アルテル=レッドファーンの日常
優しい家族と沢山の使用人に囲まれ、上質な絹で身を包み、ただ微笑んでいればよかった日々。
それは、遠い昔。
たかが五年の歳月にその表現は適切ではないのかも知れないけれど、そう思う。
もう、遠い昔だと。
それを証明するかのように、朝目覚めて一番に視界を染める天井は、味気ない木目だ。眺め続けていても飽きないような美しい模様など、どこにもない。ただの板に過ぎない天井には、目を凝らしたところで汚い染みくらいしか見付けられない。
望めばなんでも手に入った昔とは違い、今は必要最低限のものをかき集めるのがやっとの質素な暮らしだ。シェンティーナというお嬢様然とした名前もすでに似合わない自分になった。
別にそれを不満には思わない。もう慣れた。
ただ、昔は違った。それだけのことだ。
思い切って起床する。硬い寝床でも、そのぬくもりに未練は残る。それを振り切るように伸びをして立ち上がった。あくびをしながら小さな瓶に柄杓を突っ込み、汲み置きしておいた水を桶に移して顔を洗う。
今日は少し特別な日になる予定だから、気合が必要だ。
最後にぴしゃりと両頬を打って気を引き締める。地味で簡素な古着に袖を通し、伸ばしっぱなしの長い髪をまとめた。自分で組み立てた不恰好なテーブルの上の硬くなったパンをかじる。
すると、早朝だというのに遠慮のない騒音が狭い空間に満ちた。
ダンダンダンダンッ、と建て付けの悪いドアを叩く音だ。家賃の催促か、もしくは――。
恐る恐る扉を開くとそこには案の定、妙に背筋のよい真っ白な髪をした老人が立っていた。
「あ、じいや」
途端、その背筋と身なりのよい老人は難しい顔をした。
「あ、とはなんですか、お嬢様。またお仕事を辞められたと聞き及び、慌てて参りましたのに、何をのん気な……」
彼女の家は祖父が事業で成功し、それなりの資産を蓄えた商家だった。じいやのフレセスは、祖父の代から執事として仕えてくれていたので、主従関係ではなくなった今も、様子を見に時々やって来る。
「のん気じゃないわ。生活がかかっているもの」
フレセスと話していると、言葉遣いが昔に戻ってしまう。下町に馴染んだ話し方をすると、彼が悲しそうな顔をするからだ。
「その割にお仕事が続かないのは何故でしょう?」
「何故かしら?」
「何故なのです? お心当たりは?」
「特にないわ。一昨日だって、工場長は私を気遣って下さっていたのに、どうしてだか解雇されてしまったの」
「気遣う?」
「ええ。若い娘の一人暮らしは何かと大変だろう、君さえよければいつでも面倒を見てあげるよって」
フレセスは顔を真っ赤にして口をパクパクと動かしていたが、シェンティーナは気付かずにうつむいて嘆息する。
「いつもよくして下さっていたし、そこまで厚かましく甘えられないでしょう? それで、お気遣いありがとうございます。お気持ちだけで十分ですとお答えしたの。……ねぇ、何か失礼があったのかしら?」
フレセスは深々とため息をついた。
「お嬢様。シェンティーナお嬢様」
「はい?」
「お仕事がうまく行かない理由が、わたくしめにはよぉくわかりました。一言で申し上げるならば、向いていないというところです」
突然フレセスは、しわに縁取られた小さな目に涙をいっぱいに溜めて、シェンティーナの腕をがっちりとつかんだ。
「やっぱり、お嬢様をこのようなところで独りにしておくなど、これ以上は耐えられませぬ。どうか、どうか、わたくしめとご一緒にいらして下さい」
シェンティーナは、こうして泣かれるのは何度目だったかな、となんとなく思う。
「あのね、じいやはもう私に仕えているわけではないでしょう? 私はもう、お嬢様ではないの」
「それでもわたくしは、お嬢様が心配なのです」
けれど、もはや義理だけで繋がる関係に甘えてはいけない。
「あなたはもう、他家の執事なのだから、私のことは気にしなくても大丈夫よ」
何も出来ない世間知らずの子供でも、贅沢さえしなければなんとか生きて来れた。これからだってそうだろう。
けれど、フレセスは目の端をつり上げる。
「これの! どこが! 大丈夫と!」
バンバン、と戸口を叩く。あんまり叩くと壊れるから止めてほしい。そうして怒っていたかと思うと、今度はまた泣き出す。
「わたくしはただ、お嬢様には幸せになっていただきたいだけなのです。おじい様がご病気で他界されたすぐ後にご両親も事故で亡くされ、心無い親族に身ひとつで放り出されてしまわれた。結果、このようなあばら家で粗末な食事に粗末な衣服。せっかくの美貌が台無しです。わたくしはただ、お嬢様が不憫で」
「この服、男性用だけど、動きやすくっていいのに」
華奢な体に合わない大きすぎる綿シャツ、腰紐が二周する上にすそを折った黒のパンツ。
シェンティーナのつぶやきを、フレセスはにらんで黙らせた。泣いたり怒ったり、忙しい人だ。
「今日という今日はもう引き下がりませぬ。是が非でもお住まいをお移り頂きます!」
朝から聞くには甲高いフレセスの説教に、シェンティーナは苦笑する。心配してくれるのはありがたいけれど。
「じいや、私はこれから次の勤め先へ面接に行くつもりなの」
「またそんなろくでもないところへ!」
「そう言われても……」
行かなければならない。ここで引いてはいけないのだ。
強情な二人はしばらくにらめっこをしていたが、フレセスは不意に目を細めて身を反った。
「でしたら、こう致しましょう。もしそこも解雇された時には、わたくしの言う通りになさって下さいますな?」
「え?」
「確か、大丈夫なのでしょう? なら、こんな約束も差し支えございませんでしょうに」
にやりと笑っている。まずい展開だ。
「約束でございますよ?」
回避できなかった。あの顔は絶対に長続きしないと思っている。
けれど、フレセスもその働き口を知れば、こんな約束はしなかっただろう。力ずくで止めたはずだ。それがわかっていたから、あえて伝えなかった。
それほどまでに特殊なところなのだ。
なのに、採用もされていないうちから辞められない状況が出来上がってしまった。かなり都合は悪いが、今更ではある。
もちろん働きに行くのだけれど、それよりも大事な目的がある。そのために働き手として潜り込むつもりだと言っていい。
だから、それを成し終えた後、そこから逃げ出すことも考えていた。こうなったら、早めに用を済ませて逃げて、他の働き先を見付けてごまかそうか。
嫌だけど、行かなければ。
行って、取り戻さなければならない。
おかしな噂が飛び交う、あの店から。
シェンティーナはフレセスが立ち去った後の戸口でこぶしを握り締めた。
いざ。
向かうは『アルテル薬剤店』――。
※※※
シェンティーナは、そのおかしな形をした建物を少し離れた位置から見上げ、ごくりと唾を飲んだ。
町外れの豊かな森の手前に寂しく建つ店。これこそがアルテル薬剤店である。ただし、ここは普通の薬屋ではない。
この薬剤店の店主、アルテル=レッドファーンは巷の噂によれば、黒魔法の研究をしている魔術師であったり、生き物や臓物をビンに詰めて眺めることに喜びを感じる異常者であったり、生き血をすする悪鬼であったりする。
シェンティーナはそれを承知でこの場にいる。町の人々から忌避されるこの場所へ、震える脚でやって来た。
その悪魔の家は、一言でいうなら円柱だ。樹齢何百年と経った木をそのままくり抜いて造ったかのような建物で、高さは三階くらいまでありそうだ。
まるで常緑樹を思わせる緑色の屋根。二階と三階の中間に、小さな曲がった煙突がある。
そこから立ちのぼるエメラルドグリーンの煙。何をしたらあんな色の煙が出るのか、見当も付かない。そのせいか、雑巾でも煮込んでいるような奇妙なにおいがする。
においで頭がくらくらして、涙で視界がぼやけた。あまり風下でじっとしているのは得策ではない。
シェンティーナはその悪臭に耐えながら、妙にかわいらしい丸文字で書かれている看板と、その下に張られている張り紙だけもう一度確認した。それは、下見に来た時と変わりない。
いつ頃から張られているのかも推し量れないくらいに黄ばみ、よれよれになってもかろうじて張り付いているその紙にはこうある。
*急募*
仕事内容は販売、調合補助、材料収集、清掃等。
年齢問わず。
住み込み可。
ただし、男性のみ。
――男性のみ。
それでも、雇ってもらえなければ困る。
なるようになる、とシェンティーナは決意をして深く深呼吸する。それから、自らの人生に大きくかかわるその扉を開いた。ガランガランとドアベルが鳴り響く。
店内は、壁を囲むようにして備えてある棚に所狭しとビンが並べられていて、それらには棚ごとに風邪薬だとか化膿止めだとか書かれているけれど、本当に中身がそんなに真っ当なものなのか、定かでない。
そして、ビンには薬草だけでなく、蛇やトカゲ、蛙にサソリと、代表的なゲテモノが詰まっていたりもする。それらは、何故か侵入者を見据えるように、入り口に頭を向けていた。なのに、肝心のカウンターは無人だった。
うららかな春先だというのに、妙な寒気に襲われる。それでも、シェンティーナはなけなしの勇気を振り絞って声を張り上げた。
「ご、ごめん下さい! 張り紙を見て参りました! 雇って頂きたいのですが!」
静かすぎる店内。こだまするように響いた声に対する返答は、上からやって来た。
「上にいる。上がって来てくれ」
張り上げているわけでもなさそうなのに、不思議とよく通る声だ。
シェンティーナは暴走する心臓を押さえながら、素早く本日何度目かの深呼吸する。それから、カウンターの奥に見える階段へと向かった。何故か忍び足になる。きょろきょろと辺りを見回したけれど、雑多なだけだった。
らせん状の階段のひとつ目の節で立ち止まる。この二階の辺りから声がした。
「入って」
短く言われ、思い切って扉を開いた。
そこは、覚悟はしていたけれど、やっぱりゲテモノ小屋だった。
壁には絵の代わりに吊るされた爬虫類の干物が。机には、観賞用とは思えない毒々しい色をした花が。ポットやカップの代わりにビーカーやろ過機が。床には本の山が。
そして、悪臭の元である、火にかけられている鍋からは、煙と同じ色の液体がボコボコと煮えたぎっている。煙突から抜けてはいるものの、室内にもその煙が充満し、悪夢でも見ているかのような気分になった。
よほど追い詰められた状況でなければ、町の人たちは近寄らない店。噂とそうたがわない実態を目の当たりにし、眩暈がした。
けれど、シェンティーナは気持ちを持ち直して背筋を伸ばす。そして、時折、何が何グラムだとか、式がどうだとか、おかしな独り言をつぶやきながら未だ背を向けたままの長身の男に声をかけた。
「あの……」
ようやく振り返ったその男は、短く言う。
「採用」
「え?」
シェンティーナが呆然としていると、男はもう一度抑揚なく言った。
「だから、採用だって」
言い終えると、手にしていた小鉢に鈍色の液体を落とし、それをゴリゴリとすりながら、改めて向き直った。
肩にかかるくらいの長さの明るい髪はくせ毛なのか、寝ぐせなのか、あちこちはねている。
鼻先に乗った小さな丸眼鏡でも緩和できない冷たい顔。トレードマークの黒く長いローブ。年齢は二十代後半くらいだろうか。面と向かって顔を拝んだのは初めてだったけれど、想像していたよりもずっと若い。
これが悪評轟くこの薬剤店の主、アルテル=レッドファーンなのだろうか。
他に誰もいないのだから間違いないはずだけれど、少し意外だった。
「この部屋を見てもひるまないだけの度胸があれば十分だ」
そう、彼は言う。
皮肉なことに、長い貧乏生活のおかげだ。いろんなものが出入りする、隙間だらけの長屋で生活するうちに、ゲテモノなんて怖くなくなった。それがこんなところで役に立つとは。
そんなことを考えていた彼女を、アルテルはじっと見ている。
「少年、名前は?」
「少年?」
シェンティーナはきょとんとしてオウム返しに言った。
いくら、ほぼ男装のような格好でも、性別を間違われたことはない。張り紙に男性のみと書いたのだから、男性しか来ないという思い込みからだろうか。
ここで訂正してしまえば、放り出される。けれど、言わなかったからといって、バレずにいられるものだろうか。
シェンティーナが返答に困っていると、アルテルは嘆息する。
「早く名乗らないと適当な名前付けるぞ」
シェンティーナは慌ててしどろもどろに答える。
「あ、あの、私はシェラと申します……。どうか、よろしくお願いします」
それは愛称であって、嘘ではない。実際に、普段はその愛称で通っている。
アルテルは手にしていたすり鉢を乱雑な机の上に置き、それからシェンティーナことシェラへと近付いて行く。ビクッと肩を震わせて身構えたシェラに、アルテルは手を差し出した。
「ああ。よろしくな、シェラ」
アルテル=レッドファーンといえば、悪魔の末裔だとか、子供をさらうんだとか、黒い噂が絶えない相手だ。だから、そんな普通の対応をされると、かえってびっくりしてしまう。そうしていると、うっかり普通の人に見えてしまうから。
シェラはおずおずと手を握り返す。まさかいきなり呪われることはないだろうと心配しながら。
そっと触れたその大きな手は、マメやタコが沢山あって、硬かった。それに、薬草の染みややけどのあとも目立つ。それでも、人並みの温かさがあった。
おびえながら盗み見るように見上げたシェラに、アルテルはにっこりと微笑んでいる。その瞬間、涙がにじむくらいに安堵した。
噂なんてあてにならないのかも知れない。シェラが僅かな希望を持ったのと同時に、アルテルの手がシェラの右腕をがっちりとつかんだ。
「!」
とって食われる、と声もなく怯えたシェラだったけれど、アルテルはのん気な声を上げた。
「うわ、ほっそい腕。お前、ちゃんと食ってたのか?」
「で、でも、力仕事だってなんとかなりますから!」
振り解こうとするけれど、強くつかんでいる風でもないのに、アルテルの手はびくともしなかった。
「ふぅん。ま、筋肉なんてこれから付ければいいしな。けど、この細腕にその女顔と来たら、頻繁に女と間違われてるんだろ?」
間違っているのはそっちだというわけにも行かず、シェラは曖昧に笑ってごまかす。
「俺だって、普通に見かけただけなら勘違いしただろうけど、お前は見かけよりも肝が据わってるし、芯は男だよな」
それは、フォローしているつもりなのだろうか。
この男、世間知らずなシェラと同じくらいに世間知らずなのかも知れない。こんなところで妙な薬ばっかり作っているから、女の人はゲテモノが苦手だという、一般的な情報を鵜呑みにして、疑っていない。それに当てはまらないものは、すなわち男。そういう短絡思考の結果らしい。
もしかして、馬鹿なんじゃないだろうか。
ちょっとだけそう思ってしまった。
シェラは、アルテルに連れられるままに階段を上って行く。そこは物置のようだった。どこもかしこもものが散乱していて、雪のようにうっすらとほこりをかぶっている。汚れたカーテンは引かれたままになっていて、もう何年も掃除をした痕跡がない。そういう場所だった。
「ここ、ごちゃごちゃしてるけど、うまく片付ければお前が寝るくらいのスペースは出来ると思うぞ」
無茶を言う。足の踏み場だってないのに。
シェラが困惑していると、アルテルはうーんとうなった。
「無理か? 無理なら俺の部屋でもいいけど」
「大丈夫です! ここで十分です!」
とんでもないとばかりにシェラは懸命にかぶりを振った。そんな様子を見て、アルテルは笑う。
「じゃあ、俺は下で調合してるから、終わったら呼んでくれ」
そうして、アルテルは掃除用具一式を残して去って行った。タンタンタンと足音が遠のいて行くと、シェラは脱力して、ほこりだらけの床の上にへたり込んだ。
潜入には成功した。とはいえ、まだまだこれからが本番なのだから、気を緩めるのは早い。それでも、少しだけ息がつけた。
しばらくここに泊り込むのは不安だが、通うとなると夜には獣も出るし、危険すぎる。――ここも危険に変わりはないけれど。
考えれば考えるほど気が滅入るので、とにかくこの最悪な部屋を片付けることにした。
窓を開け、ほこりを払い、荷物にかけられていた布を外してみると、それは平積みにされた本の山だった。これをきれいに並べるだけで、かなりすっきりする。
シェラはほこりにまみれながらせっせと片付けるが、もともと要領はよくないので、たっぷり三時間もかかってしまった。
見違えるような部屋になったけれど、さすがに時間をかけすぎた。アルテルは痺れを切らしてイライラしているかも知れない。そう考えてゾッとした。
けれど、実際はというと。
「お、終わりました」
びくびくしながら声をかけると、アルテルはようやくシェラの存在を思い出したかのようで、
「あ、そっか。そりゃご苦労さん。ちょっと待ってろ」
と、またしばらく大混雑の手元で細かい作業をし、それからやっと動いた。調合をしている部屋の隣の扉、多分寝室らしき部屋へと入って行く。
シェラはその中が見たくてたまらなかった。そこで寝泊りはしたくないけれど。
きっと、あそこにシェラの探すものがある。そんな予感がした。
アルテルはすぐに出て来た。折りたたんであるマットと毛布を抱えている。
「当座はこれで我慢してくれるか?」
「十分です。ありがとうございます」
シェラはぺこりと頭を下げる。我慢どころか、いつも使っている自分のぼろよりも上等だ。
アルテルはそのままマットと毛布を運んでくれた。そして、シェラの掃除をした部屋を見て、
「床、こんな色だったんだな」
などとつぶやいている。それから不意ににっこりと笑った。
「きれいに片付いてるし、シェラの仕事は丁寧だな」
人懐っこい笑顔。最初に感じた冷たさはそこにはない。むしろ、こんな風に無邪気に笑う大人をあまり知らない。だから、戸惑ってしまう。暗い噂ばかりのこの人にふさわしいものではないから。
アルテルはマットを下ろすと、今度はじっとシェラを見た。
「な、なんでしょうか?」
いろいろとやましいことがあるので、どきりとする。けれど、アルテルは平然と言った。
「シェラ、お前、ほこりまみれだな。風呂は裏手にあるし、好きに使っていいから、沸かして入って来いよ」
「う……え、っと……」
滝のような冷や汗を流すシェラの様子に気付かず、アルテルはその肩を軽く叩いた。
「上がったらまた二階に来いよ」
そうしてまた、アルテルはさっさと下りて行った。また調合に没頭するのだろう。結構自由な人だ。
シェラは自分の小さな荷物の中から、ほとんどない着替えを取り出して、階段を駆け下りた。こうなったら、大急ぎで終えてしまおう。
店を出た裏手に、言われた通りの小屋があった。小さく簡素なその小屋の中に入ってみる。脱衣スペースもあり、石鹸や桶、タオルといった最低限のものはそろっていた。それに、鍵が付いているのでほっとしたけれど、少しかび臭い。ここも掃除が必要だと改めて感じた。
一度外へ出て井戸から必死で水を汲み取り、息を切らしながら風呂桶に流す。今度は裏に回って薪を足して火を入れた。
多少ぬるくてもなんでもいい。大急ぎで体と髪を洗い、ぬれた髪のままで二階に戻ると、絶えずしていたあの異臭が薄れ、代わりに何かいいにおいがした。食べ物のにおいだ。
「髪、きちんと拭かないと風邪ひくぞ?」
アルテルは火元の前に立ち、鍋の中身をかき混ぜている。
「あ、はい」
シェラは肩にかけていたタオルで長い髪を再び拭いていたが、意識はアルテルの方に向けている。そんなシェラの様子を眺めながら、アルテルは微笑む。
「よし、じゃあ飯にしよう」
鍋の中身はシチューのようだ。薬も食事も同じところで作るらしい。
そこでふと気になった。
「あの、そういう支度をするのは私の役目ではないのでしょうか?」
アルテルは曖昧に、うんとうなずく。
「今後は作ってもらうこともあるだろうけど、初日からそんなに色々しなくてもいいぞ。緊張して疲れてるだろ」
普通、単なる下働きにこんな扱いをするものだろうか。何かを企んでいるなんてこともあり得る。その言葉の裏を探ろうとしてアルテルを見やると、笑顔で返された。
噂を何も知らず、ただ普通に出会ったなら、優しい人だと思っただろう。けれど、まだ演技だとも限らない。この人の本質が、シェラにはわからなかった。
けれど、今日見たもの、触れたものが真実であってほしいと思い、願った。
そんなシェラの心のうちを知らないまま、アルテルは二人分のシチューを持って困っていた。
「二人となると狭いな。ちょっと机の上を片付けてくれるか?」
「は、はい」
シェラは言われた通りに机の上のものをそっと退かし、きれいに拭いた。アルテルはそこにシチューの入った木皿を置く。ひとつしかない椅子をシェラに譲ると、自分はその辺にあった箱をひっくり返して座る。
そうしてアルテルの料理を恐る恐る口にしてみると、意外にもおいしかった。シェラが自分で作るよりもずっとおいしいと思う。それに、一般的な食材しか使われていないことに安堵した。
「おいしいです」
素直に答えると、アルテルは苦笑する。
「一人暮らしが長いからな」
では何故、人を雇う必要があるのだろう。この人は一人で何でもできる。
そう考えて、はたと気付く。
「あの、明日はこの部屋の掃除をしましょうか?」
「ああ、頼むよ」
ただ、掃除は苦手らしい。
※※※
アルテルの用意してくれた寝床は、めったに使っていなかったと思われる湿気臭さを除けば、案外寝心地がよかった。そのマットの上でシェラは起床する。
あのアルテル=レッドファーンの家に泊り込んでしっかり寝付けるなんて、自分も図太くなったものだと思ったが、やはり疲れていたのだ。
今日は二階の部屋を掃除して、それから何をしようかと考えつつ着替えを済ませる。そろりと二階へ下りてみると、そこにアルテルの姿はなかった。遅くまで起きていたようなので、まだ寝ているのだろう。
――今なら探し物ができるかも知れない。
ふと思ったけれど、いつ目を覚ますかもわからないのだから、油断してはいけない。失敗しては元も子もないのだから、慎重にならなければ。
ただ、少し焦りがある。悠長にしていて手遅れにならないかと。
手遅れ。
考えただけで苦しくなる。それだけは嫌だ。
そうならないために、上手くやらなければならない。こんなところでうつむいている場合ではないのだ。
シェラはかぶりを振って自分を叱咤した。
そして、しばらく待ってみたものの、アルテルが起きる気配はない。困ってうろうろしていたけれど、いつまでもそんなことはしていられない。シェラは思い切ってアルテルの寝室のドアを叩いた。
「あの、先生、おはようございます」
アルテルをなんと呼ぶべきか迷ったが、仮にも薬師なのだから『先生』と呼ぶことにした。
控えめな声だったせいか、返事がない。再度強めにノックしてみると、今度は僅かな物音がした。それからしばらくして、ようやく隙間程度に扉が開いた。
「お、おはようございます」
きっと、頭の中はまだ寝ているなと思った。
立ってはいるけれど、まだ寝ている。眼鏡のない虚ろな目は遠くを見ているし、頭はぼさぼさだし。しかも、服装は昨日のままだ。言ってはなんだけれど、かなりだらしない。
寝室の中を見たくとも扉は少ししか開いていないし、この障害物は背が高すぎる。結局ほとんど見えなくて、仕方なく断念する。
「あの、お仕事を頂けますか?」
シェラが見上げながら言うと、アルテルは、んー、と物憂げに唸った。その反応が怖い。
「飯、その辺の食べて。掃除、頼む」
それだけをやっと言って、また扉を閉めた。
ごちゃ、と散乱したこの部屋の中の何を食べろというのだろう。手を付ける勇気がなかったので、シェラは掃除を優先する。
まず、床に散らばっている本を回収した。すると、床には変色した嫌な粘着がいくつもあった。部屋を改めて眺めてみると、レンガで組んである火元も吹きこぼれが盛り上がり、真っ黒な焦げになってこびり付いている。
シェラは少しため息をつくと、気を取り直して掃除を始めた。
気が滅入ったのは最初だけで、始めてみれば没頭した。磨けば磨くほどに変わって行く部屋の様子が嬉しくもある。
昨日のことを思い出し、目が覚めて部屋がきれいになっていたらおどろくかなと思った。
やっと終わった頃にはもうすっかり日が高くなっていた。
ふらふらとした足取りでようやく部屋から出て来たアルテルは、その部屋の変貌のおかげで目が覚めたらしい。
「ここ、どこかと思った……」
目をこするアルテルに、シェラは少し得意げな気分だった。
「苦労しました」
干された爬虫類は棚の横などの死角に吊るし、本は本棚に戻し、床も壁も丹念に磨いた。最初に見て驚いたほどの怪しさはかなり薄れたように思う。
そうして、シェラは換気のために開け放ってある、窓辺のカーテンを引っ張った。
「これ、いつから使っているんですか? かなり退色してますよね」
「替えたことないな」
きっと、洗ったこともないのだろう。シェラは嘆息した。
「どうせならもっと明るくてきれいな色にされたらいかがですか? そうした方が、お客さんも入りやす――」
灰色っぽい薄汚れたカーテンを握り締め、シェラは我に返ってしまった。一体、何を得意げにべらべら喋っているのだろう。うるさくして気に障ったら、と慌てて弁解する。
「わゎ、ご、ごめんなさい。余計なことを……」
きょとんとした表情をした後、アルテルは苦笑した。
「余計とは思わないけど? いいんじゃないか」
そんなアルテルの言葉にも、シェラは体の緊張を解けなかった。それをむしろ気遣ってくれる。
「シェラ、もっと楽にしたらいい。疲れるだろ? ……まあ、仕方ないのか」
なんと返したらわからなかった。それでも、アルテルは微笑む。
「飯、まだだろ? 一緒に食おう。手、洗って来いよ」
「あ、ありがとうございます」
うまく打ち解けられないのは、恐ろしさばかりではなく、疚しい気持ちが強いからだ。ただ、それに対して、申し訳ない気持ちも確かにあった。
そうして、すでに朝食とは呼べないブランチを済ませた。アルテルはシェラに茶葉の在り処や店の開け閉めなど、基本的なことを教えると、また調合に没頭した。
店を開けたはいいが、客など来そうもない。シェラはとりあえず店内も掃除することにした。
けれど、シェラの予想に反し、来客を告げるベルがガランゴロンと荒っぽく鳴り響く。
「い、いらっしゃいませ」
拭いていた床から慌てて頭を上げると、入り口に立っていたのは子供だった。三人の男の子だ。
先頭の一人はつり目がちで、短い髪がとげのようだ。とても腕白そうな印象を受ける。
その左後ろが、好奇心に満ちた緑色の目の下にほくろのある、やや背の高い男の子。
その右隣は、気が弱そうで中性的な雰囲気のする子だった。
三人とも六、七歳といったところだろう。
彼らは驚いた視線をいっせいにシェラに向けている。それから騒ぎ出した。
「うわ、アルテル以外の人間がいる!」
「しかも女だぞ!」
「もしかして、アルテルのお嫁さん?」
「バカ、あんな変人のところに嫁なんか来るか。使用人だろ、使用人」
「え? 雇うお金なんてあると思う?」
「それもそうだな」
ひどい言い草だ。この遠慮のない子供たちの賑やかな声が聞こえたのか、アルテルが店へと下りて来た。
「やっぱりお前らか。この頃よく来るな」
苦笑するアルテルに、つり目の男の子がにやりと笑って返す。
「いいだろ、別に。なあ、フォーレン、クーディ?」
緑色の眼をした子がフォーレン、おとなしそうな子がクーディというらしい。二人はこくこくとうなずく。
「うん。様子を見に行かないと、アルテルって変な薬まみれで倒れてそうだし」
「でも、今のところ大丈夫そうだね」
思い思いのことを言うけれど、アルテルは気分を害した風でもなく、ただ笑っている。
怪しげな薬師と子供たち。それはとてもそぐわない組み合わせだった。
シェラが戸惑っていると、話は彼女に絡む。
「なあ、アルテル、こいつ誰?」
指をさされてどきりとした。
「ノイド、人を指さすな。それに、こいつじゃないだろ。このお兄さんだろ。相変わらず口の悪いやつだな。ちなみに、シェラといって、昨日からうちで働いてくれてるんだ」
ノイドと呼ばれたつり目の少年は、大げさなくらいに大きな声を出す。
「うっそだぁ。こんな男いないって。どっからどう見ても女だろ」
「だよねー。アルテルがまたぼけてるよ」
「こんなに美人なのにね」
視線がシェラに刺さる。アルテルは困った表情をして、片手で悪いと詫びる。
「子供の言うことだから、大目に見てやってくれるか?」
「はぁ……」
大目にというか、子供の方がよっぽどマトモな目をしている。けれど、あえてそれには触れない。
「それよりも、このお子さんたちは?」
その疑問に答えてくれたのは、ノイドだった。
「友達だ、友達。つーかな、最初は、魔術の研究をしてるとか、変な噂されてたアルテルの店に肝試しに来たんだ」
「そうそう。窓からのぞいただけで、クーディなんかすっげぇびびってたよな」
フォーレンにからかわれ、クーディは顔を赤らめた。
「だ、だって、ここのトカゲとかヘビとか、こっちを見てるから……」
その気持ちはよくわかる。
「うん、そう見えるよね」
シェラが同調すると、クーディは嬉しそうだった。
「やっぱりそうだよね?」
「うん」
えへへ、とクーディは照れ笑う。そして、ノイドはこの世に怖いものなんてないとばかりの勝気な声で続けた。
「それでさ、そーっと入ってみたら、怪しいやつがやっぱ怪しげな薬作ってたんだ。のぞき見してたんだけど、フォーレンがくしゃみして見つかってさ、慌てて逃げようとしたら、アルテルはおもしろそーにニヤニヤして、茶でも飲んで行くかとか普通に言って来たんだ」
「噂ってあてにならないんだ。魔法使いの正体は、単なる変わり者だったもん」
シェラになついた様子のクーディは、シェラの服の端を軽く引っ張る。シェラが身をかがめると、クーディは耳打ちした。
「あのね、アルテルは変わってるけど、すっごくいい人なんだよ。だから、助けてあげてね」
「うん……」
そうなんだろう。この人は、優しい人なんだろう。一日一緒にいただけでそれは感じ取れた。噂のような非道さはどこにもない。
けれど。
この人が悪いのではない。では、何が悪いのかというのなら、職種とでもいうしかない。悪意など持ち合わせていないのに、それでも害がある。
「シェラ、こいつらに茶をいれてやってくれるか?」
アルテルの声で我に返った。慌てて返事をする。
「は、はい」
それを聞くと、アルテルは子供たちに向き直る。
「ほら、上がれよ。シェラが掃除してくれたから、見違えるくらいにきれいだぞ。……しばらくは」
「そりゃあいいな。アルテルの部屋って、いつも臭くて汚いから、かあちゃんにどこで遊んでたのってうるさく訊かれるし」
やっぱりこの子たちの親は、ここに子供たちが出入りしていることをよくは思わないだろう。それを理解していても、この子達は内緒でここにやって来る。嘘や秘密を持つことはいけないとわかっていても、ここに来ること自体を間違っているとは思いたくないのだろう。
多少の罪悪感はあっても、ここへ来るだけの価値があると彼らは考えているようだ。
アルテルは先に階段を上がって行く。フォーレンとクーディもそれに続いた。
「クーディ、グレンシーの怪我の具合はどうだ?」
「うん、アルテルの薬がよく効いたみたいだよ。食欲もあるし、大丈夫だと思う」
「そうそう、おばさんもすごく世話焼いてるし、結構いい生活だよ。三食昼寝付きでさ」
シェラの知らない人の話題に触れながら、並んで二階に向かう彼らには続かず、何故だかノイドはシェラの隣に残った。
「えっと、ノイド君も行こうか?」
「うん」
素直にうなずいたノイドは、シェラが背を向けた瞬間、その尻をバシンと叩く。
「!」
そして、その手の感触を確かめるように眺めながら、
「ぜってぇ女だよなぁ」
とつぶやいている。
シェラは疲れを感じてため息をもらしつつも、そのまま一緒に上に向かった。
それから、ハーブティーとクッキーを振る舞いつつ談笑した後、シェラとアルテルは三人を見送った。
「元気ですね」
「そうだな。いつもああだし」
何度も振り返る三人に、アルテルはまだ手を振っていた。そんな彼をそっと見上げる。
「先生は子供がお好きなんですね」
「意外だって?」
「え? い、いえ、そんなことは……っ」
アルテルはクスクスと笑っている。
「シェラは正直だな」
ポン、と軽く肩を叩かれる。アルテルはそのまま中に戻った。
触れられた肩が、自分のものではないように感覚が狂う。
※※※
そして、潜入三日目。未だに収穫はない。
その日もアルテルは普通に朝食を済ませると、またすぐに調合を始めていた。シェラは雑用を片付けて行く。
朝食の片付けが終わると、今度はアルテルの洗濯物が詰まったかごを受け取った。日が高いうちに干してしまいたい。
シェラが近くを行き来しても、アルテルはまるで気にせずに没頭している。一日の大半はこんなものだ。
何かの薬草をすり鉢ですり潰している。その隣では卓上ランプで加熱された毒々しい赤褐色の液体が、フラスコの中でボコボコと沸いている。
よく効くのかもしれないが、絶対においしくない。ああいうものを飲まなくても済むのだから、健康ってすばらしいとシェラはしみじみ思う。
洗濯かごを抱えたままそんなことを考えていると、ふと気付く。毒々しい液体入りのフラスコが三脚の中心からずれて縁に寄っているのに、アルテルは作業に必死で気付いていない。倒れたら大やけどをしてしまう、とシェラは慌てて声をかけた。
「先生!」
「ん?」
と、アルテルは手を止めて顔を上げたが、その瞬間にフラスコは傾いた。
「危ない!」
シェラは思わず洗濯物を放り出して叫んだ。しかし、アルテルは避けるどころか倒れかかったフラスコの管を素手でキャッチしたのである。
あまりのことにシェラが唖然としていても、アルテルは安堵のため息と共にとつぶやいただけだった。
「間一髪。危なかったな……」
シェラは体が震えた。それが何故なのか、考えるよりも先にアルテルに駆け寄っていた。
「大丈夫ですか!」
うろたえるシェラに、アルテルはどこか誇らしげである。
「ちょっとだけこぼれたけど、大体は無事だ」
そこで、何かが吹き飛んだ。
この人、絶対に変だ。
「誰がそんなことを訊いてますか! 薬じゃありません! 手ですよ、手! それ、早く放して下さい!」
「え? ああ」
シェラの剣幕に驚きながら、アルテルは言われた通りにした。その手をシェラは引っ張る。よく見るまでもなく、特に薬をかぶった箇所は赤く腫れていた。
「早く冷やさないと!」
アルテルの腕をつかんだまま、シェラは階段を駆け下りる。そして、井戸の水を滑車でせっせと汲み上げて桶に移すと、自分の手ごとアルテルの手をその中に突っ込んだ。
捕まえていないと、さっさと引き上げてしまいそうだった。そのまましばらくそうしていると、シェラの上がった息遣いだけがする。アルテルはとりあえず黙って従っていたが、シェラは言わずにはいられなかった。
「まったく、手より薬の方が大事なんて、どうかしてます。手が不自由になったら、薬だって作れないんですよ?」
「大丈夫。やけどに効く薬も作ってあるから」
何気なく言ったアルテルを、シェラはにらんだ。
「ご自分で使ってどうするんですか。本末転倒もいいところです」
「そう、だな。今後は気を付ける」
「とか言って、いざとなったらまたやるんでしょう? 先生って、どうしてそうなんですか」
ぶつぶつと小言を言うシェラを見ていたら、笑いがこみ上げて来たらしく、アルテルは吹き出した。
「お前、おもしろいな」
シェラは意味がわからずにきょとんとしてしまったが、また怒りが込み上げた。
「面白くなんかありません! 私は普通です! 変なのは先生です!」
「まあ、それに関しては否定しないけど。お前もおもしろいよ。緊張してかしこまってるより、そっちの方がよっぽどおもしろい」
そうしていつまでも笑うから、シェラは少々ムッとした。しかし、その後でアルテルが謝ってきたのでシェラは本気で怒ったりはしなかった。
その後、シェラはアルテル自慢の薬草畑に連れて行かれた。そこは店から歩いてすぐの近場にある森の中で、一人で手入れをしていた割には広く、行き届いていた。細かく仕切り、プレートをつけて管理してある。部屋の中は乱雑なくせに、こんなところは几帳面だ。
「ここに店を構えている理由がそもそも、ここの土壌が薬草に適しているからなんだ。すぐ採ってすぐ使える。都じゃこうは行かないからな」
などと嬉しそうに語る。そうしてかがむと、包帯を巻いた手で葉の状態を確かめるようにして触れている。その表情がとても柔らかい。
「本当に大事なものなんですね」
なんとなく思ったままを口にすると、アルテルは立ち上がって笑った。
「ああ。これがなければ、俺は何もできないからな」
まるで恋人のことを語るように、しっとりと熱っぽい口調なのだから、本当にどうしようもない。
「俺の薬の製法はトーリエル式っていってな、原材料の種類も多くて手間もかかるから、廃れかかってる製法なんだ。おかげで周囲の理解はないが、これは効果が高くて副作用の少ない薬が出来る。もっと見直されて研究者が増えるといいんだけどなぁ」
どこまでも熱心で、シェラは思わず笑みをこぼす。
こんな風に人を救う薬を作ることを第一に考えている。けれど、その姿勢は人に理解されない。
シェラはもやもやした感情を自分の中に感じた。
当のアルテルは持参した道具を広げ、さっさと作業を始める。
「シェラ、この布をここに張ってくれるか? この草はある程度育ったら遮光してやらないと、必要な成分が減ってしまうんだ」
「わかりました。私がやりますから、先生はあまり手を使わないで下さい」
「はいはい」
アルテルは苦笑しながら包帯の巻かれた手を振る。
シェラは指示通りに黒い布を受け取ると、作業に取りかかる。あまり上手くもないが、教えられた通りに柵に布をくくり付けて行く。そんな作業を進めながら、シェラは考え事をしていた。
町にはびこる、アルテルの邪悪な噂を払拭するためにはどうしたらいいのだろうかと。
最初に触れた、あの傷だらけの手こそが真実なのだ。
シェラにはこんなにも打ち込めるものはない。
この一生懸命な人が、どうして心無い噂の的にされなければならないのだろう。そう思うと、やるせなかった。
※※※
そんなわけで、シェラが悪評轟くアルテル=レッドファーンの店に働きに来て、早五日が経とうとしていた。
最近は当初の目的を達成できない自分に焦りを感じていたけれど、今はアルテルのために働くことが楽しくなりつつあった。薬作り以外のことにはまるで無頓着なアルテルの世話を焼くのは、長く独りでいたシェラには充実した日々に思えた。
「先生。先生はいつも同じような黒い服ばかりですけど、他の服はお持ちではないのですか?」
「ん? 他にもあるけど?」
「じゃあ、着替えて下さい」
「なんで?」
「いいから、着替えて下さい!」
日に日に口うるさくなっている。それさえもアルテルは笑顔で受け止めてくれていた。
今まで、誰かに対して小言など言ったこともないのに、アルテルが相手だと自然と感情をぶつけてしまうから不思議だ。
打ち解けてどうすると思わなくはない。ずっとここにいられるわけではない。
それでも――。
「わかったけど、買い物くらいでいちいち……」
「汚れが目立たないからって、そんなおどろおどろしい格好で出歩くから、あんな噂を――!」
力いっぱい言いかけて、シェラは固まってしまった。巷でささやかれている噂を、自分の口からこの人の耳に入れたくなかった。もう十分、知っているはずなのに。
「な、なんでもないです。それより、急ぎましょう」
「着替えなきゃすぐ――」
「つべこべ言わないで下さい」
アルテルは反論を諦めて部屋に引っ込んだ。長身の背中が情けなくて、シェラは少し笑ってしまった。こんな他愛のない会話が楽しかった。
あのアルテル=レッドファーンを相手に、こんな口が利けるようになるとは思わなかったけれど。
そうして町に出てみれば、やっぱりアルテルは白い目で見られることはなかった。シェラの読み通り、何の変哲もない白いシャツとこげ茶色のパンツという出で立ちは、黒魔術だとか悪魔的な研究がどうだとかの噂とは結び付かないようだ。誰も彼がアルテル=レッドファーンだとは気付かない。
むしろ、すらりとした好青年に映る。シェラはそれを喜んでいたけれど、当の本人は平然としていた。
今日、わざわざ商店街まで足を運んだのは、以前言っていたカーテンを選ぶためだ。
シェラは賑やかな通りの店先に並べられていた布地をひとつ手に取る。
「先生、これなんかどうですか?」
黄色のチェック柄の布をアルテルに広げて見せた。
「ん、じゃあそれでいい」
アルテルは微塵も興味がないらしく、そっけない。シェラは嘆息した。
「もっと真剣に選んで下さい。ご自分の家なんですから」
「どれが合うとかよくわからないし、シェラが気に入ったならそれでいい。任せるから」
任せると言われると、黙るしかない。むしろ、ちょっと嬉しい。
「わかりました。私がちゃんと仕上げます」
「頼むな」
結局、その笑顔には敵わない。
アルテルの正体に気付かなかった店主は笑顔で対応してくれた。二人はその店を離れ、後は食材を選びに向かう。
シェラは布地を大事に抱え、人ごみの中を先に行くアルテルに追い付こうとした。男だと誤解されたままなので、荷物を持ってくれるでもなく、歩調を合わせてくれるでもない。
長身で歩幅の広いアルテルとはぐれないように、シェラは必死だった。そのせいで周りが見えていなかった。すれ違った人とぶつかって、初めてそれに気付く。
「あ、ごめんなさい!」
振り向きざまに謝った。けれど、頭を下げて持ち上げた瞬間、思わず固まってしまった。
四十路をいくつか過ぎたふくよかな女性。彼女は細く釣り上がった目でシェラを一瞥すると、ぶつかった肩口を払った。
「フン、相変わらず小汚い格好だねぇ」
ほんの数日前まで勤めていた印刷工房の夫人だった。勤めていた時期は僅かだったけれど、どうも気に入られなかったらしく、何かと叱られてばかりだった。つまり、苦手な人物である。
気まずいだけの空気に囚われ、周囲の騒々しさもどこか遠くに感じる。これだけ沢山の人が行き来している往来で、急に今まで感じたことのないような孤独を覚えた。
独りでいることを、初めて怖いと思った。
「お久し振りです……」
実際は、さほど久しくもない。馬鹿なことを言ってしまったと後悔してうつむくと、彼女はそのまま立ち去るでもなく、上から下へとシェラを値踏みするように見やった。
「次の職場はもう決まったのかい?」
「は、はい」
少し声が震えた。そんなシェラの様子を嘲笑うかのように、夫人は口の端を吊り上げた。
「ハッ、どうせマトモなトコじゃないんだろ。あんたみたいに役に立たないの、普通のトコじゃ使えないからね」
そう言われて反論できないのは、やっぱり自分でも要領が悪いという自覚があるせいだ。
「まあ、もううちは関わりないし、あんたがどこでどうしてようと構わないんだけど」
永遠に続くかに思われた苦痛が、不意に途切れる。頭上から低い声が降った。
「こいつはよくやってくれてるよ」
シェラが恐る恐る見上げると、アルテルは微笑んだ。
「振り向いたらいないし、戻って来てみれば、何やってるんだか」
「ごめんなさい。ついて行こうとしたんですけど、私は先生よりも歩くのが遅くて……」
「それなら呼び止めればいいのに。変なところで遠慮するなよ」
突然やって来て自分を無視している男を夫人はにらみ付け、それからもう一度嘲笑を浮かべた。
「なるほどね。一人じゃ何もできないから、結局男に囲われてるってわけだ」
その歪んだ悪意を目の当たりにし、シェラは胃が締め付けられるような痛みを感じた。
アルテルは顔をしかめる。
「人聞きの悪いこと言うなよ。雇ってるだけだ」
シェラは、人からこんなにも悪しざまに言われてしまう自分が情けなかった。一人前であれば、こんなことは言われなかったのに。その至らなさが恥ずかしくなって、またうつむいてしまう。
すると、アルテルはそんなシェラの頭に手を載せた。それから、夫人に向かって呆れたような、うんざりしたような声を出す。
「こいつに用なんてないんだろうし、もういいだろ。まだ何か言い足りないのなら、店まで来ればいいから」
「は? 店ェ?」
「そ。森の近くの薬屋だ」
そのひと言で、ようやく夫人は彼の正体に気付いた。思わず指をさしている。
「あ、あんた、レ、レッド――っ」
「アルテル=レッドファーン」
アルテルがそう名乗り終えるのを待たず、婦人は振り返ることなく駆け去った。きっと、お払いにでも行ったのだろうな、とシェラは思った。
「重そうな体の割には速いな。……さて、行くぞ」
シェラを見下ろすアルテルに、彼女はなんと言っていいのかわからなかった。それが顔に出ていたのだろう。アルテルは小さく嘆息する。
「別に、お前がそんなに情けない顔しなきゃいけないことじゃないだろ。人は善い、悪いじゃない。合うか合わないかだ。あの人とお前が合わなかったからって、どちらかが悪いと思う必要はない」
「……はい」
「よし」
アルテルはあっさりと言う。けれど、アルテルほどに人から悪しざまに言われている人もそういない。あんな風に、化け物扱いに近い反応をされても平然としている。この人は、ものすごく強い人だ。信念をしっかり持っていれば、誹謗中傷で揺らぐこともないのか。
その強さを素直にすごいと思った。だから、シェラは自然と笑顔に戻れた。アルテルも穏やかな笑顔で返す。
「余計なことは考えないで、そうやって笑ってろ」
笑顔を取り戻せたのは、飾り気のないその優しさのおかげだ。
気付けば、この人に出会えてよかったと感じている。
何の値打ちもない自分に価値を見出してくれる。それがどんなに嬉しいか、アルテルは気付いていないのかも知れないけれど。
ただ、温かな気持ちに満たされた途端、不意に差し込む冷たさに、シェラは身を強張らせる。
アルテルのそばにいる理由を忘れてはいけない。早く手を打たなければならないのだから。
上手くことが運べば、もしかするとこんなに複雑な気持ちを抱えず、ただ普通にアルテルのそばで働くことができるかも知れない。隠しごとはつらい。
けれど、その解決策が見出せない。いっそ、すべてアルテルに話してしまうべきなのだろうか。
ひと言、助けて下さいと言いさえすればいい。ただし、それを受け入れてもらえなかった場合、どうすればいいのかわからないから話すのは怖い。秘密裏に済ませたいと思うのは身勝手だけれど。
「シェラ?」
アルテルの声で我に返る。
「え? あ、すみません。ぼうっとしてしいました」
無理に笑ってその場をしのぐ。やっぱり、情けないことに、心構えがまだない。
ごめんね。でも、必ず助けるから――。
※※※
その晩のこと。
外はすっかり暗くなり、フクロウの鳴き声が響く。
シェラが遅くなった夕食の片付けをしていると、アルテルが突然声を上げた。
「あ」
「な、なんですか?」
手元の薬草を天秤で量っていたようだが、分銅を皿から外した。
「シギスが足りると思ったら足りない」
シギスというのは、今アルテルが手にしている先端が紫色をした薬草のことだろう。
「それと同じものを採って来たらいいんですか?」
そう切り出したシェラに、アルテルはかぶりを振る。
「今日はもう暗いから危ないし、俺が自分で行って来る」
明日にすると言わないところがアルテルらしい。そうして、明かりと獣よけの薬を持ってさっさと行ってしまった。
シェラは片付けを再開しようとして、ハッと気付く。今がまたとない好機だと。
じりじりと胸が痛む。覚悟ができない。
けれど、猶予はない。今を逃せば、もう二度とないかも知れない。
アルテルが戻る前に見付けてしまえば大丈夫。シェラは必死で自分にそう言い聞かせる。
テーブルの上に置かれていたカンテラを持つ手が震えた。
アルテルの信用を失うのはどうしても嫌だと思うのに、やらないわけには行かない。
当たり前のはずの仕事をほめてくれて、いつも優しい笑顔を向けてくれる。こそばゆいような嬉しさがあった。この人の役に立ちたいと、今だって思っている。
けれど、今、迷ってはいけない。
迷ったら、救えないから。
シェラは意を決し、アルテルの寝室のドアに手をかける。
鍵はかかっておらず、簡単に開く。中は真っ暗だった。カンテラをそっと差し込むけれど、雑然とした部屋の中を照らしてもよくわからなかった。
痛むほどに高鳴る心臓を押さえ、中へと踏み込む。壁伝いに進むと、思わず独り言がもれた。
「どこなの……?」
目的に遭遇する前に、シェラは積み上げられていた本に足を取られた。
「!」
倒れそうになったけれど、とっさに重心を傾け、壁に体当たりするような格好で耐えた。ぶつけた肩がじぃんと痛む。けれど、カンテラを落とさないで済んでほっとした。こんなに本だらけの場所、すぐに燃えてしまうから。
シェラはこの時必死で、すぐそばに人が立っていることに気付いていなかった。気付いた時には、闇に溶け込むような黒い服の薬師が、表情もなく自分を見据えていることに愕然とした。
「せ、先生――」
アルテルの眼鏡がカンテラの光を受けて光り、表情を消している。
「外から見たら、おかしなところから明かりがもれてた。気になって戻って来たんだ」
大きくため息をつくと、へたり込んでいるシェラに近付き、目線を彼女と同じ高さに落とした。
「何を探している?」
そこに笑顔はない。最初に受けた印象そのままの冷たい顔。親しみはもう消えていた。
上手く声が出ない。それでも、何か言わなければ。
「あ、あの……」
けれど、声は裏返って続かなかった。アルテルはそんなシェラの手からカンテラをもぎ取ると、それを机の上に載せた。そして、つぶやく。
「こんなところに働きに来るくらいだ。何かわけありだろうとは思ってたけど、まさかこういうこととはな。お前のことは気に入っていたから、残念だ」
その言葉に、胸がずきりと痛む。そして、すぐに次の衝撃がやって来た。
アルテルはシェラの首に手を添える。いつもとは違う、その冷たさに、シェラはぎくりと身を強張らせた。
シェラの細い首を片手で包んでしまう、大きな傷だらけの手。
「薬の配合でも盗みに来たのか? それとも毒か?」
力はこもっていない。けれど、かぶりを振ることもできないほどにシェラは固まっていた。アルテルの声が段々と冷えて行く。
「薬師ってのは、秘密にしておきたいことが多くてな。それを守るためには毒も扱う。……けど、盗人がこんなに華奢な首をしてるなら、毒なんていらないよな」
すごく、優しく接してくれていた。けれど、目の前にいるこの人は、怒りに震えている。
だからもう、駄目だ。何を言っても遅いのだろう。
死ぬのかな。そう思ったら、涙があふれて来た。自分が死んで泣く人間なんて、一握りもいないのに。
ぼろぼろと泣き出したシェラの涙が、アルテルの手に落ちて行く。アルテルはそっと手をどけた。
「……嘘だ。そこまでしない」
呆然としているシェラを直視せず、アルテルは言い放つ。
「明日の朝には出て行け」
心臓がつかみ出されるように痛んだのは、言われた言葉のせいばかりではなかった。垣間見えたアルテルの横顔が、傷付いた風に見えた。
「あの、私――っ」
自分でも何を言おうとしたのかわからない。けれど、とっさに口を開いていた。言い訳をしたかったのか、謝りたかったのか。
ただ、それは先を紡ぎ出せずに消えるしかなかった。
「いい。聴きたくない」
振り返らずに発せられた言葉が、最後のひと言になった。
――その晩、シェラは壁際でひざを抱えながら夜明けを待った。とても眠れたものではなかった。
あんなに優しくしてもらったのに、傷付けてしまった。それも、空回りしただけで目的も果たせなかった。
あの時、アルテルが拾ったと思ったのに、違ったのだろうか。黒いローブが印象的で、勝手に彼だと思い込んでいたけれど、顔を見たわけではなかった。今更になって自信が持てない。
もし、手遅れですでにアルテルが処理してしまったのだとしても、アルテルを恨む気持ちにはなれなかった。とても苦しいし、悲しいけれど、恨んだりはできない。
アルテルは、おかしな噂の的である自分のところへシェラが働きに来てくれたことを、少なからず嬉しく思っていてくれたのだろう。だから、とても大事にされていた。その気持ちを裏切ったことになる。
傷付いて見えたのは、本当に傷付けたからだ。
自分が苦しいのは仕方がない。それでも、アルテルを苦しめたままで立ち去るのは許されることなのだろうか。今すぐにでも謝って事情を話したいけれど、もう聴いてはもらえない。
二度と顔を見せないこと。それが自分にできる唯一のことなのだろうか。
そう考えると、身勝手にも涙が止まらなかった。声をもらさないようにするのがやっとだった。
皮肉なことに、最初は長く滞在するつもりがなかったせいで大した荷物はない。帰り支度はあっという間だった。
シェラは小さな布袋ひとつを抱えると、部屋を後にした。逃げ出すように一気に階段を駆け下りる。ずっと振り向かずに走り続けた。
自分の家と呼べるはずの長屋へと到着した時、ほんの数日間留守にしていただけなのに、倒れ込んだベッドの冷たさに驚いた。そのせいで、また泣きたくなった。走り続けたから呼吸が苦しい。
もう、何もかもが嫌だった。
うつ伏せになって枕に顔をうずめると、嗚咽がこみ上げて来た。
アルテルの傷付いた表情が頭から離れない。
申し訳なくて、苦しくて、力尽きて眠るまで、声を殺して泣いていた。
※※※
室内の冷気が体に浸透する。
シェラは耳障りな音に震えながら目を覚ました。
いつの間にか雨が降っていたらしい。頭がぼうっとしていて時間の感覚がない。
起き上がると乱れた髪を解く。窓に写った自分の顔のひどさに嫌気がさした。
そのまま窓の外を眺めると、雨足は強まる一方だった。雨漏りしそうだ。ただ、今は外へ出て雨に打たれたいような気分でもある。
しばらくぼんやりと外を見やっていたけれど、あちこちに出来ている水溜りを見てハッとした。
薬草畑はどうなっているのだろう。
まいた種は流れていないだろうか。かぶせた布は雨の重みに耐えられているのだろうか。
今更自分が気にすることではない。けれど、アルテル一人で対処が間に合うのだろうか。
あんなに大事な薬草が流れてしまったらどうするのだろう。
行ったところで多分、手伝わせてはもらえない。それでも、ほうっておきたくなかった。
拒絶されたとしても、もう一度顔が見たい。声を聞きたい。
そんな時、ドアがガンガンと叩かれる。
「お嬢様! お嬢様!」
フレセスだ。シェラが扉を開けると、フレセスは傘を放り出して中になだれ込む。歳に似合わない素早さだった。
「この数日間、一体どこにいらしたのですか!」
「心配かけてごめんなさい。またクビになったの。じいやとの賭けは私の負けみたい」
静かに言ったシェラの泣きはらした目元を見て、フレセスはたたみかけるようなことはしなかった。労りを込めた声でそっと言う。
「そんなものはこの際どうでもよろしいのです。それで、お嬢様はどうなさりたいのですか?」
シェラはその問いにはっきりと答えることができる。
今までの自分なら諦めた。でも、今度は容易く諦めることができない。
自分の中で何かが動き出す。
「このままは嫌。失敗をちゃんと謝りたい。もっとあそこで働きたい」
フレセスはしわの深い目元を緩めた。
失うものが多かったせいか、他人に執着しない彼女の生き方が変わりつつあるのだと。
「でしたらお行きになるべきです。駄目だった時にまた次のことをお考えになればよろしいかと」
その一言に背中を押され、シェラはやっと微笑んだ。
「ありがとう、じいや!」
「あ! お傘をっ!」
そのまま雨の中に飛び出したシェラに、フレセスが後ろから叫ぶ。けれど、もう立ち止まらなかった。
彼方で稲光と轟音が響き渡る。そのたびに頭を抱えながら、それでもシェラは先を急いだ。
そんな時、声がかかる。
「ずぶ濡れじゃないか。こんな雨の中、傘も差さずにどこへ行くんだい?」
もう、町外れにまで来ていた。この雨の中すれ違う人なんていないと思っていたので、シェラは驚いて立ち止まった。
そこには深緑色の傘を差した、三十代半ばくらいの男性がいた。人のよさそうなつぶらな眼と、行儀よくそろった髪が傘の下からのぞく。背は低めで、太ってはいないけれど、顔の形のせいか、丸い印象を受けた。
「こっちに向かうのなら、方向は同じだ。入れて行ってあげるよ」
そう言って、傘の右側を空けた。シェラは躊躇する。
「こっちには薬剤店しかありませんよ?」
「うん、そこに用がある」
客と呼べる人に出会ったのは初めてだった。嬉しいけれど、何か緊張してしまう。
「そうでしたか。実は私、そこで働かせていただいていた者なんです。それでしたら、途中までよろしくお願いします」
「ああ、どうぞ」
シェラが傘の下にもぐると、男はゆっくりと歩き出した。傘にぶつかる雨音だけがやたらと大きい。シェラは無言で歩く男に声をかけた。
「あの、アルテル先生って町での評判はあまりよい方ではありませんよね。噂なんて的外れなものばかりなんですけど、信じている方も多いですから、真に受けないで来て下さって、先生もきっと喜びます」
しばらく返事はなかった。何か気に障ることを言ってしまったのだろうかと隣をうかがうと、ようやく彼はつぶやいた。
「客、多いの?」
「え? そんなに多くはないですけど……」
正直に言ってしまってから、慌てて下手なフォローする。
「あ、でも、薬の効き目に問題があるとか、そういうことではないと思うんです」
けれど、今度はまったくの無反応だった。
なんだろう、少し変わった人だと思った。
また横目でちらりと見やると、服装は木綿のありふれたもので、裕福ではなさそうだった。多くの材料や手間のかかる薬は高価なものだから、多分彼には苦しい買い物になる。それでも、必要な誰かがいるのだろう。
もしかすると、その誰かの看病疲れや不安から、口数が少なくなっているのかも知れない。
よく見れば目の下にはくまもあるし、疲労の色は見て取れる。気付かなかった自分が馬鹿だったのだと、シェラは反省して黙り込んだ。
残りの道のりはもう、それほどない。気まずい空気ももうすぐ終わる。
ただ、そうしている間にも雨は弱まることを知らない。視界が白く遮断され、男はのしかかるような雨を受ける傘を重そうに持っていた。時折、雨音を凌駕する雷に身をすくめる。足元の地面は散々なありさまだった。
草に守られていないむき出しの地面は、柔らかな土が削られ、泥水の川と化している。
心臓の辺りがひやりとした。雨をのん気に眺めているゆとりがなかった。
急がなければ、とシェラは傘の下から飛び出す。滝のような雨に好んで打たれたがる彼女に、男は怪訝そうに尋ねる。
「どうしたんだ?」
シェラは時間が惜しくて口早に答える。
「薬草畑が心配なので、私はここで失礼します!」
よくわからない説明をしながら、アルテルは嬉しそうに種を蒔いていた。それはつい最近の出来事で、まだひとつも芽吹いていない。
シェラが駆け出そうとすると、男は静かに言った。
「近くなんだろう? それくらいなら付き合うよ。濡れてしまうから」
すでにずぶ濡れなので今更だが、彼なりに気を遣ってくれたのだろう。シェラは急ぎたいので戸惑ったけれど、こうまで言ってくれているのに断るのも失礼な気がしたので、もう一度傘の下に戻った。
「すみません。ありがとうございます」
「いや……」
短く返した言葉に、不器用さがあったように思う。
ようやくたどり着いたそこは、シェラの予想通りの状態だった。
泥の小川がいくつにも枝分かれして流れ、どこもかしこも区別が付かない。覆い茂っている梢の下の地面は、滴る水によって大きくえぐれていた。
「あ、あの辺り、ただでさえ発芽率が低いって言ってたのに」
シェラは傘の下から飛び出し、畑へと踏み込んで行く。痛いくらいの雨足の中でかがみ込んだ。
種をまいたところは水没してしまっている。アルテルの手で書かれたプレートも泥に埋もれていた。
勇んで来たものの、あまりの惨状に何もできない。数秒間、ただうろたえていた。
けれど、無事な薬草だけでも集めておいた方がいいのかも知れない。万が一使える可能性だってある。
シェラが動き出した時、近くでバシャバシャと荒々しい音がした。明らかに異質な音に驚いてシェラが振り返っても、その音は止まない。
目を疑った。かろうじて耐えていた薬草を、あの男性が一心不乱に、不倶戴天の敵のようにして踏みにじっている。
「何をしているんですか! 止めて下さい!」
腕にしがみついて止めようとしたシェラを振り払うと、男は傘も一緒に投げ捨てた。逆さにひっくり返った傘は、器のように雨を集める。
男は虚ろな目をして更に踏み続ける。シェラはもう一度その腕にすがり付いた。
「どうしてこんなことをされるんですか!」
思い切り叫んだ。男の足が一瞬だけ蹂躙を止める。けれど、それはシェラを突き飛ばすために過ぎなかった。
「っ!」
泥の中に尻もちを付いた。痛さよりも恐ろしさが勝って、とっさに立ち上がれなかった。
彼の中で何かが爆ぜてしまった。
男はシェラをにらみ付ける。
「こんなものはみんな、踏み潰してしまうべきなんだ! こんなもの、あるだけであの男にまた誰かが殺される! あいつが作るのは薬じゃない! 毒だ!」
シェラは言葉を失った。ただ呆然と動けずにいると、男はまた靴底を力強く地面に打ち下ろす。その音で我に返ると、シェラは四つん這いのまま、手を伸ばして男の脚をつかんだ。
「そんな風に世間では噂されているかも知れません! でも、先生はそんなものは作りません! 先生が作るのはお薬です! 先生のことをよく知りもしないで、そんなことを言わないで下さい!」
すると、男は燃えたぎるような憎悪をシェラにも向けた。
「お前こそ、あいつの何を知っている? あいつは悪魔だ!」
何を知っている。
その一言にひるんでしまう。すべてとは言えない遠さに、引け目を感じた。
そうだ、自分だって噂を信じていたうちの一人に過ぎない。
その一瞬の迷いを見透かされ、また突き飛ばされた。けれど、もう一度這いつくばってその脚にしがみ付いた。ただただ必死だった。
すべてを知り尽くさなくても、言えることだってある。
自分の見たもの、感じたものを信じているから。
「違います! 先生は優しい方です! 誤解されやすいけど、いつだって誰よりもひた向きなんです!」
自分の手をぼろぼろにして、それでも。
シェラのその必死の訴えによって、男の脚から力が抜けて行った。おずおずと顔を上げると、そこにあったのは、憎悪を超えた感情だった。
小さく息を飲み、感じ取ったものから逃れようと手を離したけれど、今度は男の方がシェラに向かってにじり寄る。肩口を突き飛ばされ、シェラは泥水の中に倒れ込んだ。
「!」
慌てて身を起こそうとしたけれど、強い力で押え付けられた。氷のように冷たい手がシェラの首に回った。男の手に比べたら、雨が生温かく感じられる。
振り解こうとしたけれど、びくともしない。
この人は本気だ。
のしかかる体を何度も蹴飛ばしたけれど、痛みすら感じていないのかも知れない。のどを締め付けられている苦痛が、体の自由を奪って行く。息が詰まって涙があふれた。息をしようともがくたび、より苦しくなる。世の中にこんな苦痛があったなんて思いもしなかった。
男はただ、指先に力を込めながらぶつぶつとつぶやく。
「優しい? 笑えない冗談だ。あの男の作った薬を飲んで、僕の娘は死んだんだ!」
朦朧とする意識の中で、それでもシェラはその言葉を信じなかった。きっと、何かの間違いだと。
子供好きな先生が、子供に危険なものを飲ませるはずがない。
いよいよ、限界だった。
ここで死ぬのだろうか。それなら、最後にせめて、ごめんなさいというだけの時間がほしかった。
目を閉じる時に見たのは、歪んだ男の顔だった。
雨を背に受けた悲しい姿。その顔から落ちるしずくは、雨なのか、それとも――。
一瞬の空白の後、シェラにかかる重みが、文字通り吹き飛んだ。
それが何故かと考えるよりも先に、ただ貪欲なまでに呼吸をむさぼった。空気だけでなく、雨まで吸い込んでゲホゲホとむせ返る。体をよじると、急いたような声がかかった。
「慌てるな。ゆっくり息をしろ」
その声を、すぐには信じられなかった。死の間際で、自分が望んだ幻聴かと思った。
ズキズキと頭の痛みが増して行く。それでも無理をして体を起こすと、腹を押さえてうずくまっている男の姿が目に入った。アルテルは更にその胸倉をつかんで地面に押し付ける。
幻にしては乱暴だとシェラがぼんやりと考えていると、アルテルはいつもより数段低い声で言った。
「なんのつもりだ?」
丸い眼鏡のない顔は緩和されることなく、鋭いままの印象を相手に与える。男はその威圧感におびえたようだったけれど、ぼそりと言葉を発した。
「お前の作った薬で娘が死んだ。お前のせいだ。お前の……」
それを聞くと、アルテルは腕の力を緩め、体を離した。雨に濡れた髪がアルテルの表情を隠す。
「その娘、もしかしてメルニス症か?」
男はびくりと体を強張らせると、瞠目してアルテルを見た。アルテルは嘆息する。
「前に、メルニス症の薬が棚からなくなっていたことがある。それだな?」
薬は高価で、彼には手が届かなかったのかも知れない。だから、アルテルの目を盗んで持ち去ったのだろう。
「棚とビンには薬の名前が記してある。探して持って行くくらいは簡単だっただろう。けどな、薬はただ飲めばいいってものでもないし、どれだけ与えてもいいわけじゃない。それを知らなければ、薬も毒も大差ない」
男は這いつくばりながら、それでも精一杯アルテルに憎しみを向けた。
「どういう意味だ……?」
アルテルは一度細く長い息を吐いた。表情は読めないままだ。
「……メルニス症は、ごくありふれた細菌類に対してまで起こる、過度な拒絶反応だ。はれや湿疹、呼吸困難などで死に至ることすらある」
「そうだ。娘は先天性だった。体中が真っ赤にはれて、手の施しようがないと言われたんだ! 治療費はもう底を付いていたけれど、諦められるはずがない! すがれるなら悪魔だろうと構わないと、あの薬を持ち出した。なのに――っ!」
血走った目が、彼の苦しみを表している。痛いくらいの感情だった。
悔しかったのだろう。救えなかった無力さが。
失った悲しみは、アルテルへの憎悪になった。
アルテルは男から少しだけ顔を背けた。それは、何かをためらっている風だった。
けれど、その口からぽつりと言葉がこぼれる。
「……どうやって与えた?」
その意味を測りかねて、男は黙った。小降りになりつつあるものの、雨の音だけが絶えずある。
男はようやく顔をしかめながら答えた。
「どうやってだと? さ、さじですくって……」
「飲ませたんだな?」
「ああ。苦しそうにもがいて死んだ。あれさえなければ、助からなかったにしても、もう少しくらいは生きられたはずだ!」
男が吐き捨てた言葉に、低い声が返る。それは、残酷なまでの現実だった。
「あれは飲み薬じゃない。……塗り薬だ」
のどがヒュ、と鳴る音がした。男は目に見えてがたがたと震え出す。
「ぁ……っ?」
「水飴みたいに粘り気があっただろう? そこまで重度なら、のどははれて狭まっている。あんな粘着性のあるものはまず飲み下せない」
アルテルの声も、雨の音も、男の絶叫にかき消された。
それは、首を絞められた時とはまた違う、耐え難い痛みをシェラの胸にもつき立てる。
なんて声だろう。彼は、絶望の淵から落ちてしまった。
薬を盗んだ彼には使用方法がわからなかったのだ。
アルテルが言葉をためらったのは、この結果を予測してのことだろう。今も歯を食いしばっている。その子供が死んだのは薬を盗まれた自分のせいでもあると感じたのかも知れない。
シェラはそのアルテルの表情を解きたい、男の嘆きを止めたい思った。
だから、気付けば口を開いていた。
「必死だったあなたの気持ちは裏目に出てしまいましたが、助けたいという想いはとても強かったはずです。肉親のあなたには及ばなくとも、苦しむ人を救いたいという気持ちを先生は強く持っています。だから、お金がないって正直に言っても、先生は見捨てなかった。私はそう思います」
男の泣き顔がシェラに向いた。絶望に染まった色だ。
「今更だ! 取り返しなんか付かない!」
「娘さんは戻りません。気休めにかける言葉がないくらい、それは事実です。……ただ」
シェラは両手を付いて深く頭を下げた。しずくが頬を伝い、落ちて行く。
「理解して下さい。ここにある薬草は、あなたの娘さんのような方を救うためにあるものです。どんな事情があろうと、足蹴にしていいものではありません。それだけはわかって下さい」
男は何も言わなかった。泥が跳ねる音がして、そのまま立ち去って行く。
彼が今後どのように生きて行くのか、行かないのか。勝手な希望を差し挟むことはできないけれど、彼にも救いがあればいいと願った。
シェラが顔を上げると、すぐそばにかがみ込んでいたアルテルの顔がある。丸眼鏡がないせいで目が鋭い。
「泥だらけだな。立てるか? ……けど、どうしてこんなところにいる?」
あんなに会いたかったのに、思わず目をそらしてしまった。
「あ、雨がひどいから、気になって……。でも、結局何もできませんでした。ごめんなさい……」
「お前が謝ることじゃない」
一言で切り捨てられる。
拒絶されることを覚悟していたつもりなのに、そこで傷付く自分は、どうしようもなく愚かだ。
「そう、ですね……。差し出がましい真似をしました」
震える声を搾り出すと、アルテルは微かに眉根を寄せた。
「そうじゃない。雨で薬草が流れたのはお前のせいじゃないと言ってるんだ。……それに、俺の問題に巻き込まれて、被害者はそっちだ」
シェラはようやくふらりと立ち上がる。
気持ちは言葉にしなければ。
「私は――」
緊張で震えているシェラに、アルテルは自分が投げ捨てた黒い傘を差し出した。シェラがアルテルを見上げると、彼は濡れて重たくなった髪をかき上げた。
「悪かったな。あの時は俺も少し大人げなかった」
「え?」
「頭に血がのぼってた。冷静になってみると、お前は私利私欲で盗みを働くようなやつには思えなかったし。もしかして誰かに脅されてたのか? せめて言い分くらいは聴いてやればよかったって、後悔してた」
その一言がどれだけ嬉しかったか、他の誰にもわからないだろう。さっきまでの恐怖など、跡形もなく吹き飛んだ。
ただ、涙がぼろぼろと止まらなかったけれど、それでもゆっくりと気持ちを落ち着かせるように語り出した。
「――どうしても諦められなかったんです」
アルテルは穏やかな口調で先を促す。
「何を?」
すると、シェラはようやく顔を上げてアルテルの目を見た。
「私が店に来た前々日に、先生が町で拾ったあの……っ」
アルテルは首をかしげる。
「拾った?」
「は、はい。お薬の原料になるのでしょうか? 私はそれがどうしても見過ごせなくて、取り返すために先生のところへやって来ました」
語尾が段々とすぼまって行く。
返事を聴くのが怖い。だから、それを紛らわせるために早口でまくし立てる。
「わかってます。せ、先生に悪意なんて全然ないのは。先生は薬を作ることにとても熱心だから、ひ、必要とあらば――っ」
一人で赤くなったり青くなったりしているシェラに、アルテルはまず落ち着けと言った。
「俺が拾ったのは、猫だぞ?」
「そうですそうです! 灰色でメスの! あの子、無事ですか? 無事ですよねっ?」
半泣き状態でそう尋ねるシェラに、アルテルは大きなため息をついた。
「あれは足に怪我をしてたから連れて帰っただけだ。その後、遊びに来たクーディが、完全に治らなかったら野良でやって行けないから自分の家で飼うって言うし、そのまま任せた。グレンシーって名前を付けてもらって、かわいがられてる」
大きく見開いていた目をようやく閉じ、シェラは心底ほっとして頭を垂れた。
「なんだ、そうだったんですか……。あの子、私の家の近くによくいて、時々遊んだりしていたから、情が移っていて……」
「お前、俺が動物の生き胆を抜いて薬に混ぜてるとか、そういう手の噂を鵜呑みにしてただろ?」
目に見えて動揺してしまった。
「え? だって、その……」
けれど、次の瞬間には開き直った。
「あんなに店先にゲテモノのビン詰めを並べておいて、根も葉もないなんて言わないで下さい! あれを見た瞬間、これはもう、薬の材料にされちゃうんだって気が気じゃなかったんですから!」
「俺の専門は薬草だしな。あのビンは薬草の効果が上がるから一緒に漬けてあるだけで、あれそのものは使わないし」
「――だから、先生は熱心すぎるんです。私には猫に見えても、先生には薬の材料にしか見えてないんじゃないかって。家畜を食材として見るか、動物として見るかって問題です」
アルテルは小さくうなる。
「さすがに、猫に薬効があったとしても、使いたくないな……」
それからしばらく何かをつぶやいていたが、アルテルは急にシェラの目を直視した。
「シェラ」
改まって呼ばれ、シェラは急に忘れていた緊張を思い出した。途端に不安が満ちる。
「は、はい」
ガチガチに強張ったシェラの顔がおもしろかったのか、アルテルは笑い出した。唖然とするシェラに構わず笑っている。
「お前って、早とちりでそそっかしいんだよな。それを、変に気を回した俺が馬鹿だったんだ。あんな思い込みをしてたお前も、相当馬鹿だけど」
それに関しては、返す言葉もない。
「……あの、信じて下さるんですか?」
ふざけるなと怒られても仕方がない内容だ。
おずおずと尋ねたのに、アルテルは事も無げに言う。
「だって、それが事実なんだろ?」
それでも、一度不審な行動を取った人間を受け入れるのは難しいと思う。そう思うけれど、アルテルの表情に曇りはなかった。
「けど、噂を頭から信じてたなら、店に来るのはかなり怖かったんじゃないのか? よく来れたな」
「えっと……」
シェラは冷えて来た肩をさすりながら言葉を探す。正直な言葉でいい。
「最初に来た時は、確かに怖かったです。でも、少しずつ、噂なんて当てにならないって思うようになりました。ただ、先生の人柄は噂とは違っても、やっぱり職業的な感覚のことはわからないから、もしかするとって……。正直に訊けたらよかったんですけど、もう使ってしまったと言われたら、どうしていいかわからなくて……」
残酷な結末を恐れて口に出さなかったから、こじれてしまった。
だから、今度こそ想いは吐き出さなければいけない。本気でそれを願うなら。
「せ、先生、あの、大変ご迷惑をおかけしました。許して下さいなんて、ムシのいいお願いかも知れません。それでも、許して下さい!」
アルテルの表情を直視できず、頭を下げるふりをしてしまった自分は、やっぱりずるい。けれど、限界だ。気が遠くなる。
しばらくの沈黙の後、アルテルは静かに言った。
「いいけど、条件がある」
「え?」
シェラが顔を上げると、アルテルの目は穏やかに自分を見つめていた。
「その前に、他に隠し事は?」
「あるわけないです! 私はもう、先生に対して隠さなきゃいけないことなんて、何ひとつありません!」
力いっぱいかぶりを振るシェラに、アルテルは苦笑した。
「じゃあ、もう一度俺のところで働くこと。それが水に流す条件だ」
信じられない気持ちだった。
「戻っても、いいんですか……?」
自分でも、声が震えていると思った。
「カーテン、仕上げてくれるんだろ?」
シェラは、とっさに返事ができなかった。冷えた体から熱い涙がこぼれるのを、手のひらでぬぐいながら何度もうなずく。この時、アルテルは急に照れを隠すようなぶっきらぼうな喋り方になった。
「まあ、俺のところで働いてもろくなことないけどな」
ようやく涙を止めると、シェラは笑った。
「先生ってちょっとほっとけないんですよね。一人だと掃除しないし、薬まみれで倒れてそうな生活してますし。よく今まで無事でしたね」
「あのな……」
アルテルの言葉をかき消すほどの音ではないけれど、くしゅんくしゅんとくしゃみが出てしまった。
「このままだと、間違いなく寝込むな。よし、帰るぞ」
「はい」
家までの短い距離を相合傘で歩く。
あの家に帰れると思うと嬉しくて、シェラはいつもより素直になれた。
「先生」
「ん?」
「これからも、噂なんかに負けないでがんばりましょうね。そうしたら、皆さん、いつかきっとわかって下さいますよ。だって、先生は噂とは違って優しい方ですから」
シェラの向けた笑顔に、アルテルも笑顔で返す。少しはにかんだ笑顔が新鮮だった。
「そりゃ、負けないだろ。俺のために頭を下げてくれる味方がいるし」
そのひと言が温かく浸透して行く。新しく宝物をもらったような気持ちだった。嬉しくて泣きたい気持ちもあるけれど、今は笑顔の方がふさわしい。
段々と家が近くなる。
「シェラ、風呂は先に使えばいいぞ」
「いえ、先生がお先にどうぞ」
「いいから、入れよ」
「後で十分です」
「面倒くさいな。まとめて入るか?」
「えぇっ!」
傘からはみ出して後ずさるシェラを、アルテルは平然と見やった。
「大げさなやつだな。男同士だろ」
まだそんなことを言う。
そんな誤解のことはすっかり忘れていたシェラだった。
隠し事じゃないです。気付いてもらえないだけです。
シェラが肩を震わせていても、寒いからだとしか思わないのだろう。なんとなく、腹が立って来た。
「もういいです! 私が先に入らせていただきます! 先生は後からどうぞ!」
アルテルは不思議そうに首をかしげる。だから、最初からそう言ってるのに、と。
それから、ぽつりと言った。
「なんでだか、お前と知り合ってまだ数日なのに、ずっと前からいたみたいに感じるから不思議だな」
その言葉と笑顔で、結局のところシェラはそれ以上の文句は言えなくなった。
「私も……です」
ほんのりと赤くなって緩んだ顔をそらす。
その時、シェラはひとつすることを思い付いた。
フレセスにちゃんと報告をしよう。
私の雇い主はこういう方だということを。
おかげで、私は今、とても幸せな毎日です、と。
【アルテル=レッドファーンの日常 ―了―】