4、モラルの神様
一瞬、声は出ませんでした。
あっけにとられて動けません。 自分のあごが地面にまで下がったかと思いました。
先に声を出したのは、警官の方でした。
「げっはっはっはっはははっは」
冗談だと思うでしょうけど、ホントにこういう笑い方だったんです。
笑いながら、わたしに向かって走り出しました。
ここでやっと悲鳴が出せました。
「いやあああっ、広瀬くん広瀬くん、きゃーーーっ!」
小屋の戸を開けようとしますが、しぶくてなかなか動きません。
廉が中から駆け寄ってきて、一緒に開けようとします。
お互いが焦るものだから、うまく行きません。
その間に、警官がわたしを捕まえました。
そしてどういうつもりかわかりませんが、変なことをしました。
体を触るでもなく、抱きつくでもなく、両手を高く挙げた状態で、局部だけわたしのお尻に押し当てようとしたのです!
ものすごくこわかった!
局部を押し当てられた事がじゃなくて、なんでそんな格好をするのかわからないのが怖かった。 特に相手がわけもなく、両手を挙げてるのが怖かったんです。
理解不能度100%の恐怖です。
扉が、半分外れかけて開きました。
「コラおっさん!!」
廉は片手に何か持って出てきました。 ゲートボールのスティックです。
その柄のほうを警官につきつけ、胸を軽く小突いて見せました。
それから顔をしかめました。
「って、うわーこいつ変なヤツだ。
鈴木さん、これってなんなの? ドロボーにズボン盗まれたオマワリさんか?」
廉の口調は飄々としていました。 あわてている様子はありません。
わたしの気持ちも、すうっと落ち着いていきました。
「決断力に欠ける変態さんだと思うわ。
露出狂やるかコスプレやるか、決められなかったんじゃ‥‥」
「ああ、なるほど。 いろんな意味で迷子のヒトなわけだ」
廉は勝手に納得してから、スティックを両手持ちにして、警官のみぞおちをドンと突きました。
「げはっ」
警官が地面に膝をついて、激しく咳き込みました。
その背後に回りこんだ廉が、スティックをゴルフみたいに構えます。
警官の背中に片足を上げ、お尻の所にスティックのヘッド部分を当てて、
「さっさと消えないと、おっさんのボールでワンゲームはじめまっせ」
と、異様な脅しをやりました。
「げえっは、げえっは、げは、げは」
咳き込みながら、警官はあわてて立ち上がります。
自転車にまたがろうとして、2度も失敗しました。
「見せびらかすなら、もうちょっと上等の警棒を支給してもらってね〜」
廉が馬鹿にして手を振ります。
咳き込む音と共に、自転車が遠ざかって行きました。
「変なのがいるんだなあ。 鈴木さん、大丈夫だった?」
暖かい手のひらが、わたしの腕をポンポンと叩きました。
それでやっと気付きました。
わたしは廉に抱き付いていました。 背中に隠れるようにして、横からしがみついていたのです。
いつのまにか、夢中で全然気付かずに‥‥。
わたしはあわてて廉から離れました。
その時、耳の中で声がしました。
「もぉッ、ちゃんと抱いてください、イヤなんですか?」
下駄箱の裏手で聞いた声。
サラちゃんと呼ばれた、あの女の子の声です。
抱き返して欲しかったあの子のキモチが、その時わかりました。
開けたくても開かない窓を見つめる人の気持ちがわかってしまった。
わたしも、廉に抱きしめてもらいたかったのです。
胸の中を、さっきよりもっと強い風が吹いていました。
その風圧に耐えながら、廉と並んで歩き出しました。
「鈴木さんはオトナだね。
怖い目に遭っても、落ち着いてるもの」
廉が屈託なく笑いました。
「怖かったわよ。 でもわたし、あんまり可愛らしい反応できないの。
親にポエムなんて、倒錯的に乙女チックな名前つけられたでしょう?
反発してナマイキに育っちゃったのよねえ」
「えっ?」
わたしの言葉に、何故か廉が息を飲みました。
「鈴木さん、ポエムって名前なの?」
「そうよ。 やだ、なにを今さら驚いてるの?」
一年生で同じクラスだったんですから、名簿見たり出席取ったり、驚く機会はそのころいくらでもあったはずです。
「‥‥だから! 何を驚いてるわけ?」
わたしはもう一度聞きました。
廉があんまり、わたしの顔をじっと見るからです。
「もしかしてきみ‥‥」
廉は言いかけてやめ、首を振りました。
「何よ!」
「いや、いい」
「中途でやめないでよ、気になるじゃない!」
「いいよ、大したことじゃないから」
「言いなさいよ」
「いいってば」
廉は頑固に拒否し続けました。
そうこうするうち、わたしの家まで来てしまいました。
と、その時。
「広瀬くん。行くとこ無いなら、うちへ来る?」
わたしの口が、断りもなくしゃべり始めました。
「鈴木さんちへ? え? ……ああ、ここなんだ」
廉はきょとんとしています。
「寝るとこくらいあるわよ。 どうやらボディガードくらい務まりそうだし」
うわ。 わたしは何をしようとしてるんでしょう?
「ほんと? そりゃ助かるけど、いいの?」
「どうぞどうぞ」
廉は少しも悩まず、あっさりついて来ました。
内心、パニック。
こんな事してどうしますかわたしは馬鹿ですか助けて!!!
築50年の古家ではあっても、我が家は洋館です。
わたしの部屋は、二階です。
外に階段がついてて、中からも外からも入れるつくりが気に入ってます。
そして、もうひとつのお気に入りは、部屋に屋根裏部屋が付いていることでした。
もともと祖父母の代で、2世帯住宅として使っていた家です。
昔は屋根裏部屋もフル稼働してましたが、今は誰も使ってないので、わたしがコンポを運び込んで、勝手にオーディオルームにしています。
父も母も、表通りにある喫茶店で仕事中です。
廉を連れて、誰にも見られずに部屋へ入ることが出来ました。
布団を一組、屋根裏に運んであげました。
「ほんとに使っていいの?」
「いいわよ。 ほら、ロフトキーをあげる。 外側の階段の方のドアキーもひとつあげるわ。
ただし、出入りはわたしがいる時にしてね。
人に見られて、ドロボー扱いされたらつまんないでしょ?」
「じゃ、メアドも教えといて。 必ず連絡してから来るようにするから」
廉と番号を交換しました。
嬉しそうにキーを受け取ろうとする廉の手を、ひょいと拒んでやりました。
「待って。 条件が3つあるわ」
「え?」
「ひとつは、浮気を控えて麻衣を唯一の恋人として扱うこと。
ベッドの心配がなくなったんだから、出来るはずね?」
「わかった。 それから?」
「麻衣には内緒にすること。 親同士が親友だから、なんでもうちの母に抜けちゃうから。
秘密厳守よ、できる?」
「了解」
「もうひとつはね。……さっき言いかけてやめた話を、ちゃんと教えること」
「えええ?」
廉は本気であわてた様子でした。
「それ‥‥勘弁してくれないか」
「じゃあ、鍵を返して」
わたしは意地悪く手を出しました。
「なんでそんなことが条件なんだよ?
つまんないことだろ? こだわるなよ!」
「つまんないことなら、言っても平気でしょ?」
わたしは譲りませんでした。
こんな問答をしてるうちに、廉の気が変わって、
「じゃあもう貸してくれなくていい」
とか言い出す展開を、密かに期待したのです。
こんなこと。
いくら事実上関係がなくてもこんな、親を欺いてオトコ引っ張りこむみたいなマネ。
モラルの神様がいるのなら、きっと止めてくれると思ったのです。
でも、譲ったのは廉のほうでした。
彼はうつむいて、大きく息をつきました。
「わかった。 話すけど、あとから聞かなきゃよかったって言うのはナシにしてくれよ。
僕が言いたがったわけじゃないんだって、覚えといてよ?」
「大丈夫よ、わたしが無理やりしゃべらせたの、覚えとく。
……で? わたしの名前が、どうかしたの?」
廉は決心したようにうなずいて、話し始めました。
「ポエムっていうのはね。 僕の初恋の女の子の名前なんだよ」
「え‥‥?」