5、危険で愛しい生き物
それまで迷いがあった廉の目が、その時まともにわたしを捕えました。
「小学校3年の時に、麻衣ちゃんちの庭で遭ったんだ。
たぶんそれ、きみだろ?」
「うそ‥‥」
「その晩、僕はオヤジに、生まれて初めて『出てけ』って怒鳴られた。
人生初の家出をやった。
ま、小学生のことだから、隣の家に逃げ込んだだけだったけどね」
「麻衣のうちが、隣なの?」
「はす向かいって感じかな。 で、庭に入ったらテントが張ってあったんで、潜り込んだんだ。
そしたら中にいた女の子が、上手にかくまってくれた。
すごくしっかりした子で、この子がポエムちゃんと呼ばれてたんだよ」
心臓が、裏返ってしまうほど脈打っていました。
あの晩横に寝ていたあの男の子が、廉だったのです。
思えばさっき暗がりで感じた既視感は、テントの暗がりで目を凝らしてた白い顔の記憶が、今の廉と重なったからなのでした。
「生まれて初めての家出で、凄く不安でさ。 かばってくれたその子が、女神さまに見えたんだ。
ほんとだよ。
今でも、なにかって言うと女の子に頼ってしまうのは、その時の安心感の残像のせいなんだろうな」
え? え? それはつまり、廉をタラシにしたのは、わたしだってこと?
こんな、ドアの壊れた冷蔵庫みたいなオトコ。
そんなオトコにしちゃったのは、わたし?
麻衣を泣かせているのも、わたしが悪いの?
「もしかして、麻衣にそのこと話した?」
廉に聞いてみました。
「‥‥言ったかもね。 いや、付き合いだしてからは言ってないけど。
小学生の頃は“ポエムちゃん”を探してたから」
「探して、どうするつもりだったの?」
「ただ会いたかっただけだよ」
そういうことか。 麻衣はそのことを覚えていたのでしょう。
だから、廉に私のことを言わなかったのです。
言えば、廉が色めき立つのがわかっていたから。
「さあ、全部話したよ。 もう許してくれる?」
そう言いながら、まだ廉はわたしの顔をジッと見ています。
透明感のある瞳が、まっすぐわたしの目を‥‥。
(こいつ、誘ってる)
呼吸が苦しくなる。
ああ、やっぱり聞かなきゃよかったんだ‥‥。
わたしは何も言えずに、屋根裏を後にしました。
廉は最後まで視線を外してくれませんでした。
自分の部屋に駆け下りて、ベッドにもぐりこんで逃げました。
ヤバイ、ヤバイと思うわたしがいます。
幸せな気分の小さなわたしがいます。
お母さんごめんなさいと震えているわたしがいます。
どれも、ひとりずつがホントのわたしでした。
それから何時間経っても、上から物音は聞こえませんでした。
わたしは気になって、だんだん何も手につかなくなりました。
最初はわたしを誘おうとしてわざと気配を殺しているのかとも思い、死んでもこちらから声なんかかけないつもりだったのですが、そういえば廉は食事をしてないのではないかと気になり始めました。
意を決してそっと、屋根裏に上がってみると…。
廉は眠っていました。
敷き布団を無造作に広げただけの状態で、電気は点けたまま、体の上にも何もかけないまま。
倒れこんでそのまま意識がなくなったという印象でした。
きっと眠くてつらいのを、何日も我慢していたのでしょう。
少し開いた薄い唇から、静かな寝息が漏れています。
うわー。 なんて、無防備な‥‥。
睫毛の影が落ちた白いほおのラインに、わたしは見とれました。
エロチック。
不覚にも、顔を赤らめてしまいました。 わたしったら、初エロスもセカンドエロスもこいつだったのに、また同じことを感じてしまっているなんて。
掛け布団を広げて、そっと廉にかけてやりました。
廉の寝息が一瞬乱れ、すぐまたもとに戻りました。
不意に泣きたくなりました。
ドン、と音がするほどの勢いで、胸の中に悲しみが落ちて来たのです。
あわてて電気を消しました。
わたしは馬鹿です。
自分の気持ちに気付くのが遅すぎる。
廉が好き。
もう、だめ。
どうしたらいいんだろう。
こんなに愛しい生き物を、密室に引き込んでしまうなんて。
保つわけないじゃないか。 こいつの理性も、わたしのグラグラな心も。
きっといつか、ここに来て言ってしまう。 抱きしめて欲しいって、バラしてしまう。
麻衣のためと言いながら、麻衣を裏切ってしまう。
最大のライバルに化けたわたしを、麻衣は許さないでしょう。
それは生まれた時からの大切な友達を、捨てなければいけないということでした。
それだけじゃありません。 きっとこいつの病気は治らない、そのことも予測がつきます。
心がけが悪いんじゃなくて、この男はドアを持たずに生まれてきているのですから。
仮にわたしが麻衣を蹴落としてこいつの恋人になったとして、こんどはわたしが奴隷よりひどいあの状態を体験することになるのです。
勉強も、友達も、何もかもを犠牲にしなければ保てない、ナンバー1の座が、目の前に開けているのでした。
そんなことは望んでなんかいません。
だのに、それを拒絶することを考えると胸が張り裂けそうになりました。 せっかく手が届くところにあるこの偶然を、なかったものにすることがどうしても出来ないのです。
できない。 できない。
わたしは涙ぐみました。
ミイラ捕りがミイラになった瞬間でした。
今思えば、その予感は単にわたしの願望だったのかも知れません。
廉が受け入れてくれると確信した今、わたしの歯止めが利かなくなるのは目に見えています。
今後の展開は、火を見るよりも明らかでした。
たったの一歩を踏み出したら、そこから先は、もう高校生の付き合いを逸脱した生活が待っているのでしょう。 甘く苦味のある、裏切りと背徳の日々が。
そのすべてが今、この場所から始まるのです。
廉の寝顔を見た途端、わたしにはその未来が見えてしまいました。
廉ではなく、わたしから始めたわたしの罪です。
静かな寝息を聴きながら、わたしは静かに泣きました。
いつまでも声を殺して、泣き続けました。