がって手を下ろし、一礼する。顔を上げると、出てきてくれた女性は疲れた顔をしていた。

 昨日見た顔だ。藍色のエプロンも、昨日と同じ――。


「あなたは……」

「責任者の先生にお取次ぎ願えませんか? すぐに済みますから」

「知ってると思うけど、忙しいし、手短にね」


 正面から顔を合わせたわけではないから、シェラのことも確信がなかったのかも知れない。門前払いはされなかった。

 彼女が奥に消えると、シェラはバスケットを胸に抱くようにして待った。小さく深呼吸して、心を落ち着ける。


 ただし、中から出て来た医師は、シェラのことをしっかりと覚えていた。

 早足で近付いて来たかと思うと、肩を思い切り突き飛ばされた。踏ん張れずに後ろに倒れたけれど、それでも薬は守った。


「また来たか! とっとと失せろ!」


 つばを飛ばして怒鳴るその声で、また中から人が集まって来る。

 昨日のことがあったから、みんな過敏になっているのだろう。シェラを囲むような半円ができた。

 シェラは冷たい地面の上に正座する。そして、背筋を伸ばし、正面の医師を見据えた。てこでも動かない覚悟だった。


「――あなた方がアルテル先生の悪評を信じてしまっているのは、無理もないことだと思います。私自身がそうでしたから」


 ざわざわと、小さなささやき声がする。それでも、シェラは続けた。


「でも、違うんです。実際の先生は、仕事熱心で優しくて、噂されるような方ではありませんでした。噂も尾ひれが付いて、収拾が付かなくなってしまっただけで、真実はそこにはありません」


 たった一人の少女に、石を投げ付ける者はいなかった。しかし、周囲の人々は険しい視線を向けている。

 ただの少女に見えたとしても、アルテル=レッドファーンの使者なのだから。


「お前は、騙されているのではないか?」


 そう考えるのが一番納得が行くのかもしれない。けれど、シェラは否定する。


「先生は、人を騙すようなことはされませんし、恩にも着せません。ただ笑って、いつも私を救って下さいました。子供たちを救えずに苦しんでいる先生に、今度は私ができることをしたい――。だから、こうしてお願いに来たのです」


 目をそらしてはいけない。うつむいてはいけない。

 背筋を伸ばして、この気持ちを誇ればいい。

 医師は嘆息した。


「だったら、その薬の安全性を、お前が身を持って証明してみせろ」


 飲み干してみればいい。これは毒などではないと。難しいことではない。

 けれど、それはできなかった。

 シェラはかぶりを振る。


「それができたらよかったのですが、あいにく薬は少量。子供たちの分も足りていないのに、減らすことはできません」


 飲めない理由はそれだけか、と医師は吐き捨てる。


「では、どうする? そのまま、信じろとさえずり続けるだけか?」


 その冷えた目を目の当たりに、シェラは微笑んだ。こんな局面で自分が笑えるだけの度胸を持っているなんて、思わなかった。

 そうさせるのは、やはり信じているからだ。


「この薬を子供に与えて、もしその子が亡くなった時には、私のことはどうとでもなさって下さい。その子と棺桶の中までご一緒します。信じてくださらなくとも、このままでは助からないのなら、賭けだと思って試して下さい」


 周囲がざわ、と揺れる。医師は言葉の真偽を見抜こうと、目を細めた。


「そこまですると言うのか?」

「はい。私はアルテル先生のことを、心から信じています。必ず助かります。怖くはありません」

「……土壇場で逃げるつもりだろう?」

「でしたら、逃げられないように縛るなりなさって下さい」


 すると、医師は不気味なくらいに低くかすれた声で笑った。


「小娘が、いい度胸だ」


 そして、一人の男性に目を向ける。


「クーディはこのままで行けば、持って五日だ。話に乗るかどうかは任せる」


 クーディの父親なのだろう。柔らかな雰囲気がどこか似ていた。


「私の一存では……。妻にも相談させて下さい」

「もちろんだ」


 そして、医師はシェラにあごで指図する。


「中に入れ。おかしな真似はするなよ」


 それでも、可能性ができた。シェラは胸がいっぱいで、声が震えた。


「ありがとうございます」


 薬を抱えて立ち上がると、医師の背中に続く。

 その時、遠くから鋭く声が飛んだ。


「シェラ!」


 振り向かずとも声で誰だかわかる。世界一愛しい、大事な人。

 シェラはアルテルを安心させるために振り返った。

 全力で走って来たのか、赤く紅潮した顔には、びっしりと汗がふき出している。切迫したその表情に、シェラは労わるような微笑を向けた。


「先生、行って来ます」


 引きとめようとしてくれるのか、アルテルはとっさに手を伸ばす。シェラはそれを最後まで見届けず、診療所の扉をくぐった。



 診療所の中は、異常な生暖かさに満ちていた。走り回る女性たちと、すすり泣く声。

 ここで圧倒されていてはいけない。シェラは身を硬くして、医師とクーディの父親の後に続いた。


 廊下を抜け、着いた先の部屋は、ベッドが八台もある広い部屋だった。薄緑色のカーテンに、鳥かごのような窓。板張りの床。白い壁。

 苦しいと泣く子供の声。励ます親の声。看護の指示をする声。

 シェラの存在を気にするゆとりが、周囲の人々にはなかった。


 入り口に一番近いベッドに彼らは視線を向ける。覆いかぶさるように、一人の女性がいた。その肩に、クーディの父親が手を添え、耳元で何かをささやいた。夫人は途端に目をカッと見開き、疲労の濃い顔でシェラをにらみ付けた。


「飲ませてたまるものですか! そんなものがなくとも、この子は助かります!」


 現実はそうではない。認めたくなくとも、子供たちが自力でどうすることもできないところまで追い込まれている。

 助ける術はこれだけだ。だから、シェラも引けなかった。


「話を聴いて下さい!」

「聴きたくありません! 出て行って!」


 甲高い夫人の声が響いた後、虫の羽音よりも弱々しい声がベッドから上がった。その小さな声は、不思議とかき消されずに周囲の耳に届く。


「シェ……ラ……」


 夫妻は耳を疑い、目を見張った。

 シェラはなり振り構わず前に出る。呼びかけに答えるため、ベッドに手を突いて覗き込んだ。

 もともと小柄なクーディは、枯れ枝のような腕をベッドの上に投げ出し、こけた頬を痙攣したように引きつらせていた。笑おうとしたのかも知れない。

 ぱさぱさになった髪と、乾いてひび割れた唇が痛々しく、目を背けずに涙をこらえ続けるのは苦しかった。


「クーディ、遅くなってごめんね。でも、先生のお薬を持って来たから。すぐによくなるから……」


 すると、夫人はクーディとシェラの間に身を滑らせ、クーディを隠す。


「勝手なことを言わないで! 飲ませられるはずがないでしょう!」


 けれど、その背から、力を振り絞ってクーディは言った。


「のむ、よ。だい……すきな、アル、テルの、つくった……おくす、り……」


 苦しそうに涙を流しながらむせる姿が、夫人の体の隙間から見えた。医師と父親は顔を見合わせ、それから父親が口を開く。


「どうか、薬を与えてやって下さい」


 母親も、もう何も言わなかった。涙を流しながら息子の背を摩っている。

 シェラはバスケットを開き、幾重にも巻かれた布を開いて行く。そこから出て来た、小指ほどのビンのふたを取る。クーディのうなじに右腕を滑らせ、飲みやすいように頭を傾ける。その体温は、血が沸騰しているのではないかと思うほどに熱い。


 ビンの中の半透明の液体を乾いた唇に添え、中身を少しずつ流した。シェラの手も震える。クーディは、残った力の限りでそれを飲み下した。

 シェラはほっとして、クーディの頭を下ろす。少しだけ気が抜けて涙がにじんだけれど、それを人に見られる前に拭い去る。そして、振り返って医師に言った。


「薬の効果はまだ表れていませんから、これからしばらくは、私もここでお手伝いをします。なんなりとお申し付け下さい」

「根を上げるなよ」

「はい!」



     ※※※



 シェラは折れそうに脆くて、傷付いてばかりいる。

 だから、女性だと知ってからは特に守らなければと思っていた。


 まっすぐに背筋を伸ばし、胸を張って、あれだけの敵愾心の中にいられる。そんな強さを、どこに秘めていたのだろう。

 アルテルは、あんなにもまっすぐに信じてもらえるほど立派な人間ではないと自分でわかっている。

 無力でみっともない、こんな人間のために何故そこまでするのだろう。


 アルテルの手が届かない場所で、シェラが消えてしまうような不安が胸をかすめる。子供たちを救いたい気持ちと同じように、シェラも助けるつもりで走ったのに、引き止められなかった。

 それでも悲愴感はなく、笑みさえ向ける。その時、アルテルは自分の思い上がりに気付いた。

 守っているつもりが、守られていたのは自分だと。


 診療所に踏み込もうかと思った。シェラに一人でつらい思いをさせたくない。

 ただ、そばにいないことがこんなにも不安だと、正直に認めてもいい。

 けれど、その気持ちを阻む力が肩にかかる。


「ジェド……」


 蒼白な顔のジェサードがかぶりを振る。

 傷がうずくはずなのに、無理ばかりさせている。包帯の上にも血がにじんでいた。胸が痛むけれど、ジェサードは落ち着いた声で言う。


「シェラは俺たちが思う以上に、信念を強く持って行動を起こしたみたいだ。ここで連れ帰ったんじゃ、彼女の思いを無駄にするだけだ。今、お前のすべきことはなんだ? あの想いに報いるために、何をする?」


 アルテルは強張った体の力を意識して抜くと、深く息をつく。


「……薬を作る」


 その答えに満足し、ジェサードはそっと微笑んだ。


「そうだな。それでいい」


 二人は診療所に背を向ける。

 気にならないわけではない。ただ、行って来ますというのなら、必ず帰って来ると思ってもいいのだろうか。


「ジェド、お前はもう休んでくれ」

「でも、それで手が足りるのか?」

「いいから、休め。傷薬も届けるから。お前が安静にしててくれないと、気が散る」


 有無を言わせない口調に、本来のアルテルが戻って来たように感じたのか、ジェサードは苦笑する。


「了解。けど、お前も無理しすぎるなよ。じゃないと、シェラに怒られる」

「ああ……」



 明かりの乏しい部屋の中でたった一人、アルテルの手は常に動いていた。


 ――独り。


 ずっと、何年もそうだった。今更それを改めて感じることなどないと思っていた。

 けれど今は、昔の自分が何を思い日々を過ごしていたのか理解できない。


 シェラがいないのだから、誰の補助もなく、些細なことも自分でするよりない。

 乾燥した薬草を粉末にするような、単調な作業をしていると、不意に思考は余計な方向に向かってしまう。

 そのつど、自分の額をこぶしで殴る。そんな馬鹿な行為で思考を修正する。


 シェラが何故ここにいないのか、わかっている。わかっているから、手を動かさなければならない。



 そうして、二日が過ぎた。


 その間、店はずっと閉めていた。

 今日になってやって来た来訪者は、開かない扉を叩き続ける。


「ごめん下さい! 誰か――アルテル=レッドファーン先生はおられますか!」


 それは正午のことだった。普通ならば迷惑でもなんでもない時間帯のはずだが、このところのアルテルは、昼夜の区切りも曖昧で、頭がとっさに働かなかった。

 丁寧な口調だけれど、知り合いではない。(いぶか)しく思いながらも、アルテルは二階の窓から顔を出した。その方が早い。


「……何か?」


 短く問うと、玄関先には五人の男がいた。その中には見覚えのある顔があった。

 診療所の入り口で最初に会った青年、角材を持って殴りかかって来た男性、他の三人は知らない。

 その中の、ほっそりとして気の弱そうな男性が、その場から声を張り上げた。


「私はクーディの父親で、オーレスと申します。どうか、下りて来ていただけませんか」


 アルテルは彼らに近付くことに抵抗を感じながらも、シェラや子供たちのことが気がかりだった。すぐに店の扉を開きに向かう。

 この時のアルテルは、作業着の黒いローブがあたかも黒魔術師のようで、彼らを少し引かせたけれど、逃げ出すまでではなかった。


「クーディの……。彼の容体はどうなのでしょうか?」


 尋ねるアルテルに、オーレスは四つ折の便箋を差し出した。


「まずはこれをお読み下さい。それもここに書かれていると思います。どうぞ。シェラさんからです」


 そのひと言で、アルテルは手紙を受け取る自分の手がひどくぎこちなく感じた。硬い指でそれを開くと、手紙はシェラの整った筆跡で(つづ)られていた。


 クーディに薬を飲ませることができたこと。

 熱も下がり始め、昨日はほんの少しだが、ものを食べたこと。


 けれど、他の子供たちはまだ苦しんでいること。

 調薬の補助を買って出てくれた人たちが向かうので、協力して薬を作ってほしいということ。


 アルテルはその文面を何度か読み返し、それでも信じられない面持ちで顔を上げた。

 彼らはばつが悪そうに苦笑する。


「まず、息子の命を救って頂き、本当にありがとうございました。……ただ、あれだけのことをしておいて、今更虫のいい話だと思われるでしょう。噂を信じ、あなたを信じなかった我々は愚かです。それでも、子供たちに罪はないと、あなたが救いの手を差し伸べて下さるのなら、どんなことでもいたします」


 彼らはいっせいに頭を下げた。

 角材を振り回した男性は、顔を上げずに声を張り上げる。


「俺はノイドの父親で、ワログと言います。倅たちは、アルテルさんを曇りなく見ていた。それなのに俺たち大人は、自分の目で判断しなかった。恥ずかしい限りです……。どうか、許して下さい」


 あれだけの憎悪を受け、排斥されたことが、まるで幻のように消える。

 どうしたら、そんなことができたのだろう。シェラはどんな覚悟で挑んだのだろう。

 今、どんな気持ちでいるのだろう。それを知りたいと思った。


 そこで、便箋に二枚目があることに気付き、慌ててめくる。



“先生、私はまだ当分そちらに戻ることはできませんが、ちゃんとお食事はなさってますか?

 一人だからといって、抜いたりしていませんか?

 ちゃんと眠れていますか?

 無理はなさっていませんか?

 心配をおかけしているとは思います。

 でも、私も先生のことを心配していますから、きっとお互い様です。

 それは言いっこなしでお願いしますね”



 ジェドの言った通りだな、とおかしくなった。二枚目の便箋に視線を落としたままのアルテルは、自分でも意識しないままに微笑んでいた。


「シェラさん、すごかったですよ。薬を飲んで子供が死ぬことになったら、自分も一緒に棺桶に入るって、背筋伸ばして言い張るんですから。一見儚げなのに、あんなの、大の男にだってできません」


 と、青年は苦笑する。


「あいつ、そんなことを……」


 どうしてそう、危ない真似ばかりするのだと叱りたい。

 けれど、その体当たりの姿勢が、子供たちとアルテルを救う結果になった。すんなりと飲み下せないけれど、胸の奥はじんわりと得体の知れない温かさに満ちた。


「さあ、何からお手伝いしましょうか? 指示を下さい!」


 彼らは謝罪と礼ばかりでなく、手伝うためにここへ来たのだそうだ。

 シェラが土台を整えてくれた。

 今まで、自分が振り払わずに来た噂の影を、今度こそ消してしまわなければならない。

 自分の信用を回復するためにアルテルが努力するのは当たり前だ。改めて気を引き締める。


「では、よろしくお願いします。まず――」



     ※※※



「――でね、アルテルは掃除が嫌いだから、座ったら椅子がにちゃにちゃしてたんだ。でも、シェラが来てからはびっくりするくらいきれいになったんだよ」

「そういえば、この服はどこで汚したのって訊いても、わからないってごまかしたことも何度かあったわね」


 クスクスと声を立てて笑う母親を寝台から眺め、クーディも笑った。痩せ細った体は急にはもとに戻らないけれど、血色はよく、瞳には生気が戻っている。


「多分、今も部屋がすごいことになってるんじゃないかなって心配です。戻ったらまずは掃除ですね」


 親子のそばで、シェラは苦笑しながら答えた。

 本当に、どうなっていることやら。


「あら、手がかかるくらいが丁度いいのよ」

「ええ、まあ、そうですね。そうじゃなかったら、私は雇われていませんし」


 シェラとクーディの母親、オーレス夫人は笑い合う。彼女はもともとは穏やかな女性だった。クーディの容態が安定するにつれ、本来の性質に戻ったようだ。

 シェラに対し、謝罪と感謝を述べ、それからは優しく接してくれている。


 それはオーレス夫人に限らなかった。診療所内でシェラは献身的に働き、自分の信用を築いた。そして、アルテルの薬の効果はすでに疑いようがない。

 子供たちの母親は、シェラに対しても着替えや食事、何かと世話を焼いてくれている。


 ――ここへ来て一週間。

 アルテルからの薬が届けられるたび、子供たちの寝息が健やかなものに変わって行った。後どれくらいかかるのかはわからないけど、確実に快方へ向かっている。


「シェラー」


 ノイドの声が病室の端から飛ぶ。彼も最初は高熱に浮かされながらも、シェラが声をかけると大丈夫だと言い張っていた。その強さに感服しつつ、それでも本当に回復するまでは油断ができなかった。

 今はもう、子供たちの中でもかなり元気な方で、目を放すとベッドから起きて悪さをするといった有様だった。腕白盛りがベッドに縛り付けられて退屈で仕方がないのはわかるが、餌食になるのはいつもシェラだった。


「ノイド、どうしたの?」


 シェラが近付くと、ノイドはシェラの服の裾をつかんだ。そして、自分のベッドの右端を指さす。そこには、紙で折った鳥のおもちゃがある。飛ばしているうちに、手が届かなくなったのだろう。


「あれ取って」


シェラがいる位置は、ノイドの左手側。服をつかまれているので、そのまま身を乗り出して取った方が早い。シェラがベッドの端に膝を突き、それに手を伸ばした瞬間、ノイドは手をさっと(ひるがえ)し、シェラのスカートをめくった。


「!!!」


 真っ赤な顔をしてスカートを押さえたシェラの背後から、はやす声がする。


「白! 白だ! 今日は白~」


 フォーレンだった。彼はノイドの左隣のベッドで手を叩いている。


「大成功!」

「うぅ……」


 女子供しかいない病室とはいえ、屈辱に震えるシェラの背後を、誰かが通り抜ける。


「この、バカタレ!」


 ノイドの母親。彼女は肝っ玉母さんという呼び名がぴたりと来る、大柄で溌剌(はつらつ)とした女性だった。我が子のみならず、フォーレンの頭もがつりと殴る。病人にも厳しい。

 それからシェラに向き直ると、その顔はあきれていた。


「あんたもね、毎日引っかかってるんじゃないよ」

「すみません……」


 毎日、あの手この手なのだから、子供の悪戯の才能には適わない。悪戯の天才は、頭をさすりながらしれっと言う。


「シェラはイロケが足りないから駄目なんだ。あのにっぶいアルテルが相手なんだぜ?」

「な、なっ!」


 シェラが耳まで赤くなって、ただ口を開閉していると、横からフォーレンも調子に乗った。


「みーんな噂してるよ。シェラはアルテルにゾッコンだって」


 あまりのショックに涙ぐむシェラに、ノイドの母は苦笑した。


「まあ、わかりやすすぎるよ。ただ、惚れた男のために体を張ってここまで来たくせに、肝心なところではてんで駄目なんだってね」


 そこまで見抜かれてしまう自分って――とシェラは情けなくなった。

 けれど、周囲の奥様方はそんなシェラのことを明らかにおもしろがっていた。


「その初々しいところがいいんじゃない」

「そうだねぇ。けど、せっかく美人に生まれ付いたってのに、どうしてそんなに自信がないのかねぇ」

「でも、あなたにそこまで惚れ込まれるんだから、アルテル先生にはぜひ会ってみたいわね」


 すると、大人の会話にノイドが口を挟む。


「アルテルはシェラのこと、ずっと男だと思ってたんだ。それくらい鈍いんだ。すっげぇぞ」

「ええ! 何それ、あり得ないでしょ!」

「ほんとだよ、お兄さんって呼ぶように言われたもん」

「うわぁ、ますます興味深いわぁ」


 すっかり、奥様方の話のネタにされてしまっている。けれど、その会話の中には、以前のような暗い影はない。本来のアルテルの姿がある。

 それが、シェラには少なからず嬉しかった。



     ※※※



 一方、アルテルも似たような目に遭っていた。


「アルテルさんって、どういう女性が好みなんですか?」


 すっかり馴染んだ診療所の青年ギャレットは、昼食のパンをかじりながらそんなことを尋ねて来た。


「なんだ、急に?」


 アルテルは手を止めることなく返す。実を言うと三日ほど着の身着のままなので、かなりヨレヨレである。差し入れを持って来ていたジェサードは、椅子に腰かけたままにやりとした。


「こいつにそんな質問したって無駄だよ。好みなんてないからな」


 包帯は取り、薄布を傷口に貼り付けてある。どこまで傷が消えるものか不安は残るが、本人は至って明るかった。


「え~」

「代わりに俺の好みでも聞くか?」

「あ、それはそれで役に立ちそう」

「……なんのだよ」


 ノイドの父親のワログが、豪快にがははと笑う。


「アルテルさんの好みは、髪が長くて儚い感じの美少女だろ」


 それを、オーレスがたしなめる。


「こら、作業に集中しろよ」

「いいじゃないか。あんなにかわいくて健気な娘、俺だって独身だったらほっとかなかったぞ」

「相手にされなかったんじゃないか」

「なんだとぉ」


 げらげらと笑いが起こる。アルテルは不思議な気持ちでそこにいた。

 こんな風に人に囲まれている状態は異常で、けれど、自分はこの空気が嫌いではないのだと改めて思う。


 ただ、やはり足りない。



     ※※※



 シェラが診療所の医師ルーダの助手、クリトフに声をかけられたのは、それから三日後のことだった。厳しいルーダとは違い、温厚な彼はシェラに言った。


「ルーダ先生とも患者のご家族とも話して決めたことだから、安心して聞いてくれ」

「はい?」

「もう、十分だから、戻っていいよ」

「え……?」

「まだ、全員が完治したとは言えないし、アルテルさんに頼ることに変わりはないんだけど、そもそも君は薬の安全性を立証するための自発的な人質とでもいうのか、そういう立場だったから。もう疑う余地もないし、帰してあげようって話になったんだ」


 唐突といえばそうだった。

 ここへ来て十日。けれど、まだまだ先のことになると覚悟していたから、心の準備がなかった。

 呆然としていると、クリトフは微笑んだ。


「正直、僕も彼のことは噂通りにしか受け取っていなかった。けれど、本当はこれだけの技術と知識を持った人物だとわかったからには、学びたいことも沢山ある。ルーダ先生とも、薬の仕入れも検討しようと話しているんだ」


 胸の奥がほんのりと温かくなる。先生がこれを聞いたら、どんなに喜ぶだろうう、と。


「ありがとうございます!」


 ぺこりと頭を下げる。シェラが顔を上げると、クリトフは手を差し出した。


「君の功績だよ。こちらこそ、ありがとう」


 シェラは胸がいっぱいで言葉が出てこなかった。ただ、その手を握り返した。



     ※※※



 夕暮れ時、アルテルを手伝いに来てくれた人たちは帰って行った。

 いつも暗くなる前に帰ってもらうようにしている。夜道で怪我をされたくない。


 けれど、そうすると誰もいなくなる。

 そのはずが、その日は少し違った。


 カタリ。


 音がした。ジェサードか、それとも誰かが忘れ物を取りに来たのか。

 アルテルはその場で待った。こういった場合、下まで下りて出迎えたりしない。


 タンタン、と軽い足取り。聞き慣れた音。


 まさかと思った。

 そう思いながらも、手は止まっていた。


 ガチャ。


 ドアが開く。

 最初に見えたのは、長い髪の先だった。

 続いて、おずおずとこちらを覗き込む。堂々と入ってくればいいものを。


「先生――」


 控えめに呼ぶ。

 そして、ようやくするりと室内に入った。

 赤い水玉のスカートにブラウス。初めて見る服だった。


「十日振り……ですね。この家も十日振りです。こんなにも懐かしいような、ほっとするような気持ちになるほど、ここから離れてたんですね」


 心なし、涙ぐんで見えた。

 アルテルは、うまく頭が働いていなかった。

 ぼうっとする頭のまま、ぼんやりと言った。


「ここはお前の家だからな」

「そうですね」


 シェラは頬を染めて微笑む。けれど、アルテルの硬さが、いつもよりも不機嫌に感じられたのだろう。少しだけ視線を落とした。


「あの、まず謝ります。勝手な行動を取ってごめんなさい」

「悪かったなんて、思ってないだろ」


 声も硬いままだった。そのせいで、シェラは凍り付く。


 アルテルは、うまく言えない自分が歯がゆかった。何を言いたいのか、次第にわからなくなる。

 それでも、シェラは言った。


「私は、ああすることしかできませんでした。間違ったとも思っていません。ただ、身の回りのお世話ができなくて申しわけなかったという意味です」


 アルテルは、シェラの表情から笑みが消えてしまったことに、自分の不甲斐なさを感じる。そのまま髪をかき上げた。


「責めてるんじゃないんだ。ただ、うまく言えない。……すまない」


 そんなアルテルに、シェラはそっと声をかける。


「私も、先生にお会いしたら、話そうと思っていたことが沢山あります。ありすぎて、何から話したらいいのか整理ができていません」


 アルテルは机の奥から抜け出し、シェラのもとへ歩み寄る。正面に立つと、シェラはアルテルを見上げていた。


「どうして、お前みたいなやつが俺のところにいてくれるんだろうな」


 思わず、そうこぼした。


「え?」

「……いや、なんでもない」


 ようやく、微笑むことができた。

 ありがとうの言葉ひとつで片付けられないから、言葉に詰まった。

 感情に、まだ整理が付かない。


 ただ、シェラがこの家にやって来たことが奇跡の始まりだったのだと、今になって思った。



  【アルテル=レッドファーンの孤独 ―了―】

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